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最終話 暁に咲く薔薇

 『結婚式をもう一度しよう』

 そう言ったのはどちらからだっただろうか。

 

 あの時のように親族や友人を呼んだ、教会で行う荘厳なものではない。屋敷の庭の薔薇園でひっそりと行われるもの。法的な拘束力の無い、ただあの時の誓いの言葉をなぞるもの。

 側から見れば、この結婚式に意味はない。だが、ラザロとエリーゼ、二人にとっては大きな意味を持っていた。

 ───この国では、結婚の誓いとして夫婦はピアスを耳に開ける。夫は左耳に、妻は右耳に。血のように赤い石を小さく加工したピアス。守る者と支える者の証。エリーゼが十四歳になった記念に、新調したそれをお互いの耳につけよう。という、二人だけの新たなスタートの儀式をこれから行うのであった。


「素晴らしいです。とっても綺麗ですよ、奥さま」

「ふふっ、花嫁衣装をもう一度仕立ててくださるなんて、ラザロ様ったら」

「うふふ、旦那さまは嬉しいのですよ。奥さまが帰ってきてくださって!」

 エリーゼは仲良しの女中の前でくるりと回る。

  エリーゼが身に纏っていたのは、純白のドレスだった。


 それは派手な装飾や煌びやかな刺繍こそなかったが、裾に至るまで丁寧に縫い込まれた繊細なレースが、まるで朝霧のように柔らかく広がっていた。身体にぴたりと寄り添う上半身は、まだ幼さの残る少女の華奢な線を、慎ましくも美しく引き立てていた。

 肩をふわりと覆うパフスリーブは、ほんのりとした膨らみで可憐さを添えつつ、少女と大人の間にいるエリーゼの今だけの美しさを際立たせている。袖口には一房の小花の刺繍があしらわれており、それがエリーゼの動きにあわせてそっと揺れた。

 そして、胸元にはあの薄紫の宝石のブローチが留められていた。

 ラザロから贈られた、彼女の瞳に似た色をした小さな宝石。白い布地の上で、その輝きはひときわ柔らかく、けれど確かな存在感を放っていた。

 

 (このドレスは、ラザロ様のためだけにあるのよ)


 そう思うと、エリーゼの胸は高鳴り、頬にほんのりと朱が差した。 


「ねえ、どうかしら。子どもっぽく、ない……?」

「どこがですか、奥さま。とっても綺麗です」

「……ふふ。じゃあ、今日だけは、少し大人になった気でいてもいいかしら」

「もちろんですとも」

 鏡に映る自分の姿に、エリーゼはそっと微笑みかける。彼女は、かつての『子ども』のエリーゼではない。あの日交わした小さな誓いを、胸の奥でずっと育ててきた、『ラザロの妻』その人である。


 そしていま、───彼の隣で、永遠の誓いを咲かせるのだ。


「さあ、奥さま。ヴェールを」

「……はい」

 ふわりとヴェールをかけられる。エリーゼは女中に導かれ、庭の薔薇園へと向かった。

 

 あたたかな朝、庭のガゼボにて、ラザロはエリーゼを待っていた。蝋で撫で付けられた黒髪、ぴしりと整えられた礼服。そして何よりも、優しくエリーゼを見つめる灰色がかった青色の瞳。全てが自分のためにあってくれるのだと、エリーゼはこの上なく嬉しくなった。周囲には薄紫色の薔薇、『エル』が咲いている。ちょうど開花時期なのだろう、幾重にも重なった可憐な花びらは、甘く優しい香りを周囲に漂わせていた。

「おいで、エリーゼ」

「はい、ラザロ様」

 ドレスの裾を持ち、エリーゼはラザロのそばへ歩み寄る。そんなエリーゼに彼はふっと微笑むと、ヴェール越しに彼女の頬に触れた。

「ずいぶん背が伸びたね」

「そうでしょうか?」

「出会った頃は、私の腰くらいしか無かったものだが」

「そ、そんなに小さかったかしら」

「……小さかったとも。貴女は……変わった。立派に成長したね」

「ふふ、ラザロ様。変わらないものもあるのですよ」

「うん?」

 薄いヴェールがふわりと彼の手で持ち上げられる。隠されていたエリーゼの瞳は、キラキラとラザロを見つめていた。

 

「私が、ラザロ様を……愛しているということは、昔から何も変わりません」

 それを聞いたラザロは、一瞬、目を細めた。心の底から、愛おしげな眼差しであった。

「……そうか。なら、私も変わったのかな」

「ラザロ様も?」

「最初は、ただ貴女を守りたいという気持ちしか無かった。周りの大人に利用される貴女の、守護者になりたかった。……でも今は違う。エリーゼ、貴女と共に歩む、貴女を愛する夫になりたいと……今はそう思っているよ」

 ラザロの瞳も、静かに輝いていた。

 

 ただ形式的に付けられたあの時のピアスが外され、新たな誓いが耳に付けられる。守る者の、剣の左耳。支える者の、鞘の右耳。新たなピアスは、小さな赤い石に細やかな銀細工で薔薇の装飾が施されていた。

「……私は貴女の剣だ。愛しているよ、エリーゼ。私の鞘」

「私は、永遠にあなたのおそばにいます。ラザロ様。……愛しております」

 

  ラザロはそっと手を伸ばし、エリーゼの頬を包んだ。蜂蜜色の髪に朝の陽が降り注ぎ、薄紫のブローチがそよ風に小さく揺れる。彼の瞳には、かつての幼い少女が、いまや立派な花嫁として映っていた。

「……誓いのキスをしても?」

 その問いに、エリーゼは静かに、けれどはっきりと頷いた。

 ヴェールが完全に持ち上げられる。やわらかなレースが空気をすべって後ろへ落ちたとき、エリーゼの瞳と、ラザロの瞳がまっすぐに重なった。


 庭には朝の光があふれていた。

 鳥がさえずり、薔薇が揺れて、世界がふたりの誓いを祝福しているようだった。

 ラザロは、そっと顔を近づけた。

 エリーゼもまた、微笑みながらその距離を受け入れた。


 ───そして、ふたりの唇が、静かに触れ合う。


 それはとてもあたたかくて、やさしい口づけだった。

 ただ愛おしいという気持ちがすべてを包み込み、ふたりの間に流れてきた歳月さえも、その一瞬に溶け込んでゆくようだった。

 やがて唇を離したラザロは、額をそっとエリーゼに預けた。

「ありがとう、帰ってきてくれて」

「ラザロ様こそ、ありがとう……待っていてくれて」


 そして、ふたりは静かに微笑み合う。

 暁の光が、ゆっくりとふたりを照らしていた。夜の名残を払い、新しい朝が始まるその瞬間に───


 純潔の花は、確かにたった一人のために咲いたのだと、静かに世界に語っていた。

 

 物語は、今、終わりではなく、ともに歩む始まりとして、その幕を閉じる。

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