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三話 小さな戸惑い

 窓辺の花瓶に活けられた白薔薇が、朝露をまといながら静かに揺れている。

 淡い光がカーテンの隙間から差し込み、夜の冷たさを溶かすように室内を温め始めた。


 エリーゼはゆっくりと目を開けた。

 ふわりとしたシルクの感触、仄かに香る薔薇の香り……それらが彼女の日常の一部になって久しい。

 三年前、この屋敷へと嫁いできたばかりの頃は、時折実家が恋しくなり眠れなくなり、夫に宥められる夜を過ごすこともあったが、今はもうこの場所が自分の居場所であると、そう思えるようになっていた。


「ん……?」


 体を起こそうとした瞬間、腹部に鈍い違和感が走った。

 それと同時に、シーツに広がる冷たい感触に気づき、エリーゼの動きが止まる。

 違和感の正体を確かめるようにそっと手を伸ばし───そして、その手が赤く染まっていることに気づいた途端、息が詰まった。


 真紅の染みが、白いネグリジェにも滲んでいる。

 それを見た瞬間、恐怖が全身を駆け巡った。


「───っ、いや……!」

 小さな悲鳴とともに、エリーゼはシーツを握りしめた。

 昨夜まで何事もなかったはずなのに、どうして。怪我をした覚えもないのに、なぜこんなにも血が出ているのか。


 頭が混乱し、涙が滲む。

 怖い。助けてほしい。


 そう思った瞬間、エリーゼの頭に浮かんだのは、ただひとりの人物だった。

 震える声で夫の名を呼んだ。

 今日も起き抜けのお茶を持ってくるために今はいない夫を、扉の向こうに彼がいると信じて、必死に。

「ラ、ラザロ様、ラザロ様ぁ……!」

 ラザロはいつも通り、モーニングティーを運んで部屋に入ってきた。三年間続いた日課だ。だが、ラザロは妻の様子がおかしいとすぐに気づき、駆け寄る。

「エリーゼ、どうした? ……怖い夢でも見たのか?」

「ち、がいます。ラザロ様……」

 エリーゼは涙をこぼしてラザロにすがりつき、ラザロはそんな彼女を戸惑いながらも受け止めた。ラザロの低く落ち着いた声が響く。その優しい音色に縋りつけば、エリーゼの恐怖心はほんの少し、スプーンによそった砂糖一杯分、おさまった。

 それでもエリーゼは泣きじゃくりながら、震える指で血のついたシーツを指差した。

「血が……たくさん……出て……」

 その言葉に、ラザロの顔色がはっと変わる。


 それから、あっという間のことだった。ラザロの手で慌ただしく女中たちが呼ばれ、エリーゼは体を湯で優しく洗われた。今日は着替えなくて良いと、ドレスではなく新しい寝間着に着替え直させられる。そして、下着の中にリネンでできた布を二重に敷かれた。いつもと違う事態が起きている。


「わたしの体……病気なのでしょうか……」

 ベッドの上で淹れ直されたお茶を飲みながら、エリーゼは隣に座るラザロに問いかけた。思い詰めているかのような表情であったラザロは、その言葉に優しく微笑む。自分を安心させてくれるために笑ったのだと、エリーゼは察した。

「いや、病気ではないよ。エリーゼ」

「でも……血が出て……これは、何なのでしょうか」

 ラザロは少し黙った後、重々しく口を開く。

「貴女の体は、大人の体へと一歩成長したんだ」

「大人……?」

「そう。女性の血液は不浄だと思う凝り固まった考えの者もまだ少なからずいるが、私は子どもの成長は素晴らしいものだと思っている。……腹は痛いかい?」

「……まだ、痛いです」

「そう。だから貴女はベッドで休まないといけない。勉強も遊びも、血が止まるまでお預けだ。そんな時が少なくとも月に一度は起こるようになったんだ」

「こんなことが、これから毎月起きるのですか?」

 エリーゼの目が不安に潤む。ラザロは優しい微笑みを絶やさないようにした。エリーゼと結婚するにあたり、子どもの成長や女性の体のことを、彼は書物を読んだり、王都の医師に聞いたりして調べていたのだ。

「健康な女性が誰しも経験することだ。……大丈夫だ、エリーゼ。これは貴女の体が健康である証。私も、屋敷の者たちも、貴女を支えるから」

「……。はい、ラザロ様」

 ラザロはエリーゼの頭を優しく撫でた。心地よい大きな手に、エリーゼの心は安らぐ。だがエリーゼの頭の中には、腹の鈍い痛みよりも、いつもより重く感じる体よりも、ラザロの一瞬の言葉が残っていた。


(三年も一緒にいたのに、わたし、ラザロ様にとってはまだ子どもなのね)


 こんな時、父と母は自分にどんな言葉をかけるのだろう。エリーゼはそう思いながら、カップに残った温くなったお茶を口にした。

 エリーゼは、今年で十歳になった。


 一週間後、エリーゼの体調が回復した頃、夫婦はエリーゼの両親と会っていた。

「ラザロ卿、ご機嫌麗しゅう!」

「ああ、ラザロ卿。エリーゼは良き妻となっているでしょうか」

 久々に会ったエリーゼの両親は、娘のエリーゼではなくラザロを見て挨拶をした。相変わらずの歪みが滲み出ているその笑顔に、ラザロは心の中でため息を吐きながらお辞儀をした。

「……エリーゼは、とても良く努めてくれています」

「それは良かった! エリーゼ、これからも妻としての仕事に励むように」

「はい! お父さま」

 エリーゼの変わらない、両親への無垢な愛情がいっぱいの声と笑顔に、ラザロは胸を痛めた。彼女に出会った時と、同じ痛みであった。


「ラザロ卿、ちょっと」

 エリーゼの両親がラザロを手招く。あなたは少し待っていなさいねと母親に言われたエリーゼは、首を傾げてその場に立っていた。

「エリーゼの手紙を見ました。あの子に初潮が来たそうじゃないですか」

「……っ!」

「ええ、私も見ましたわ。なんて素晴らしいことなのでしょう。エリーゼも大人になったのですわね」

「……」

 娘の成長を喜ぶ親の姿……なのかもしれない。だが、どこか気味の悪さを感じ、ラザロは口を真一文字に結んだ。ラザロがそうして黙り込んでいると、二人は、ラザロにとって耳を疑うようなことを口にした。


「ラザロ卿、早く世継ぎをお作りくださいね」

「ええ、まったくその通り。両家の絆のため、ぜひ励んでください」


 瞬間、ラザロは声を上げていた。

「貴方方は、エリーゼを何だと思っているのです!」

 エリーゼが血に濡れた自身の体に泣いていたことも、戸惑っていたことも、この二人は親でありながら何もわかっていない。大人ならば、ましてや人の親ならば、わかっていてほしかった。失望と怒りがラザロの中に大波のように押し寄せる。少し離れた場所で行儀良く待っていたエリーゼは、ラザロの声に驚いてびくりと身を震わせた。

「……? ラザロ様……?」

 ラザロの言葉は止まらない。

「何を考えているんだ……エリーゼはまだ子どもです。それでも、子を愛する親ですか」

「おや、貴方こそ何を考えているのです」

 だが、エリーゼの両親は顔を見合わせてくすくすと笑うのみだ。

「親である以前に、貴族です。エリーゼも、子どもである以前に、ルミエール家の者……貴族です。生まれついての『持つべき者』ではないラザロ卿には、少し難しい話でしたかな?」

「……。……なんて、酷い……」

「エリーゼは我々の宝物です。ええ、愛していますとも」

 くすくす。くすくす。ラザロの耳の中を悪辣な笑い声が満たしていく。ラザロは、唇を噛み締めた。

「お父さま、お母さま。そんなに笑って、三人で何を話していらしたの? ……ラザロ様? どうかなさったの……?」

「エリーゼ……」

「私も混ざっていいですか?」

「ん? ああいや、もう話は終わった。私たちは帰るとするよ、エリーゼ」

「まあ! もう帰ってしまう? お茶でも一緒にと思ったのに……」

「また今度にしましょうね、エリーゼ」

「はい……お母さま」

「これからも手紙を書きなさい。そして、ラザロ卿を支える妻の自覚を忘れないように」

「……はい、お父さま」

 二人が屋敷を出て馬車に乗るのを、エリーゼは寂しそうに眺めていた。二人は、娘に対して手を振ることすら無かった。

「行ってしまいました……」

「……」

「ねえ、ラザロ様。先ほどからどうなさったの? ……お腹でも痛いのですか?」

「エリーゼ、」


 ラザロは、エリーゼの小さな体を抱きしめていた。すっぽりと包まれて、エリーゼは驚き身じろぎをする。

「ラ、ラザロ様? 本当にどうしたのですか?」

「エリーゼ……私との結婚を、後悔しているかい?」

「……? いいえ? 私はラザロ様が大好きです」

「……そうか」

「ふふ、ラザロ様は?」

「……私は……」

 身を離し、ラザロは跪きエリーゼの瞳を見る。彼は彼女の両手を自身の両手で包み込み、また、優しく微笑むのだ。

「私は、貴女を守るよ」

 彼の両手のあたたかさが心地よく、エリーゼもまたにっこりと微笑む。その表情は、どこか寂しげであった。


(『後悔していない』とは、言ってくれないのですね)


(……『妻の自覚』って、何かしら)


 エリーゼのいまだ幼い胸の内に、『結婚』という契約の意味を知りたいという気持ちが、重くのしかかるように生まれていた。

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