序章 引き続き連続する、終わりの始まり
超巨大要塞AtSpakam
「ブーン、ブーン」
空を見上げると、不快極まりない、瘴気、そして中央部空洞部に植物状のリゾームが、金属状の触手を無数に絡み合わせ、そこにスパークする高圧電流が常に無数に動いているのが見える。これは空中に浮遊し宇宙空間に突出している超巨大要塞AtSpakam。
生体とAI、機械の融合体。自発生成分化し生体・自己生成的に増殖を果てしなく繰り返して、宇宙空間へと突き出ている疑似的生命体。しかしそこには生命はひとかけらも存在しない。あるのは自発生成を繰り返す、魂のないニューロン量子コンピューターの無限の増殖。金属のような、生き物のよう無数の根茎が内部を張っていて、自己増殖する植物のような、しかし魂なき構造体、器官なき身体。暗黒の中で時折スパークする黄金色の輝きは美しい部分もあった。しかし底知れぬ邪悪な物体という側面も濃厚に持ち合わせ、人々は空を見上げて、時折寒気と恐怖から、震えあがっていた。
このような奇怪な疑似宇宙生命体は一体何のためにあるのか、無数に折り重なるプレハブ貧民窟に住む絶滅寸前の人類の都市部の住民には想像もつかなかった。暴走する気象劣化と大気の消滅を食い止めるために機能しているのか、あるいは逆に破壊を加速しているのか。
今日では日本国は国家として消滅し、通貨も法律も警察も何も存在していない。
グローバルハイパー金融資本ハッカーたちが巨大企業を乗っ取り、 殺戮疑似生命体としてAtSpakamを使った搾取と支配をしているかもしれないという情報も入っては来ていたが、地上にはまだ無限の搾取には差異が存在し、地下組織によるネットワークが無数に存在している。
野菜、農作物は空調と水質を完全に人口管理した疑似自然でしか育たなくなっていたが、多数の自助組織が生き残りをかけて命の息をまもろうとしていた。この世界では、すべてが同時に壊滅するのではない。米国ではAtSpakamによる人身売買と殺戮、器官搾取が常態化しおぞましく恐ろしい地獄が展開していたが、周辺部にはまだ自然の循環がかろうじてのこっていた。
降りやまない雨
土砂がパラパラと裏山の斜面から降り始め、山頂近くにはあるものの、裏山がそびえる急傾斜地に建つ家の屋根に落ち始め、山の崩落の危険が迫っていた。
森中瑞、長身で細長い手足をもち、どこか幽霊めいたところのある、不思議な、優しく、落ち着いた男、目はどこかぼんやりとした印象があるが、優しい面影をしている。
「さてと、そろそろ避難するか……」瑞はそうつぶやき、土砂降りの雨の中、家の外部につながるトンネルに入り150段ある階段を落ち着いてゆっくりと、またどこかひょろひょろと、注意深く降り始めた。
8月のある日、細かい雨がけぶるよう降っていた。山頂付近に住む森中の家は、曇天となると眼下が雲海になってしまうか、雲で覆われるかしてしまうのだが、その日は細かい水滴の粒に周囲は覆われて何も見えなくなっていた。
そんな中、鬱蒼と生い茂った樹木にぽっかりと空いた洞窟のような空間の向こう側に下部へと続く洞窟のトンネル――自分で作ったものだったが――周囲はカビとコケが生い茂り、ものすごい湿気に囲まれていた。カンテラを灯し、ゆっくりと下りていく。そもそもこの階段も、がけ崩れで一度土砂に埋もれてしまったのを掘り起こし、周囲は壁ができてしまったので、上部からフタをして地下通路として再生したものだ。
崩れ始めているとはいえ、山というのはそう一度にすべて崩れてしまうわけではない。常態化した異常気象の経験から、彼はそう学んでいたし、落ち着いて動作することができるようになっていた。「崩れやすいところは、崩れる土砂を逃がす構造にしていれば、実際の被害は最小限で済む。」そういう意図で、階段は土砂を逃がすようなフタをしていた。
トンネルの階段を抜ける直前の森中が入念に外部から接触できないように隠した倉庫のコンテナケースの中には、サバイバル用具一式が確保してあった。
最低限のサバイバル用具:コッヘル、スキレット、寝袋、空気式のクッション、折りたたみ椅子、机、ガスコンロ。いずれもコンパクトに収まるように設計されているもので、1m×50cm×50センチのコンテナにすべて収まってしまう。
もう一つのコンテナには水、缶詰、米、インスタント食品があった。なにか起きたときにはこのコンテナの中のものをすべて車に移すだけで、どこでも移動先で生活できるように設置していたものだ。
これら、最後の生命線となる道具と資材を念入りに各自準備すること――これらは、今や職業の確保より重要なものとなっていた。とはいえ、限定的な期間しか、これらは役に立たないことは言うまでもないことであるが。備蓄があるうちに、次の備蓄をいかに確保するかが生きる鍵だ。
職業や通貨はこの時代、すでにかなり形骸化した概念だった。物価が高すぎるから通貨が機能せず、生きていく糧がお金で買えるわけではない。最後は自分で調達するより他、基本的には方法がなくなっていた。貨幣はまったく機能していないわけではないけど、すでに大多数の人間――貧困層――には意味のないものになっていたのだ。
鉄の扉を開け、階段の下に隠されたコンテナから数日分の水と食料、それから野営道具を取り出し、ガソリン時代の125CCのバイク「ハンターカブ」の荷台に積みこんだ。
ガソリンの備蓄はガソリン車の燃料がある。その時点で、まだ残り30リットルもあった。カブの燃費は素晴らしく、リッター70キロは走ったので、燃料がなくなるまで2100キロも走れる計算だ。
アクセルをひねり、森中は土砂崩れの危険のある砦をあとにし、1キロばかり先にある避難所に避難した。ここは開けた土地に建つ古い集会所で、以前はレストランだったところだが、トイレとキッチンを備えた小さな建物で、他に避難している家族はいなかった。
建物の中に簡易式の8の字に折りたたむテントを展開する。これは一瞬で設営できる非常に重宝する代物である。風雨はしのげないが、こういう場で必要最小限の寝るための空間を確保できるのだ。そこに空気で膨らますマットレスを敷いて耳栓とアイマスクをすれば、どんな場所でもとりあえず静かに眠れる。
インスタントラーメンをコッヘルに入れ、水だけを入れて1時間。こうすると冷たいがとりあえずふやけて食べられる麺が簡単にできた。それをゆっくりと味わって食べる。なかなかにうまいものだ。
タブレット端末を取り出し、依頼があるかどうかをチェックする。インターネットは未だ完璧に機能していて、だからこそ縦横無尽なネットワークが可能なのだ。タブレット端末の電力の確保のためには太陽光パネルが一つあれば十分であったし、蓄電した携帯用充電器をいつも複数持ち歩いていた。情報がなければ何のきっかけも得られないし、そうすると必要な物資も得られない。21世紀初頭にスペインで始まった時間銀行のネットワークがかなり広まっていた。
これは、ある決まった時間内にサービスを提供し、誰かにサービスを提供するとその人から労働時間分の仮想通貨が口座に振り込まれる、地域コミュニティーがそれぞれ独自に管理運営しているシェア制度である。この口座の仮想通貨は、誰かからサービスなり品物なりを得るときに支払うことになっていて、通貨の代わりになっているものだ。誰もが自分の得意なこと、好きな事を提供する見返りが、インターネット上の時間銀行を通じて簡単に得られるようになっていた。
そこから得られるサービスはまだまだ発展途上の段階で、なんでも得られるわけではなかったが、生存に必要な物資がまず、そういう形でシェアされていた。
「そう、今やこの世界では、多くの事柄が以前とは大きく変わった。」森中は思いめぐらしていた。
21世紀初頭以降の気候変動は、大きな異変の始まりであり、その後は惑星規模で大変動の時代に入っていた。雨が一カ月降り続くことも珍しくなくなり、土砂崩れや洪水は日常茶飯事となった。夏が異常に長くなり、生命維持装置――エアコン――なしには生きていけない時代になっていた。
疫病が蔓延し縮小と拡大、そして変異を繰り返し、収束するもまた数年後に新たに別のウイルスが登場し、都会での経済の仕組みは世界の多くの地域で壊滅的な破綻をきたした。
しかし、当初の疫病騒ぎは、猛威をふるったものの、気が付いたらいつの間にか消滅していた。
その間、都市部では人口の激減のため、廃墟がそのまま放置されるということが多かった。そして少ない人間が隠れるようにこっそりと無数の廃墟に点々と暮らしていた。土地所有という概念は形骸化し、もとは私有地出会った土地に放浪者が無断で居住したり、あちこちを徘徊するようになった。
新自由主義にともなうグローバル企業自体が、肥大化し合併、吸収を繰り返し、宿主、すなわち大多数の貧困大衆から吸い尽くしたあと、グローバル企業自体もその宿主である貧困大衆の疲弊と貧困化から、縮小と衰退を余儀なくされ、ごく少数の大金持ちも目につくところから消えた。彼らは搾取する対象をなくしたために自らも縮小したのである。
それは予想外の良い側面であった。グローバル企業にとって全く意味のない活動をすることによって、グローバル企業から解放されたのであるから。一般の人々には甚大な被害も出たが、グローバル企業を滅ぼしたのは疫病だったのである。
大規模な企業活動のほとんどが、都市からなくなった。人と人が触れ合う業種は廃業が相次ぎ、飲食業をはじめ、サービス業は一部の超裕福層相手の超高級店を除き、ほぼ消滅した。
とはいえ日本中すべてが重苦しい空気に支配されていたわけではない。経済活動が空洞化し、人口が大幅に減少してしまうと、田舎では貧しいながらもゆったりとした昔ながらの日常を次第に取り戻した。壊れていった部分は都市生活の文明活動であり、森中は、「田舎の空気は以前より澄んできたし、自然の恵みは、少し減ったにしてもまだある」と思っていた。
森中はそんな田舎、それも、人間が減り、鹿や猪など野生動物の天国なった、山地での生活をこよなく愛していた。気が向くと山を下りて釣りに行き、その日をおかずを手に入れた。稀とはいえ、猟に出かければ獣肉も食べられた。
今、目の前にあるものを大切に、愛おしむ才能に彼は恵まれていた。
生きていくためには情報が欠かせなかったし、社会は崩壊し孤立し一度は分断されたが、複数のコミュニティーが自然と多数立ち上がり、インターネットを通してつながる仲間には事欠かなかったし、必要とされている時にはそこに尽力し、自分が助けを必要とする時は恩恵も得られるようになっていた。
森中は標高高い山地、山頂近くの斜面にそびえる突き出た砦のような住宅に住んでいた。外部からの敵を常に見張り、場合によっては投石ができるような砦として石垣で補強し、上部は頑丈似できる限り、レンガや石材で補強していた。
ときおり不法侵入者、鹿や猪や人間はやってきたが、上部から水をかけたりパチンコで無害なものを投げたりするなど、そのふりをするだけ、他愛のない脅しでそのほとんどが退散した。
母屋の横にはかまどがレンガで作ってある。正確にはロケットストーブというもので、内部はL字型にパイプが通っているだけのものである。焚き口に薪を入れ火をつけると上昇気流が煙突の下部から上部へと発生し、わずかの木材で強力な火力が得られる。
レンガをモルタルでくみ上げ、中にアルミ製の煙突の短いものを入れただけの代物だ。
その横にはドーム型のパン窯がある。裏の山林からの薪と枝だけで煮炊きができるようになっていた。
急峻な山地ではあるが、海まで斜面を下れば自動車でわずか15分のところに住む森中は、魚が食べたければ釣りに行けばよかった。この世界の終わり始める残骸の中で、しかし、彼は野生動物と共存する、落ち着いていられる住居と道具に恵まれていた。孤独の中の、大自然に囲まれた恵みのなかで生きていた。
都会の人々は終わりを語り尽くし、実際に終わってしまったと諦める人、希望を失い、絶望にふさぎ込む人は多お。むごい現実と理不尽な苦しみは確かに多数、日常的に存在した。
しかし実際は都会においても、平凡な日常と、人間的な営みも同時に共存した。終末はなかなか終わらない。終わってしまう時は、「終わってしまった」と思う時なのだ。そして、絶望の気分がすべての息の根を止める。精神の崩壊が一番の問題なのだ。
「絶望とは、実は根拠のない気分である。」誰かがそう言っていたが、本当に、実際には終わっていないものも多い。飲食の楽しみや、休息、小さな喜び、気晴らしもあり、どこにでも探していけば常に希望は存在する。
それには、あきらめないで生き延びる道を自ら探す気力さえあればよい。そして行動し、自分が求めるものを手に入れるように画策し、それを実行すること。
終わりを意識しなければ、実は終わりというものはないし、現実世界は希望しなくとも存続する。体が傷つき、苦しくて「息の根を止めてくれ」と願ったとしても、なかなか死なないものだ。それほどの切迫した希死願望や切迫した痛みは、都市部は多かったが、自然のあふれる産地では割合からすると少なく、多少困難があっても、常にやることが山積している自給自足の中では、絶望と苦難を感じる暇もあまりなく、心地よい労働と、眠り、常に希望と可能性がある。例えば裏山が崩れるという現実は、うまく崩れる土砂を逃がしてやれば、常態化していたとしてもやり過ごすことができるのだ。
例えば仮に水浸しになれば、船上で生活すればいい。火山が噴火したら、火山のないところに逃げればよい。森中はそういう思考パターンを持つことにしていた。これは精神的な、発想の転換の問題なのだ。要するに、サバイバルが日常化して、常態化すると人はそこに安住することもできるし、それ特有の意味、意義を見出すことができる。
世界は一見、残骸のようになってしまっているし、以前機能していたものが、今や別の目的のために流用される。これは、見方の問題なのだ。
例えばこう考えてほしい。建物としての機能性を喪失した廃墟は、ただ家屋としての意味をはぎ取られたあとも、以前何らかの環境、ものとしてそこに依然として存在する。そして、存在するところに美があり、美は、機能性とは本来関係がない。
機能性を失って、自然に崩壊するのを待っている光景というのは、多くは不思議な美しさがある。突き破られた屋根、雨漏りで快適差を失った部屋からは、雨上がりのふとした時、濡れた床に、光を放射状の筋としてゆらめいて映し出す。それらはまぎれもない美しさを醸し出す。そしてその美しさは新しい存在意義を開示していくものなのだ。
意味というものは、何はともあれ、どういう状態であっても、そこに備わるものである。
人が与えた機能性だけが意味ではない。思わぬところに思わぬ意味があり、それらは常に見つけ出されることを待っている。人と環境との関わり方次第で、意味は万華鏡のように自己を展開し始める。
廃材は、ただ美しいだけでなく、使い方によっては無限の可能性をもった資材だ。破壊されたこの世界の残骸は、失われゆくというだけで美しく、それを別の方法で再生することによって、また別の意義と目的を獲得する。




