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五話 きらめく世界へ

 エリーゼは両親へ手紙を送るのをやめた。

 ラザロに命じられたわけではない。自分の意思であった。ラザロもそれに気づき、エリーゼの両親からの手紙は、エリーゼではなく自分の元へ渡すよう使用人に言った。

 内容は、ひどいものであった。

 ラザロは、エリーゼの両親がエリーゼを自身に嫁がせたのは、自身のあらゆる財産を狙っているからだと、気づいてはいた。しかしラザロは彼らのその野望自体よりも、それに娘であるエリーゼを使うことに、はらわたが煮え繰り返る思いだった。

 ラザロ・ロゼ・ヴァレフォールがルミエール家の幼い娘と結婚したという事実は、他の貴族たちにもとっくに知れ渡っている。

 だからこそ、エリーゼの立場を、他の貴族たちが思うような『ヴァレフォール家とルミエール家の関係を強固にするためだけに結婚させられた少女』でも、『父親よりも年上の男に嫁がされた可哀想な少女』でも、どちらでもなくしたかった。この二つは、どちらも事実であるとラザロは思っていたが、エリーゼが今、ただの政略的な道具ではなく、立派に妻として、大人に育ちつつあることを、ラザロは世間に知ってほしかった。

 そう、エリーゼは、道具ではないと。

 


「奥さま、少し息を止めていてくださいね……っ!」

「んっ……!」

 女中が、エリーゼのコルセットをぐっと締める。エリーゼはその感覚に、これから行く場所への予感を感じて緊張した。

 今宵、エリーゼはラザロと社交パーティーへ向かう。

 

 エリーゼは浅く息を吐きながら、鏡越しに自分の姿を見つめた。コルセットを締められたことで、幼さの残る身体の線がくっきりと浮かび、今までよりもずっと大人びて見える。

「奥さま、お苦しくありませんか?」

 女中が心配そうに尋ねる。エリーゼは小さく頷きながらも、どこか誇らしげな気持ちを抱いていた。

 これは、ラザロの妻、ヴァレフォール夫人としての姿なのだと───そう思うと、胸が少しだけ高鳴った。

「いよいよですね、奥さま」

 別の女中が、エリーゼのために誂えられたドレスをそっと持ってきた。


 それは、夜の空の色を思わせる、すみれ色のドレスだった。

 胸元には繊細な刺繍が施され、裾に向かってまるで朝露のように小さなクリスタルが散りばめられている。袖は肩をふんわりと覆う程度で、露出は控えめながらも、軽やかで気品に満ちていた。

「まあ……!」

 思わず、エリーゼは息をのむ。

「旦那さまが、奥さまに似合うようにと仕立てさせたドレスです」

 女中の言葉に、エリーゼの胸がじんわりと温かくなった。

 ラザロ様が、自分のために───。

 ただの装飾品としてではなく、彼の妻として、自分を世間に示すために。

「きっとお似合いになりますよ」

 微笑みながら、女中たちがドレスをそっと羽織らせる。軽やかな生地が肌を滑り、淡い色がエリーゼの金の髪や薄紫の瞳に優しく溶け合った。

 

 鏡に映る自分は、まるで別人のようだった。

「とってもお綺麗です……!」

 女中たちが感嘆の声を上げる。

 エリーゼ自身も、自分の姿を見つめながら少しだけ驚いた。

 

 ───わたし、本当に、大人になったみたい。

 

「旦那さまがご覧になったら、きっとお喜びになりますね」

 誰かがそう囁く。

 エリーゼの心臓が、ふっと高鳴った。


「……では、髪を結いましょう」

 女中が手際よく櫛を取り、エリーゼの金髪をまとめ上げる。普段は緩く下ろしていることが多いが、今夜は優雅な夜会にふさわしく、シニヨンに結われた。

 そこに、ラザロが贈ってくれた細やかな真珠飾りが添えられる。


「……エリーゼ」

 扉の外から、ラザロの声がした。

「準備はできたかい?」

 エリーゼは小さく息を吸い、立ち上がる。そして、ゆっくりと扉へと向かった。

「はい……今、参ります」


 扉を開けた先にいたラザロが、驚いたように目を見開く。

「……」

 彼はしばらく何も言わず、ただエリーゼを見つめていた。いつものように穏やかな笑みを浮かべることもなく、ただ静かに───その姿を目に焼き付けるように。

「……似合っていますか?」

 少し不安になって、エリーゼが尋ねる。

「ああ」

 ラザロは、低く、しかし確かに言った。

「とても、美しいよ」

 その言葉が、胸に染み入るようだった。

 ラザロはエリーゼの手をそっと取った。優しい手であった。

「さあ、行こう。貴女を、私の妻として紹介しよう」

 エリーゼは頷き、彼の手を握った。


 

「まあ、あの子がヴァレフォール領主夫人?」

「なんて愛らしい。まるで人形のよう」

 着飾った大人たちが、ラザロと手を繋ぎ歩くエリーゼを見て微笑みながら呟く。悪意は無いのはエリーゼには分かっていた。だが、やはりラザロの妻としては見られていないような気がして、胸の奥が冷えていく感覚がした。三年前……七歳の時、結婚式の時もそうだった。周りの者たちは、可愛らしいと微笑んでエリーゼを見た。幼いということは、エリーゼの心にとって何も良いことが無い。ラザロは焦る必要は無いと彼女に言ったが、たった今、エリーゼは焦っていた。


(わたしは、ラザロ様の妻なのに……!)


 こんなに美しいドレスを着て、髪型だっていつもと違うのに、大人扱いは……されない。それがどうしようもなく悔しくて、エリーゼはラザロの手を離しかけた。どこかに逃げてしまいたかったのである。

「エリーゼ。胸を張って、前を向いていなさい」

 そんなエリーゼに、ラザロが囁いた。

「……! ラザロ様……でも……」

「誰が何と言おうと、貴女は素敵なレディだよ」

「……ラザロ様は、ずるいです」

「ずるい?」

「だって、今の言葉だけで……わたしの心、少し明るくなりました」

「ふふ、そうか……なら、一緒に踊ってくれるかな?」

 ラザロの言葉に、エリーゼは顔が熱くなるのを感じた。踊る? わたしが? ラザロ様と? それは、なんて幸福なのだろう。彼女はそう思ったが、ふと、周りの女性たちを見てしまう。彼女たちの体は成熟していて、背も高くて、美しい。それに比べて、自分の体は……やはり、幼くて、小さいのだ。

「……ラザロ様が、恥をかいてしまわない?」

「私がかい?」

「はい。ラザロ様はわたしを素敵だと言ってくれるけれど、でも……わたしは、ラザロ様と頬を寄せて踊れるような、大人ではないです」

「……エリーゼ、以前言っただろう? 私は、貴女を妻に迎えて後悔はしていないと」

「……。……はい、言ってもらえて、うれしかった」

「ならば、私の言葉を信じてくれるかい? 私は、貴女を誇りに思っているよ。貴女が苦悩するのは、貴女が淑女として成長している証だ。……それに」

「それに……?」

 ラザロはエリーゼの手を再びきゅっと握り、目を細めた。

「私が、エリーゼを……妻を、皆に見せたいんだ。私には良き妻がいるという、私の……そうだな、いわゆる……自慢さ。付き合ってくれると、嬉しいのだが」

「……、ラザロ様ったら!」

 その場で抱きついてしまいそうになるのを、エリーゼはぐっと堪えた。エリーゼはラザロを、可愛らしいと思ってしまった。何でもできる、優しい大人のラザロが、自分を見せたいから一緒に踊ってほしいだなんて。エリーゼは今こそ、勉強した社交ダンスのステップを見せる時だと思った。

「ふふ。ラザロ様。わたし、ダンスもいっぱい勉強したのですよ」

「おや、私はダンスは苦手でね……リードしてくれるかな」

「もちろん……!」

 ちょうど、演奏されていた音楽が新しいものに移る。二人は、ホールの真ん中、皆がダンスを楽しむ輪へ駆けて行った。


 二人がホールの中央へと進むと、周囲の視線が自然と彼らに集まった。ラザロは、戦場では名を馳せた英雄でありながら、社交界ではあまり舞踏を披露することのない人物だった。そしてその隣に立つのは、彼の妻、エリーゼ。まだあどけなさを残す少女のようにも見えるが、彼女の瞳には決意の光が宿っていた。


「さあ、エリーゼ」

 ラザロが優雅に手を差し出す。エリーゼはその手をしっかりと取り、胸を張った。


 演奏が始まる。ゆったりとしたワルツの調べ。


 ラザロが静かに一歩を踏み出す。エリーゼもそれに合わせ、ステップを踏んだ。彼の手に導かれ、滑るように動く。ラザロの動きは彼らしく穏やかで、強引にリードすることはない。彼はまるでエリーゼの歩幅を確かめるように、一歩ずつ優しく導いていた。


 エリーゼは心の中で、何度も練習したステップを思い返す。右へ、左へ、回転───。


(大丈夫、ちゃんとできる……)


 そう思った瞬間、ラザロが彼女の腰にそっと手を添えた。そして、彼の腕の力をほんの少し感じた次の瞬間、エリーゼの視界がふわりと回転する。


 ───旋回。


 ラザロが支えてくれたおかげで、エリーゼの体は美しく宙を舞うようだった。裾に散りばめられたクリスタルが煌めき、まるで星が弧を描くようにきらめく。


(わたし、踊れてる……!)


 頬を上気させながら、エリーゼは彼を見上げた。ラザロは微かに笑い、彼女の手を引く。そのまま二人は滑らかにステップを踏み続ける。

「……ラザロ様、本当にダンスが苦手なのですか?」

 エリーゼが半ば呆れたように尋ねると、ラザロは苦笑を浮かべた。

「得意ではないさ。ただ……貴女の動きを見ていたら、不思議と足が動く」

 その言葉に、エリーゼの心が震えた。


(ラザロ様が、わたしに合わせてくれている……)


 彼は、エリーゼが踊りやすいように、決して力で引っ張らず、かといって頼りなさも感じさせない。まるで、二人が一体となったように、互いの動きが呼吸を合わせる。


 ───旋回。


 ふわりとスカートが舞い、金の髪が弧を描く。

 誰かが息をのむ気配がした。


「まあ……」

「あのヴァレフォール夫人が、こんなにも見事に……!」

 囁き声が聞こえる。


 エリーゼは、もう迷わなかった。誰が何を言おうとも、彼女は確かにラザロの妻なのだ。彼の手が支えてくれる限り、彼の隣に立ち続けると決めたのだから。

 音楽が終わる。

 ラザロがそっと手を引き、エリーゼは静かに一礼する。その瞬間、周囲から拍手が巻き起こった。

「素晴らしい……!」

「なんて優雅で美しい……!」

 人々の賞賛が、エリーゼの耳に届く。彼女はラザロを見上げ、そっと囁いた。

「……ラザロ様、楽しかったです」

「私もだよ、エリーゼ」

 そう囁くラザロの瞳は、どこまでも優しく、どこまでも誇らしげだった。

 ラザロは微笑み、エリーゼの手の甲にそっと口付けを落とした。おお、と周囲から歓声が起こる。二人が夫婦であると、誰もが思っているかのような、祝福の声であった。


 ……そして、そうは思っていない者たちもいた。

「エリーゼ……あなたって子は」

 苛立ったように葡萄酒を煽り、エリーゼの両親は二人を睨んでいた。

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