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七話 花嫁の決意

「花嫁修行を、したいです」


 エリーゼは両親から離縁させられた。ルミエール家の者ではなくなった。離縁の手紙と共にエリーゼへの罵詈雑言が書かれた手紙も届けられたが、ラザロとエリーゼはそれを開けずに捨てた。

 そうなったとしても、案外日常は巡るものである。だが、エリーゼはずっと何かを考え込んでいた。


 そしてある日、エリーゼはラザロに、そう言ったのである。

「花嫁修行……かい?」

「はい、ラザロ様」

「それはまた、どうして」

 ラザロが問いかけると、エリーゼは自身の手と手をきゅっと握り、話し始めた。

「わたしは、何もわからずラザロ様の元に嫁ぎました。ラザロ様は、そんなわたしのことも、大切にしてくださる。……でも、わたしは、あなたに相応しい女性になりたいのです」

 一度息を吸い、そしてまた、彼女は続ける。

「ラザロ様は、きっと、今のわたしのままでもじゅうぶんだと言ってくださるでしょう。三年ほど妻として一緒にいて、わかったことです。……わたしは、それでは足りない。もっと勉強がしたい、色々なことができるようになりたい……」

「……。……」

 ラザロは目を見開いた。目の前の少女が、こんなにまで立派な志を持っているだなんて、思わなかったのである。ラザロは彼女をまだ子どもだと思っていた。しかしそれは、思い違いだったのだ。

「もちろん、今まで家庭教師の先生にはたくさんのことを教えてもらいました。……でも、もっとたくさんのことを勉強したいのです。その方法が、わたしにはわからない。ラザロ様に、手助けをしてほしいのです」

「エリーゼ……」

「ダメ……ですか?」

 エリーゼはそう窺うように言うが、淡い紫の瞳は意志に溢れていた。

「……いや、ダメだなんて、そんなことはないよ」

 ラザロはゆっくりと首を横に振った。まるで、胸に熱いものが込み上げてくるのを押しとどめるように、言葉を選びながら話し始める。

「……実はね、王都に、貴女のような貴婦人たちが通うための学び舎があるんだ。格式ある名家の令嬢や、王侯貴族の花嫁たちが、教養や礼儀作法、そして……貴女の言う『花嫁修行』を学ぶために通う場所だよ。そこでは、語学も歴史も、楽器や舞踏や刺繍、礼儀や外交の知識まで、一通りのことを学ぶことができる」

「そんな場所が……!」

 エリーゼの紫の瞳が、ぱあっと輝く。

「四年制の寄宿制だ。一度入学したら、休暇の日までなかなか帰ることはできない」

「……覚悟しています。わたし、頑張りたい。でもラザロ様……本当に、行ってもいいのですか?」

「もちろんだとも。貴女がそう望むのなら、私は貴女のために、いくらでも道を整える」

 それは、決して軽い言葉ではなかった。ラザロは、決して嘘を言わない男だった。何よりも、エリーゼの真剣な願いを無碍にするはずがなかった。

「……ありがとう、ございます」

 エリーゼは目を伏せ、胸の前で手をぎゅっと結んだ。小さな肩が、ほんの少し震えている。

 ラザロは、そんな彼女の肩にそっと手を置いた。大きな、温かな手だった。少女の肩には少し重いその手が、エリーゼに言葉以上の安心を与える。


「エリーゼ。……貴女は、とても立派になったね」

 その一言に、エリーゼの目が見開かれる。

「えっ……?」

「貴女はまだ十歳だ。だが、私は……貴女を誇りに思っているよ。私のもとへ来たあの日から、貴女はずっと、誰よりも努力してきた。……そして、今もこうして、自分の意思で未来を選ぼうとしている」

 ラザロの声は静かだったが、深く、揺るがぬ温かさを湛えていた。

 

 ───ああ、わたし、この人のもとに来て、やっぱりよかった。


 エリーゼは、心の底からそう思った。愛おしいほどに胸が締めつけられる。

「絶対に、もっと素敵な花嫁になります。……あなたに、恥じないように」

 その言葉に、ラザロは小さく笑った。

「……貴女はもう、十分に素敵な妻だよ、エリーゼ」

「ふふっ。まだまだだから、もっと学びたいのです」

「ああ、そうだったね」


 ───少女は、もっと先へ進もうとする。


 それが、愛ゆえであることを、ラザロは誰よりもよく知っていた。

 

  ラザロは、笑いながらも目を伏せた。その視線の先にあるものは、変わりゆく少女の姿だった。

 まだ小さな肩、細い手、透きとおるような声。けれどそのひとつひとつに、今はもうかつての『子ども』という枠では収まりきらない、凛とした芯が宿っていた。


 ───もう、守るだけの存在ではない。


 心に、静かに気づきが降りてきた。

 ラザロの胸の奥に、淡く、けれど確かな熱が灯る。

 それは父性でも、憐れみでもない。ただ、一人の女性として、この少女を見つめているのだという、明確な実感だった。

 エリーゼの唇が、柔らかくほころんだ。

 まっすぐにラザロを見上げるその瞳は、もう子どもの無邪気さだけではなかった。信頼と、敬意と、そして……深い愛しさがあふれている。

「ラザロ様……私、もっとあなたの傍にいたい。もっと、あなたにふさわしくなりたい……」

「エリーゼ……」

 名前を呼ぶ声が、やわらかく震えた。

 気づけば、ラザロは彼女を抱きしめていた。腕の中に収まる少女の温もりはあまりにも軽く、それでいて、どんなものよりも胸を熱くさせる。

「……ずっと、貴女の手を引いていくつもりだった。でも、それはもう違うんだね。これからは……並んで歩こう」

「はい……ラザロ様」


 エリーゼも、そっとラザロの背に手を回した。

 

 この胸の中が、どれほど居心地のよい場所かを知っているから。

 守られるだけではなく、支えたいと願うから。


「四年は、わたしにとっては長いです。ラザロ様は?」

「私にとっては、待てる年月だよ。エリーゼ、貴女が立派な女性になって、私の元に帰ってくる日を待っている」

「……はい、ラザロ様。待っていて」


 ふたりの影が、夕映えの中で静かに重なる。

 それはまるで、時間さえも祝福するように、甘く、やさしく、世界の色を塗り替えるような抱擁だった。

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