057 初恋の骸、鮮血の餞Ⅶ:死闘
スィーゼが視力を失ったのは最近のことだ。
元より鋭敏な感覚を保有していたこと、そして血の滲むような努力で騎士団に戻ってはこれたが、どうしても“視覚情報”に頼ってしまう部分はある。
視覚を覗いた四感――それらで得た情報は、彼女の脳内で映像となって再生されているのだ。
ゆえに視えてしまう。
その、“人の姿”を失ったジンの、本来なら見ずに済んだはずの姿が。
たとえモノクロであっても、熱が、音が、臭いが絡みついて、スィーゼを逃してくれない。
(ああ、本気であの人になら殺されていいと思ったのに)
そして心から後悔した。
(こんなことなら、戦場に戻ってくるんじゃなかった)
死の間際だからだろうか、やけに時間がゆっくりと進んでいるように感じる。
(あなたとこんな終わり方をするのは嫌だ。けれどこれ以上、悪い夢を見ていたくない――)
しかしそんな遅い流れの中で、ただ一人、通常の時と同じ速さで動く存在がいた。
否、それでも遅くはなっているのだが、まだ速いのだ。
そうしてスィーゼの元までたどり着いたイナギは、彼女に向かって飛び込むと、体を抱きかかえながら床を転がった。
ジンの爪は空を切り、余波でその先にあるテントの壁がぐちゃぐちゃに引き裂かれる。
「……なぜ助けたんだい」
スィーゼは反射的にそう言ってしまった。
すぐ後悔したが、イナギはなぜか微笑んだ。
「そう言いそうな顔をしておりましたので」
だから死ぬな、と――幾多の死を見てきた彼女は言った。
今のタイミングでスィーゼを救えたのは、おそらくイナギだけだ。
ゆえにその言葉には重みがあった。
「それでも。なぜ……助けたんだ……ッ! スィーゼはもう、あんなジンの存在を感じたくはないッ!」
だが割り切れない。
あまりに――あんまりだ、こんなのは。
だがそんな二人に無常にもジンは襲いかかった。
「今は逃げてくださいスィーゼさんッ!」
イナギは刀を抜くと、振り向きざまに迎撃する。
超振動を帯びた刀が爪とぶつかり合うと、ガンッと鈍い音がした。
「わたくしの刃でも断てないとは……!」
ジンがイナギと鍔迫り合う間に、もう一体の侵略者はラパーパに迫っていた。
あまりの恐怖に体がすくんでしまった彼女の元を、テニュスが抱きかかえる。
「あ、ありがとうございます、テニュス様」
「礼は……後だ」
テニュスは今すぐにでも絶叫して胸で渦巻く感情の奔流を吐き出してしまいたかった。
だがラパーパを優先した。
優先できてしまった。
そのことも彼女はショックだった。
いや、喜んでいいことなのだが、しかし――
頭に思い浮かぶのは、スィーゼの言葉。
初恋の骸。
「私はどうなっているんだ? おーい、スィーゼ、テニュス? どこに行ったんだ、おーい!」
ジンの抜け殻が、まるで人間のように喋っている。
無自覚な侵略者――その言葉の意味を痛感する。
(笑えねえよ、ジン。本当に、本当に、本当に、“過去”になるやつがあるかよッ!)
それは“死”ではなく、最初からそうだった、という話でしかない。
誰かが騙されたわけでもなく、誰かのせいでもなく。
渦巻き撹拌される脳。
定形を失った思考は、足を浸すだけで溺れてしまいそうなほど流れが激しい。
こんな状況では、頭を使うこと自体が無意味なのだ。
だからテニュスは反射的に、感情を排除し、この場でするべき“最善”を選ぶ。
「ラパーパ、まずはこっから出るぞッ!」
「体勢はこのままでいいんデス!?」
「こっちのが速いだろ!」
テントの出口を目指すテニュスだが、侵略者の追撃が迫る。
「邪魔すんじゃねえ化物ぉッ!」
彼女は片手で剣を振るい、迎え撃った。
イナギが打ち合えたのなら――そう考えての行動だったが、
「剣が……砕けて……!?」
驚愕するラパーパ。
テニュスの全身が粟立つ。
彼女の持つ剣は、一流の鍛冶師が作り上げた名剣だ。
それを、まるでなまくらであるかのように砕いたその爪。
彼女は実感する。
(生身じゃ勝てねえ……!)
レプリアンの、あるいは守護者の必要性を。
イナギは簒奪者だから打ち合えたのだ。
それでも受け止めきれず、押されているではないか。
裂け目を開くための個体でこの強さなのだ、あそこから出てこようとしている大型侵略者はさらに強いのだろう。
ここに序列は確定した。
最上位に位置するのは大型侵略者と守護者。
次に裂け目を開くための侵略者――“中型侵略者”とでも呼ぶべきだろうか。
レプリアンもここに並ぶと言っていい。
その下に簒奪者がいて、さらにその下にS級魔術師がいる。
ここまで序列が低いと、A級だのB級だのの違いはもはや誤差と呼べるかもしれない。
守護者を使えるかどうか――それ以外の意味はない。
「テニュス様、次が来ますッ!」
「ラパーパ、しっかり捕まってろ!」
剣を失ったテニュスは、迫る鋭い爪を前に、赤い術式を纏った脚部で蹴りを放った。
それは爪と接触する直前、爆発する。
威力や熱ではなく、“爆ぜる”ことに重点を置いた魔術だった。
侵略者はよろめくだけで、二人は爆風に吹き飛ばされた。
ラパーパの下敷きになるテニュス。
自滅のようにも見えるが、結果として出口に近づくことができた。
そのままラパーパを抱え上げ、バランスを崩しながらも外へ出るテニュス。
一方、イナギは爪と刀で鍔迫り合いを続けながら、違和感を覚えていた。
(……相手の体勢を崩そうとする技術は身につけているようでございますね)
とても知能のない化物とは思えない、手練と向き合っているような感覚。
それは紛れもなく、ジンが身につけてきたものであった。
(人間が培ってきたものまで利用しようというのですか、小賢しい!)
怒りに震えるイナギだったが、しかし状況は劣勢である。
技術面では対応できても、単純にパワーでは相手の方が上回っているのだ。
すると、ジンはわずかに腕の力を弱めた。
ふいを突かれたイナギに隙が生じる。
「しまっ――」
鋭く突き出された爪が、彼女の脇腹をえぐった。
「ぐ、がっ……!」
吐息と共に、血の匂いがせり上がってくる。
どうやら肉だけでなく、内臓まで巻き込んで持っていかれたようだ。
それでも彼女の両足はしっかりと地面を踏みしめていたが、痛みと出血で動きが鈍るのは避けられない。
スィーゼはまだ精神的ショックから立ち直れておらず、かばいながら戦うのにも限界がある。
だが、次の瞬間――イナギは背後から誰かに突き飛ばされていた。
(スィーゼさんッ!?)
顔に血と肉片を付着させたスィーゼが、猛烈な勢いで飛び出したのだ。
それはジンでさえも反応できないスピードで、一瞬でテントからの脱出に成功する。
とはいえ、跳躍というよりは射出とも呼ぶべき強引な飛び方だったため、着地には失敗し、二人して地面を転がることになったのだが。
「おいお前ら大丈夫か!?」
心配するテニュスだったが、すぐに起き上がる二人。
ラパーパはイナギに駆け寄り、素早く魔術による応急処置を行う。
治療を受けるイナギが気になっているのは、突き飛ばされたことではなく――
(今の力、明らかに人間離れしておりました……)
スィーゼが発揮した力の方であった。
火事場の馬鹿力と呼ぶには強烈すぎる。
当のスィーゼは、何事もなかったように立ち上がり、服についた砂を払っていた。
その顔に表情はなく、ただひたすらに虚しさに支配されている。
イナギを救おうと動けたのは――彼女の心が相当に強かったからに違いない。
「助かりました……スィーゼ、さん」
「まだ何も終わっていないよ……何も……」
背後からはジンの成れの果てと、さらに別の侵略者が迫る。
また、周辺には大勢の悲鳴や怒声が響き渡っていた。
「いつぞやよりもさらに地獄絵図じゃねえか!」
「潜んでいた侵略者が一斉に目覚めたようでございますね」
「それだけあの裂け目が重要だということだろう……」
「ワタシ、守護者を使います!」
「ああ、頼んだ。イナギ、スィーゼ、ラパーパが集中できるまでの時間稼ぎだ!」
ラパーパの守護者は、まだ完全と呼べる状態ではなかった。
かなり形にはなっていたが、鎧の形状になるまでにそれなりに心を落ち着ける時間が必要だ。
もっとも、時間を稼いだところで、こんな悲鳴飛び交う戦場で集中できるかは疑問ではあるが――
(やるしかないんデス、テニュス様を守れるのはワタシだけなんですから!)
胸に強い決意を宿し、彼女は膝をつくと、天に祈るように胸の前で両手を握った。
その時だった。
「どぉりゃあぁぁぁぁああああッ!」
ひときわ迫力のある声が轟き、同時に周囲にあった建物のいくつかが弾け飛んだ。
そして跡地には、地面からせり出した巨大な水晶体がそそり立っている。
「今度は何だよ!?」
「今の声――アンタムさんでございますッ! 姿が見えないと思ったら、あんなところに!」
立ち込める砂煙の向こう――ゆらりと幽鬼のように揺れるアンタムの姿があった。
肩で呼吸をする彼女は左腕を失っており、傷口から流れ出た血が白衣を汚していた。
「あーしを舐めんなっつうの。まだマヴェリカさんも殴ってないってのに、こんな場所でぇ……死ねないし……ッ!」
「お、おいアンタム、大丈夫か!? お前その腕――まさか、守護者を使って!?」
「マヴェリカさんから言われた通りにやるだけじゃつまんないしさ、あーしも身に着けてやったってワケ! まあまだ未完成ですケド!? てかめちゃくちゃ痛いんですけどぉ!」
涙目、涙声のアンタムだったが、瓦礫に押しつぶされた無数の侵略者の亡骸を見るに、腕一本分の成果としては十分すぎるものだった。
しかし、それでも敵の数はあまりに多い。
背後から襲いかかるジンの爪を、再びイナギが受け止める。
「彼の相手はわたくしがします、残りはお三方で!」
「あ、ああ――やってやるよ。あたしが、ラパーパを守り抜くッ!」
「ジン……クソッ、スィーゼは、スィーゼはぁぁぁああッ!」
それぞれのやりきれない感情を、侵略者に向けるテニュスとスィーゼ。
「ジン、あの姿……そんな……」
一方でアンタムは、初めて侵略者と化したジンの姿を見て絶望する。
ゾラニーグと話した時点で一定の覚悟はしていたが、しかし現物を見るのとでは大違いだ。
「王国のために誰より一生懸命に生きてきてさ、こんなの、あんまりだし……」
王族である彼女は、ジンとの付き合いも長い。
テニュスやスィーゼほどではないにしろ、心の傷は深く――
そんなアンタムの背後から、別の侵略者が襲ってくる。
「あんたたちさえ、いなければあぁぁぁああッ!」
八つ当たりするように、残った左腕に守護者を纏うと侵略者を殴りつけた。
それだけでも、侵略者の爪は砕け、遠くへ吹き飛んでいく。
そして地面から突き出した水晶に背中から激突すると、絶命して動かなくなった。
だが代償として、左腕の骨は砕け、肉は潰れ、激しい内出血により腕全体が紫色に変色する。
「どーせ痛いのはもう変わんないし、どーせあとで治せばいいんだし。こっちの腕もぉ、千切れるまで使い潰してやるぅぅぅッ!」
やけくそになったアンタムは、前方から迫る侵略者の群れに左腕一本で立ち向かう。
「また数が増えやがった! ぐうぅ、近づかせるかよぉおおおッ!」
どこからともなく現れる、裂けた人間から二本の巨大な腕を生やした中型侵略者たち。
その数は、一箇所に集まろうとしているとはいえあまりに多く、逆に言えば“裂け目”を作るのにそれだけの数が必要だということを示していた。
潰せば潰すだけ時間は稼げる。
それをモチベーションに、片手を潰され、胴を引き裂かれ、太ももをえぐられながら、テニュスは己の肉体と炎で敵に立ち向かう。
力では勝てない、だから己を犠牲にラパーパへとバトンを繋ぐために。
「スィーゼは生き残ってしまった。死ぬことを許されなかったんだよっ! だったら、こんな場所で死ぬわけにはいかないんだぁぁああッ!」
スィーゼは半ば錯乱状態になりながら、がむしゃらに侵略者に立ち向かった。
剣は途中で折れた。
生み出した水の刃はたやすく潰される。
そもそも彼女はAランク魔術師だ、魔術の出力面では簒奪者はおろかテニュスにも劣る。
攻撃を通せるはずもないのだ。
だから、彼女は本能で敵を殴りつけた。
魔術で生み出した水色の篭手――それを纏った拳は、一撃で侵略者を粉砕する。
(あいつ、守護者を!?)
テニュスは気づく。
だがすぐに戦闘に意識を戻した。
スィーゼは繰り返し守護者の腕を使用していたが、アンタムのように反動で腕が千切れる様子はない。
つまり、かなり高いレベルで守護者の完成に近づいているということだ。
一方で生み出される篭手は歪な形をしており、それはスィーゼの今の心境を表しているようだった。
おそらくあの様子だと、全身に鎧を纏うことはできないのだろう。
ゆえにこの場での切り札は、ラパーパ一人だ。
(大勢の人が傷ついて……死んでいく……ああ、なんて残酷なんでしょう……)
目を閉じていても、惨劇の音は聞こえてしまう。
集中しなければならないと理解していても、こんな場所で完全に自分の世界に閉じこもるのは無理だ。
(使命感があって聖職者になったわけじゃありません。たまたま才能があって、そうするしかなかっただけで。そう生きてきた中で――大勢の人を救いたいと思うようにはなりました)
だがそれでも、守護者を呼び出すことはできる。
集中というのは、必ずしも意識を研ぎ澄ますこととは限らない。
それが全てなら、ラパーパよりもテニュスの方が先に守護者の力を手に入れているはずだから。
(けど、“本能”はもっと軽薄で、残酷で)
自分と真っ直ぐに向き合うこと。
理性と本能は別にあって、綺麗事じゃなくて、自分自身の本性を知ること。
(大勢の人間が苦しむことより、テニュス様の痛そうな声の方がずっと心が痛んでしまう時点で、きっとワタシは優しい人間なんかじゃないんデス)
守護者を目覚めさせる方法がそれだとするのなら。
この魔術を生み出した人間が、理性と本能の距離が限りなく近い“彼女”であったことには納得しかない。
(本能と向き合うことは、そんな自分を受け入れること。ドロセアさんはあまりに真っ直ぐすぎたから、一番最初にこの力にたどり着いたんデス。ワタシも――あなたと過ごした時間のおかげで、少しはその境地に近づけたのかもしれませんね)
見知らぬ誰かのためではない。
愛する人のために。
テニュスのために――ラパーパは立ち上がる。
「顕現せよ、守護者“ジュノー”!」
少女の体を光が包み込む。
それはやがて大きな巨人へと姿を変え、王都の中心に降り立った。
「あれが……ラパーパの守護者……!」
振り向いたテニュスの瞳には、それが希望の象徴であると同時に、そびえ立つ壁のようにも見えた。
ドロセアの守護者とは違う、淡い桃色をした丸みを帯びたフォルム。
ドレスや花を思わせる形状をしており、ラパーパを知る人には、それが彼女の“本能”と言われると納得してしまうような女の子っぽさがあった。
だがそんな華やかな外見とは裏腹に、さっそく“ジュノー”は守護者としての本領を発揮する。
頭上に浮かぶ灰色の球体が、光を溜め込みはじめた。
『自動迎撃魔装ガニメデ、一斉発射デス!』
ラパーパは頭に浮かんできた武装の名前と共に、力の解放を命じた。
次の瞬間、“ガニメデ”は無数の光線を発射し、的確に侵略者だけを狙い撃つ。
光に触れた侵略者はジュッという音と共に蒸発し、跡形も残さずに消えた。
「はは……威力、ヤバくない?」
目の前にいた群れが一瞬にして消え、アンタムの顔がひきつった。
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