天鎖学苑
――扉を開けると、朝靄のかかった街路に黒の車体がひっそりと停まっていた。
運転席のドアが静かに開き、しなやかな足取りで神樂坂が降り立った。
光を抑えた黒いコートの裾が風に揺れ、背後には低く静かなエンジン音だけが余韻を残している。
「おはよう、御堂君。お迎えに来たよ」
その声は柔らかく、それでいて確かな温もりを帯びていた。
神樂坂は笑顔で助手席のドアを開け、淡い微笑みを浮かべながら声を続ける。
「席に座って。学苑までは少し距離があるからね」
神樂坂の言葉に促され、御堂は躊躇なくシートへと歩みを進めた。
――住宅街を抜け、郊外へと至る一本道。
窓外には畑が広がり、朝霧が揺れる。
車内には静寂が漂い、かすかにエンジン音だけが響く。
神樂坂は視線を前方に固定したまま、深い吐息を漏らす。
「改めて言おう。私は神樂坂だ。以後は『教官』と呼ぶように。」
声は静かだが、その一語一語には揺るぎない緊張感が込められていた。
楓馬は顔を上げ、教官の横顔を見つめる。
神樂坂の頬には、先ほどの柔らかな表情とは違う、鋭い輪郭が浮かんでいた。
目線を逸らすことなく続ける。
「君を転入と言ったが、名目は保護だ。我々は、縁魔と契約を交わした者…契鎖者を集め、育成し、その力を活用する組織だ。」
神樂坂はゆっくりと右手を伸ばし、コートのポケットから薄型の端末を取り出す。
鋭角に切り込まれた外装が光を反射し、微かな電子音が薄暗い車内に響いた。
教官はその端末を楓馬に差し出す。
「…これは何ですか?」
楓馬は受け取った端末を慎重に手に取り、その重みを確かめる。
画面には操作待ちのインターフェースが無数の通知アイコンを表示し、青白い光を放っていた。
神樂坂は窓の向こうを一瞥し、低めの声で説明する。
「それは御堂専用の端末だ。学苑からの連絡、任務の詳細、書類提出──すべてはこの端末を通して行われる。紛失は厳禁だ。」
楓馬は握りしめた端末の画面をそっと覗き込む。
大量の通知が未読で並んでいた。
「移動中にすべての通知を確認し、必要なら操作や書類の提出を完了させるように。ここからは、君自身の意思と責任で動いてもらう。」
教官の言葉はあくまで平静だが、その背後には時間と任務の重圧が感じられた。
楓馬は再び端末の画面を見つめ、通知を一つずつ丁寧にスワイプし始める。
外の景色が次々と過ぎ去るなか、楓馬の「契鎖者」としての日常が静かに幕を開けた。
すべての通知に目を通し、書類提出も終えしばらくすると、神樂坂が車を止めた。
「着いたな」
神樂坂の言葉に続いて、御堂は重いドアを引き開けた。
車から降りると、足元に敷き詰められた砂利が小さな音を立てる。
目の前には、手入れの行き届いた庭園が左右に伸び、その向こうにそびえ立つ校舎群が威厳を放っている。
遠くで小鳥が囀り、噴水のせせらぎが静かに耳に届く。
「広い…」
「こちらが一般戦闘科の校舎だ。右手側にある。人数が多い分、建物も大きめに設計されている」
足音を揃えて歩き出すと、石畳の両脇には季節の花が彩りを添え、淡い風が花びらをそっと舞わせる。
光と影のコントラストが、校舎の重厚さをいっそう際立たせていた。
「左側に見えるのが、特別戦闘科の校舎だ。規模はやや小ぶりだが、内部は最先端の訓練設備が整っている」
御堂は校舎を見比べ、その違いを呑み込むように目を細める。
「そして両端に見える建物が寮だ。一般戦闘科寮と特別戦闘科寮で分かれている。君は特別戦闘科の寮に入寮することになる」
庭園を囲むように配置された四棟の寮舎は、それぞれ似たような形状と色を持ち、まるで一つのコミュニティを形成しているかのようだった。
神樂坂は背筋を伸ばし、御堂を真っすぐに見据えた。
「これからは君の学び舎として、拠点となる場所だ。特別戦闘科の校舎を案内する。ついてこい」
御堂は頷き、手にした端末を軽く握り直した。
二人は静かな庭園を抜け、特別戦闘科棟へと続く石畳の小径を歩き始めた。
建物の大きな自動ドアをくぐると、楓馬は思わず足を止めた。
通路の両脇を覆う幅広の窓からは、柔らかな朝陽が差し込み、床のタイルにオレンジ色の光の帯を描いている。
どこか未来的でありながら、鉄骨とガラスが交錯する空間は、ただの学苑の校舎とは思えない威圧感を放っていた。
「一階は訓練室。君は学苑の8割の時間をここで過ごすことになる」
教官の声に導かれ、楓馬は窓際の回廊を進む。
やがて目の前が開け、円形の空間、まるで巨大なドームを思わせる訓練室にたどり着いた。
天井を埋め尽くす無数のセンサーと可動式のライトアームが、まるで複雑な神経網のように張り巡らされていた。
楓馬は視線をゆっくりと巡らせ、無言のままドームの迫力を体感する。
その横顔に、期待と緊張が入り混じったわずかな動きが走る。
「二階はその他の施設だ。教室、図書館などが揃っている。説明するより実際に見た方が早いだろう」
教官は軽く頷き、再び回廊を折れた。
階段はガラス手すりとステンレスのフレームで構成され、足音が金属音として反響する。
「二階の契鎖支援室に向かい、契鎖者登録を済ませるように。終わったら自分の部屋でゆっくり過ごすといい。部屋番号は端末に送られている」
「分かりました」
楓馬は端末を手に階段を上がり、二階の長い廊下へと姿を現した。
壁には大きく契鎖支援室と刻まれたプレートが取り付けられている。
階段を上ってすぐ、楓馬は再び背後に誰かの気配を感じた。
振り返れば、無人の廊下の奥まった影に、わずかな人影が揺れているような気がした。
(見られている…というか、つけられてる?)
違和感に緊張が走る。
しかし、その思いを振り切るように楓馬は視線を前へ戻し、支援室を覗いた。
部屋の中央には、巨大な登録装置が青白い光を放ち、端には二つのカプセルが並んでいる。
室内の空気はひんやりと澄み、その静寂が緊張感をいっそう高める。
作業中の審査官は、センサーに集中したまま画面を調整していたが、楓馬の視線が自分に向けられると、すっと顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「君が御堂君だね。入って」
「…失礼します」
楓馬は一礼し、軽やかに一歩足を踏み入れた。
審査官は名札を示しながらにこりと笑う。
「はじめまして、審査官の南葉です。主に契鎖者のサポートを行っています。よろしくね」
その声には優しさと確固たる信頼が混ざり合っていた。
「この機械は、君を正式な契鎖者として登録するものだよ。準備ができたら手をかざしてね」
青白く光るプラットフォームの環状センサーを指し示す南葉に、楓馬は一瞬だけ目を閉じる。
胸の奥では、燐哭の低い囁きが響いた。
『大丈夫、君ならできる。私と共に歩む道の第一歩だ』
楓馬は呼吸を整え、ゆっくりと両手を機械の前にかざした。
青白い光が掌全体を包み込み、登録装置が静かに唸りを上げる。
――契鎖支援室の前。
薄暗い廊下の端、柱の影に二人の幼い少女がそっと身を寄せている。
祓間 朧と澪。
二人の瞳は、静かにその部屋の中を覗いていた。
支援室の中では、一人の少年が審査官と向かい合っていた。
まだ幼さの残る表情に、どこか淡い虚無感を漂わせている。
「……あの人、今日……来たの?」
「……うん。明日から、クラスメイト。」
澪はそっと朧の袖をつかむ。
中の様子をじっと見つめながら、澪がまた囁く。
「……少し、怖そう。」
「……違う。怖くは……ない。少し、寂しそう。」
左手首には黒革の細い紐が二本、静かに光に揺れていた。
審査官が契約内容を確認し、静かに名前を読み上げる声が微かに漏れ聞こえる。
『契鎖者登録名──御堂楓馬。救済依存。共鳴安定度――82.6%。高位安定。』
「……契約、してるんだね。」
「……うん。私たちと、同じ。」
御堂は登録を終え、静かに一礼すると廊下へと歩き出す。
朧はそっと澪の肩を抱き、気配を殺す。
御堂は、ほんの一瞬だけその場に誰かの気配を感じたように目を向ける。
だが、何も言わず歩き去っていった。
二人は息を殺して、その背中を見送る。
その空気の隙間に、澪の囁きが小さく響く。
「……なんだか、優しそう。」
朧は目を細めながら言葉を紡ぐ。
「……優しすぎる人は……危うい。少し、似てる。」
静かな空気の中で、姉妹はそっと見つめ合う。
そして二人同時に、ほんのわずかに微笑んだ。
「……明日、会う。」
朧の言葉に澪は静かにうなずく。
「……うん。お姉ちゃんと、一緒なら……平気。」
二人の細い指が絡まり合い、また柱の影にゆっくりと身を引いていった。