076 初対面
リージェが戦場から離脱したことで、テニュスとスィーゼは戦いを止めた。
スィーゼは騎士たちと共にクロドと合流すると、リージェが姿を消したことを嘆き、クロドの身を案じるようなフリをしながら王都まで戻る。
クロドには、テニュスは逃げたと説明した。
どうやら彼は、そのことよりもスィーゼが侵略者としての自分の姿を見たのではないかと疑っていたようだが、白を切ってその場を逃れた。
だがクロドの中にスィーゼに対する疑念が生まれたことは間違いない。
彼女は表面上は王族への忠誠を見せながらも、いつでも守護者を呼び出せるよう、王都付近に到着するまで警戒を解くことはなかった。
一方で逃げたと説明されていたテニュスだが、実は騎士たちの後ろからついてきていた。
リージェを連れて行ったのはマヴェリカだ、彼女ならば匿う場所も確保しているはずだろう――そう考え、リージェに関してはマヴェリカに完全に任せる選択を取ったのだ。
そしてスィーゼの提案で、一旦王都まで戻り、王牙騎士団の面々と話し合いの場を設けることになった。
◇◇◇
テニュスはクロドや他の兵士に気づかれぬよう変装をし、王牙騎士団の集会に紛れ込む。
そして騎士たちの前で変装を解くと、彼らはざわついた。
テニュスはリージェを誘拐した犯人の協力者――そう伝えられていたからだ。
中には、信頼を裏切られたことに対する怒りか、敵意すら向ける者もいたが、
「落ち着くんだ、テニュスは誘拐犯などではない。このスィーゼが保証する」
団長のその一言で、ひとまず場の空気は落ち着いた。
だが次に発された言葉により、騎士たちはさらに混乱することとなる。
「クロド様はアンタムがリージェを連れ出したと言っていたが、あれは嘘だ。彼女は自らの意志でクロド様と距離を置いた。どうやら彼女は、クロド様が侵略者であると考えているらしい」
クロドが侵略者――そんな荒唐無稽な話、すぐに信じられるはずがない。
だが一方で、あの森での戦いで疑いを持った騎士も中にはいた。
「私は見ました、あの霧の中――王都に現れたあの腕の化物が、リージェ様を追っているのを」
「俺もだ! やっぱりあれ、見間違いじゃなかったんだよな!?」
クロドに関する真偽はまだはっきりしないが、少なくともあの場で侵略者がリージェを追っていたのは事実。
そんな認識が騎士たちの中に広がっていく。
さらにスィーゼがもたらした情報が、天秤を傾けた。
「それどころか、スィーゼはクロド様が……いや、クロド陛下が侵略者を使役したのを直接確認している」
目ではなく、肌と匂いが、王都で戦ったあの侵略者と同じものを感じ取ったのだ。
紛れもなく、あれはクロドが呼び出したものだった。
国王への忠誠と団長への尊敬の間で板挟みになる騎士たち。
信じがたい、だが信ぴょう性は高い現実を突きつけられ彼らが葛藤する中、ふとテニュスはスィーゼに尋ねた。
「何で言い直したんだよ」
「それは、陛下が国王だからだろう」
「でもその前まではクロド様って言ってたじゃねえか、それで問題なくねえか」
「国王陛下を陛下と呼ぶことは……」
そこまで言って、スィーゼも違和感を覚える。
なぜ自分はあの瞬間に、クロドのことを“陛下”と呼ばなければならないと思ったのか。
クロドが国王であることは、ずっと前からわかっていた当たり前の事実であるはずなのに――
「なあスィーゼ、これって……」
テニュスが何かを言い切る前に、それをスィーゼは首を振って否定した。
「そんなはずはない」
「だけど、こんなの……」
「本物の陛下が食われたとでも言うのかッ!?」
しかしいくら否定しようとも、スィーゼも理解はしているのだ。
そして彼女以外の騎士たちもまた、
「私の記憶にも齟齬があります。どういうことなんですか、団長!」
「確かに今、何かが切り替わったっていうか、入れ替わったのを感じたぞ」
「頭がおかしくなりそうだ……王位を継げたのはクロド陛下だけのはず。けど、だったら王位継承争いって何だ? 協会の主流派と改革派の対立が激化したのは、確かに……」
矛盾に頭を抱え、混乱している。
まずはそんな彼らを落ち着かせるため――いや、伝えても落ち着くかどうかはわからないが、ひとまず現状への理解を深めるべく、スィーゼとテニュスは彼らに説明した。
「スィーゼたちの予想では、クロドはおそらく、他人の存在を“食らい”それを奪う力を持っている」
「あたしらの頭に残ってる、王都でレプリアンと戦ったり、侵略者を追い払ったり、エレインに勝ったっつう記憶……それは本来、全部別の誰かがやってたことなんだ。リージェはそれに気づいたから、アンタムに頼んで逃げ出した」
「そして今、本物の国王が食われ、クロド……陛下、がそれに成り代わった可能性が……ある。確証は持てないが」
クロドの能力のタチの悪い部分がそれだ。
証拠が無い。
なぜなら被害者ごと消してしまうから、そもそも事件が起きたのかもわからない。
騎士たちも、クロドが侵略者の力を使うところを確認したはずのスィーゼも、何なら最初から疑ってリージェの手助けをしたテニュスさえも、“絶対”と呼べるほどクロドを疑えていないのだ。
なぜならその脳には、数多の思い出が、数多の感情が、“クロドによってもたらされたもの”として刻み込まれているのだから。
「あたしらは、あいつを殺すべきなのかもしれねえ」
「しかし陛下は陛下だ、スィーゼたち騎士団が守るべき王国の象徴であることに間違いは……」
「わかってるよ! でもそうしてる間にも――いや、待て。ここもおかしくねえか」
地面に腰掛け並ぶ騎士たちを見渡し、テニュスは違和感を覚える。
「班の人数はどうなってる? 元々、ある程度は均一になるよう振り分けられてたはずだよな」
あくまでそれは違和感でしかないが、それが違和感止まりであることが恐ろしく、おぞましい。
スィーゼもテニュスの指摘を受け、改めて人数を数えるが――
「……合わないようだね」
偏りが――いや、そもそも班の数もおかしい。
「さっきの戦いの中で……誰かが、食われてるのか」
共に切磋琢磨し、助け合ってきた仲間が消えた。
そしてそのことに、誰も気づいていない。
その事実に恐怖した数名の団員が、震えた声をあげる。
「だ、団長、逃げましょう」
「そうだそうだ! 死んだことにも気づかれないなんて、いつ自分がそうなるかわかんないのに、こんな場所にいられるか!」
「ああ、国のために命を賭けるつもりだが、侵略者のために死ぬなんてばからしい!」
だがそれとは真逆の意見も聞こえてくる。
「しかしここで逃げるのは、陛下の命令に逆らうことになるのでは……」
「そもそも本当に別人が国王に成り代わるなんてありえるのかよ! 正しい記憶なんじゃないか? 侵略者にそう思い込まされてるだけじゃないのか!?」
「あるいは、国王に変装した誰かが私たちを分断するためにやってるのかもよ」
場が騒然とする中、スィーゼは決断を迫られていた。
国王を信じ、騎士としての誇りを胸にこの場に残るか。
あるいは、騎士たちが生き延びることを優先し、クロドと離れるか。
おそらくクロドを殺すのは無理だ。
スィーゼ自身に迷いがあるし、何より騎士団内の分断を招きかねない。
侵略者との戦いを控え、人間同士で対立して傷つけ合うなど不毛だ。
「あたしが思うに、騎士として守るべきもののために命を賭ける場所は、ここじゃないと思うぞ」
悩むスィーゼの肩に手を置き、テニュスは言った。
スィーゼはうつむき、しばし考え込んだ末に結論を出す。
「静粛に!」
彼女が立ち上がり凛とした声を響かせると、一瞬で場は静まり、視線が集中する。
「王牙騎士団は、リージェの追跡を行う」
「陛下に従うんですか?」
「だが本当に見つける必要は無い。これは陛下と距離を置くための口実だ」
口実――そんならしくない言葉にざわめきが起きる。
「騎士団としては情けないやり方だと思うかもしれない。だが現在王国は――いや、この世界は侵略者との全面戦争を控えている。仮にクロド陛下が侵略者であろうとなかろうと、それはもはや変わりようのない現実だ」
“裂け目”は、人間に化けた中型侵略者が引き起こすもの。
仮にクロドが特殊な侵略者だったとしても、彼の持つ力は他者の存在を取り込むことのみ。
加えて、やりすぎると違和感を覚える人間が増え、現在の王牙騎士団のように疑いを持つ者たちも現れる。
つまり、世界規模で見れば大局に影響を与えるものではないと言える。
クロドは意思を持つ侵略者として、中型侵略者の増殖に加担してきたものと考えられるが、増えきった現状でやれることはそうない。
彼個人としては、ドロセアを消したり、国王の座を奪ったりと、可能な限り人類の妨害をしているようだが、結局のところ最大の脅威はその後に迫っている大規模攻勢なのだ。
「ならば我ら王牙騎士団は、その時まで牙を研ぐべきだ。一人でも多くの騎士が守護者の魔術を身につけ、万全の状態で侵攻に備えるべきだ。スィーゼはそう思う」
スィーゼがそこまで話すと、彼女は軽く息を吐き出し、騎士たちの表情を確かめる。
自分たちの身を案じ、世界を見通す団長に感激する者もいれば、納得しきれない者、クロドを信じたい者もおり――反応は様々だった。
「それでも陛下を傍で守りたいと言う者は残ってもらって構わない。それは自分自身の選択だ、スィーゼの中にもそうしたいという思いはある。否定はしない」
今のスィーゼをそういう方向に導いているのは、“仲間が消えたかもしれない”という確証のない事実である。
中にはその事実自体を信じきれない騎士もいる。
それは仕方ないことだ。
この霞のような掴みどころのない感覚を頼りに動くしかないのだから。
「だがスィーゼは、この世に名前はおろか、悲しみや嘆きすら残さずに消えた仲間がいることを許容できないし、これからそんな被害者が増えることも受け入れられないッ!」
だが問題は、信じきれない騎士は、この必死なスィーゼを見ても共感できないということだ。
彼女は何を言っているのか。
頭がおかしくなってしまったのか。
そう感じてしまう。
しかし――
「だから頼む……ここはどうか、スィーゼの指示に従ってくれないか。陛下を裏切れとは言わない、侵略者との戦いが本格化するその日まで、離れていてくれればいい」
部下に頭を下げてまで頼み込む騎士団長の姿を見て、何も感じない者はいなかった。
それは彼女の話を信じる信じないの問題ではなく、スィーゼという団長を、どこまで信用できるかという話。
視力を失い、ジンを失い、それでも這い上がってきた彼女の信念の強さは、王牙騎士団の人間ならば誰もが知っている。
無下にできるわけがない。
スィーゼが顔をあげても、反対の声は一つもあがらなかった。
納得したのではなく、彼女の想いに報いると決めたのだ。
「なあジン、スィーゼはどうやら騎士団長に向いてるらしいぞ」
テニュスは口元に笑みを浮かべ、そうつぶやいた。
◇◇◇
リージェが簒奪者たちのいる屋敷付近までたどり着いたのは、クロドの追跡を振り切った二日後のことだった。
これから屋敷があるという森に突入する――そんな矢先、マヴェリカのスペアが活動限界を迎え、腐り落ちる。
それとほぼ同時に、本物のマヴェリカがリージェの前に現れるのだった。
「元気だったかい、リージェ」
「マヴェリカさん! えっと、本物……ですか?」
「本物か偽物かで言えば、そっちの私も本物だよ。魂を移し替えただけだからねえ」
「魂って、そんな簡単に移動するものだったんですね……」
簡単ではない、と否定したいマヴェリカだったが――脳裏に浮かぶのは、見様見真似で他人の体に魂を宿したドロセアの所業。
あれはマヴェリカの理解すらも超えた魔術だった。
「私が思ってる以上には融通が効くらしい。まあ、そのあたりを含めて落ち着ける場所でゆっくり話そうじゃないか」
二人は並んで、エレインたちのいる屋敷に向かって歩きだす。
「マヴェリカさんの……分身さんが、教えてくれたんですけど。この先に、エレインたちがいるんですよね。その、簒奪者もいっしょに、蘇って」
「ああ、今は侵略者と戦うために力を蓄えてる」
「信じられません。あのとき、全員倒したはずなのに」
「私の魔術をパクって、ホント抜け目のないやつらだよ」
「それって、寝てる間にエレインが記憶を覗きこんできたやつですよね」
リージェにも覚えがあった。
睡眠中とはいえ、あそこまで大胆に脳に干渉されれば嫌でも気づく。
「マヴェリカさんも気づいてたんじゃないですか?」
つまり、リージェでも気付けるのだから、マヴェリカが知らないはずがないのだ。
知った上で、彼女は放置していた。
「私としても人類側の戦力が減るのは避けたかったってことさ」
つまりマヴェリカは、簒奪者たちが蘇ることを望んだのだろうか。
リージェにはどうしてもそうは思えなかったが、今は深掘りはしない。
「一度負ければ、エレインが大人しく守護者の力を受け入れるってことも予測できたからね」
「じゃあ簒奪者たちも……」
「ああ、守護者を身につけようとしてるよ」
「エレインの命令だとしても、あの人たちは納得してるんでしょうか」
「納得してるのもいれば、エレインの命令だからしぶしぶ従ってるやつもいるって感じだねえ」
マヴェリカの言葉でリージェが思い出したのは、ガアムの顔だった。
彼はマヴェリカと犬猿の仲だったと記憶しているが、そんなマヴェリカの魔術で蘇った今はどんな気分なのか。
そもそも、ああいった凶暴そうなタイプの男性は苦手だ。
不機嫌な状態ともなると、近くにいるだけでも圧迫感があるので、できる限り顔は合わせたくないというのがリージェの本音である。
「ちなみに、すでにうち数人は守護者を使えるようになってる。ただしうち一人は出張中だけど」
「出張?」
「近隣の村で例の裂け目が現れたのさ、それを塞ぎに行ってる」
「本当に味方なんですね……」
「この世界を守るために集まった集団だ、滅びることを求めたわけじゃないのさ」
「でも人間を魔物に変えようとしてました」
「人類が滅びても世界が残ればいいってことなんだろうねえ……少なくともエレインはそう考えてた」
「本当にそれが本音なんでしょうか」
「どうしてそう思うんだい」
「マヴェリカさんが言ってたじゃないですか、必要以上に悪人ぶろうとするって。人類を滅ぼすなんて言ってるのも、そういうことなんじゃないですか」
リージェの鋭い指摘に、マヴェリカはけらけらと笑った。
「いい着眼点だねえ。私もそう思うよ、自分を最低の悪人に仕立て上げて逃げ場所を潰したいんだろうさ」
「それって本当は逃げたいってことじゃないですか」
「逃げたいだろうよ」
だがその直後、それまで笑っていた魔女の目から感情が消える。
「世界なんてよくわかんないもののために、肉体を捨てたがるやつなんていないだろ。狂信者じゃあるまいし」
そしてやけに冷たい口調でそう言い捨てた。
まるで誰かを憎むようにして。
ぞくりと背筋に寒気を感じるリージェ。
マヴェリカはすぐに元の穏やかな表情に戻るが、果たしてそれが心からの笑顔なのか、判断はできなかった。
「まあ、殺し合った相手と仲良くするのは難しいだろうし、屋敷は広いから顔を合わせずに暮らすことはできる。ただ、そこにはリージェが会うべき人間が――」
「待ちなさいって、急に走り出して何なのよぉ!」
マヴェリカの言葉を遮るように、前から女性の声が聞こえてくる。
リージェも知る声だ。
(シセリーさん……本当に生き返ってるんですね)
以前、自ら手にかけた女性だ。
顔を合わせると気まずいかと思ったが、それより先に別の人物がリージェの前に現れる。
前の方から駆け寄ってきたのは、彼女よりも少し年上の、茶髪の少女だった。
素朴で、ずば抜けて美人というわけでもなく、けれどどこか頼もしい印象がある。
そこまでが一般的な感想。
それに加えて、リージェはその少女を見た瞬間に――今までの人生で感じたことのない、強い強い“ときめき”を感じた。
「あ……」
挨拶でもしようと思ったけれど、言葉が出てこない。
「っ……、ぅ、あ……っ」
対するドロセアも口を開閉するけれど、意味のある言葉にはならなかった。
ただ、何かを伝えようとしていることだけはわかる。
伝えないと。
伝えないと。
――何を?
自分の胸に渦巻く正体不明の熱に邪魔されて、二人の会話はなかなか成立しない。
(な、なんで……この人を見た途端に、胸がきゅーっとして、ドキドキして……まるで、恋、してるみたいな……!)
一目惚れと呼ぶにはあまりに強烈で。
まるで十年以上温めてきた気持ちが、急に爆発したような、そんな重さと激しさがある。
このままお互いにあわあわしてても埒が明かないので、リージェはマヴェリカに助けを求めた。
「あのマヴェリカさん、この方は誰――っぴひゃーっ!?」
するとその最中に、少女はリージェに抱きついてきた。
ぎゅーっと両手で捕まえて、体を押し付ける。
「だっ、抱きつきっ、抱きつかれっ、あの、嬉しいんですがっ!」
リージェは大慌てでそれを引き剥がした。
「……?」
首を傾げる少女。
彼女としては、先ほどの行動は“正解”だと思っていたらしい。
「ごめんなさい、わたしには大事な人がいるんです。名前も思い出せないんですけど、好きな、大切な人がっ! いや、その、あなたに一目惚れしてしまったのは間違いないんですがっ、その気持ちを受け入れてしまうと裏切りになってしまってっ。ああ、でも……っ!」
荒れ狂う感情の奔流は、もはや否定しようもないほどの“恋”を形作っていて。
こんな恋を知ってしまったら、他の誰かに恋なんてできない。
けれどリージェには、忘れてしまった大切な人がいて――まだ再会できてもいないのに、その人を裏切ることなんて――そんな気持ちがぐるぐると、ぐるぐると、頭の中を駆け巡る。
「別に受け入れていいと思うけどねえ」
ぼそりとマヴェリカがつぶやく。
するとリージェは必死にそれを否定した。
「ダメですっ! その人は、わたしを失ったことでどこかで今も苦しんで!」
「その子だよ」
「ふぇ?」
「ドロセアっていうんだ、さっき言ってた“大切な人”だよ」
「ほ、本当、ですか?」
「ああ、間違いなく」
「そんな都合のいいこと、あるんですか? だ、だって、記憶がなくなってて、名前も思い出せないぐらいなのに――顔を見ただけで、こんなに、好きって気持ちが、溢れ出してくるなんて」
「侵略者にも奪えなかったんだろ」
あるいは、ドロセアにとって一番守りたいものだから、それだけが残ったのか。
とにかく、許しは得た。
もはやためらう必要もないのだ。
リージェは改めてドロセアを見つめる。
「ドロ……セア……」
そして今度は自ら距離を縮め、その手を握った。
胸の前まで持ってきて、両手で包み込み、その“存在”を確かめる。
「ドロセア、さん?」
ドロセアは少し困った顔をしたあとに、こくりと頷いた。
彼女も自分の名前を失っている。
ドロセアと呼ばれることに違和感を覚えているのだろう。
「あなたが……わたしの……」
じわりと、リージェの目に涙が浮かんだ。
失われたものは戻っていない。
けれど、懐かしさや、心地よさ――そんな曖昧な感覚が、心の空虚がもたらす痛みを、少しだけ和らげてくれる。
すると今度は、ドロセアが優しくリージェを抱き寄せた。
「あ……」
リージェも抱き返し、その胸に顔を埋める。
「ああ……そう、でした。これが……わたしが、ほしかったものは……」
しかし与えられるその温もりは、痛みを和らげる一方で、その“寂しさ”を際立てることにもなった。
暖かいのに、冷たい。
求めたものなのに、致命的な何かが足りない。
奪われたものがそこに存在しないことを嫌でも理解させられる。
苦しい、悲しい。
瞳を濡らしていた涙が、ほろりとこぼれ落ちる。
「でも、思い出せない……ドロセアさんと長い時間をいっしょに過ごしたってわかるのに、わたし……ぜんぜん……っ」
涙を拭うように、胸に顔を埋めた。
そんな彼女を抱きしめるドロセアの瞳からも、涙がこぼれている。
きっと二人は同じ気持ちなのだ。
再会できたけど、抱き合えたけど、何かが足りない。
そしてその“何か”は、あまりに大きくて――
「ごめんなさい。ごめんなさいっ、こんなに大きな気持ちがあるってわかるのに! わたし、わたしぃっ!」
「なま、え……」
「へ?」
「なまえ、おしえ、て」
少しでも埋めようと、かき集めようと、ドロセアは手を伸ばす。
そんなドロセアの様子に驚くマヴェリカとシセリー。
「喋れるんじゃない……」
「リージェが来たことで刺激を受けたんだろうね。さっきみたいに自発的に動くこともなかっただろう?」
「言われてみれば。遠くからあの子が来るのを感じ取ったっていうの」
「そうとしか考えられないねえ」
ドロセアは今まで、与えられた刺激に反応を示す程度で、自ら喋ることもなかった。
魔術の模倣は行うが、ただ真似してみせるだけで、目的を持ってそれを使用することもなかったのである。
リージェの存在は、そんな彼女に変化をもたらしていた。
「わたしは、リージェって言います」
「りー、じぇ」
「はい。たぶん前も、あなたはそう呼んでいました」
「りーじぇ……りーじぇ……すてきな、なまえ。前も、その名前、たくさん、よんだ、はずなのに……」
「わたしの頭はあなたでいっぱいはずなのに、どうして――」
『ぜんぶ、空っぽなんだろう』
侵略者によって存在を消されれば、そもそも悲しむことすらない。
気づかなければ、死すらも存在しない。
それは悲しいことではあるが、一方で喪失を認識することが幸せかと言われれば、そうでもないのだろう。
「並行して、クロドの野郎をどうぶち殺すかも考えないとねえ」
マヴェリカは苛立ちを感じながら、そう吐き捨てた。
シセリーは彼女に問いかける。
「本当にそれで戻るの?」
「……正直に言うとわからない、前例が無いからね。ただし、無関係な他人が殺すよりは、本人たちが倒したほうが可能性はあるだろう」
「本人ねぇ。確かに彼女、魔術の模倣については異常な才能を見せてるけど……」
「ああ、問題はドロセアにどうやって守護者を使わせるかだ」
現在のドロセアの欠点。
それは防衛本能の欠如により、守護者が具現化できないことだった。
だがリージェがここに来たことで、それは解決する――マヴェリカにはそんな予感があった。
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