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私はあの方が好きだ。


彼を想うだけで心から温かな活力が生まれ何であっても励むことができる。

顔を思い浮かべるだけで茹だってしまうほど熱が込み上げる。

16年の短い時間しか知らない私でも分かる。

この感情の名前を。






彼は私なんかには勿体無い人だ。

穏やかで明るくて、陽だまりの様な人だ

そして、とても優しい人だ。

私に優しくしてくれる人だ。

感情を碌に出すことの出来ない、面白みのカケラもない、死体の様な女に関わってくれる優しい人だ。

私を生き返らせてくれた人だ。






彼は私の許嫁だ。

許嫁、だった。

彼の家は一般的な中流の家だが一つ特徴がある。

私の家と、長年続く極道の家との関わりがあるのだ。

私の父と彼のお父様が非常に仲がいいのだそうだ。

それが私の人生最大の幸福に繋がったことに深く感謝している。

彼との大きな結びつきができたのだから。


最初に出会った時は私と彼が十の時だった。

当時の私は輪をかけて感情の死んだ子供だった。

実の親に対しても碌に話もしない、ただ言われたことをこなすだけの子供だった。

だからなのかもしれない。

そんな私に変化を望んで彼と合わせてくれたのかもしれない。

面白い話も反応も出来ず、岩の様に顔を固めたままの私に彼はたくさん話しかけてくれた。

昨日あったこと、今日学校であったこと、これからしたいこと。

彼にとっては友人や家族と話すありきたりなものだったのだろう。

それでも私は、彼の話を聞いているのが心地よかった。

このつまらない子供に根気強く話しかけてくれた人。

私と違って感情豊かに笑う彼が眩しく思えた。

家は近かったけれど、違う小学校に通っていた私たちが逢うことが出来たのは、多くて週に一度。

彼が話して、私が聞く。

一方的で不思議な関係が続いていた。






その様な時間が流れ、十二の時だ。

彼と一緒に地域の夏祭りに行った。

これまで興味の無かったそれに、彼に誘われたから足を運んだ。

私の家の浴衣を二人揃って着せてもらった。

紺の浴衣に身を包んだ、少し大人っぽい彼の姿が今でも目に焼き付いている。

二人で手を繋いで出店を回った。

彼に手を引かれて、同じ物を食べて、射的やクジで一喜一憂する彼を見た。

無邪気な笑顔が、私だけに向けられていると見紛う錯覚。

祭りの特別な雰囲気と相まって、別の世界を見ている様だった。

つまり、私は浮かれていたのだろう。

慣れない下駄で、足を痛めて転んでしまった。

一緒に着せてもらった浴衣が土に汚れて、手のひらに赤い傷が出来た。

普段なら何も感じない。

でも今日、彼の隣で汚く汚れてしまったことが惨めで惨めで。

私の視界は歪んだ。






らしくもなく錯乱していたからか。

気付くと私は彼の背中の上にいた。

動かなくなった私を見かねて、彼がおぶってくれたのだ。

薄い浴衣を挟んで彼を感じる。

暖かい背中だった。

優しい温もりだった。

私と違う、まだ幼いけれど確かな男の子の体に少しドキドキした。

彼の背にいるとなんだか彼に守られている様で、とても心地が良かった。

ずっとこうされていたい。

ずうっとこの人のそばにいたい。

何かがはじける様な、そんな音がした。

確かに芽生えていたそれが、初めて人並みの大きさまで育った。

いや、もう普通の大きさなんかじゃない。

私の空っぽな心の中で際限なく広がる。

膨らみ続ける。

夜空の、火の花の様に。

彼に触れる体が熱くて溶けてしまいそうで。

わけがわからないほどの恥ずかしさに悶えていた。

この帰り道を私は生涯忘れないだろう。

初めての感情を知ったこの夜を。






中学へと入り私は、この感情に蓋をした。

固く閉じて、錠を落とし、見えない所に放る。

彼へと向けるこれの扱い方が全くもって分からなかったからだ。

赤赤しくゆらめくこれが、自分のものではない様で怖かったのだ。

幸いなことに、彼との関係は変わらなかった。

いや、変わらない様に必死になった。

これまで通りを心がけ鉄の仮面を被った。

彼との距離が変わってしまうことだけを恐れた。

近づくことを恐れ、離れていく空想を拒絶した。

だが、変わってくものは多い。

彼は成長していく。

日に日に伸びていく背丈。

浮き出る喉仏。

それでも変わらない優しい瞳に、酷く心を乱される。

閉じ込めた炎に薪がくべられていく。

いつかは手に負えなくなるのは分かっていた。

それでもこれを押し込め続ける。

彼の周囲も変化していく。

彼が他の女に話しかけられるたびに

他の女に話しかけるたびに

彼の魅力が知れ渡ってしまうたびに

程よく思っていた距離の、遠さを理解させられて

笑いながら彼に話しかける姿を見せつけられて

私は、嫉妬した。

妬んで嫉妬して、寂しくて凍えそうで、押しつぶされて死んでしまいそうで、苦しかった。

嫉妬して、妬いて、焼いてしまいたかった。

私の中のそれが黒く汚く濁っていく。

変わっていくそれが溢れた時に何をしてしまうか分からなくて。

何より、こんなものを彼に見られたく無くて。

押し込めて押し潰していつも通りを演じる。

肥え太った内面を取り繕う。

彼に嫌われる事だけは、何よりも嫌だった。

無価値に戻りたくは、なかった。






時は流れていく。

中学を卒業し、高校生となった今でも私は変われない。

この難儀な性格も、鏡の前のつまらない表情の自分も変えることが出来なかった。

声を出して最低限の会話はできる。

ただ未だに感情を表に出す事が出来ない。

花の様に笑いたい。

声を上げて叫びたい。

あなたに私を伝えたい。

彼との距離も変わることはなかった。

親から与えられた許嫁の立場に甘え続けて、

彼の優しさに縋り続ける。

変化を希う。

変わらない思いを伝えたかった。





甘え続けたツケは必ず払わされる。

今日、彼と共に帰っていた時だった。

普段と少し違った重い表情で彼は言ったのだ。


『今までごめん』


『僕じゃ君を幸せには出来ない』


『僕の方から許嫁を破棄して貰うから』


『今までありがとう』


いつか来るだろうと思っていた、その時が来た。

醜いこれに気付いてしまったのだろか。

とっくの昔に知っていて、耐えられなくなったのだろうか。

優しい彼はとても苦しそうな顔をしている。

あぁ最後まで迷惑をかけてはいけない。


「分かりました」


声を震わせるな。


「今まで、とても、大変、ありがとう、ございました」


彼の顔も見れずに家まで帰った。

地面を踏んでいる足が無くなってしまったのか、

それとも地面が無くなってしまったのか、

歩く感触がないことにひどく難儀した。

門をくぐり、戸を開けて靴を脱いだ。

板張りの廊下を歩く。

一歩ずつ歩む。

次の足を前に出そうとして、そして、


現実を、ようやく理解した。


身体の力が抜ける。

へたり込みそのまま床を見つめる。

ぐるぐると、ぐるぐると形にならない思考が渦巻く。

愛想を尽かされた。

見限られた。


「…嫌」


当然の帰結だ。

分かっていたことでしょう?


「…いや」


分不相応。

私なんかが釣り合うわけ無かったんだ。

彼に、あの人に。


「……い、やだ」


必死に自分の心を傷つける。

目を逸らすために。

痛みから逃れるために。

でも、その痛みすらも証明で。


湧いてくる、痛みと、後悔。


ポタポタとポロポロと、水が滴り落ちる。

小さな水たまりが一つづつ生まれて、大きくなる様を、呆けた様に眺める。

人からはこんなにも水が出るのかと、碌に泣いたことのない私は思った。

そのまま泣き続けて、堪えきれずに、口が歪んで

声を上げて、叫んだ。

悲しかった。

嫌われたく無かった。

ただ、愛して欲しかった。






私を組員が見つけて、父と母も飛んできた。

私は何を言ったのだろうか。

ずっと謝っていた気がする。

あの人に。

許してほしい。

彼の名前を叫び続けた。

泣き果てたわたしは母の手を借りて、自分の部屋までたどり着く

一人にしてもらえた。

震える手で、机の上の写真を取った。

彼と二人で写った、大切な四年前の宝物。

彼を見つめる。

愛おしい彼に

優しい彼に

ずっと無理をさせていたのかもしれないと思うと、自分を許す事が出来なかった。

焼かれる様な後悔が滲む。

愚かな、勇気の無い、意気地のない私が憎い。

どこかで選択を間違ってしまったのだろうか。

可能性はあったのだろうか。

わからない。

わからなくても

ただ、不可逆だけがあった。

もう戻れない。

もう触れられない。

ただ、壊れたものだけが残っていた。

壊れたのは私か、それとも彼か、二人の関係か、その全てか。

世界が壊れる音がした。


その小さな轟音の中で


なにか音が、聞こえた気がして


向けた視線の


その先に




彼がいた。





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