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妹が求めるのは婚約者ではなく、裏切らない存在

作者: 万月犬

 フラット・リナベル―それが俺の名前。リナベル家の証である琥珀の瞳を持つ俺は、この伯爵家の正統後継者だ。


「フラットよ…そろそろ、お前にリナベル家を託そうと思うのだ」


 俺が二十五歳の誕生日を迎えた翌日、父の書斎で告げられた。


 目の前にいる父の眼光は鋭く、琥珀の瞳は俺を捉えて離さない。俺と同じ紺色の髪は、ほんの少し白髪が混ざり、それも父の持つ威厳を倍増させているように感じる。


 書斎に呼び出された時、予想していた父からの言葉。


 伝統ある伯爵家の家督を継ぐための教育は受けてきた。学問や教養は勿論、マナーや武術に至るまで上位の成績を収め、国外との交流も見込み他国の語学も習得している。十一歳の時に決まった婚約者との関係も、とても良好だ。優秀な俺に期待をよせる声は多い。


 期待に応える覚悟は出来ていた。だが、目の前に突きつけられた『当主』という言葉の重みに、背筋がピンッと伸びたように感じる。


「そして、リナベル家の次期当主になるため…お前に試練を与える」


 試練という単語に俺は見構えた。リナベル家の試練など、今まで読んだどの書物にも書いていなかったからだ。


 ゴクリ…と唾を飲み、父の言葉を待つ。


「お前の妹、カトラの…婚約者を見つけてほしいのだ」

「無理です」


 先ほどの緊張感など無くなったかのように、俺は即答した。俺のあまりの返事の速さに父は目を丸くしている。そして、コホンと咳ばらいをするともう一度俺と向き合う。


「お前の妹の…」

「無理なものは無理です」


 食い気味にきっぱりと拒否する俺。父はガーン!と音が聞こえるほどショックを受けている。


「いいのか! この試練を突破しないと、当主にはせんぞ!」

「今は無理でしょう。しかし父上が亡くなった後は、自動的に俺がリナベル家の当主となります」

「え、ヤダ…この子、怖い」


 貴族とは時に無情なものだ。それが親子関係であったとしても。


 とはいえ、俺も別に妹が嫌いで婚約者探しを拒否しているわけではない。妹に婚約者を見つけるのは不可能に近い要因があるのだ。


 無表情で現実を突きつける俺に、父はビシッ!と指さした。


「とにかく! カトラの婚約者を見つけなさい! 現当主としての命令だ!」


 父に、もはや威厳など無かった。


 横暴だ…と心で父に恨み節を唱えた時だった。


「お父様、お呼びでしょうか」


 ノックと共に鼓膜を刺激する柔らかな声。声から廊下にいるのは、妹だとすぐに理解できた。父も妹だとすぐに分かったようで、気持ちを切り替えるように深呼吸をしてから彼女を招き入れる。


「カトラか…入ってもいいぞ」

「失礼します」


 バキッ!と嫌な音が部屋に響き、またか…と心で嘆いた。


 父は額に手を置きながら重い息を吐き、俺は扉の方に顔を向けた。


「あら…また、やってしまいましたわ」


 開閉させるべき扉から無残にも引きはがされたドアノブを握りながら、空いている方の手を頬に添える鍛え上げられた肉体を持つ少女。


 彼女こそ、俺の妹であり、父が婚約者を見つけてほしい娘―カトラ・リナベルだ。


「カトラ…ドアノブを壊すな、と何度言えば分かるんだ」


 数日前に職人によって取り付けられたドアノブ。職人の時間と我が家の財産が無駄になった瞬間を目撃し、俺はカトラに何度目か分からない注意をしてしまう。


「申し訳ありません、お兄様」


素直に謝罪するカトラ。だが、悪びれている様子はない。


「お父様、私にお話とはなんでしょうか?」

「話というのはだな…ワシからではなく、フラットからあるそうだ」

「はい?」


 覚えのない話題に思わず声が出てしまった。俺の方に目を向ける父は、頼んだと言っているように思う。


「そうなんですの? それで、お兄様は私になんの用が?」

「えっとだな…その…」


 じっ…とこちらを見てくるカトラを、俺は改めてまじまじと見た。


 カトラは兄の欲目からかもしれないが、愛らしいと思う。栗色のふわふわした髪に、パッチリとした大きな琥珀の瞳。顔だけ見ればカトラは可愛らしい少女だ。


 だが、肉体は可憐な少女ではない。


 同じ年頃の少女たちの悩み種である、無駄な贅肉とやらがカトラには一切ない。贅肉の代わりにトレーニングで立派に成長した筋肉達が、彼女の肉体を構成しいている。肉体美を競うコンテストでもあれば、上位には必ず入るだろう。


 正直言うと、兄として…何より男として、カトラの筋肉は羨ましいと思うくらい逞しい。


「…もしかして、私の婚約者のお話ですか?」


 鋭い妹に、思わず肩が跳ねてしまった。その反応をみたカトラは、やっぱり…とでも言いたそうに息を吐いた。


「婚約者なら必要ありませんわ。プロテイン摂取の時間に遅れますので、私はこれで失礼します」

「待ちなさい、カトラ!」


 立ち去ろうとするカトラの腕を父が両手で掴み、引き留めようと足に力を入れている。しかし、カトラは平然と足を進める。年老いたとはいえ、成人男性一人ごときの力などカトラにとって関係ないようだ。


 引き摺られながらも必死に踏ん張る父に、カトラは小さく息を吐いた。カトラは足を止めると半泣きの父を腕から引き離し、俺の方を向く。


「お兄様は知っていますよね…私には、マイク達がいるということを」

「あ、あぁ…まぁな」


 頬を引きつらせながら、俺はカトラのがっしりとした腕に視線だけを向けた。


「上腕二頭筋…だったか?」

「違いますわ。この子はケビンです」

「…せめて、女の子らしい名前にしなさい」


 自分の盛り上がった腕の筋肉をうっとりと見つめるカトラに、頭痛がしてきた。


 俺が父の試練を完全拒否した理由はこれだ。


カトラは自分自身の筋肉に名前をつけるほど、筋トレにのめり込んでしまったのだ。


 服装こそ、父に呼ばれた今は淡い水色のワンピースを着用している。たが、普段はトレーニングウエアを愛用し、日々トレーニングに励んでいるのだ。誕生日プレゼントもアクセサリーや香水などではなく、ダンベルを望むくらいカトラの筋トレにかける情熱はすごかった。


 それはもう、婚約者探しに悪い影響がでるほどに…


 カトラが、ここまで筋肉や筋トレに夢中になってしまったきっかけはある。


 現在二十歳のカトラには、かつて婚約者がいた。カトラが十歳の時、父が婚約者として選んだのは、友人の息子。


 父の友人は紳士的で、奥様をとても大切にされていた。爵位は我が家より低くかったが、当人であるカトラとその息子はお互い好意を抱いていた。穏やかで優しい人柄である友人の息子だからカトラを任せても大丈夫だと思い、父は早々に婚約を決めたのだ。


 しかし、それが大間違いだった。


 婚約して五年後、その息子は浮気をしたのだ。しかも、カトラの親友と…


 理由は「スリルを味わいたかった」という、実にくだらないものだ。


  父の友人と浮気相手の親は激昂し、不誠実な彼らを勘当した。勘当された二人はその後、我が家に突撃してきた。自分たちは被害者だ、的な内容を門前で喚き散らしている二人。父の中で砂粒くらいあった、友人の息子への情が完全に消え去った瞬間だった。


 警備兵に取り押さえられた二人は、貴族令嬢へ危害を加えようとした危険人物として牢屋に入れられた。父と友人と浮気相手の父親で話し合い、二人は極寒の地へ永久追放が即座に決定。もしもに備え、二度とカトラに接触しないという誓約書付きで。


 数日後、父の友人は慰謝料を持って、カトラと父に心から深く謝罪した。父の友人の対応はとても誠意があり迅速だった。


 けれど、カトラの心の傷は深かった。大きな瞳が溶けてしまうのではないかと思うくらい泣いていた。


 大切な娘に一生の傷を負わせてしまった父、相手の不誠実さを見抜けなかった兄である俺…情けない話だが、俺と父は、年頃の女の子の気持ちに寄り添えるほど器用ではない。時間だけが彼女の心を癒すと思ったのだ。


 そんなカトラの心を救ったのが、一冊の本だった。


 その本は、俺の婚約者がカトラを心配し、気分転換にと持って来てくれたもの。そして、その本のキャッチフレーズが「筋肉は裏切らない!」だった。まさかのセレクトだ。


 信じていた二人に裏切られたカトラにとって、このキャッチフレーズは深く突き刺さったようだった。


 その本を熟読した後、カトラの生活は大きく変化した。


 図書館や我が家の警備兵から、筋力のつけ方を学んだ。そして得た知識を元に、カトラは筋肉を鍛え始めた。栄養がとれた食事と軽い運動を取り入れ、徐々に血色もよくなり健康になっていくカトラ。筋肉の成長と共に心の傷が癒えていくカトラに、俺と父は安堵した。カトラも自分の身体の変化に感動していたようだ。その後、向上心のある妹は更なる筋肉を求め努力を積み重ねていったのであった。


 そして現在…カトラは努力を裏切らなかった筋肉達を愛称で呼び、筋トレにどっぷりとはまってしまっている。


「先ほどもマイク達と一緒に筋トレをしていましたの」


 まるで恋人と外出したかのようにうっとりと話す妹に、軽く眩暈がした


「カトラ…一回でいい。この令息と会ってみないか?」


 父がどこからか持ち出してきた写真。そこには、柔らかく微笑む身なりのいい青年が映っていた。カトラは静かにその写真の人物を観察している。


「…この方、胸筋が甘いですわ」


 見合い写真でまさかの筋肉鑑定。不合格の印を受けた見合い写真に、父は膝から崩れ落ちた。


 カトラの傷が癒えた頃合いを見て、父も新たな婚約者を見つけるために奮闘している。幸いにもカトラへの求婚は途切れなかった。日ごろのカトラが、いかに品行方正であるか証明されたも同然だ。


 だが、カトラは全ての見合いをさっきのように何かと難癖をつけて断っている。カトラ曰く、見合いに割く時間がもったいないとのことだ。


「カトラ…貴族令嬢として、お前もいずれどこかへ嫁いでだな…」

「リンベル家はお兄様が当主になります。私は別におひとり様でも、問題ございません」


 父の説得を、鉄壁のガードで拒否するカトラ。このやり取りを見るのは何回目だろうか…


「お父様はどうしてマイクが嫌なのです? この子達は私を変えてくれた恩人ですわよ」


 筋肉を見せつけるようなポージングをしながらカトラは父に問う。


 そう…筋トレがカトラやリナベル家にとって、とてもいい影響を与えているのが厄介な話だ。


 強靭な肉体。それを鍛えるためのトレーニングに負けない精神力。下手をすると、リナベル家で一番の強者はカトラなのかもしれない。


 そんなカトラを守れるようにと、警備兵も日々訓練に力を入れている。その結果、我がリナベル家専属の警備兵達の能力が大幅に向上したのだ。


 カトラの筋トレの件は、いい意味でも悪い言いでも貴族の中で話題になった。最初こそ戸惑ったり嘲笑する者がいたが、現在は『肉体美の令嬢』としてカトラを尊敬する者が大多数となっている。


 肉体改造の相談を受けることが多くなり、カトラはどんな小さな悩みでも真摯に対応した。今となっては、貴族専用のインストラクターとして絶大な人気を誇っている。


 いい方向に向かっているものを止める理由など存在しない。だから、俺も父もカトラの筋トレを止めずにいるのだ。


 まぁ…まさか、ここまで立派に育つというのは計算外なのだが…


「だって、このままだと…筋肉のお義父さんになってしまう!」

「父上、ここは冗談を言う場面ではありません」


 両手で顔を押さえながら訴える父に、思わずツッコミを入れてしまった。冷やなカトラの瞳に気が付き、父は小さく咳ばらいをして改めて本心を語った。


「…ワシは、お前たちの母と約束したのだ。必ずお前達を幸せにすると」


 父の真っ直ぐな言葉。グッと握った拳と同じくらいに強い瞳をカトラに向ける。


 母は、俺が八歳の時に亡くなった。カトラはこの時、三歳だった。死因は流行り病だったと記憶している。元々体が弱かった母がその病に罹った時点で、回復は絶望的だと医者から告げられた。父は必死に医師や薬を探したが、無情にも母は日に日に弱まっていった。


「あの子たちを…フラットとカトラを、私みたいに幸せにして下さいね」


 自分の死期が近づいていることを察した母の病床での言葉。


 父は、母の手を握りしめ大きく頷いた。


 父の誓いを見届けた母は安心したように微笑むと、そのまま息を引き取った。


 優しく、陽だまりのように暖かい母。柔らかく微笑みながら頭を撫でてくれる母の喪失感は大きかった。


 母の葬式で、俺とカトラはずっと泣いていた。母のことを心から愛していた父も泣きたかっただろう。しかし、幼い俺たちを前に父はグッと涙を堪えていた。使用人達にも好かれた母の死は、この屋敷を悲しみで包み込んだ。


 だが、父はそんな悲しみに飲み込まれなかった。母の死を無駄にしない、という強い思いからなのか父は薬の開発に全力を注いだ。その甲斐あって、現在はその病に有効な特効薬が開発され治療が可能となっている。完成した薬を父は病院や教会に格安で譲り、今では誰でも完治できる病となった。


 母の仇である病魔に勝った父が、次に力を注いだのが俺たちの婚約者だ。


 愛した人達に囲まれた人生、それがきっと母が言っていた幸せなのだろう。


 父もそれを望んでいる。だからこそ、ここまでカトラの婚約に必死になっているのだ。


「カトラ…父上もお前の幸せを願っているのだ。分かってやれ」

「…でもお兄様、人は裏切る生き物ですわ」


 視線を下げ、キュッとワンピースを握るカトラ。きっとカトラも、父の気持ちを理解しているのだろう。


 肉体や精神は強化できても、心の傷は簡単には塞げない。カトラにとって、あの裏切りはトラウマなのだろう。だからこそ家族以外は、自分の一部である筋肉のみを…自分自身しか信じないのだ。


 体は大きく逞しくなっても、心はまだまだ未熟な妹に、俺はやれやれ…というように息を吐く。


 俺は自分に賭けてみることにした。


「カトラ、俺と勝負をしよう」

「勝負ですか?」


 コテンと首を傾げるカトラ。昔の姿が重なる彼女に思わず頬が緩む。立派に育った肉体と幼さが残る仕草。そのギャップが可愛らしいと思ってしまう俺は、兄バカなのだろうか。


「あぁ。俺が勝ったら、婚約者探しに協力的になること」

「…私が勝ったら?」

「次期当主である俺が、お前の婚約に関して一切口を出させないと誓おう」

「え? 現当主のわしの意見は?」


 父を無視し、俺はカトラを真っ直ぐに見据える。


 リナベル家の瞳に互いの姿が映る。


「分かりましたわ…その勝負、受けましょう」


 意を決したかのような返事。


「勝負の方法はなんですの?」


 筋トレをしている時と同じく、闘志に燃えるような空気を纏うカトラ。


 俺はカトラより細い腕を机の上に置いた。


「腕相撲だ」


 俺の提案にカトラと父は目を見開いた。


 昔、俺とカトラがよくしていた遊びの一つだ。まだ可憐な少女だったカトラに、当時はハンデをつけてやったものだ。


 懐かしい思い出に浸っていると、ガシリと父に肩を掴まれた。


「正気か!? 相手はカトラとケビンの二人だぞ!?」

「父上…何気にケビンを一人と認識しているのですね」

「えぇい! そんな細かいことはどうでもいい! 下手したら、お前の細腕など…!」


 心配する父。カトラも自分に優位と分かっていても、怪我をさせてしまう可能性が捨てきれない勝負に二の足を踏んでいる。


 貴族の汚い世界で、その優しさは不要なのかもしれない。でも、父やカトラのような優しい人が自分の家族であることに、俺は誇りに思う。


 俺はカトラが結婚してもしなくても、正直どっちでもいいと思っている。


 カトラが本心で選んだ未来なら、俺は文句など無い。だが、くだらない男の浮気が理由で、淡い恋心を抱くことすら出来ない…そんなトラウマに縛られた人生をカトラに歩んでほしくない。


 夜会やお茶会で仲睦まじい婚約者達を見ると、少し寂しそうに微笑むカトラ。その表情を見るたびに、暗い顔をする父。


 父にもカトラにも、幸せになってもらわないといけない。その責任が俺にはある。だって俺は…リナベル家の次期当主なのだから。


 家族や家臣、そして領民…誰一人見捨てない。誇り高きリナベル家の後継者である俺が、必ず幸せにする。それが、母の墓前で誓った最後の約束。


 ふと、傍でいつも支えてくれている婚約者の顔が浮かんだ。カトラにも、心から信頼できる誰かと微笑み合える未来を掴んでほしい。その為には、目の前の勝負に必ず勝たなければ…


 俺は小さく笑みを浮かべた。


「なんだ、カトラ…昔のように兄に負けるのが恐ろしいのか?」


 分かりやすい挑発であったが、自慢の筋肉を馬鹿にされたとあっては黙っていないだろう。ムッとした表情で、カトラは同じように机に腕を置いた。


「責任は負いませんわよ」

「あぁ、問題ない」

「明日の執務…私、代理なんてしませんから」


 完全に腕をへし折る気でいるカトラに、内心少し恐怖を抱いた。


 だが、男がここで引き下がるわけにはいかないので、体制を整えカトラの手を握る。


「父上、合図をお願い致します」


 ガッシリと組んだ手。父はためらったが、そっと手を重ねた。


「では、いくぞ」


 張り詰めた空気が部屋を包み込む。


「レディー…ゴウ!」


 ドスンッ!!


 勝負は一瞬で決まった。


 重々しい音を立てたのは、カトラの手の甲だった。


 机に叩きつつけられた自分の手を信じられない、というように見つめるカトラ。父は、口を開けて固まっている。


「俺の勝ちだな」


 ニッと笑みを浮かべながら、カトラの手を放す。


 そう…俺は細マッチョというやつなのだ。婚約者が隠れ筋肉ファンという事実を知ったことが、きっかけだった。何よりも、妹よりもか弱い感じが嫌だったので、こっそりと筋トレをしていたのだ。そして、腕相撲は純粋な腕力のみの戦いではない。反射神経・姿勢・テクニックといった必勝法だってある。それらの知識を駆使し、俺はカトラに勝てたのだ。


 呆然となっているカトラ。父上は信じられないものを見るような目を俺の腕に向ける。


「フラット…いつの間に、そんな筋肉を…」

「能ある鷹は爪を隠す、ですよ」


 最初から手札を曝け出すことなど、愚の骨頂。貴族の世界で生き残っていくには、いかに手札を最後まで隠し通せるかが勝負だ。


 まだ現実を受け止めきれていないカトラの頭に、俺は手を置いた。


「カトラ…お前には、俺のように強い兄がいる」

「お兄様…」

「もし、お前を傷つける馬鹿がいれば…俺がぶっ飛ばしてやる。だから、安心しろ」


 ぐしゃぐしゃとカトラの頭を撫でながら、ニッと昔のように笑った。カトラは一瞬キョトンとしたがすぐにフフッと小さく笑った。


「そうですね…私にはこんなに強いお兄様がいるのに、何を怖がっていたのかしら」


 肩の力が抜けたようなカトラ。


「それに…」


 カトラは、照れながらも父に優しく微笑んだ。


「私の事を心から愛してくれるお父様だっていてくれるのですもの」

「カトラ…!」


 抱擁しようとした父だったが、年頃のカトラには不要だったようだ。


 カトラは、俊敏な動きで父の腕から逃げた。あからさまに娘に避けられた父は、しょんぼりとしている。


「さて、婚約者探しだが…とりあえず、俺が勝ったのだから…」

「あら? 何を言っているのお兄様」


 言葉を遮り、自分の手を軽くストレッチしているカトラに、俺は首を傾げた。


「次は左手ですわ」


 目が点になってしまう。そんな俺にかまわず、カトラは仕切り直しとばかりに左手を机の上に置いた。


「まさか、お兄様の利き手のみでの勝敗なんて…ありえないですわよね?」


 ニッコリと口元だけの笑み。カトラの瞳はリベンジに燃えている。ヒクリと俺の口元が引きつった。


 そうだった。カトラは、左利き。俺が勝てたのはテクニックや油断も関係しているのは間違いない。だが、最大の勝因は…カトラが利き手ではなかったということだ。


「さぁ、お兄様。準備をお願いします」


 さぁさぁ! と圧をかけてくるカトラ。思わず後ずさり俺は、父に助けを求めるように目を向けた。


 父は静かに首を横に振ると、そっと俺の左手をカトラの手と組ませた。先ほどの心配はどこへ!?


「ちょっ…まっ!」


 待った、の声は届かず、俺の左手の甲は無情にも机にたたきつけられた。と同時に、俺の脳をよぎったのは明日の執務の心配だった。


 その後はというと…一勝一敗の引き分けになったので、カトラの婚約者探しはとりあえず保留という形になった。


 後にこの一件は、リナベル家の伝説となって後世に伝わっていくことなど…当人たちも知る由もなかった。


読んでいただき、ありがとうございます。

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