052 初恋の骸、鮮血の餞Ⅱ:発端
食事を終えたテニュスとラパーパは、手を繋いで暗くなった夜の街並みを歩いていた。
行き交う人々の雰囲気は、露出が多かったり、目つきが怖かったりと昼間よりも治安が悪かったが、悪人が暴れている様子は無い。
横を通り過ぎるゴロツキがチラチラとテニュスを見ているあたり、昼間の大捕物が相当効いているらしい。
「さっすがテニュス様デス!」
「なんだよ、いきなり褒めたりして」
「今夜の王都が平和なのはテニュス様のおかげですよ、お店の人も感謝してたじゃないですか」
「そこまで大したことはしてねえよ。料理をおまけしてくれたのは嬉しかったけどな」
「想定よりいっぱい食べちゃいましたね」
「おかげで腹がパンパンだ。デートで見せる食いっぷりじゃなかったかもな」
「ワタシは幸せでしたよ、好きな人がいーっぱい食べてるのを見るのって楽しいじゃないですか」
「だからいつも食事のときあたしの顔をじろじろ見てんのか?」
「あれはワタシが作った料理ですから、なおさら楽しいんデス!」
二人は和やかなムードで宿舎を目指す。
実を言うと、すでに騎士団の門限ギリギリの時間だった。
ちなみにこの門限、ちゃんと申請をすれば遅くできるのだが、テニュスの立場上それは通らない。
まあ、何事もなくたどり着ければ問題は無いのだが――
テニュスはとある路地の前で、ふと足を止めた。
「テニュス様?」
手を繋いだままなので、ラパーパの足も一緒に止まる。
テニュスはじっと、暗くて先の見えない路地を見つめていた。
「匂うな」
「すんすん……何の匂いデス?」
「血だ」
スイッチを切り替え真剣な表情になったテニュスは、手を離して一人で路地に入ろうとする。
だがラパーパはぎゅっと手を握りそれを阻止した。
「ワタシも行きますっ!」
「食後に見たくないもんかもしれねえぞ」
「何度か言いましたが、聖職者って血には慣れてるんですよ?」
「ふ、そうだったな。んじゃ行くか」
どうにか手を離さずに済んだラパーパは、テニュスと共に路地へと足を踏み入れる。
大通りと比べてやけに暗く感じるのは、明かりが無いことだけが原因ではない。
周囲に漂う嫌な空気というか、寒気のようなものが、必要以上に景色を不気味に見せている。
二人は路地の一番奥、行き止まりの場所までやってきたが、怪我人や血の跡などを見つけることはできなかった。
「何もありませんね」
「けど死臭は濃くなった」
「そ、そうなんデス?」
「ああ、おそらくはここが“現場”だ」
テニュスは手を離すとしゃがみ込み、何かを探し始めた。
ラパーパも彼女に倣い、とりあえずきょろきょろと周囲を観察してみる。
「血とその死臭って、何か違うんですか?」
「内臓をぶちまけるともっと臭いんだ、その残り香がここにはある」
「そっちはワタシも慣れてない、デス」
「戦場や惨劇の現場だと嫌でも嗅ぐことになる」
テニュスは平然とそう言ったが、ラパーパの表情は曇る。
ラパーパは、彼女の両親が暗殺者に殺されたことを知っている。
おそらく幼少期に嗅いだ“死の匂い”を忘れることができないのだろう。
「しかしどうなってやがる、匂いは新鮮だってのに形跡が残ってねえ。正しき選択でもここまで素早く、完璧に片付けられるとは思えねえが」
「テニュス様っ、あの壁に!」
「何か見つけたのか?」
ラパーパが指し示した場所に駆け寄ると、そこには壁にへばりついた人間の毛髪が数本あった。
テニュスがつまみ上げると、その先端にはわずかだが肉片のようなものも付着している。
「これって……頭の皮、デス?」
「微妙に骨もくっついてんな。要するに頭蓋骨かこれ」
「そこだけ斬られて、壁にへばりついたんですかね」
「だとすると血の一滴ぐらい落ちてそうなもんだ」
「では他に方法が……?」
「例えば――この部位以外を一瞬で消滅させたとか、な」
そう言いながら、切断面を観察するテニュス。
それは刃物での切断や、魔術で焼かれたような傷口ではなく、切れ味の鈍い何かで切り取られたようにガタガタになっていた。
◇◇◇
宿舎に戻ったテニュスは、スィーゼのいる団長の執務室へ向かう。
彼女の視力はもう戻らないが、全身の火傷は少しずつではあるが改善へと向かっている。
それもひとえに、スィーゼの美容への執着と努力があるからだ。
チェアに腰掛けていた彼女は、執務室に置かれた応接用のソファへと席を移す。
テニュスとラパーパはそんな彼女と向き合い、路地裏で見つけた“死体”について語った。
「テニュスが言うのなら間違いないのだろうね。このスィーゼには及ばないが、君の嗅覚は野性的で優秀だ」
「褒めてんのかそれ。まあ、一応持って帰ってきたが」
そう言って、テニュスはハンカチに包んだ肉片をスィーゼの前に差し出した。
彼女は少し顔を近づけると、その匂いを嗅ぐ。
「なるほど、確かに微かではあるけれどこれにも死臭が染み付いているね」
「すごい嗅覚デス……」
「目を失った分も他でカヴァーできる、スィーゼの才能あってのことさ」
「はいはい、自画自賛はいいから他に何か匂いはしねーのか?」
「まさかテニュス、このスィーゼのことを犬かなにかだと思っていないかい?」
「ジンの犬なら喜んでなるんだろ」
「失敬な、一応は嫌がる素振りを見せるさ。ところで、犬の耳の被り物は用意しようと思うけど、首輪はジンの好みだと思うかい?」
「結局は喜んでんじゃねえか」
「ははは、まあ乙女の恋愛トークはここまでにしておこう」
「今の恋愛の話題……だったんデス?」
「深く考えるな」
「確かに――人間とも違う、魔術で焼かれたわけでもない、妙な匂いが混ざっているのは感じるね」
「……切り替えが早いデス。ちなみにですけど、その匂いで死んだ方の性別とかわかるんデス?」
「肉というより髪の方の匂いになるけど、男だと思うよ。年齢は二十代。かすかに古い血の匂いが染み付いてるあたり、戦いを生業にしている人間の可能性が高い」
「す、すごい……」
「はっ、ただじゃあ転ばねえと思ってたが、相当な特訓を積んだんだろうな」
「ははは、その程度の自分磨き、このスィーゼにとっては息をするようなものだよ。それで団長に隣に並べるのなら安いものだ」
軽くそう言ってのけるスィーゼだが、視力を失った苦しみは相当なものだったはずだ。
それがあっという間に回復し、今では騎士たちに稽古をつけるどころか、前よりもさらに強くなりつつあるのだから恐ろしい話である。
「それにしても、気になるのは謎の匂いの方だ。おそらくこれにやられたんだと思うけど」
「被害者に心当たりはねえか……って、王都の誰が死んだのかもわかんねえんだ、わかるわけ――」
「心当たりならある」
「あるのかよ……すげえな」
「なんでも知ってそうデス」
「こればっかりはたまたまさ。明日の午前、ここに団長が来ることになってる。そのときに話すよ」
「ジンが関係してんのか?」
「イエス、大ありさ」
口調こそいつもと変わらぬものの、スィーゼは物憂げな表情を浮かべる。
まるで身内が死んだかのような反応だ、とテニュスは感じた。
◇◇◇
翌朝、スィーゼの話通りジンが王牙騎士団の宿舎を訪れた。
彼は一人ではなく、黒髪の女性を連れてきていた。
「よう、ジン。元気してたか?」
「それはこっちのセリフだ、テニュス。元気なようで何よりだよ」
「んで、そっちの女は――ってやべえ、スィーゼがすげえ顔してやがる」
「すまない、団長の隣に女の匂いがしたものでね。このスィーゼとしたことが、嫉妬してしまったようだ」
「おや、何やら誤解されているようでございますね」
黒髪の女――イナギは一歩前に出ると、自己紹介をした。
「わたくしはイナギと申します。ジンとは昔、とある魔物を共に討伐した仲でございます」
「つまり古い戦友であると」
「そうでございます、スィーゼさん。ちなみに想い人はきちんと別におりますので、ご安心を」
イナギはスィーゼにそういう意味で睨まれていると理解していたらしく、わざわざそう弁明した。
ちなみに想い人とはアンターテのことである。
彼女の説明を聞いたラパーパが首を傾げた。
「そのジンさんのお知り合いが、どうしてここに来たんデス?」
「実はここ数日、ドロセアやリージェと行動をともにしていたのでございます」
「一緒に旅してたのか!?」
「はい、アーレムまでは」
「アーレムに侵略者が出たと知らせてくれたのが、他でもない彼女だ」
「ああ……スィーゼとしたことが、情報提供者の名前を失念していたようだ。イナギ、確かにそういう名前だった」
「知ってたのに睨んでたのかよ」
「恋は盲目なのさ、テニュスならわかるよね」
「胸を張るな、同意も求めるな!」
「あはは……つまりイナギさんは、ドロセアさんたちのことを教えるために、ここに来たってことデス?」
「それもありますし、他にもございますし、ドロセアから何度か名前を聞いたテニュスという方と話してみたかったというのも理由の一つでございます」
「そりゃありがてえ。あたしもドロセアのことを聞きたかったんだ、さっそく――と言いたいとこだが」
「スィーゼもわかっているさ、先にあれだろう?」
“あれ”が何なのかジンも理解したのか、彼は悔しげに唇を噛んだ。
「申し訳ないことをしたな」
「……? なんでジンが謝ってんだよ」
「団長が謝るようなことはないさ。けどその話も含めて、会議室に場所を移そうじゃないか」
スィーゼの先導で、宿舎内にある会議室に移動するテニュスたち。
その間、ずっとジンの表情は暗かった。
◇◇◇
「私は今、王国にまつわるとある調べ物をしていてな。スィーゼに頼んで優秀な騎士を一人借りていたんだ」
会議室に入るなり、ジンは自ら事の経緯を語りはじめた。
「訳あってその内容をスィーゼに伝えることもできなかった。それでも彼女は快諾してくれたし、派遣された騎士もよく働いてくれた。心から、感謝している」
目を閉じ、テーブルの下で強く拳を握り悔しさをあらわにする。
つまり、その人物が死んだということだろう――そこまではテニュスもわかった。
が、結局は“何を調べていたか”がわからなければ、疑問は解消しないだろう。
「昨日の夜、私と彼は王都で待ち合わせをしていた。彼が調べ上げた情報を受け取るはずだったんだ。しかし――彼は待ち合わせ場所には現れなかった」
「スィーゼは昨日の段階でそいつが帰ってこなかったことを知ってたわけだ」
テニュスがスィーゼに視線を向けると、スィーゼは死亡したと思われるその人物の名を口にする。
当然、テニュスは知り合いだ。
悲しげに天を仰ぐ。
ラパーパもまた、この宿舎で暮らす中で何度か言葉を交わしたことのある相手であったため、小さくないショックを受けていた。
「スィーゼはこれを団長の失敗だとは思わない。おそらく彼も同じことを言うと思うよ。けど、誰がやったのかぐらい聞く権利はあると思うんだ」
「すまない……」
「このスィーゼにも話せないんだね」
「いや、わからんのだ。今回の調査内容を知っているのは、私とその騎士だけだった。当然、待ち合わせの場所や時刻も二人しか知らない」
「なのに、先回りされていた……デス、か」
「私は今日まで、王国内部にスパイがいる可能性を考えて動いてきたが……こうなってくると、もはや……」
ジンはもっとも考えたくない可能性を頭に浮かべる。
テニュスはそれを読んだかのように言った。
「心を読まれてるとしか思えねえな」
唇を噛み、深くうなずくジン。
「そういやいたよな、心を操る力を持った簒奪者」
「カルマーロでございますね」
反応したのはイナギだった。
テニュスは意外そうに彼女を見る。
「あんた知ってんのか……ってそうか、ドロセアと知り合いだもんな」
「彼女と会う前から面識があったのでございますよ」
「どういうことだ?」
「わたくし、普通の人間ではございませんので」
「まさか……!」
目を見開くテニュス。
同時にわずかに敵意も見せるが、それを先読みするようにイナギは付け加えた。
「先に言っておきますが、わたくしは簒奪者やエレインの思想には賛同しておりません。体質は彼女たちと同じではございますが、全人類の魔物化などという戯言に耳を貸すつもりはございませんので」
「団長、彼女は本当に……?」
「ああ、想像通りだスィーゼ。ここでは便宜上そう呼ぶが――簒奪者らしい。実際、私が二十年前に共闘したときから歳を取っていないからな」
確かにイナギは、昔ジンと一緒に魔物を倒したことがあるとは言っていた。
が、それが本当に二十年も昔だとは、誰も想像していなかったに違いない。
もちろんラパーパも驚いていたが、それよりも気を張り詰めるテニュスの方を案じた。
「テニュス様、警戒しなくていいと思います」
「けどよ……」
「ドロセアさんと一緒に行動したということは、信用されているということデス」
「……そうか、ドロセアにとっても簒奪者は敵だもんな。その上で信用したってことか」
ようやくテニュスが敵意を緩める。
イナギはほっと胸をなでおろし、笑みを浮かべた。
「ご理解いただけて嬉しい限りでございます」
「疑ってすまなかったな」
「スィーゼが思うに、その珍妙な口調のせいで余計に怪しく見えてるんじゃないかな」
「お前が言うなよ」
「申し訳ございません。二百年ほど前に突貫作業で敬語を身につけたところ、変な癖がついてしまったのでございます」
「スケールがでけえデス……」
「二百年かよ、細かいとこ気にしてたら話が進みそうにねえな。えーっと、カルマーロのこと知ってるんだよな、あんた」
「ええ、彼の使う魔術もある程度は。しかし彼の場合、相手の心を読むようなことはできないはずでございます。あくまで闇の魔術で他者を惑わすだけでございますから」
「氷を使う簒奪者の方はどうデス?」
「アンターテでございますか。彼女にはそのような繊細な魔術を扱う能力はございません」
カルマーロよりも少し棘のある言い方で否定するイナギ。
暗にアンターテが直情的で不器用と言っているようだ。
「となると、簒奪者以外の敵の可能性も出てくるってわけだな」
「私としては、侵略者がそういった能力を持っている可能性を考えている」
「やっぱり侵略者って得体が知れないデス」
「ひょっとすると、肉片からスィーゼが嗅ぎ取ったあの匂い、侵略者のものかもしれないね」
昨晩、スィーゼは肉片から得体のしれない匂いがすると話していた。
人でもない、獣でもない――簒奪者の場合、人と同じ匂いがするためこれも除外される。
となると、侵略者ぐらいしか考えられないのだ。
「だがまだ確定したわけではない。犯人探しも含めて、私は調査を続けるつもりだ」
「よくわかんねえけど、ジンは平気なのかよ。狙われてるってことだろ」
「安全ではないだろうな。だが、これまでの人生でも安全だった瞬間などない」
「団長らしい答えだね」
「はっ、それもそうだな。あたしもずっと命を狙われてたし」
「もちろんスパイの正体がわかれば、みなにも協力を頼むことになるだろう」
「いつでもスィーゼは団長から声がかかるのを待っているよ」
「それまでには、あたしも“力”を身につけねえとな」
教え子たちの頼もしい言葉に、ジンは優しく微笑んだ。
◆◆◆
ジンはイナギを宿舎に残し、外に出た。
今ごろ、イナギはテニュスやラパーパに、現在のドロセアやリージェの状況を話していることだろう。
それとは対照的に、ジンは暗い夜道を沈んだ表情で歩く。
(ドロセアの動きが漏れていた一件から、スパイの容疑者は三名に絞られた。スィーゼ、シルド、そしてクロド殿下だ。スパイの取った行動からして、その人物は何らかの理由で侵略者に協力しているのだろう。あるいは、“奇跡の村”で産み付けられた侵略者そのものである可能性もある)
彼が向かう先にあるのは、現在もまだ復旧活動が行われる大聖堂――その付近にある教会の本部施設だった。
(私はその可能性を潰すために、全員の両親を調べ上げた。スィーゼとシルドは簡単だった。どちらも騎士出身で、騎士団に入る際に両親の身分も調べられていたからだ。念のため、奇跡の村に近づいたことがないか、母親に別の男がいなかったかも確かめたが、そのようなことはなかった。残るは一人、クロド殿下――)
もし侵略者が人の心を読む能力を持っているのならば、この容疑者候補も意味をなさなくなる。
なぜなら、ジンとすれ違ったり、遠くから見るだけでも情報が漏れてしまうからだ。
しかし騎士は、クロドについて調べた結果、命を落とした。
それが彼への疑念を高める結果となったのは言うまでもない。
(王子なのだから本来ならば疑うまでもないが、私は知っている)
加えて、ジンは王族の“秘密”を知っている。
想定外に背負わされた足かせではあったが、今はそれが役に立っている。
(彼の父親が誰なのか、サイオン陛下ですら知らなかったことを)
教会本部に到着したジンは、門番に声をかける。
無理を承知でとある人物との面会を要望すると、それから数分後に中に入ることを許可された。
通されたのは応接室ではなく、当該人物の自室。
中には、胡散臭い表情のゾラニーグが立っていた。
「珍しい来客ですね。テニュスが暴れた件以来ですか」
彼は椅子から立ち上がらずに彼の方を見た。
ジンはゾラニーグのデスクの前にやってくると、腕を組む。
「お前がすっかり隠居してしまったからな、顔を合わせることもなくなった」
「失礼な、忙しすぎて表に顔を出すタイミングが無かっただけです。無論、命を狙われないためでもありますが」
「主流派をサージスから引き継いだそうだな、強引な手を使ったんだろう」
サージスがアンターテに殺されてから、教会の権力者たちは、宙ぶらりんになった地位を自分のものにしようと動き出した。
だがゾラニーグがそこで先手を打った。
「ええ、彼の遺言をでっちあげました」
ありもしないサージスの遺言を捏造し、公表したのである。
そこには、自分が死んだときにはゾラニーグに後を任せる――そんなありえない言葉が、ありえそうな理屈と共に綴ってあった。
「悪人め」
「彼に後を託されたのは事実ですよ。それに、私のようなずる賢い人間がいなければ、すぐに教会は腐ってしまいますから」
嘘をついた張本人のくせに、悪びれないゾラニーグ。
だが実際のところ、彼が主流派をサージスから引き継ぐことができたのは、教皇であるフォーンの手助けが大きい。
ゾラニーグが教会の財政面を大きく改善したのは事実であり、フォーンもそこは認めていたのだ。
「それで本日はどのようなご要件で?」
そこまでは余談だ。
ジンがここに来たのは、ゾラニーグに頼みたいことがあったから。
軽く息を吐き、顔つきを引き締めると、ジンは言った。
「王太后陛下に会いたい」
思ってもいなかった言葉に、ゾラニーグは目をまん丸くしている。
「ティルミナ様に? なぜ――それを私に頼むのですか。あなたはクロド様と繋がっているはずでしょう、その母親に会いたいのなら彼に頼むのが筋なのでは」
「その殿下にまつわる真実を知る必要があるからだ」
「真実……?」
的を射ないジンの曖昧な言葉に、怪訝そうな顔をするゾラニーグ。
すると、ノックもせずに扉が開かれた。
「フォーン様!?」
「教皇猊下!」
二人は思わず大きな声をあげる。
突如として教皇が乱入してきたのだ、驚くのも当然のことである。
おそらく、ジンがここに来たと聞いて様子を見に来ていたのだろう。
「ジンよ……お前も知っていたのだな」
あるいは、最近のジンの動向を見て“もしかしたら”と思っていたのかもしれない。
ジンは目を伏せ、苦しげに口を開く。
「死の間際、サイオン陛下から聞かされました」
「そうか、一人で抱えて死ぬのが寂しかったのであろう」
「お二人とも、何の話をしているんです?」
事情の分からないゾラニーグは、教皇の前であろうと不満を隠そうとはしない。
フォーンもここに現れた時点で、ゾラニーグに対し隠すつもりはないようだが――
「ゾラニーグに話す前に……ジンよ、聞かせてもらおうか。なぜティルミナに会おうとする」
同時に、簡単に“秘密”を広めるつもりもないようだった。
ジンは隠しきれないと悟ったか、フォーンに対し正直に答える。
「クロド殿下が、侵略者の可能性があるからです」
目を見開くゾラニーグ。
年の功もあってかフォーンは動揺していないように見えたが、ただのポーカーフェイス。心の中は乱れていた。
なおもジンは話を続ける。
「以前より私の周辺から敵対勢力に情報が漏れていました。私はそれを逆に利用し、スパイの正体を暴こうとしたのです」
「そしてクロドが容疑者として浮かび上がってきたわけか」
「今回、私はとある人物にクロド殿下の身辺を探らせました。そして合流し、情報を受け取ろうとしたところ――彼は殺されてしまいました。おそらく侵略者の手によるものかと」
フォーンは、想像よりも深刻な自体だと認識したのか、「ふむ」と相槌を打つと少し間を置いて考え込んだ。
「……ゆえに、クロドこそが侵略者である、と」
「それを確かめるには、王太后陛下にお会いして、直に聞くしかないと考えたのです」
理由としては正当なものではあるが――フォーンはすぐにうなずくことはできなかった。
同じく真実を知るジンも、彼の気持ちは理解できる。
「私にはわかりかねます。候補にクロド様がいたのは理解しますが、そこからなぜ彼が侵略者である、なんて飛躍した結論が出るんです?」
そうゾラニーグが尋ねると、フォーンは決心したのか、彼にも秘められていた事実を告げた。
「サイオンには……子を作る能力がなかったのだよ」
ゾラニーグは数秒ほどその言葉を理解できなかった――いや、脳が理解を拒んだようで、硬直してしまう。
だが理解できたらできたで、今度は声が上ずるほどの驚愕がやってくる。
「ば、馬鹿な、ではカイン陛下とクロド様はっ!」
「二人とも、サイオンの子ではない」
フォーンの口から言い放たれるあまりに重たい真実に、ゾラニーグは思わず頭を抱えよろめいた。
そして「そんな、馬鹿な……」と呟いた。
「カインは私の息子だ。子を成せぬサイオンは、わずかながら王族の血を引く私に、ティルミナとの間に子を作ってくれと頼んだ」
「は、はは……今からでも冗談だとおっしゃってもらえませんか」
「すまぬが、事実だからな」
「なんてことだ……ただでさえ屋台骨がぐらついているというのに、これでは王国は砂上の楼閣ですよ!」
「お前が誰にも言わないと信じたからこそ、こうして話している」
「物は言いようですね、鎖で繋がれた気分ですよこちらは。では……クロド様は、誰の子供だと言うんです?」
もはや引き返すことは無理だと悟ったのか、自ら踏み込むゾラニーグ。
するとフォーンはゆっくりと首を横に振った。
「まさか……わからない、と?」
「サイオン陛下に子供を作る能力が無いと発覚したのは、クロド殿下が産まれた後らしい」
「そういう、ことでしたか。誰の子かもわからず、ティルミナ様も心当たりがないと答える。もしこれが事実ならば――」
「ああ、奇跡の村に滞在したことが原因で、侵略者の子を産んでしまった……その可能性がある」
それは隠し続けたがゆえに生じてしまった、あまりに大きすぎる疑念だった。
暴いても、暴かなくとも、傷は広がる。
「この真偽が確認できれば、王太后陛下を長年苦しめてきた疑惑を晴らすこともできる」
「しかしだジンよ、それはつまり、ティルミナの愛しい我が子が人ではない怪物だった、という意味でもあるぞ」
「そして怪物ではなかった場合、ティルミナ様は今は亡きサイオン陛下を裏切っていたことになるわけですね」
化物か、夫以外の子供か、その二択。
「どちらにせよ救いがありませんね」
自嘲的に笑うゾラニーグ。
ジンは黙り込んでいたが、胃はキリキリと痛んでいた。
できることなら、彼とて暴きたくはないのだ。
「しかし、暴かなければクロド殿下が侵略者である可能性が残り続ける」
「……王国のため、か。それならばサイオンも恨みはしまい」
ため息混じりにそう呟くフォーン。
そして彼は、ジンに告げた。
「よかろう、私からティルミナに話を通す」
ティルミナもカインも、敬虔な教徒である。
教皇たるフォーンの命令とあれば、逆らうことはできないであろう。
「ありがとうございます、教皇猊下!」
深々と頭を下げるジン。
しかし、やはりまだ胃は痛いままなのであった。
◇◇◇
ひとまず王族に連絡を取るため、フォーンとゾラニーグは部屋を出てジンと別れる。
二人で教会本部の廊下を歩いていると、ふいにゾラニーグが口を開いた。
「よかったんですか、フォーン様。前国王の死以降、ティルミナ様は前にも増してお壊れになられた。カイン様も手を焼いてらっしゃるとか」
ティルミナが王后でありながら表舞台に出てこなかったのは、彼女が精神面に問題を抱えているからだ。
まあ、そもそもその原因がクロドやカインが産まれた経緯になるのだが。
「元を正せば、私も原因の一つなのだ。それで彼女を解き放つことができるのならば」
「フォーン様も救われるというわけですね」
「……」
「しかし、サイオン様もとんだ呪いを残してくれたものです」
「あの男は、あれでナイーブなところがあったからな」
「さすが古くからの友人、よくご存知で」
「他人事のように言っておるが、お前も次期教皇になれば少なからず呪いを背負うことにはなるのだぞ」
「ご冗談を、私はどうやら裏でこそこそと動き回る小悪党が似合っているらしい。教皇などという器ではありませんよ」
そんなゾラニーグの言葉に、フォーンは少し残念そうな顔をした。
フォーンももう年だ、じきにサイオンの後を追うことになる。
本来ならサージスが次の教皇の最有力候補だったのだが、彼の亡き今、その後釜に相応しいのはゾラニーグだと考えていた。
しかし確かに、まだ彼は若すぎる。
己が教皇になることなど考えられないに違いない。
「それに恨みを買っていますからね」
「私も若い頃は権力を得るために腐心したものだ」
「意外だ、偉大な教皇様がそのようなことを」
「恨みなど、権力を得てしまえばどうとでもなるものなのだよ」
「権力者しか知らない真理ですね。しかし、私は簒奪者のみならず、騎士団長にも恨まれているのですよ? 私を次期教皇にと考えておられるのならば、人選ミスです」
「サージスはお前に教会の未来を託したのであろう」
「勝手に押し付けられただけですよ。たぶん、私は長生きできない」
ゾラニーグがそう自虐的に笑うと、フォーンは「そうか……」と寂しそうに呟く。
サイオンという友が死に、サージスという信頼できる部下も失い――ゾラニーグにも教皇の気持ちは理解できたが、しかし認識は変わらない。
建物の下敷きになり、自分だけが生き残ったあの日から、生の実感は損なわれたままだった。
◇◇◇
ジンとゾラニーグが、ティルミナの暮らす屋敷を訪れたのは、それからおよそ一時間後のことだった。
教皇が直々に話を通してくれたとあって、屋敷でのもてなしはかなり手厚い。
応接室でティルミナを待つ男二人の前には、国宝級のティーカップに注がれた超高級ハーブティーと、一流のパティシエが作ったでろうお菓子が大量に並んでいた。
メルヘンな世界に紛れ込んだおっさん二人という奇妙なシチュエーションの中、お茶にもお菓子にも手を出さずにじっと黙っているジンとゾラニーグ。
しばらくすると、ドアがノックされ、“世話係”とともにティルミナが入ってきた。
「うふふ、今日も元気でちゅね、うさちゃんっ。はいっ、うさちゃんは元気でちゅよ! ティルちゃんも元気ですかー? はーい、元気でーしゅっ。じゃあ二人で一緒にガイオス様に挨拶しましょーね? こんにちはーっ」
彼女は――うさぎのぬいぐるみを抱いて、ごっこ遊びをしながら入ってきた。
その視線はジンやゾラニーグを認識しているとは思えず、完全に自分の世界に入り込んでしまっている。
サイオンとさほど年は変わらないはずなので、少なくとも四十は過ぎているはずだ。
だがその口調や動作は、年端もいかぬ童女そのものである。
「ふふふっ、今日は素敵な天気、お出かけ日より。どこいく? ねえねえ、どこに遊びにいく? 楽しいこと、いーっぱいしましょうね! うさちゃんと二人でおでかけーっ、今日は誰に会えるのかしらねぇ?」
世話係に誘導されても、なかなかジンたちの前に座ろうとしないティルミナ。
「これは……」
ジンは絶句した。
確かに以前から彼女は心を病んではいたが、ここまで会話が通じないような状態ではなかったはずだ。
サイオンの死、そして王国で起きた事件――それらが引き金となり、完全に壊れてしまったのだろうか。
「聞いていた以上の有様ですねえ。さて、どうしますジンさん」
他人事のようにゾラニーグが言うと、ジンは大きくため息をつき頭を抱えた。
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