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もう、手加減はいたしません

「聞いているのか、ヴェロニカ」

「はい。申し訳ございません」

「なぜおまえがナタリアと同じ色のドレスを着ている」

「ナタリア様と同じ色とは存じませんでした。申し訳ございません」

「調べればすぐにわかることだろう。性格の悪いおまえのことだ、身分の低い彼女に恥をかかせるためにわざとやったのではないか?」

「とんでもないことでございます。わたくしの不手際でご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした」


 宮廷の音楽祭の開始直前、ヴァシリー王子は空よりも青い瞳でわたくしをにらみつけた。

 金髪碧眼、というのだろう。ここノルグヘイム王国の王子、ヴァシリー・ノルグヘイムの容姿は芸術品のように整っていて、その隣には同じく陶器人形のように美しい令嬢が侍っている。

 ナタリア・モンドリアン嬢は、ふわふわのピンクブロンドに王子とよく似た青い目を持つ美少女だ。

 そして、この世界のヒロイン。

 ここはノルグヘイム王国の宮廷を舞台にした小説の世界なのだ。


 なんの因果か、わたくしはヒロインの邪魔をする悪役令嬢のヴェロニカ・オルストンに転生してしまった。公爵令嬢で王子の婚約者で高慢な性格で、男爵令嬢のヒロインを虐げるという役どころ。悪役令嬢ものは前世で好んで読んでいたジャンルだけれど、まさか自分がその当事者になるだなんて。


 小説では、この音楽祭でヴェロニカは自分が上だと見せつけるためにわざとナタリアとドレスの色を被せ、会場のど真ん中、招待客たちとオーケストラの面前で王子に叱責されていた。

 だからわたくしは入念にメイドたちにナタリアのドレスの色を調べさせ、万が一にも被らないようにして臨んだのに──なぜかナタリアが着ているのは、わたくしと同じ薄いラベンダー色のドレス。


 結局、王子は怒ってわたくしに着替えてくるように命じ、それに従うしかなかった。あの場では、王子のお気に入りの令嬢と同じ色のドレスを着てしまったわたくしの方が悪者なのだ。





「音楽祭では災難だったな」


 週明け、離宮での外国語の妃教育を終えたわたくしがメイドを連れて帰ろうとしたとき、馬車止めで偶然ミハイル・ベイユフェルトに会った。十七のわたくしよりも一回り以上年上の侯爵閣下だ。落ち着きを感じる整った面立ちには、どこかいたわるような笑みが浮かんでいる。


「気にしておりませんわ。いつものことですもの」

「おや、ヴェロニカ嬢はずいぶんと物分かりがいいんだな。普通は婚約者が自分を蔑ろにしてぽっと出の男爵令嬢にかまけていたら、怒るか悲嘆にくれるかするだろうに」

「だって仕方がないではありませんか。人の心は、秋空のように移ろいやすいものですから」

「詩的なことを言うね」

「ミハイル先生の薫陶のたまものですわ」


 小説では脇役だけれど、彼もわたくしに妃教育を授ける教師の一人だ。侯爵として政務をこなしながらロイヤルアカデミーで詩を研究し教鞭も取るミハイル先生は、二年前から王妃に必須の教養として、わたくしに詩の個人授業をしてくれている。それだけでなく、顔を合わせるたびに、こうして気遣ってくれる。彼の言葉は、王子たちに踏みにじられたわたくしの心をいつもやさしく温めてくれる。


 週に一度の詩の授業は、味気のない毎日を送るわたくしの何よりの楽しみだった。前世の記憶を取り戻したのも、先生の授業の最中だった。小説の中に繰り返し出てきた印象的な詩のフレーズを、先生が朗読したことが引き金となったのだ。

 彼は薄茶色の瞳を細め、わたくしに笑いかけた。肩の辺りで束ねた長いブロンドが日の光を弾いてきらめく。


「詩は人生に寄り添ってくれるものだから……少しでもきみの力になれればいいと思っているよ」


 いたわるような声とまなざし。

 その顔を見るときゅうっと胸が締めつけられた。冷酷なヴァシリー王子には一度も感じたことのない気持ちに苦しくなる。こんなとき、詩ではどう表現するのかしら?

 わたくしは思わずこんな質問を口にしていた。


「ミハイル先生の人生の伴侶は、詩ということでしょうか?」

「え? ……ははっ、いや、そういうわけではないよ。ただ今まで縁がなかっただけで」

「理想が高いのですね」

「まさか。普通だよ」

「では、どんな女性がお好みなのですか?」

「……俺は、年上の女性が好みかな」


 先生は、少しだけ困ったようにほほえんだ。

 牽制されたのだろうか? 先生は三十一歳、わたくしは十七歳だ。

 そのうちに侯爵家の馬車が来て、先生は長身の体を窮屈そうに曲げてそれに乗りこみ、帰っていった。

 わたくしは馬車が見えなくなるまで手を振った。


 ……ふと、視線を感じてうしろを振りかえる。

 けれど馬車止めに他の人影はない。

 宮殿の方だろうか。窓が多すぎて、誰かがこちらを見ていてもわからない。

 そのうちに公爵家の馬車が来て、わたくしは屋敷へ帰った。 





 前世で読んだ小説では、ヴァシリー王子の十八歳の誕生パーティーでわたくしは婚約破棄を言い渡される。同時に、ナタリアをひどく虐げていたことを証拠とともに突きつけられ、断罪されて一生貴族牢に幽閉されることになる。


 その知識のあるわたくしが同じ轍を踏むはずもない。

 両親の公爵夫妻は気が弱く王子におもねるばかりで守ってはくれない。だが、どんなに王子とナタリアにないがしろにされ、馬鹿にされ、嘲笑されても、わたくしは従順な態度を貫いて二人の邪魔にならないよう過ごしてきた。

 公爵令嬢のわたくしが虚仮にされていることを憤慨する貴族は多かった。けれども、誰も表立って王子を諫める者はいない。王子は国王陛下が溺愛する側妃の子であり、この国の唯一の王子だ。陛下はこの頃ご病気がちで臥せっておられ、王子の傍若無人なふるまいを止められる者は誰もいない。ヴァシリーに苦言を呈して嫌われ、宮廷の地位を剥奪されたり、地方へ左遷されたまっとうな貴族は枚挙にいとまがない。





「ヴェロニカ嬢、先週課題として挙げた詩は読んできたかな?」

「もちろんですわ、ミハイル先生。とても素敵な詩だと思いました」

「そうか、よかった……俺も大好きな詩なんだ。では、朗読して」

「はい」


 ある日の午後、離宮の一室。秋の白い日差しが窓から差しこむと、彼の長い睫毛が涼し気な目の下に影を作る。わたくしは本に視線を落とし、詩を読み上げる。

 先生の教える詩はどれも美しく心を揺さぶり、ナタリアの噛ませ犬でしかないこの無意味な人生に寄り添ってくれている。先生の存在があるから、わたくしはどれだけ理不尽な仕打ちをされても耐えられる。

 ちらりと目線を上げたら、一瞬だけ視線が合い、それから慎ましくそらされた。わたくしを見つめていた先生の瞳に、ある種の熱がこもっていたように見えたのは、気のせいだろうか?


 わたくしの忍耐が実を結び、ヴァシリー王子の誕生パーティーで婚約破棄をされるだけで済んだなら──そのときには、ミハイル先生にこの気持ちを打ち明けても許されるだろうか。





 二週間後に王子の誕生パーティーが開かれるという日。

 わたくしは珍しくヴァシリー王子に呼び出されて登城した。

 一体なんの用だろう? 小説にはこの日にヴェロニカが王子と会っていたなどという描写はなかった。

 もちろん本文に書かれていないだけで、実は会っていたということも考えられる。音楽祭のときも、そういえばナタリアと被ったというドレスの色は描写されていなかった。ただ、色が被ったという事実だけで。

 考えてみれば、この世界のシナリオは小説と寸分違わずに進行している。


 ……待って。それはつまり、わたくしは二週間後に間違いなく断罪されるということ?


「よく来たな、ヴェロニカ」


 混乱したまま王子の私室へ通され、挨拶をしている途中、背後で扉が閉められた。

 護衛もメイドもおらず、二人きりになる。

 不安そうにうしろを見るわたくしに、彼は楽しそうに言った。


「なあ、おまえも転生者なんだろう?」


 その言葉に背筋が凍りつく。


 ドレスの一件で、もしかしたらナタリアがそうかもしれないと思っていた。この世界にはわたくしの他にも転生者がいて、わたくしが従順にふるまい破滅をやり過ごそうとしているのを見て、嘲笑っているのではないかと。


 それはヴァシリー王子だったのか。


「俺もそうなんだ。これ、小説の世界なんだろう? 姉貴の持ってた小説を暇つぶしに流し読みしただけなんだけどさ、まさかその世界に転生するとは思わなかった」

「……なんのお話なのか、わたくしには……」

「しらばっくれるなよ。おまえの妙なふるまいは、そうとしか考えられないんだから」


 ヴァシリーが醒めた目で告げる。


「王子ってさ、案外退屈なんだよ。身の回りのことはみんな他のやつがやるし、たいした娯楽もないし、だからって勉強とかする気にもなんないし」

「………………」

「だから、おまえをそばに置いてやることにした」

「え……?」

「おまえはしっかり妃教育を受けていて優秀らしいからな。そばにいて俺をサポートしろ。まあ、おおっぴらにしたらナタリアが拗ねるから表向きは断罪することになるけど、あとで貴族牢から助け出してやる。おまえ、見た目だけはまあまあだし……ははっ、いわゆる日陰の身ってやつ? でもさぁ、貴族牢よりはましだろ?」


 全身の血が引いていく。

 ヴァシリーはわたくしを一生飼い殺しにするつもりなのだ。

 だが、それだけでは済まなかった。


「ああ、あと、あのミハイルとかいう侯爵、辺境送りにしといた」


 わたくしは目をいっぱいに見開き、かすれた声で尋ねた。


「……………………どういう…………ことでしょうか……………………?」


 心臓は激しく打ち鳴らされているのに、まるで時間が止まったように感じる。

 蒼白になっているだろうわたくしの顔を見て、王子が楽しくて仕方がないという風に笑う。ヴァシリーは綺麗な顔のはずなのに、その笑みはとても醜く感じる。


「だから、辺境送り。魔物のうようよいる地方に。あてがってやった居城も、きっと魔物の巣だろうな。今ごろはもう食われてるかも」

「…………なぜ…………」

「おまえのせいだよ。王子様の婚約者なのに、他の男に目移りしてちゃ駄目だろ?」


 ──ああ。

 わたくしの注意が足りなかったせいで、先生は。


 足元に底なしの真っ暗な穴がぽかりと開き、その深淵へ落ちていくような気分だった。





 二週間が経つと、ヴァシリー王子の誕生パーティーでわたくしは身に覚えのないナタリアへの傷害によって断罪され、そのまま貴族牢へ放り込まれた。


 夜が来て、日が昇り、また夜が来る。

 手の届かない場所にある小さな明り取りの窓だけがそれを伝える。食事は日に二度、水と、饐えた臭いのパンだけ。それすら食欲がなくほとんど残してしまう。


 鉄格子に背を向け、固いベッドの上で、じっと膝を抱える。

 貴族牢の中は狭くて暗くて寒い。

 けれど、ここから出されたら今度はあの王子のそばで、一生王子に仕えて生きねばならないのだ。そんなことになるくらいなら、ずっとここに閉じこめられていた方がいい。


 それに、わたくしはもう先生に会えない。

 そんな人生にはなんの意味もない。


 わたくしが不甲斐ないせいだ。わたくしがもっとうまく立ち回れていれば。わたくしが先生を好きにならなければ──


 コツ、コツ、と足音が聞こえて、体が竦んだ。

 背後から聞こえる足音が、わたくしの牢の前でぴたりと止まる。

 いよいよ王子のそばへ連れていかれるのだろうか?

 嫌だ、嫌だ、嫌だ────


 じゃらり、と牢番の鍵束が重そうな金属音を立てた。


「……ミハイル先生…………」


 膝に顔を埋めたまま、自らの愚かさのせいで失った最愛の人の名を、口の中で小さく呟いた。





 *****





「ねえヴァシリー、あたしたちの戴冠式はいつ?」

「もうすぐだよ、ナタリア。王国の歴史でも一番豪華で派手な戴冠式にしよう」

「うふふ、楽しみねぇ。邪魔者もいなくなったことだし」

「ああ、そうだな……」


 ヴェロニカが婚約破棄されると、ナタリアが正式にヴァシリー王子の婚約者となった。

 だが、国王陛下がとうとう崩御されたというのに、ナタリアは一向に妃教育に取り組む様子がない。ヴァシリーもそんな婚約者に注意するどころか、毎晩のように放蕩者の青年貴族を集めては、いかがわしい遊びを繰り返している。


 元々、ヴァシリーの国王としての資質を疑問視する声は多かった。優秀な公爵令嬢のヴェロニカが王妃として支えることでどうにかバランスを取れるかもしれない。そんなギリギリのところで、どうにか諸侯たちから目こぼしをされていた王子だった。


 それなのに、王子は自らヴェロニカを切り捨てた。

 あたかも、自分で自分の命綱を切るかのように。


 転生者と言っていたが、前世でも人生経験は少なかったのだろう。まだ高校生くらいの幼い印象を受けた。

 少しかわいそうな気もするが、もう手加減はしない。


 わたくしの最愛の人を害そうとしたのだから。


 衛兵たちが扉を開け、ヴァシリー王子の私室へドカドカと乗りこんだ。

 その中心に、一人の女性が毅然と立っている。

 ソファで戯れていたヴァシリーとナタリアはぎょっと目を見開いた。


 この国に、「王子」はヴァシリーたった一人だけ。

 だが、本当は「王女」もいるのだ──ヴァシリーよりも二つ年上で、控えめだが聡明で、誰よりもこの国のことを思っているお方が。


 今は亡き正妃の忘れ形見、アナスタシア王女。


 数年前に派閥が宮廷の勢力争いに負けて以来、逃げるようにして片田舎へ行き、そこで息をひそめて生きていたアナスタシア王女が、異母弟とその恋人にはっきりと告げた。


「ヴァシリー・ノルグヘイム王子およびナタリア・モンドリアン男爵令嬢、国を乱したあなたがた二名を、無期限の辺境送りとします」

「なっ……あ、姉上?」

「ちょ、ちょっと、どういうことよ!?」

「衛兵、二人を捕えなさい」

「はっ」


 片田舎の屋敷で半分軟禁状態だったはずの王女が突然やってきて、ナタリアもろともヴァシリーを「辺境送りにする」などと言うのだ。驚かない方がおかしいだろう。


 しかも王女のうしろに、貴族牢から行方をくらませていたはずのヴェロニカ(わたくし)と。

 自分がとっくに「辺境」へ送ったはずの侯爵、ミハイル・ベイユフェルトが立っているのだから。


 衛兵たちに拘束されながら、ヴァシリー王子は亡霊でも見るような表情でわたくしを見た。


「ヴェロニカ………………お、おまえが姉上を担ぎ上げたんだなっ!?」

「まあ、とんでもないことでございます。わたくしは少しお手伝いをしたまで。これは諸侯の皆々様の総意にございます」


 わたくしは淑女らしい優雅な笑みを浮かべた。

 あとにも先にも、ヴァシリーに向かって心からの笑顔を見せたのはこのときだけだ。

 逆に、アナスタシア王女は決然とした態度で異母弟に告げた。


「これまでに何度もわたくしを女王にという声が上がり、そのたびにわたくしは不要な争いは望まないと断ってきました。ですが、長年この国を支えてきた中道派の要であるベイユフェルト家を蔑ろにしたことは看過できません。愚かな王を戴冠させ民に辛苦をなめさせるよりは、女の身であれど、わたくしがこの国を導きます」


 アナスタシア王女からは、何年も田舎にこもっていたとは思えないほどの女王の威厳が感じられた。

 きっと、田舎の屋敷に閉じこめられてはいても、たゆまず爪を研ぎ続けていたのだろう。王冠を固辞しながらも、いつでも表舞台に返り咲けるように。今日のような日がいつ訪れてもいいように。

 そして、それを待ち望んでいたのはわたくしだけではなかった。


 見たこともないほど厳しい表情をしたミハイル先生が、前へ進み出る。


「ヴァシリー王子……残念です。私はこれまでに何度も殿下に申し上げました。自堕落な生活を改め、次期国王として相応しい人物になっていただきたいと。ナタリア嬢も、結局、一度も妃教育を受けなかったようですね」

「う、うるさい! このような非常事態に説教など……早くこの無礼者どもに、俺から手を離せと命じろ!」

「それはできかねます。私はもう、アナスタシア王女の臣下ですので」

「なっ…………」

「王子派も全員があなたを見限った。あなたを担ぎ上げようとする者は、もはやこの宮廷にはおりません」

「……そんな……うそだ……嘘だろ……………………なあ、この女がいけないのか? こいつの身分が低いから? なら今すぐ別れるから! 頼むよ、なあ!!」

「な、何を言ってるのよ、ヴァシリー! あたしを愛してるって言ったくせに……最低な男ね!」


 王子と男爵令嬢は聞くに堪えない言葉で互いを罵りあいながら、衛兵に連行されていった。


 わたくしは、ほぅ、と息を吐いた。

 ──これで、きっともう大丈夫。


 前世で読んだ小説には、ヴァシリーの誕生パーティーでわたくしが断罪され、王子とナタリアが結ばれるところまでしか描かれていなかった。その先の未来はまっさらだ。

 自由がこんなに気持ちのいいものだとは知らなかった。


 アナスタシア王女がわたくしに向き直った。


「改めて感謝いたします、ヴェロニカ嬢。あなたが真心をこめ、詩を交えて書いてくれた美しい手紙が、わたくしに立ち上がる勇気を与えてくれました」


 ヴァシリー王子がミハイル先生を辺境へ送ったと知ってから、わたくしはありとあらゆる手立てを使い、先生を救うために駆けずり回った。

 親交のあるなしに関わらず、有力貴族へ向けて片っ端から手紙を送った。


《王子はミハイル・ベイユフェルト侯爵を辺境へ送られた。中道派の中心人物である侯爵閣下を遠ざけるということは過激派の手を取るということ。つまり周辺諸国との戦争も辞さないということ。わが国を無益な戦禍から守るためには、争いを好まない聡明な女王を戴く必要がある》……と。


 当のアナスタシア王女にも早馬を使い、長い手紙を届けた。きっと聡明で思慮深い王女の心に届くと思ったから、先生に教わった詩も引用した。

 王女派の諸侯たちもこれを好機と捉え、王女の説得に動いた。わたくしがそれまで王子に従順な態度を取っていたこともプラスに働いたのだろう。諸侯たちから御しやすい駒だと思われ、無駄な警戒心を与えずに済んだ。

 二週間は王女を担ぎ上げるにはぎりぎりの時間だったが、どうにか準備は整った。


 だが肝心のミハイル先生の救出は遅れに遅れ、わたくしはさんざん肝を冷やした。わたくしが貴族牢へ入れられたときもまだ彼の消息は不明のままだったから、いっときはもう駄目かもしれない、と絶望した。

 けれど、先生を慕う中道派の有力貴族の一人が密かに精鋭の傭兵部隊を雇って辺境へ向かい、執念深く行方を調べた。王子にあてがわれた廃城は魔物の巣窟となっていて、とても人が近づける状況ではなく、そこから先生の足取りは途絶えていた。

 だがミハイル先生は無事だった。昔、ロイヤルアカデミーで彼の授業を受けていたという教え子の地方貴族が、先生の王都追放の噂を聞きつけ、ひそかに館に匿っていたのだ。

 わたくしを貴族牢から救い出したのは、王都へ帰還したその足で駆けつけてくれた、ミハイル先生だった。


 そして今日、王女は王子を追放し、「女王」としての第一歩を踏み出した。


「拙い手紙をお褒めにあずかり、光栄の至りでございます」


 わたくしが恭しくお辞儀をすると、アナスタシア王女はほほえんだ。それからわたくしの隣のミハイル先生を見上げた。


「ミハイル先生もありがとう。あなたがこちらの陣営の先頭に立ち、諸侯を取りまとめてくださらなければ、女王になろうなどという大それたことは考えられなかったでしょう。これからもわたくしを支えてください」

「喜んで、未来の女王陛下」


 先生は深く礼をした。

 アナスタシア王女も昔、ミハイル先生から詩の個人授業を受けており、先生を深く信頼していた。彼女は私の先輩というわけだ。

 王女は護衛を連れてその場を去った。


 先生がわたくしを振りかえった。


「これで全部片付いたな」

「はい」

「心から感謝する、ヴェロニカ嬢。きみがいなければ、俺はこの国の崩壊を辺境で手をこまねいて見ているだけだったかもしれない」

「いいえ。わたくしの軽率な行動のせいで、先生を危険にさらしてしまいました……本当に申し訳ございませんでした」

「それは違う! 俺がきみのことを見ていたから……」

「え?」


 彼は膝をつき、わたくしの手を握った。

 先生の薄茶色の真剣な瞳に、心臓を射抜かれそうになる。


「せ、先生?」

「……俺はきみよりもずっと年上で、若く聡明で美しいきみにはふさわしくないかもしれない。だが遠く離れた辺境の地へ飛ばされ、もしまた会えたら、必ずこの気持ちを伝えようと決心したんだ。愛している、ヴェロニカ嬢。どうか俺に、きみを幸せにする栄誉を与えてくれないだろうか」


 彼の頬や耳は薄紅色に染まっていて、わたくしまで、全身同じ色に染まってしまいそう。

 めまいがするほどの多幸感に包まれながら、返事をした。


「……はい、喜んで」

「! 本当に!?」

「本当です。わたくしも愛しています、ミハイル先生」


 先生はパッと顔を輝かせ、立ち上がってわたしを力いっぱい抱きしめた。


「ありがとう、ヴェロニカ。一生きみを大事にすると誓うよ」


 すぐそばにある彼の顔には、心からの喜びにあふれた笑みが浮かんでいる。


 ──ああ、やっぱりこの人は、かわいい。





 前世の記憶を取り戻したときからずっと、ミハイル先生はわたくしの中で「かわいい()()男子」だった。


 前世でわたくしが死んだのは三十三歳。

 今の先生よりも二つ年上で、公務員としてバリバリ働いていた。

 わたくしの見た目は十七歳だけれど、中身は立派な大人だ。


 同じく十七歳のはずのヴァシリー王子は、あまりにも幼すぎた。「公爵令嬢」であり「未来の王子妃」となるはずのわたくしの立場は思いのほか強く、「アナスタシア王女」を担ぎ上げるという切り札もずっと手にしていたものの、そうなれば王子の将来は完全に閉ざされることになる。わざわざそこまでする必要はないと思い、わたくしはどれだけ虐げられても逆らわず、従順にふるまっていた。

 だが、王子がわたくしの大事な人を虐げるのなら、手加減をする理由はない。





 ミハイル先生と並んで歩きながら宮殿を出る。幸福そうな笑みを浮かべたまま、先生が何度もわたくしに視線を送る。わたくしもほほえみながら、彼を見上げて尋ねた。


「わたくしの顔に何かついていますか?」

「いや、すまない、その……きみは本当にかわいいなと思って」

「……まあ、ミハイル先生ったら」


 わたくしは頬を染めた。

 先生こそ、本当にかわいい。


 馬車止めで『……俺は、年上の女性が好みかな』と言ったあの言葉は、わたくしを遠ざけるためのただの方便だったかもしれないけれど、もしかしたら本当に年上の女性が好みなのかもしれない。そうだったらうれしい。


 でも、どちらにしたって、もう一生離さないけれど。





 それからわたくしとミハイル先生は結婚した。

 聡明な女王陛下の治政のもと、侯爵夫妻として毎日忙しく過ごし、ときには一緒に詩を読み、心ゆくまで愛し合って、わたくしたちは幸せに暮らしたのだった。




お読みいただきありがとうございました。

従順そうで結構強いヒロインは書いてて楽しかったです。

面白かったよ、という方は☆☆☆☆☆評価やブクマしてくださると励みになります♪

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