表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/12

十一話 純潔の花はあなたのために

 王都からの馬車の中に、一人の少女が座っていた。

 

 蜂蜜色の長い髪は一つに編み込まれまとめられている。その髪の一本一本が窓から差し込む陽光を受けてきらきらと輝いていた。窓の外を見る瞳の色は薄紫色。蜂蜜色のまつ毛に縁取られたそれは、宝石のようであった。

 彼女の名はエリーゼ・ヴァレフォール。ヴァレフォール領領主の妻、その人である。

 今年で十四歳。薔薇色の頬は未だまろいラインを残しているものの、花嫁修行の学び舎を卒業した彼女は、立派な淑女の雰囲気を出していた。

 もっとも、今の彼女の頭の中は、ひとつのことでいっぱいだったのだが。

 

 (ラザロ様に会いたいわ)


 手紙にて、迎えに行こうかという夫の提案をあえて断り、待っていてくださいと返事を返したのだ。もう四年、会っていない愛しい人。もしかしたら、会ったら四年前の幼い自分に戻って、抱きついてしまうのではないかと、エリーゼはそれだけが不安であった。それほどにまで、焦がれていた。おとなになるまで待っていてほしいと誓ったが、会いたくて会いたくて仕方がなかったのだ。

 エリーゼはほうと息を吐く。彼のあの白髪混じりの黒髪も、灰色がかった青色の瞳も、上品な香りを纏った体も、全てが懐かしい。変わったところはあるだろうか? 無いだろうか。

「あの優しい声だけは、変わらないでいてくれたらいいわ」

 そう呟き、窓にこつんと頭をあてた。


 石畳の道が、徐々に見覚えのある緑に囲まれていく。

 かつて毎日のように眺めていた風景。けれど今は、すべてが少しだけ違って見えた。季節のせいでも、木々の伸び具合のせいでもない。きっと、見ている自分が、あの頃の“子ども”ではなくなったからなのだろう。

 馬車の窓から吹き込む風が、編んだ髪をそっと揺らす。エリーゼは胸元のリボンに添えられた、小さなブローチへ指を添えた。ラザロから贈られた、あの薄紫の宝石。四年間、胸の中で燃やしてきた想いは、少しも褪せることがなかった。


 ───あと少し。

 あと少しで、あの人に会える。


 それは甘美で、けれど少しだけ怖い時間だった。

 緊張が、喉の奥を締めつける。だが、胸に灯る感情は確かだった。エリーゼは目を閉じ、小さく呼吸を整えた。

「奥さま、間もなくお屋敷が見えてまいります」

 御者の声が、馬車の外から届いた。

 エリーゼは目を開け、少しだけ腰を浮かせて窓の外を覗く。そこには、懐かしさと誇らしさを呼び起こす、かのヴァレフォール邸が、変わらぬ威厳で佇んでいた。


 高く伸びる黒鉄の門。整えられた薔薇の垣根。重厚な石造りの本館の尖塔が、春霞の空を優しく切り取っていた。

 変わらぬ姿に安堵しつつ、エリーゼはその中に、変わったであろう自分が踏み入るという不思議な感覚を味わっていた。


 ───あの中に、ラザロ様がいる。


 心臓が、ことん、と静かに跳ねた。

 四年間、ただ一つの人を想い続けた少女が、今ようやく、自らの意思で帰るのだ。子どもではなく、妻として。


 やがて、馬車は門の前にゆっくりと止まり、従者たちが駆け寄ってくる。扉が開かれ、外気と光が流れ込む。

「お帰りなさいませ、奥さま」

 深く頭を下げる声を背に、エリーゼは一歩、また一歩と馬車を降りた。

 足元に広がる石畳。その下には、確かに彼との日々が埋め込まれている気がした。


 風が吹いた。蜂蜜色の髪がふわりと舞う。

 少女の足取りは、かつてよりもずっと軽やかで、まっすぐだった。その背に、凛とした香気が宿っていた。


 ───ヴァレフォール邸に、花が咲く。


 彼女のために育てられた、春の庭が迎えるのは、かつての子どもではない。

 今、薔薇の館に帰ってきたのは、誓いを胸に咲いた、ひとりの花嫁であった。


 屋敷の扉が開かれる。そこには───領主ラザロが立っていた。

「……エリーゼ」

「ラザロ様……」

 二人はしばし、見つめ合う。だが、ラザロはすっと目をそらしてしまった。

「ただいま、戻りました。……ラザロ様?」

「ああ、いや……」

「どうかなさったの?」

 もしや、何か粗相をしてしまったのではないだろうか、とエリーゼは自分の身の回りを確かめる。ドレスには埃一つついていない。髪も乱れていない。では、なぜ? と彼女は首を傾げて彼を見つめる。すると、ラザロはその大きな片手で顔を覆いながら、エリーゼにこう言った。

「……貴女が想像以上に美しくなっていたから、戸惑ってしまった」

「……まあ! 私、変わりましたか?」

 エリーゼはぱあっと花咲くような笑顔をラザロに見せた。ラザロはそれを見て微笑むと、顔を上げ、彼女に歩み寄る。

「ああ、貴女は変わった。手紙を毎月もらっていた頃から思っていたよ、徐々に文も字も美しくなっていくことに。日に日に貴女が大人になっていくことを感じて、胸が弾む思いだった」

「ラザロ様……」

「おかえりなさい。エリーゼ。……抱きしめても?」

「……! はい、ラザロ様……!」


 ラザロはそっと腕を伸ばしていた。

 エリーゼの細い体を、まるで宝物を扱うように、その胸に抱き寄せる。蜂蜜色の髪が香り立ち、頬に触れる。ラザロは目を閉じ、その温もりを確かめるように静かに息を吐いた。

「……ああ、エリーゼ。ずっと、待っていたよ」

 その声に、エリーゼの瞳が潤む。けれど、涙はこぼさなかった。彼女はもう、子どもではないのだから。ただ、そっとラザロの背に手を回し、自分からも強く、しっかりと彼を抱き返す。

「私……ラザロ様のために、頑張りました。あなたの隣に、恥ずかしくないように。……純潔のまま、誇りを持って、あなたのもとへ帰ってこられるように」

 その言葉に、ラザロは一瞬、目を見開いた。

「……花は、誰がために」

 ラザロは、ぽつりと、独り言のように呟く。

「この言葉の意味を、私は何度も問い続けたよ。貴女が旅立った日から、ずっと。だが今ようやく、その答えを知った気がする。……それは、誰かの誇りと愛のために咲くのだと。貴女は、私のために咲いた。……そして私は、貴女を信じて、ここで咲くのを待っていた」


 春の風が吹いた。窓から入りふたりを包むその風は、庭に咲き始めた薔薇の香りを運んでくる。

 白も、薄紫も、紅も。まるでエリーゼの帰還を祝福するように、庭の花たちは一斉にその蕾をほころばせていた。


 エリーゼはラザロの胸の中で、そっと呟いた。


「ラザロ様。これからも、私はあなたのために咲いていたい。ずっと、あなたの花でありたい」

「……ならば私は、貴女を育む陽であり、水であろう。貴女が枯れぬように、何度でも光を注ごう。……愛をもって」

 そっとふたりは身体を離す。見つめ合うその瞳には、もう迷いはなかった。

 かつて子どもだった少女は、もう立派な花嫁であった。

 そして、かつてただ守っていた男は、いま、彼女とともに歩む夫となる。


 再び重なった視線の奥で、未来が静かに始まりを告げる。

 春の空の下、純潔の花は───ようやく愛の庭に、しっかりと根を下ろしたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ