016 揺れる天秤
ドロセアは事を終えたあと、一時的に別の場所に避難させていたメーナたち三人と合流した。
そして案内したのは、裏路地にある掲示板の近くにあるボロアパート。
床に腰掛けたドロセアは、申し訳無さそうに苦笑いを浮かべた。
「二人のお母さんにはベッドで休んでもらうとして……あとは好きに座って、あんなお屋敷と比べると狭くてしょうがないだろうけど」
「助けてもらった立場なんだから、そんなこと考えないよ。ねっ、ミーシャ、お母さん」
そう言いながらも、二人は座る場所など無いと言わんばかりに困惑していた。
どうにか落ち着くと、メーナはドロセアに対し単刀直入に尋ねる。
「あなたは誰なの?」
「掲示板に書いてくれたメーナさんってあなただよね。じゃあ聞いてるんじゃない?」
「冒険者殺し、ってこと……?」
それを聞いてドロセアは眉をひそめる。
「そんな呼ばれ方してるの、私」
「違った?」
「いや……確かにできるだけ恐ろしい噂を広めてほしいとは言ったけど……」
「噂って?」
「あー……私の話をしてた人、何か言ってなかった? 誰かが冒険者殺しにやられてる、とか」
「それは聞いたかも」
「そのときに助けた人に、報酬の変わりに噂を広めてほしいって頼んだの」
「何のために……?」
ドロセアは無邪気ながらも、どこか影のある笑みで答える。
「ゼッツを釣るためだよ」
「釣るって……」
「あいつのせいで困ってる人はいくらでもいる。みんな求めてる、救世主をね。けど実際にそんな人間が出てきたら、ゼッツはすぐに潰そうとするでしょ?」
「それは、間違いないと思う。だって……ちょっと言うことを聞かないからって、私たちのお父さんを……ッ!」
悔しそうに拳を握るメーナ。
ミーシャは心配そうに彼女の名を呼びながらその手を握る。
母親は何かを思い出してしまったのか、両手で顔を覆ってうつむいた。
「叔父さんだってそう。何も悪いことしてない人を、あいつらは簡単に殺すんだからっ!」
「ちょっと力を手に入れただけで、そこまで調子に乗るとは思ってなかったよ。でも安心して、じきに全員殺すから」
笑顔で物騒なことを言うドロセアに、メーナは若干困惑する。
「こ、殺すって……ゼッツたちを?」
「うん、一人残らず。生きてる意味ないでしょ、あれ」
「でも……ゼッツは魔術師としても一流なんでしょ。本人はA級魔術師だけど、S級にも匹敵するとか、それ以上だとか」
「それ言ったらレイヴンもそうだったんじゃない? 大丈夫、倒せるだけの力は身につけてるから」
目の前でそれを見せつけられたので、何も言えない。
だがドロセアの手の甲にあるのは間違いなくZ級魔術師の印――
「どうやって、彼らはあんな力を身につけたのかしら」
ミーシャの疑問はもっともだが、メーナとしてはドロセアの方が気になっている様子だ。
しかしそちらは説明のしようがない。
Z級だけど、優れた師匠や仲間に出会えて強くなれた、としか言えないのだから。
だからドロセアはメーナの視線をひとまずスルーし、ミーシャの疑問に答える。
「王都の冒険者の間で怪しい薬が出回っててさ、これ使うと一流の魔術師になれるんだって」
そう言ってドロセアが懐から取り出したのは、紙の袋に入った赤い粉だった。
「あなたが持っているその薬が、そうだっていうの? そんな都合のいい薬が実在するのかしら」
「そうだよ、そんな簡単に強くなれるならみんなに配ったらいいのに」
「そうもいかないんじゃないかな、副作用はあるから」
「性格が凶暴になるとか?」
「んーん、魔物になる」
メーナは「えっ」と硬直する。
対して、冷めた表情になったドロセアは、自らの手の上にある薬を見ながらさらに詳しく騙った。
「放っておくと、服用した人間は全員魔物になるんだ。例外なく」
「それ、どういうこと?」
「要するにこの薬、人間に大量の魔力を与えるものなんだけどね。体の中にある魔力量が許容値を超えると生物は魔物になるんだ。動物の場合は人間よりその許容値が少ないからよく自然発生するんだけど、人間も魔力が成長しすぎると魔物になっちゃうんだよね」
「人間が魔物になるなんて、そんなことが……」
「だから薬を使ってるゼッツたちはそうなる前に全員殺さなきゃならないの、わかってもらえた?」
こくこくと頷くメーナ。
するとミーシャはぼそりと呟いた。
「殺す理由はそれだけなのかしら」
「どうしてそう思ったの?」
「ゼッツを殺すって言ったときのあなたの目……とても怖かったわ」
怯えながらそう語る彼女に、ドロセアは微笑みながら答える。
「お姉さんは鋭いね。もちろん個人的な恨みもあるよ、だからこそ私の名前を聞けばゼッツは必ず動く」
「知り合いなのね」
「同郷なんだ。あいつが故郷を出ていくときに、ひと悶着あってね」
「それで“釣る”って言ってたんだ」
「たぶん今ごろ、メーナさん家も取り囲まれてると思うよ」
「そうなのっ!?」
「レイヴンってそこそこゼッツと親しい仲だったし、たぶんあいつすっごい怒ってると思うよ」
「見つかったら何されるかわからないわね……」
「うん、だからしばらくはこのアパートで暮らしてもらう。我慢してね?」
「それで命が助かるなら構わないわ」
「私も同じ。いいよね、お母さん」
母はまだ父の死に様のフラッシュバックから立ち直れないのか、顔は青く体調も悪そうだ。
娘の言葉に対しても、ぎこちなく笑うので精一杯だった。
「もちろん外には出ないようにね、見つかったらすぐに殺されると思うから」
「それって、どれぐらいの期間なのかしら」
「私がゼッツを殺すまで」
二人を安心させようと、ドロセアは軽い口調で言い放つ。
「要するに、そんなに待たせないってこと」
逆にそれがメーナたちを怯えさせる結果になっていた。
加えて、そのタイミングで誰かがドアをノックしたため、メーナは「ひっ」と声をあげながら姉に抱きつく。
ゼッツの手下が嗅ぎつけたのか――そう思ったのかもしれない。
「大丈夫だよ、私が知り合いを呼んだだけだから」
「そうなの……?」
ドロセアが扉を開けると、現れたのは教会の修道女だった。
年齢は15、16歳ぐらいだろうか。
王都にしては珍しい美しい黒髪の少女だが、しかし走ってきたせいでその髪はボサボサに乱れている。
「ラパーパ、そんなに急がなくてもよかったのに」
「はぁ……はぁ……と、途中でゼッツ派の人間と出くわしそうになったんデス。あー、怖かった……」
「それは大変だったね。でもラパーパは狙われてないから大丈夫だと思うよ」
「トラウマってもんがあるんデス! この前はドロセアさんが助けてくれたからよかったですけど」
「あの、その方は……?」
「あ、ども。ラパーパ・シャルツって言います。見ての通りの修道女デス!」
やけに語尾に力を込めて自己紹介をするラパーパ。
彼女の手の甲にはB級魔術師を示す刻印がある。
どうやら正真正銘、教会に所属する修道女のようだ。
「今日は怪我人がいると聞いてドロセアさんの知人に呼ばれてきたんですよ」
「さっき同じアパートの人に伝言頼んだの。さすがにこんなに早く来るとは思ってなかったけど」
「ドロセアさんの好感度を稼いでおくに越したことはないデスからね!」
何やら現金なことを言いながら、ラパーパはメーナに近づく。
そして遠慮なく上着をがばっとめくった。
「きゃあっ!」
「悲鳴を上げなくてもここには女しかいませんよ」
「いきなりだからびっくりしたの!」
「んー、結構ひどい青あざですね。ゼッツ派にやられたんですか」
「まあ……でも私の方はまだマシな方だから。ミーシャやお母さんを見てあげて」
「私は後回しでいいわ! 普段、ひどい暴力を受けてたのはメーナの方なんだから」
「とりあえずパパっと見えてる外傷を治しますよー……しかしそちらの女性……えっと、ママさんで良かったデス?」
こくりとメーナたちの母は頷く。
「そちらさんの顔色が悪い理由は外傷だけでは無さそうですね」
「お母さんは元々体が弱いの……」
「じゃあそっちは私が治しとこうかな」
ドロセアは立ち上がり、ベッドで横になる母に近づいた。
メーナは思わず声をあげる。
「治すって、魔術でも治らないものをどうやって!」
「見たところ、魔術師等級は無し。選別の儀は受けてないけど私と同じZ級。その割には体内にある魔力量がそこそこ多そうなんだよね」
「魔力量が多そう? そんなの見た目でわかるものなの?」
彼女の疑問に答えたのはラパーパだった。
「信じがたいことですけど、ドロセアさんの目は魔力が見えるらしいんデス」
「普通の視力は無いかわりに、だけどね」
「そんな目があるなんて……じゃ、じゃあお母さんの体調が悪い理由は、魔力が関係してるってこと?」
「……少し前に、似たような人と会ったことがあったの。原因はわからないけど、生まれつき体が弱いって」
なぜかドロセアは少し悲しげにそう語った。
「さっきも言ったけど、魔力は増えすぎると人間を魔物化させる。つまり少量でも多少は肉体に影響を与えてるってことなの。二人のお母さんは、体内の魔力が肺のあたりに貯まって巡りも滞ってる。このせいで全身に不調が現れてたんだろうね」
そう説明しながら、母親の胸元に手を当てる。
「だからシールドでその魔力を他のとこに流してやれば……っと」
魔力障壁を生み出し、体内に干渉――魔力の滞りを解消し、全身に巡らせる。
周囲からは何もしていないように見えたが、当の本人は驚いている様子だった。
「あ、あら……呼吸が、しやすくなったわ……」
「うん、これで前より体調が良くなるはずです。外に出てそれを試せるのは、少し後になりますけど」
メーナとミーシャはその効果に懐疑的なようで、心配そうに母に近づく。
「お母さん、本当に体の調子がよくなったの?」
「ええ、ずっとあった息苦しさが無くなったわ」
「お母さん、気のせいじゃないのよね?」
「こんなにはっきり効果が出てるんだもの、それは無いと思うわ」
母親の答えを聞いて、今度は姉妹揃ってドロセアの方をじっと見る。
「な、何?」
「もしかしてだけど――あなたって、すごい人なんじゃないの!?」
「そうよ、実は高名な魔術師じゃないかしらっ!」
急に大きな声を出す二人に驚くドロセア。
するとラパーパが彼女たちに近づき、なぜか耳元で小声で話す。
「それが名前もぜんぜん売れてない無名魔術師らしいですよ」
「はぁ!? 世の中の見る目無さすぎでしょ!」
「ワタシもそう思うんですけどねー。そのくせテニュス様と友達だって言うんですから変な人デス」
「テニュスって王牙騎士団の団長だよね!?」
「そんなすごい人と友達で、ゼッツとも因縁があって、でも本人は全然有名じゃないなんて。あなた……」
ミーシャは妙に深刻そうな顔で告げる。
「致命的に自己アピールが下手ね」
「べ、別に目立とうと思ってやってるわけじゃないから……」
苦笑するドロセアだったが、よほど無名なことが気に入らないのか、メーナが声をあげる。
「いーやおかしいわ、それだけの能力があるから相応の名誉と相応の報酬を得るべきだもの。こんな貧相な場所で骨を埋めちゃダメ!」
「私、大切な人を取り戻すためにやってるだけだから。お金とか有名になるとかどうでもいいの」
「ミーシャ、今の聞いた?」
「ええ、愛に生きてるわね」
「あんな人が実在するなんて」
「裏路地の掲示板なんて使わせてる時点でロマンチストなのよ」
みるみるうちに赤くなっていくドロセアの顔。
掲示板については、ギルドの真似した方がわかりやすいかと思ってやっただけなのだが――考えてみればかっこつけていたかもしれない。
「あれ無自覚でやってたんですね、てっきりかっこつけた方が名前が広まりやすいからやってたのかと」
「ラパーパ、いいから三人の治療して……」
メーナたちだけでなく、その母親にまで微笑まれ、ドロセアは自分の部屋なのに肩身の狭い思いをするのであった。
◇◇◇
治療を終えると、ドロセアはラパーパと共に部屋を出る。
「見送らなくても一人で帰れるんですが」
「さっきゼッツ派から逃げてきたって言ってたじゃん」
「それはワタシが勝手に走っただけデス」
「私がいっしょに居たら安心でしょ? どうせ掲示板を見に行くつもりだったし」
ラパーパは「そういうことなら」と諦めて二人で歩く。
「それにしても、こんなに早く噂が広まるとは思ってませんでしたね」
「それだけゼッツ派を殺したっていうインパクトが大きかったんだろうね。あいつらに逆らうってことが、完全なタブーになってから」
「教会の中だと巻き込まれた人間は少ないですけど、冒険者や、彼らを頼りにする住民たちはかなり怯えてますね」
「本来なら王導騎士団あたりが動いてもおかしくないんだけど……」
「サイオン陛下の体調が優れないとかで、それどころじゃないみたいです」
ドロセアはわずかに足を止め、建物の隙間から見える王城に視線を向けた。
「今度はかなり病状がまずいんだってね」
「元々病弱なお方でしたから、ついにその時が来たってことなんでしょう」
「修道女なのにドライだね、ラパーパは」
「光属性の才能があったら強制的に教会に入れられるんです、別に身も心も修道女というわけではないですよ」
再び歩き始める二人。
このあたりは浮浪者も多く荒んでいるが、ゼッツ派がいないという意味では平和であった。
「強制的かあ……そういやゼッツの許可を取らないと、今は冒険者にすらしてもらえないんだってね」
「だからドロセアは冒険者にはなってないんですよね」
「所属した方が情報は集めやすいんだけど、今のあそこはさすがになぁ……」
「そういうの強制するやつなんて大体ろくでもないんですよ」
「主流派まで巻き込んでるけど、その発言大丈夫?」
「どーせこんなところに来る教会の人間なんていないんでヘーキです」
自虐なのに、胸を張るラパーパ。
このエリアに教会の人間が来ないのは、“荒れているから”という理由ではない。
「このあたり、ゼッツですら手を出せないぐらい古参の派閥が取り仕切ってるんですよね」
「みたいだね」
エルクが冒険者たちを牛耳る前から、派閥は存在していた。
その中でも最古参の派閥が、このあたりを取り仕切っているのだ。
エルクの支配下に置かれた冒険者たちもここには手を出したがらないらしく、仮にこの一帯を支配するならエルクたち本人が動くしかない。
つまり放置されているのは、そこまでするほど優先度が高くない、ということだろう。
ちなみにメーナが襲われたのは、掲示板から離れて派閥が支配する区域をわずかに出てしまったせいだ。
「その派閥の一番偉い人と知り合いだから、ここに身を隠せてるんじゃないんです?」
「一番偉い人とっていうか……」
ドロセアが話していると、前方の角からローブを纏った怪しげな人物が現れる。
その男性はフードを深くかぶり、顔すら見えない。
しかしなにやら親しそうにドロセアに声をかけた。
「ドロセア、ここにいたのか」
「ジ……ストームさん。こんにちは」
ドロセアが会釈をすると、一緒にラパーパも軽く頭を下げた。
「彼女は?」
「先日助けた修道女のラパーパさんです。傷の治療とかでお世話になってます」
「ど、どもデスっ!」
「そうか……修道女の知り合いか。こんな場所にはなかなか教会の人間は呼びにくいからな、今後も世話になるだろう、よろしく頼む」
「ワタシなんかで役に立つならいくらでも!」
なぜか上ずった声で返事をするラパーパ。
「緊張しすぎじゃない?」
「な、なぜだかすごい威厳を感じるんデス。こういう人の前にいると緊張しちゃうんですよ!」
ガチガチのラパーパだが、案外彼女の勘も侮れないものだとドロセアは感心した。
「もしかして、この人と知り合いだからドロセアさんここにいられるんです?」
「そういうこと。ストームさんが派閥の一番偉い人の知り合いなの」
「つまり、直に面識が無くてもドロセアさんを住まわせてしまうこの人も、かなり偉い人なのでは……?」
「ムル爺と古い知り合いというだけだ。だが彼もドロセアには前向きに協力すると言ってくれている」
ラパーパはムル爺という名前すら初耳だったのか、「はえー」とアホっぽい相槌を打つことしかできなかった。
そしてどうやら自分がいていい空気ではないと感じたようで、早々にドロセアから距離を取る。
「それではワタシ、このあたりで」
「送って行かなくていい?」
「へーきです。というかワタシに対して送り狼になっていいのはテニュス様だけですから! ではではっ!」
ドロセアは「送り狼……?」と首を傾げながら、離れていくラパーパに向け手を振った。
ストームもその後ろ姿を不思議そうに見ている。
「彼女、テニュスと知り合いなのか」
「以前、暴漢に襲われてるところを助けてもらったらしいですよ。それからテニュスのファンになってずっと追っかけてるんだとか」
「ふっ、ファンか……まさかテニュスに会うことを目当てにドロセアに協力しているのではなかろうな」
「よくわかりましたね。私もそのうちテニュスには会うつもりなんで、そのときに連れて行こうかと」
「さぞ喜ぶだろうな」
「だと嬉しいです」
テニュスの方は、ほぼ知らない人が会いに来て驚くかもしれないが。
それとも、ドロセアと再会できた喜びでそれどころではなくなってしまうだろうか。
ドロセアとストームは並んでしばらく歩き、目的地である掲示板まで到着する。
「これが例の掲示板か。懐かしいな……」
「これ、昔はギルドで使ってたらしいですね。ストーム……いや、今は誰も聞いてないか。ジンさんは見たことあるんですか?」
「ああ、数年前に新しいものに変わる際、破棄されてしまったが――まさかこのような使い方をされるとは思ってもいなかっただろう」
ここには冒険者のための依頼が貼り出されるのではなく、その冒険者を殺すための依頼が貼られるのだ。
確かに想定外の使い方だろう。
「さっそく書かれているか」
「それだけゼッツから救ってほしいと思ってる人がいるってことですね」
「行くのか?」
ドロセアはニコっと明るい笑みで答える。
「はい、三人目も確実に消してきます」
そしてジンに背を向けると、依頼主の元へ向かう。
そんなドロセアと入れ替わるように、掲示板の影からぬるりと老人が現れた。
腰がかなり曲がっており、杖が無ければ歩けないような体勢だ。
彼はジンの横に立ち、ドロセアの背を見つめながら言った。
「あのおなご、危ういのう」
「ムル爺、出歩いて平気なのか」
「わしを病人扱いするでない。まだまだお主のようなひよっこには負けんわ」
その白髪の老人こそ、派閥の長である“ムル爺”だった。
とても戦えるような人間には見えないが、手の甲にはS級魔術師の印が刻まれている。
「昔のあんたが強かったのは知っているが、あまり無茶はしないでくれ。エルクたちがいつ攻め込んでくるかわからん」
「返り討ちにしてやるわい!」
「それで死んだら後世まで恥ずかしい死に様が残るぞ」
「冷たいことを言うのう。冗談じゃ、冗談。わしとてわかっておるわ、あの赤い薬を飲んだ連中には勝てんことぐらい。だがそれはお主とて一緒ではないか」
図星を突かれ、顔をしかめるジン。
彼は悔しさに拳を握ったが、思うように力が入らなかった。
魔物化の後遺症――というよりは、脳を貫かれたことによる後遺症なのだろう。
魔物から人間に完全に戻れたのはいいのだが、無傷とはいかなかったのだ。
あるいは、弱ったのではなく、感覚が“変わった”のかもしれないが、今の肉体でしっくり来る力の入れ方、剣の握り方は見つかっていない。
以前の彼ならばエルクとも互角の勝負ができたはずだが、今の彼にはそれは難しいだろう。
「あまり落ち込むでない、わしがいじめたようではないか」
「ふ、新人いびりはムル爺の得意技だったろう」
「何がいびりじゃ、愛のある鞭と言え。ところで――あのおなごに言わんでよかったのか」
「マヴェリカさんのことか」
「言えばあの危うさ、少しはよくなるはずじゃぞ」
ジンはドロセアと再会したときのことを思い出す。
それはほんの数日前のことだ。
何の前触れもなく王都に姿を現した彼女は、ひとまず身を隠すためかこの裏路地を訪れた。
当然、ジンはあの肉塊の状態から無事に人間に戻れたことを喜んだが、ドロセアの表情は浮かない。
彼は『何があった』と尋ねた。
それに対しドロセアは――
『師匠も……みんなも、一人残らず殺されました』
悲しみと怒りを声ににじませながら、そう答えたのだった。
「彼女は何らかの意図があって、ドロセアをあの状態にしている。私は彼女の師匠ではないのだ、踏み込むべきではない」
「危うさが良い方向に働く、と?」
「マヴェリカさんはそう考えたのだろう。残酷さもなければ、目的は果たせない――と」
今のドロセアは、さながら抜き身の剣だ。
なおかつ、半年前に見たときは比べ物にならないぐらい強くなった。
おそらく魔物化の治療自体は数ヶ月前に終わっており、そこからマヴェリカにさらに鍛えられたのだろう。
しかし――何だかんだ言いながら、マヴェリカは愛情深くドロセアに接したはずだ。
そんな彼女がドロセアに残酷さを求めた。
一体何が起きたのか、ジンにはまだ想像すらできなかった。
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