シスターからの薬を
荒廃した土地の広がる寂れた町外れに、小さな監獄があった。警備する者も四六時中昼寝をしていたって何の問題も無い程誰も尋ねて来ない、そんな小さな監獄。
そんな監獄に二十年間服役している男がいた。男は二十年前、歳もまだ十七の少年だった頃に、とある名も無き町のまた名も無き一人の女を殺した。理由は単純。ただ金が欲しかったからだ。
町はどこも荒んでいた。治安がいい所なんてどこにもありゃしない。あるとすればそれは悪いか、より悪いかのどちらかだった。
当時少年だった男は五日間何も飲みも食いもしていなかった。そうして死んでいった者は町にごまんといて、自分もそうやって倒れていくのだろうと思っていた。しかしその時少年の目の前には教会から紙幣を一枚持って出てくる女の姿が映った。とっさの事だった。気づいたら少年はその紙幣で買えるだけの食べ物を手にし、むさぼり食っていた。
これは運が悪かったとでも言うのか、人殺しなんて日常茶飯事だったにも関わらず。目撃者がいて通報された場合、犯人は給料のため公務に働く警官に捕まってしまうことがあった。そして少年も、その内の一人だった。
「おいモノリー、次はお前が見回る番だぞ」
監守の一人が遠くの部屋で寝ている同僚にそう声をかけると、自分はさっさと部屋に帰っていった。モノリーと呼ばれた中年のおじさんは重い大きな腹を抱え、のっしのっしと囚人の収まった牢屋の前を面倒そうに歩いた。
「おい、おっさん。俺は今日で何年ここに居たことになる」
モノリーは一つの牢屋の前で聞こえた声に振り返ると、そこには床にうつ伏せに寝転がったあの男がいた。コンクリの四角く冷たい箱の中に一枚の布が敷かれ、男はそこにうつ伏せていた。モノリーは男を見下ろすと頭をぼりぼりと掻いて喉を低く鳴らした。
「ヒノ、お前その質問何度目だ。確か…明後日でちょうど二十年になるんだったかな」
ヒノと呼ばれたその男はうつ伏せた顔を苦しそうに上げた。
「そうか、やっと明後日。俺は出所出来るんだな…」
ヒノはそう言った途端苦しそうに咳き込み、敷かれた布を乱しながら冷たい床をゴロゴロと転げた。 モノリーはその様子を見ながら一つのんびりとしたあくびをして、さもどうでもいいような口ぶりで独り言をこぼした。
「しかしどうせお前は治ることのない病持ちだろう。一週間持つかどうか、まあ持ったとして外に出た途端死ぬ運命じゃないか」
そう言い残して去っていく監守の足音だけが、この小さく寂れた監獄に響き渡った。
人っ子一人歩く姿のない荒廃した土地、見えるのは月に一度物資の補給をしにくるトラックのみ。積荷は食料に水、着替えに本などといつもと変わらない内容のものばかり。
「じゃあこれで全部かい、サインしておくよ」
監守がそう言ってサインを書こうとすると、トラックを運転してきたおじいさんがちょっと待ったとトラックの助手席を開けて、そこから人を一人降ろした。
「この子もここに用だとさ」
そこにいたのは黒い布を頭から足先まで被り、胸には銀の十字架を下げたシスターが立っていた。
「こんにちは監守さん、ここに服役中のヒノという男性に用があって来ました。町外れのシスターです」
そのなんと笑顔の眩しいことか。
「ヒノ起きろ。お前さんに用があるっていう珍しいシスターがやって来たぜ」
監守のその声にヒノは立て膝をした状態で覇気の無い顔をゆっくりと上げた。そこにはシスターが立っていてニコニコと微笑んでいた。シスターは監守に振り返ると、二人きりで話したいのですがと微笑んだ。監守も気にする様子も無く、好きなだけいればいいと言ってさっき届いたばかりのビールを持って自分の部屋へと入っていった。
シスターは監守を見送るとヒノと目線を合わすようにその場にしゃがみこんだ。ヒノはニコニコと微笑むシスターを見て乾いた笑い声を上げた。
「シスターが尋ねて来るって事はあれか、俺の過去を赦しに来てくれたってことか」
シスターはニコニコと微笑んだまま、そっと懐に手を入れた。ヒノもその様子を目を送って見つめた。
と、次の瞬間。ヒノは目を見張った。今ヒノの額にはリボルバーの銃がピッタリと押し当てられていた。その銃はシスターの腕から綺麗な直線を引いた先に構えられ、銃をたどった先のシスターの顔はもう笑ってはいなかった。ヒノは鉄格子を越えて伸ばされたその銃に身動きが取れないまま、視線だけをシスターに持っていった。
「どうしてシスターの私がこんな事をするか。でしょ」
ヒノはゆっくりと唾を飲み、苦々しく口角を上げた。
「そうか、お前は二十年前に殺した女の…」
「そう、娘よ」
シスターの声は低く、まるでプロの殺し屋のような殺気を漂わしていた。ヒノは何かを言おうとして口を開けると、同時に苦しくなってその場で何度も咳き込んだ。動くべきでは無いと分かってはいながらも、これだけはどうしても我慢も出来なかった。その様子をシスターは蔑むように見下ろしながら呆れたようにだらんと構えた銃を鉄格子から引っ込めた。
「あなた、病持ちなんですってね。噂で聞いてはいたけど、本当だったの」
シスターはそう言うと銃を懐に戻し、その場に正座をしてヒノと向き合った。ヒノは苦しそうに胸を押さえながら息を荒くして、鉄格子越しに澄ました顔をしたシスターを見上げた。
「どうした、殺さないのか」
苦しい中にも余裕を見せてやろうとヒノは軽く笑ってそう言うと、簡単に殺したんじゃあつまらないでしょ。とシスターに軽く受け流された。
「あなた、明後日に出所なんですってね。そんな体でも出所って嬉しいのかしら」
「ああ、嬉しいね。俺にはここを出てやることがあるんだよ」
「その前にあなた死ぬわよ」
あっさりそう返したシスターにヒノは小さく声を出して笑った。
「仮にもシスターともあろう女が、復讐のために人を殺しにくるとはな」
「シスターってのは赦すだけが全てじゃないのよ。時には厳しくいかなきゃ」
それを聞いてヒノはさらに笑い、そしてまた咳き込んだ。それに対してシスターはまた冷たい声で、本当に死ぬのねと言った。ヒノは絶対に死なないね、とまた苦しそうにしながらも笑顔を作って返した。
「とにかく、あなたには早急にでも死んで欲しいと思ってるの」
シスターはそう言うと懐に手をやり、今度は銃では無く少しばかりの液体が入った小瓶を鉄格子の前に置いた。ヒノが何だと尋ねる前にシスターが重い口調で話し出した。
「これは致死毒よ。飲んだ瞬間にあっという間にこの世とおさらば出来る私の作ったすごい毒」
ヒノはそれを見下ろしながら、これを俺に飲めって言いたいのか。と尋ねた。
「ええ、そうよ。私は優しいと思うわ。治ることの無い病で苦しみながらゆっくりと死んでいくか。この毒を飲んで一瞬であの世にいくか選ばせてあげてるんだもの」
シスターはそれだけ言うと、その場をゆっくりと立ち上がり。明後日が楽しみね、と一言残してその場から消えていった。
「もしかしたらそれ、治療薬かもよ。飲んでみれば」
ヒノの牢屋の前でそう言ったのはあの太鼓腹の監守、モノリーだった。さっきまでの話を部屋で聞いていたようで、鉄格子の前に置かれたそれをまじまじと見つめながら、どうであれシスターなわけだから、人殺しの毒を置いて行くとは思えないけどね。とだけ言ってまた部屋へと戻っていった。
ヒノは鉄格子越しにその小瓶を睨んでいた。
治療薬かもしれない?そんな事言って本当に毒だったらどうする。俺は一瞬であの世行きじゃあないか。
そこでヒノはまた咳き込んだ。いよいよやばいのか、その咳には血が混ざっていた。ヒノは冷や汗をかきながらその場に倒れこんだ。目の前が霞んでいく。
意識が遠のく中、ヒノの脳裏にずいぶんと昔の光景がよぎった。それはヒノが捕まってまだ日の浅い頃のことだった。
まだ少年だったヒノはとにかく牢屋の中で暴れた。なんとかして脱獄してやろうとあの手この手を考えもしたが、所詮知識も技術もない無知な小僧のヒノには何も思いつかなかった。その内ヒノは見る見る痩せこけていった。脱獄しようと何度も問題を起こしていたヒノに、当時の監守は食事を与えようとはしなかった。このまま死ぬのならそれもいいかとも思った。結局死ぬのが少し遅れただけだったのだと、ヒノは冷たい床の上で静かに眠ろうとしていた。
その時、ヒノの目の前に置かれたのはほんのわずかではあったが、飢えを凌げる程の食べものだった。そしてその食べものを前にニコニコと笑っていたのは、ヒノよりもずいぶんと歳の低い男の子だった。男の子は食べ物をさらにヒノに寄せると、ぼくの代わりに食べてよ、と言ってまたニコニコと微笑んだ。一体誰なのか、何故自分に食べ物をくれるのか。そんな事はどうでもよかった。ただ目の前にある食べ物を体が欲しがった。ヒノは体が動くままにその差し出された食べ物を口に押し込んだ。
次の日も、またその次の日も男の子はやってきては少しの食べものをヒノに与えた。さすがにこの不思議な状態が幾日も続くとヒノも理由を聞かずにはいられなかった。
「ぼくね、不治の病なんだって。お母さんはそれを治そうとお金を貯めていてくれてたみたいだけど、治療薬なんて本当は無かったみたいなんだ。それで―」
ある時お母さんがね。疲れきっちゃったみたいで、ふらふらになって家に帰ってきたの。それで、ある子に貯めてたお金をあげちゃったって言うの。自分はもう疲れちゃったから、その子が生きるために、お金あげちゃたって。そのままお母さんは眠っちゃった。
「けどね、やっと見つけたの。お母さんの言ってた子って、ヒノさんのことだったんだって。でも会いに来てみたら、せっかく生きてるってのにご飯を食べてないみたいだったから。ぼくのをあげようと思って毎日来てたんだ。姉ちゃんには行くなっていつも怒られてるんだけど。それにぼく、そろそろ死んじゃうみたいだし。ならお母さんと同じように、ぼくの代わりにヒノさんに生きてもらおうと思ったんだ」
ヒノは黙って泣いた。わずかな食べ物を前にヒノは床にうずくまって体を震わせながら泣いた。そしてひたすら、ただひたすら謝り続けた。
どうしてこうも人間とは他人を赦せるのだろうか。ヒノはそれが不思議で不思議でたまらなかった。そしてヒノは男の子と約束をした。必ず生きてここを出て会いに行くから。それまで必ず生きていて欲しいと。
その後、男の子は来なくなった。監守も変わり、しっかりご飯も貰えるようになった。ヒノはその後、どんなに辛い事があっても自ら死のうとはしなかった。必ず生き続け、いつかここを出て、男の子は生きていると信じて会いに行こうと決めたのだ。
今度は俺が会いに行こう、そして赦してもらわなくていい、ただただ謝ろう。
そう考えていた。
薄れ行く意識を何とか保ちながら、ヒノは情けない自分の姿に笑った。
今度は自分が不治の病にかかって今にも死にそうになっている。情けないにも程がある。
あの母親の娘が来たということは、きっと弟は死んだのだろう。あいつは俺を憎んでいた。そして死ぬよう要求してきた。
「…なんで生きてるんだろうな」
ヒノはふと、微かな声でそう呟いた。
約束した相手は死に、誰も俺がこの世に生きることを望んではいないというのに。俺はどうして生きようとしているのだろうか。
その時、ふとヒノの目にあの小瓶が映った。あいつが置いていった毒。誰も望まない俺の存在…。
「死んでるんじゃないのか、あいつ」
あれから二日が経っていた。ヒノの出所の日になった。監守は恐る恐る牢屋を覗き込んでため息をついた。
小さな刑務所の正門の重い扉が開かれた。扉の前にはシスターが腕を組んで今か今かと待ち構えていた。重い扉が完全に開かれた。すると少しして、門の隅から監守が何かをずるずると引っ張って出てきた。引きずられていたのはヒノだった。
監守はヒノを引きずったままシスターの前まで行くと、担いだそれを地面に倒して、後は頼んだと言って刑務所へと戻って行った。
シスターは足元に置かれたヒノを見下ろし、その場にしゃがみこんだ。
「死んだのね」
「死んでねーよ」
地面に置かれたヒノはボロボロの体になりながらも気力だけで何とか生きていた。シスターはヒノの様子に少し驚いたように瞬きをしてため息をついた。
「あなたあれ飲まなかったの」
ヒノはかすれた声で言葉を返した。
「飲まねぇよ。俺はしぶとく生きるんだからな」
シスターは少し黙ってヒノを見て、思い立ったようにヒノを掴むと、乗ってきたトラクターの荷台にヒノを投げ入れた。ヒノが驚く間もなくそのトラクターは猛スピードで発車して、ヒノは荷台の上をごろごろと転げた。シスターは窓を開け、後ろの荷台に聞こえるように大きな声で話しだした。
「あんた、私の弟と昔約束したんでしょう」
ヒノは少し黙り、ああ。と返事をした。
「けど俺が出所するのが遅すぎた。お前が俺を憎んでいるのは分かっているけど、頼む。あいつの墓参りだけでもさせてくれないか」
ヒノがそう言うと、シスターは少し間を置いてまた大きな声で話し出した。
「それは出来ない相談ね」
「頼む、墓に行きたいだけなんだ。俺はそのために今も生き続けてるんだ」
ならずっと生き続けてなさい。
シスターはそう言うと窓からあの小瓶を荷台のヒノへと投げ渡した。
「でもこれは毒なんじゃあ…」
それは治療薬よ。シスターはそう言うとそのまま大きな声で話しだした。
私はね、昔弟が生かした命ってのを一度見に行ってやろうと思ったのよ。約束までしたというのだから簡単に死んでいたら呪ってやろうと思ってね。けど実際会いに行ってみれば噂には聞いていたけど本当に瀕死の状態になってるじゃない。それでもかろうじて生きてるからまた驚きよ。本当はすぐに治療薬だと言ってそれを渡してやろうとも思ったけど、それじゃ私の気が治まらなかったのよ。だから致死毒だと嘘をついてそれを置いていったの。
そこまで聞いてヒノは驚いたように聞き返した。
「お前は俺を憎んで、赦さないと言っていたじゃないか」
「赦さないとは言ってないわ。時には厳しく、と言っただけよ」
ヒノは思わずため息をついて、渡されたそれを一気に飲み干した。
「まぁもし死のうとして飲んで、元気な姿で出所してきた時には一発殴ってやろうとは思っていたけれどね」
シスターはそこまで言うと、それと―。と続けた。
「さっきから何か勘違いしているようだけど、弟は生きているわよ」
その言葉にヒノは思わず大声で心から驚いてしまった。
「けど不治の病で、あの時は薬もなくて。あの後一度も来なくなったからてっきり…」
「ええ不治の病だったわ、でもその後すぐに治療薬が開発されたの。あなたにあげたそれもずいぶんと前に開発されたわ。元気になった弟は約束したからと言って、自分から行くことはせず、あなたから訪ねて来るのをずっと待っているのよ。今も」
ヒノは空になった小瓶を握りしめたまま一言、そうか。と言って、また小さくそうか、と微笑んで繰り返した。
「よかった」
「え、なぁに。何か言った」
トラクターを走らせながらシスターは後ろのヒノに大きな声で聞いた。
「生きていて良かったと言ったんだ」
それは誰のことを言っているの。というシスターの言葉に、ヒノは荒廃した広い大地に響き渡る大きな声で叫んだ。
すべてだ。