表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/28

9章 大晦日、秋月の哀しい決断

◆ 12月30日(火)、『あさかぜ』は博多へ向かった。


 寝台特急『あさかぜ』は定刻通り東京駅を発車した。

 寝台列車に乗ったことがない雪子に、星野が「車輪がレールの継ぎ目を通過する音がガタンゴトン、ガタンゴトンなんだ。それを夢枕に聞きながら寝るって、最高だぜ。夜行列車で一緒に帰ろう」と提案したからだ。乗車券と特急券は1週間前から発売されるので、東京駅構内に徹夜で並んだ。徹夜組の大半は帰省する学生で、あちこちで酒盛りが始まるかと思えば、学生運動のセクトにこだわった大激論が展開された。星野と並んで雪子は朝を待った。


 星野とは学部は違うが早大生同士、共通する話題が多く、しかも兄と妹の間柄になっている。どこそこのカレーライスが安くて旨い、あの教授は大酒飲みだから一升瓶を担いで行けばいい、教授のツケを利用して『高田牧舎』でタダ飯にありつく算段など、相変わらず星野は饒舌で雪子を楽しませる。雪子を妹だと周囲に言いふらし、講義ノートを雪子に押し付けている星野は、浪人時代の鋭敏な暗さは影を潜め、普通の青年に近づいたのが雪子には嬉しかった。


 東京駅を18時30分発に出発し、博多駅に到着するのは翌31日の午前11時55分だ。雪子は3日前から咳が止まらず、白いスーツケースを持ち込んだ体調は最悪だった。乳白色の水を流したように青白い肌、氷と変わらない冷たい指先、悪寒に震える状態で発車ホームに辿り着いた。

 ホームで待ち合わせていた星野は、雪子の顔色の悪さに驚いた。


「おい、大丈夫か! どうしたんだ、風邪を引いたのか?」

「うん、風邪みたい、ちょっと辛い。でも、列車に乗ったら眠っているうちに着くんでしょ、だったら我慢できる、頑張ろうっと!」

 食堂車で軽い食事を摂ったが、雪子はほとんど食べられなかった。食べようとすると気分が悪くなり、胸を押さえて喉元まで上がりこむ咳を必死で堪えていた。

「無理するなよ、ハムサンドも全く食べなかったな。何か飲みたい物はないか、オレ買ってこようか? それとも寝るか?」

 雪子は早めに寝台に横になることにした。 

「オマエが中段でオレは下段だ。気分が悪くなったら遠慮せずに起こしてくれ。襲ったりしないから安心して、ゆっくり寝ろ」

 列車に備え付けの毛布をかけてもらい、雪子はとろとろと浅い眠りに吸い込まれて行った。


 近くで眠っている乗客に悪いから我慢しなくてはいけないと思っても咳が出る。幾度も咳を堪えたが、咳はひどくなった気がする。体を起こして雪子は車窓のカーテンを開いた。


 外はまだ暗闇の真っ只中らしい。いくつかの駅を止まることなく『あさかぜ』は走り抜けていく。薄暗い無人のホームを駆け抜け、ただ走って行く。漆黒の彼方に暗い海が垣間見える。眠りに落ちた黒一色の海が続き、砕け散る波頭だけが白い。こみ上げる咳をぐっと堪えて、雪子は寝台を降りて通路に向かった。星野は眠っていた。通路は常夜灯が灯り、足元だけはなんとか確保できる。

 隣の車両を繋ぐ通路に佇むと師走の寒気が襲いかかる。でもそれが心地良いと思った。咳とともに熱が出た雪子の体は寒気に包まれ、ふわりふわりと揺らいでいた。半分、夢を見ていた。秋月の息が止まるような永くて濃厚なキス、雪子を抱いて泣いていたケンタ、過ぎ去った過去はシャボン玉のように空高く消えて行った。


「おい、しっかりしろ!」

 雪子がいないのに気づいた星野は通路を探し、季節外れの幽霊のような姿で立ち尽くしている雪子を発見した。

星野の声で現実の世界に雪子は戻された。

 星野はためらわず雪子の額に手を置いた。

「ひどい熱だ! なんとか博多までもってくれ、今は瀬戸内を走っている、夜明けはもうすぐだ。しっかりしろ、ユッコ、たまにはオレを信じて頼れ!」



◆ 12月31日(水)、秋月の哀しい決断。


 1分の狂いもなく、寝台特急『あさかぜ』は博多駅に到着した。星野は実家に電話を入れて急患の受け入れを要請した。雪子は星野に包まれて、ふわふわと頼りなく歩いているだけだった。駅前のタクシー乗り場で叫んだ。

「急患なんだ、薬院通りの『星野産婦人科』へ行ってくれ! 急いでくれ」

 

 雪子は星野の実家へ担ぎ込まれた。

 あたふたと駆け込んで来た息子と見知らぬ女の子を見て、産科医の父親は驚き、そして尋ねた。

「その娘さんは涼の彼女か? 流産しそうなのか?」 

「親父、ふざけている場合じゃない。コイツは秋月さんの預かりものだ、オレの彼女ではない。一緒に帰省しただけだ。熱がものすごく高い、親父、なんとかしてくれ」

 息子の腕の中でブルブル震えている雪子の額に手を当て、父親は眉をひそめた。

「熱が高すぎる、咳もひどい。涼、この娘さんの親御さんと連絡とれるか?」

「無理だ、メモは東京に置いてきた。オレはわからない。コイツは家庭教師をしていた秋月さんの秘蔵っ子だ。プロポーズを断って大学で学びたいと飛び出した子だ。連絡先は秋月さんに聞くしかない」

「お前が言う秋月さんとはあの若先生のことか?」

「そうだ、オレが尊敬する先輩、秋月総合病院の若先生、伝説の男、秋月蒼一だ」


 2時間後、耳を塞ぎたくなるエンジン音を響かせ、2000GTは星野産婦人科に滑り込んだ。

「星野院長先生、雪子が大変ご面倒をおかけいたしました、申し訳ありません。早速で恐縮ですが、教えていただけませんか」

 挨拶もそこそこ、秋月は雪子の容態や母親からの聞き取り、どういう処置がされたかなど、仔細に星野院長に問いただした。

「先程、この娘さん、いや、西崎雪子さんのお母さまが見えられて、病弱だった幼少の頃にペニシリンを頻繁に打っていたこと、それが効かなくなりもっと強い抗生物質を使っていたと言われました。娘さんが「産婦人科」に運ばれたということで大変驚かれてましたが、私としては、気管支炎が肺炎を併発したと考えて処置しました。とにかく熱が高すぎます」

「院長先生のご判断は正しいと思いますが、それにしても41.1度の熱は危険過ぎます。今は解熱剤で若干下がっているとしても油断できません。雪子はどこです、会わせてください、私が治します。お願いします、私に治療させてください。責任は私が取ります」


 星野は、カミソリ秋月と揶揄されるように常に冷静な秋月の狼狽を目の当たりにして驚いた。そして、気を紛らすかのように車窓から遠くを見つめ、口を押さえて咳と嘔吐を押し殺していた雪子の青白い横顔を思い浮かべた。


 秋月は黒のタートルセーターに白衣というラフな姿で雪子のベッドに近づき、カルテを食い入るように見た。担ぎ込まれて、胸を開きやすい浴衣のような院内着に着替えさせられ、人形のように横たわっていた。ハァハァと口で呼吸して、咳は何とか止められているが苦しいだろう、胸も痛いに違いない。そんな雪子を眺めたまま秋月は考え込んでいた。雪子を救うにはどうしたらいいか、あがいていた。

 行きがかり上、星野も病室にいた。雪子の熱はいっこうに下がる気配を見せなかった。


 既に日は暮れたが、暗くなっても熱は下がらず、体力がもつかどうかの危険ラインに達した。予測はしていたが抗生物質の効きが極めて悪い。熱は僅かに下がったかと思うと、すぐ戻ってしまう。点滴の音は、高熱で苦しんでいる雪子の心臓をあざ笑うかのように規則正しくリズムを刻み、雪子の体内に落ちて行った。

 時計は既に午前3時を回っていた。

 緊張したこの病室から逃げ出したかった星野は、

「ここから出てもいいですか」

 秋月は朧な夢から覚めたような眼で、

「手伝ってくれないか。ただし、責任は俺だ」

「何をするのですか?」

「それ以上聞くな、お前は押さえるだけだ」


 秋月は持参した鞄から小さなアンプルを取り出し、注射器に充填した。

 そして、掛布団をめくり院内着を剥いだ。そこには下着だけの雪子が静かに眠っていた。

「雪子を抱えて横を向かせてくれ。俺が注射する瞬間、無意識に暴れるかもしれない。そのときは押さえくれ」

「こうですか?」

 星野は雪子を横向きに寝かせるために抱き上げたが、その軽さに驚いた。

 秋月はフーッと大きく息を吐き、雪子の下着を下げ、尻に注射した。そして注射の跡をしばらく押さえていた。雪子は暴れもせず、ハァハァと荒い息を続けていた。

 衣類を剥がれ、辛うじて恥骨を纏っている下着だけの雪子は美しかった。無機質な蛍光灯の下でひっそりと輝いていた。

 苦しげに息をしているこの小さな生物を見る秋月さんの眼はいったい何だ? 喋ることも出来ず、苦しげに息をしているに過ぎないユッコ。早く、起きてくれ……


 病室に緊張が走った。雪子の体が大きく跳ね上がった。秋月は雪子の体を押え込み、聴診器で鼓動の変化を探った。首を振り、鞄からアンプルを取り出して注射器を満たした。

「それは何ですか?」

「強心剤だ。次に拒絶反応が出たら迷わず打つ」

 

 雪子は生きているのか死んでいるのかわからない静けさの中で眠り続けていた。恐れていた次の拒絶反応はなく、どうやら危機を脱したようだ。何も知らずにただ眠っていた。

 熱のためか雪子はひどく汗をかいていた。その汗は真珠のように丸く形を留めたままキラキラと光っても流れ落ちることはなく、秋月に拭われるのを密やかに待っていた。秋月は愛おしむかのように優しく幾度も幾度も拭っていた。

「雪子、起きてくれ。波の音をたくさん聴きに行こう。眼をさましてくれ、お願いだ、僕の胸に戻ってくれ。雪子と過ごした日々は楽しかった。帰って来てくれ……」

 星野は見てはいけないものを見たと思った。いたたまれなかった。


「すみません。部屋に戻ってもいいですか? 部屋は2階の突き当たりです。何かあったら呼んでください」

「悪かった、そうしたまえ」

 ほっとして部屋で横になった。疲れているはずだが神経が苛立って眠れない。階下で何か物音がした。うとうとしていると誰かがドアをノックした。えっ、まさか、ユッコが死んだ! 眠気はたちどころに消え、ドアに走り寄った。

「どうしたんですか? まさか?」

「そうではない。とにかく来てくれ」

 秋月が立っていた。

 

「なんです? 拒絶反応ですか? それとも……」

「違う、この病室で俺と朝までつき合ってくれないか」

「はあ……」

 何があったかわからないが、点滴台が倒れ、砕け散った点滴瓶から流れ出る液はポタポタと床を濡らしていた。

 重い沈黙が病室を包んでいた。


「星野、聞いてくれ。やっと雪子が蘇ってくれたが、俺は後悔した。俺の命と引き換えてもいい、頼む! 生かしてくれと願った雪子だが、あと10日も経てば完治する。そして、俺がいない世界へ再び去って行く。何も知らず意識がないまま眠っている雪子を見ていると無性に腹が立った。そのときだ、雪子を救ったことを後悔したのは。行くな、もうどこへも行くな! 誰にも渡したくない! 

 俺は腕に埋め込まれた点滴チューブを引きちぎり、雪子を抱いて自分のものにしようとした。誰にも渡したくない、意識がない雪子を凌辱しようとした。星野、笑ってくれ、俺は最低の医者だ、最低の人間だ!」

 どうすることも出来ない沈黙が続いた。

「秋月さん、僕はここにいます。朝までいます」



◆ 午後のわずかな刹那、雪子は眼を開けた。


 1月2日(金)、ようやく熱が下がり始めた。明け方には39.1度まで落ちた。

 朝日が溢れ落ちる病室で、

「星野、リップクリームはあるか」

「使いかけですが持ってきます」

 星野が手渡したリップクリームを秋月は上部をメスでスパッと切り落とし、高熱でヒビ割れた雪子の唇に小さく輪を描いて塗っていた。

「こんなに割れてしまって、さぞ痛いだろう……」


 熱が下がり始めたことを聞き、笑顔で病室に入った星野院長は、

「明けましておめでとうございます。若先生、大変お疲れさまでした。良かったですねえ。正直なところ無理かと思っていました。実のところ、心配でよく眠れませんでした」


 しかし、彼は床に転がったアンプルを発見し、上機嫌だった顔色を一変した。

「若先生、あれを使ったのですか? 無茶な……」

「使いました。雪子を救うにはあの新薬しかないと考えました」

「あれは臨床例が少なく、認可されていないはずです。しかも想定以上の効果が見られる反面、拒絶反応の死亡例が非常に多く報告されている、危険な新薬です。

 若先生、ご存じでしょうが、やむを得ず処置を施す場合は必ず親族の同意を得る必要があります。今回は死なせずに済みましたが、軽率です、あまりにも軽率すぎます。万一が起こってからでは遅いのです。そのために強心剤を用意しても、それを使ったら終わりますよ、痛めつけられた患者の心臓は確実に止まるでしょう。お分かりですね。

 そして、若先生が用意されたもの、あれは強心剤ではありませんね。私が預ります。若先生、しっかりしてください。何を血迷っているのです」


 黙って聞いていた秋月は、

「星野院長のおっしゃる通りです。私は軽率で危険な医療行為を行いました。ただ、雪子が腕の中で死んで行くのは見たくない、失いたくなかったのです。苦しむ雪子が目の前にいながら、救けられない、何も出来ない、無力な医者でした。自分はどうなってもいい、救けたい、そう思いました。そして無認可の新薬を使う決断をしました。星野院長にご心配とご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございません」


 穏やかな午後の刹那、雪子は眼を開いた。

「せ・ん・せ・い?」

 秋月は窓辺に立ち、晴れ着姿で行き交う人々をぼんやりと見つめていた。

「雪子、雪子……」

 ふいに目覚めた雪子に、秋月は語りかける言葉を持ちあわせてはいなかった。ずっと雪子を見つめ続け、その頬を両手で挟み、逃げようとした唇を捉えて塞いだ。秋月は泣いていた。泣いていることを隠そうとするかのように雪子を離さなかった。雪子は夢と現実の区別がつかず、再び眠りに吸い込まれていった。


 熱が下がった雪子が本当に目覚めたのは翌日の1月3日午前7時過ぎで、病室にいたのは星野だけだった。天井を見たまま、頼りない表情で、

「星野さん? ここはどこなの? 『あさかぜ』で帰って来て、えーっと、咳がひどくて、ここは病院?」

「そうだよ、ここはオレの親父の病院。だが、高熱で死にかけていたユッコを救けたのは親父ではない、秋月さんだ。ほら、オマエの家庭教師だ、恋人だ」

 雪子は信じられないという顔をして、

「秋月先生? そうだった、先生はお医者様だった……」

 そのとき雪子は戸惑った表情を浮かべたが、その一瞬あとに見せた恥じらいを星野は見逃さなかった。


「秋月先生が私を治してくれたの?」

「そうだ、命の恩人だ。あの人は3日3晩ぶっ通しで寝ずに治療した。一睡もしていない。人間ってのは体温が42度に達したら死ぬそうだ。ユッコは危なかった。死にそうだったんだ。嘘じゃないぞ、ヒーヒーハーハー泣いてたぞ」

「えっ、本当ですか」

「混乱しているユッコには悪いが、オレの話を聞いてくれ。ユッコを秋月総合病院に転院させるそうだ。ここでは必要な検査が出来ないからだ」

「検査? 私はどこか悪いのでしょうか」

「詳しいことは秋月さんに聞いてくれ。下で電話している。すぐ戻って来るさ。意識が戻ったオマエを見たら驚くぞ、喜ぶぞ!」

 秋月はふたりの会話を廊下で聞いていた。雪子の声はほとんど聞き取れなかったが、星野の応答で推測できる。意識が戻ってくれた!


 病室に戻った秋月を見た雪子はポッと頬を染めた。

「ありがとう、戻って来てくれてありがとう。本当に危ないところだった」

 秋月はベッドの雪子を抱き起こし、いつまでも抱きしめて泣いていた。

 

 意識が戻った雪子に伝えたい言葉はたくさんあったが、何も思い出せない。生きてさえいればそれだけでいいと思ったのが、自分だけの人にしたい、自分のものにしたい、切ない思いがこみ上げていた。


 抱きしめられたまま顔をあげ、

「先生、ありがとうございました。本当にありがとうございます。でも入院していないといけないのでしょうか、帰れないのでしょうか?」

 秋月は現実に引き戻された。

「いや、待ってくれ。いろいろ検査をしなければならない。それに熱のせいで雪子の体は弱っている、衰弱している。熱も下がり切ってはいない、まだ危険だ。しばらくは安静が必要だ」


「ユッコが目を覚ましたと親父に伝えてきます」

「ああそうだ、頼む」

 涼は席を外したかった。秋月の心情を思うと、ふたりの噛み合わない会話を聞きたくなかった。


「親父、ユッコが起きましたぁ!」

「ほう、それは良かった、良かった。若先生の判断とあの娘さん、西崎さんの秘めたるパワーの勝利だな。俺にはあんなことは到底できない。失敗したら、家族を路頭に迷わすことになりかねないからだ。涼、西崎さんのお母さんに電話してくれ。どれ、若先生の顔を拝みに行くか」

 星野院長は病室に向かった。雪子の症状は危機を脱した。やっと時間は長閑に暮れて行った。



◆ あまりにも重過ぎる真実。


 雪子は覚醒したが、熱はまだ38.5度を下がらない。秋月はベッドの横に座り、雪子の言葉に耳を傾けている。どちらかといえば無口な雪子の話は、立ち止まったり、迷ったり、ふと諦めたりする。そんな雪子を眺めているだけでも秋月は嬉しかった、楽しかった。窓ガラスについた淡雪のように、俺の前から消えないでくれ、秋月はそんな思いで雪子の話を聞いていた。


 正午には戻ってくると言い残し、秋月は秋月総合病院に戻って行った。その隙に星野院長は雪子の病室を訪れた。お世話になったお礼を述べようとする雪子を制して、

「西崎さん、どうしてもあなたに話したいことがあります。よく聞いてください。若先生があなたの命を救った、知っていますね。今にも死にそうなあなたを救うために、若先生は自らの命と将来を賭けた治療を行いました。このことをあなたは忘れてはいけない」


 雪子は顔色を変えて、院長の次の言葉を待っていた。

「わかりやすく言いますとね、若先生はあなたの治療に、死亡率が高いために許可されていない未認可の劇薬を選択しました。おそらく従来の治療ではあなたを救えないと判断されたのでしょう。わかりますか? 

 そして、その劇薬を投与されたあなたが死んでしまったら、若先生は自殺したかも知れません。理由は明かせませんが私はそう思います。不法な劇薬を投与した医者というそしりを受けても、あなたが生きることを望んだのです。勿論、この劇薬の話は私の胸に封印しました。

 若先生の行動は私を猛省させました。患者さんの命を救うことを最優先して来たつもりでしたが自信をなくしました。西崎さん、あなたは助けられた命を大切にして元気に学生生活を送ってください」


 雪子はベッドで上半身を起こして話を聞いていた。雪子はポタポタと落ちる涙を拭こうともせず、キッと正面の壁を睨みつけたまま、話を聞いていた。

 深々と頭を下げ、

「星野院長のお話、心に刻みました。決して忘れません。ありがとうございました」

 雪子はそれ以上何も言葉に出来なかった。


 正午前に戻った秋月は雪子に涙の跡が残っているのを見た。何があったのかと疑心したが、やっと母親に会えた嬉し涙だと思い、自分の思い過ごしに苦笑いしながら、雪子に包みを渡した。

「これはなんでしょうか」

「僕の病院で患者さんが着用するものだ。それに着替えなさい」

「先生、どうしても転院しなくてはいけないのでしょうか、家で静かにしていてはダメでしょうか?」

「雪子の気持ちはわかるが、検査が必要だ。何でもなかったらすぐ帰れるから、我慢しようね、わかったね」

 秋月はやわらかな微笑みを浮かべて雪子の背中を撫でた。

 渡された包みと秋月とを交互に眺め、包みを開いた。中からは純白のバスローブガウンが出てきた。

「先生、見ないでください」

 ベッドの中でモゾモゾと着替え、ベッドから降りようとした足元が大きく揺れた。

「ほら、まだ入院して安静が必要だ。そうだろう、わかってくれるね」

 雪子はコクンと頷いた。


 秋月は純白のガウン姿の雪子を自分のコートで包んで抱きかかえていた。雪子は恥ずかしいのか陽光が眩しいのか、眼を閉じて秋月の胸の中にひっそりと隠れていた。爆音を残して2000GTは走り去った。


 ふたりを見送った星野院長は息子の涼を呼び止めた。

「涼、知っていたら話してくれ。元旦の明け方何があった? あの物音はなんだ? 駆けつけようかと思ったが、若先生に任せた以上出る幕はないと部屋に戻ったが、心配で朝まで眠れなかった、何があったんだ?」

「親父、それは言えない……」

「そうか、若先生が口止めしたのか」

「そうではない。教えてくれ親父、あの強心剤は一体なんなんだ?」

「強心剤だと若先生は言ったのか?」

「そう聞いた。秋月さんは『次に拒絶反応が出たら迷わず打つ』と言った」

「涼、あれは患者さんを永遠の眠りに導く薬剤だ。しかもあの量は一人分ではない。西崎さんを死なせたら若先生も死ぬつもりだったと思っている。この院内でそんな事件を起こされたかもしれないと考えると、今でもゾッとする。

 涼、若先生の眼は主治医の眼ではない、女を愛して苦しんでいる男の眼だ。それでも親父に話してくれることはないのか」

「悪いが、今は話せない……」


 星野は父の言葉を反芻した。そういうことなのか。秋月さんはたった2本の注射に人生を賭けたのか、医者の将来を捨て、命を捨て…… オレの知ったことではないが、こんな重い現実をユッコは正視できるのか? そして、秋月さんはユッコを自分の城に転院させて何をしたいのか?

 ユッコを秋月さんから解放する気はないが、林はどうだろう? 確か、車内で「林は元気か」と訊いたら顔色を変えたことを思い出した。やはりユッコを怪我させたのは林だったか……


 星野は林に電話した。林への親切心ではない、秋月の反応に興味を持っただけだ。

 林はすぐ出た。雪子からの電話を待っていたのかも知れない。星野は、列車に乗車したときからひどい咳が出ていたこと、実家の病院に搬送したが治療したのは秋月だったこと、先ほど秋月総合病院に転院したことを説明した。あの林のことだ、大声で質問をぶつけて来るだろうと思った予測は見事に外れた。林は秋月総合病院の名が出たときに、小さくため息を漏らしただけで星野に礼を述べ、「すぐ行きます」と電話を置いた。


 深夜、星野は林からの電話を受けた。病院に行ったが面会謝絶で会えず、病名や症状は守秘義務により教えられないと告げられたと訴えた。

 んっ、なんだと、面会謝絶? 転院後に容態が急変しない限りあり得ない。秋月さんがユッコを世間から隔離したのか? うーん、彼ならやりかねない。恐ろしい人だと星野は思った。

「明日、会わせてやる、午後3時に病院の正面スロープで待っていろ。ユッコのオフクロさんに面会謝絶の話はするな、心配かけるだけだ。わかったな」



◆ 1月4日(日)、秋月は林の面会を無視した。


 星野に林は頭を下げて礼を述べた。神戸商船大学に入学した林は、潮焼けした精悍な面構えと以前にも増す立派な体を持つ若者になっていた。だが今の林ならユッコのパンチでノックアウト出来そうだと、星野は胸の内で笑った。それより林と遭遇する秋月の反応が楽しみだった。


 秋月がユッコを隠すなら4階の特別室を選ぶだろう。あの階は主治医の許可がない限り、ナースも近づけない。ベッドは患者用のほかに主治医の仮眠用も設置され、シャワーが付いた浴室、トイレ、キッチンもあると聞いたことがある。あの階のどこかにユッコは隠されている筈だ。

「ついて来い。オレの推理ではこっちだ」

 星野は4階のボタンを押し、林を招き入れた。4階のフロアはまるで高級ホテルかと錯覚する分厚いカーペットが敷かれ、廊下に面して9つの病室があった。ユッコの病室には名札はないと考え、名札がない病室を捜して3部屋めのドアをノックした星野に、「どうぞ」と秋月の声がした。


 ドアを背にして白衣姿の秋月が立っていた。窓際にはセミダブルのベッドが置かれていた。

「ユッコ!」と叫んで近寄ろうとした林を秋月は、

「静かにしろ、患者はやっと眠ったところだ、起こすな」

 横たわった雪子の頬は薄紅色に染まり、穏やかな表情で眠っていた。林は一心に雪子を見つめているが、秋月は完全に林を無視した。


「雪子は眠っている。しばらくは起きない。面会謝絶のはずだ、帰りたまえ」

「ユッコはそんなに重病なのですか、教えてください!」

「僕は主治医として雪子の治療のすべてを担っている。キミに話すことは何もない。もう一度告げる、帰りたまえ」

 秋月に一礼し、林は力なく病室を出て行った。ロビーまで林を送り出し、星野は病室に戻った。


「連絡したのはお前だな。しかし、林に会えて良かった。お前には感謝する。昨日のことだが林は雪子を捜して全フロアを探し回ったそうだ。今日は気の毒なことをした。雪子は眠っていたからな」

「ユッコの体調はどうなんです、本当に面会謝絶なんですか? 転院後に悪化したのですか? 答えてくれますか」

「眠っている雪子を見てそう言うのか。お前はわからないか、雪子はあんなに幸せな顔で眠っているじゃないか。心配は無用だ」

 その言葉を聞き、星野は病室を出た。


 昨日の午前中、ユッコと話したことを思い出した。少し意識が混濁していたがそれは高熱のせいだろう。親父の話もちゃんと理解できたようだ。少なくとも星野はそう思った。とすると、ユッコは面会謝絶の症状ではない。もしかすると秋月さんは何か薬剤を処方してユッコを昼間は眠らせている? そして医者として多忙な業務が終わった後に、ユッコを抱いて口説いているのか? あくまでもオレの仮説だがと妄想した。

 秋月さんが言った「林に会えて良かった、お前には感謝する」の言葉がこだまする。秋月さんはユッコを本当に愛しているのかと考えた。



◆ 1月5日(月)の午後、何かに怯えた雪子。


 病院内は人影が少なく、秋月は朝から雪子の傍にいた。眠っている雪子、眼を覚ました雪子、飽きずに見つめていた。

 とろとろと微睡んでいる雪子の瞳に秋月は微笑んだ。

「起きてるか、昨日、林が見舞いに来た」 

 雪子はビクッと震えた。

「せっかく来てくれたが雪子は眠っていた。帰ってもらった」

「ケンタは元気でしたか」

 眼だけを布団から出して、秋月に訊いた。

「うん、逞しい青年だった。元気そうだ、安心しろ」

「そうですか。ケンタはまた来ますか?」 

「それはわからないが、会いたいか?」

 遠い眼をしたまま、雪子は黙っていた。

「林が好きか?」

「嫌いになったかも知れません……」

「なぜだ?」

「言えません。言ってはいけないことです」


 雪子は肩を震わせ大粒の涙をポロポロ零して怯え、泣きながらベッドから降りて秋月にしがみついた。秋月は初めて雪子が胸に飛び込んだことに驚いた。胸にすがって泣きやまなかった。よほど辛い思い出があるようだ。雪子をこんなに怯えさせる理由はなんだ? それはひとつしかない。林は雪子に挑み、拒絶された。それしかない。俺も林と同じことをしようとした。いや、もっと卑劣だ。意識がない雪子を捕らえようとした。林を責める資格は俺にはない。泣きたいだけ泣け、泣け、泣いて忘れろ。泣き崩れた雪子は秋月に抱かれたまま眠ってしまった。



◆ 面会謝絶? それはおかしい……


 1月7日(水)、朝っぱらから星野は父親の質問攻めにあっていた。

「秋月総合病院の院長から電話があって、西崎さんのことを尋ねてきた。若先生は特別室に西崎さんを囲い込んで、面会謝絶にしているそうだ。ことの成り行きを大変心配されていた。涼、知ってたか?」 

「知っている。見舞いに行ったらユッコは眠っていた。いや、眠らされていた」

「なに? 眠らされていた、そんなに悪いのか、何か余病を併発したのか? 容態はどうだった? 点滴は?」

「顔色はだいぶ良くなっていた。熱もないように見えたが、眠っていたからよくわからない。秋月さんは心配ないと言った」

「そうか、眠っていたのか。秋月院長が西崎さんをどんな娘さんかと訊くので、愚息と同じ早稲田の1年生で、頼りなさそうに見えるがシンはしっかりした娘さんで、星野家の嫁に欲しいぐらいだと言ってやった」

「親父、余計なことを喋られるとオレは迷惑だ! 出かけたいんだ、もう勘弁してくれよ」  

 涼は部屋を出ようとした。

「迷惑ついでに頼みがある。涼、また見舞いに行って来い。そして、本当の容態を確認しろ。面会謝絶とはどう考えてもおかしい、腑に落ちない。若先生が何をしようとしているか理解できんが、とにかく見舞いに行ってくれ」


 気は進まないが興味はある。星野は午後5時過ぎ、秋月病院の4階にいた。

「星野です。ちょっといいですか」

 ドアをノックし応答を待ったが、返答はない。

「秋月さん、話があります。開けてくれませんか」

 音もなくドアは開かれた。

「話とはなんだ? 入りたまえ。ただし、雪子は眠っている」


 レースのカーテンをすり抜けた夕日が、雪子の寝顔に弾けている。うっすらと微笑んでいた。

「なぜユッコは眠っているのです? はっきり言いましょう、なぜ眠らせているのですか?」

 秋月は答えなかった。

「これは僕の推測にすぎませんが、ユッコを眠らせていませんか? 都合のいい時間に目覚めるようにコントロールしていませんか。なぜです? ユッコは治っているのでしょう? なぜ、外へ出してくれないのです。僕の推測が正しければ、秋月さんのエゴだ、エゴでユッコを眠らせている!」


「そうだ。何とでも言え、俺のエゴだ。雪子は夜のとばりが下りる頃に眼を開く、俺がそうしている。それはいけないことか? 自分のテリトリーに拉致すれば、いつでも雪子の傍にいられると考えたが、甘かった、そうではなかった。ここでは医者の任務から逃れられない。雪子と過ごせる時間は限られる、それは夜しかない。俺は雪子と過ごす時間が欲しいだけだ。それはいけないことか!」


「星野はわからないだろうが、俺には青春はなかった。青春どころか何もなかった。幼い頃から病院の跡継ぎと決められ、選択余地はなかった。周囲の期待に応えて医者になった。研修医を経てこの病院に戻った俺は、若先生と呼ばれる鼻持ちならない自分に気がついた。1年間、気晴らしのつもりで女子高で講師を務めた。そこで会ったのが雪子だ。

 雪子は俺を信じ、壮絶なカリキュラムをこなして合格した。雪子を厳しく鍛え、雪子の質問に応えているときがこれまでの人生でいちばん楽しかった。なぜ俺はこんなに教え込んだのかと後悔したとき、全てが終わった。当然のように雪子は翔び立ってしまった。今、雪子が病室で眠っているこの僅かな時間だけが俺の安らぎの時間だ。それはいけないことか?」


「ユッコは知ってるのですか?」

「強烈な睡魔に襲われることを疑問に思っているかも知れないが、本当の理由は知らないはずだ。高熱の後遺症で、交感神経と副交感神経のバランスが狂った場合、昼夜逆転に近い生活に陥ることもあると嘘を教えた」

 星野はつい笑ってしまった。

「白衣を着た人間にそう言われれば、患者は信じるでしょうね。だが、ユッコはいつまでも騙せませんよ。アイツはそういうヤツです」

「それはわかっている。あーあ、お前が羨ましい、本当に羨ましい!」

「どうしてですか、ユッコと同じ大学だからですか?」

「それは2番目だ。1番はお前には普通の青春があり、自分の生き方を自由に選べる。大学も仕事も結婚相手もだ」

「秋月さんには青春はなかった、それは真実でしょう。だからといって、ユッコの青春を奪ってはいけない。たとえ命の恩人であっても。秋月さん、あなたはエゴイスト過ぎます」


「せ・ん・せ・い……」

 雪子は目を覚ましたようだ。星野に気づいて微笑んだ。ベッドに横たわっているのが不似合いなほどの弾ける瞳でふたりを見た。

「先生、起きてもいいですか」

「ああ、いいだろう」

 秋月は雪子の背中に腕を差し入れ上半身を起こして、背中に枕を2個重ねた。そのとき電話が鳴った。秋月は仏頂面で受話器を置き、

「用件が出来た、1時間ほど留守する。星野、そろそろ帰るか?」

 暗に帰ろと言わんばかりの秋月の言葉に、

「星野さん、帰らないでください。先生、いいでしょ、話したいんです。星野さんは私の兄さんです。お願いです」

 秋月は雪子の言葉に振り返り、

「兄さんか…… 星野、いてやれ。だが、イジルな」

 星野の耳元でささやき、秋月は病室を出た。


「星野さん、コカ・コーラが冷蔵庫に入ってますから、良かったらどうぞ飲んでくださいね。この前も来てくれたんでしょ、先生から聞きました。ごめんなさい。母も毎日見舞ってくれますが、母の姿はわかっても、何だかものすごく眠くって寝てしまうんです。私ってダメですね、だから夜は眠れないんですよ。そんな私に先生は付き合ってくれて、ずっと起きていてくれます。いつ眠っているのでしょうか、先生は」

 それは違う。睡眠薬か睡眠導入剤を密かに飲まされれば、誰だって寝てしまうさ、気にするな。星野は真実を明かすことは出来ず、言葉を呑み込んだ。


「コーラもらうよ」

 星野は冷蔵庫を開いた。冷蔵庫にはアンプルや錠剤が保管されていたが、その正体を絶対に知りたくなかった。妙なトラブルに巻き込まれるのはもうゴメンだと思った。コーラを2本取り出して栓を抜こうとした星野に、

「私はまだダメなの、もうちょっと食事が摂れるようにならないとコーラは飲んじゃダメって、つまんなーい」

「秋月さんが?」

「そう、お風呂もシャワーもダメって、ホントは気持ち悪いです。私の髪、臭いませんか?」

「いや、少し濡れているようだが、大丈夫だ」

「やだぁ、恥ずかしい、それって汗です。私は汗っかきなんです」


「秋月さんは何から何まで命令するのか、自由がなくてイヤにならないか?」

 雪子は首を傾げて暫く考え、

「ふふっ、先生の言うことを聞かないこともあります。でも、お医者様としての命令はちゃんと聞いてます。

 あのね、外の空気を吸いたい、散歩したいってせがんだら、病後の体を回復させるには散歩より効果があると、教えてくれたものがあります。お兄ちゃん、何だと思いますか? ヒントは室内で出来ます。わかるでしょうか?」

 人差し指を左右に振って、いたずらっ子のように星野に言った。

「室内で出来るものといえば、ラジオ体操、太極拳、足踏み、座禅、なんだ? 勿体ぶらないで教えろよ」

「それはダンスです」

「はあ??? ダンスって、競技ダンス部がやってるような、アレか?」


 星野は呆れ返った。特別室で「真夜中の舞踏会」が繰り広げられているとは、さすがに想像できなかった。親父が知ったら驚くだろうな。

 猛獣使いが檻のなかに閉じ込めた兎に手を焼いて、兎の機嫌をとっている! おかしかった。それにしても、散歩の代わりがダンスか! 大笑いした喉をコーラが塞ぎ、胸を叩きながら星野はいつまでも笑っていた。


「そんなに笑わないでください。ふらふらしないで踊れるようになったら退院も考えるって言ってくれました。先生はとても綺麗なホールドでリードしてくれます。ベーシック・ステップは憶えました。だから、少しだけ踊れるようになったんですよ」

 雪子は両手を広げしなやかに指先をそらして、笑っていた。


 雪子が額にかかる髪をかきあげた。いい匂いがした。

 あれっ? 星野はこの匂いに記憶があった。コーラを取りに行って興味本位で浴室のドアを開いた。楕円形の浴槽が埋め込まれた、シンプルで清潔な浴室だった。そこに漂っていたのがこの匂いだった。

 ユッコの髪にあの匂いが? シャワーさえ禁じられているアイツが…… 星野は衝撃を受けた。秋月の哀しい苦悩を思い知らされた。

 楽しそうに、ベーシック・ステップを憶えたと報告する雪子に向かって、秋月さんの悶えがわかるか? わかってやれよ! 叫びたかった。さっさと秋月さんのものになれとさえ思った。だが何も知らない雪子には言えなかった。


 愛する人を眠らせて体を洗って、静かにベッドへ戻す。そんなことはオレは絶対に出来ない、したくない! 秋月さん、早くやっちまえ! そう言いたかった。このとき、あの夜の暴走を止めた自分を後悔した。朝までふたりの傍に付き添った夜を。

 時計を見た。秋月は時間に厳格な男だ。そろそろ戻って来る。星野はどうしても確かめたいことを切り出した。


「オレの邪推かも知れないが、秋月さんはユッコを離したくないようだ。オレにはそう見える。東京に帰るな、大学に戻るなと言われなかったか?」

 じっと天井を見上げるだけで雪子は返事をしなかった。涙をこらえているのだろう。きっと、秋月さんは毎晩そう言って口説いているに違いない。星野は雪子を虐めているような気がして、気恥ずかしくなった。

「ゴメン、そうじゃないかなあと空想しただけだ。空想ついでに冗談を言わせてくれ。秋月さんはユッコを求めなかったか?」

「えっ、求める?」

 雪子は耳たぶまでほんのり染めて下を向いた。

「冗談、冗談、許してくれ。ところで、忘れるところだったが、親父がユッコの振袖姿を見たいってさ。成人式の帰りに寄ってくれないかな。それじゃ帰るよ」

 星野院長の「振袖姿を見たい」という言葉に頭を下げたが、そのあとの視線は虚空を彷徨っていた。どうやらユッコの魂は迷っているらしい。星野はことさらに笑顔を作り病室を出た。


 入れ代わるように秋月が戻ってきた。

「今、星野が帰ったようだが……」

「はい」

 もう雪子の瞳には涙はなかった。キラキラと輝く眼で秋月を捉え、

「星野院長先生が私の成人式の振袖姿を見たいとおっしゃっています。先生、それまでに退院できますよね?」 

 秋月はショックを受けた。成人式なんて考えてもみなかった。命を救うだけで背一杯だった秋月は、雪子が成人式? 信じられない気持ちで目の前の最愛の人を見つめた。


 成人式…… ああ、なんと懐かしい響きだ。雪子は自分が失ってしまった青春の真っ只中にいるのだと再認識させられ、その若さと未来に秋月は嫉妬した。

「先生、疲れていませんか。ごめんなさい。いつも私の傍にいて寝る時間もないのでしょう、顔色も悪いし大丈夫ですか?」

「患者に主治医が労わられようとはな、成人式か…… 成人式に出られるように頑張って元気になろうね。僕にも振袖姿を見せてくれるかい」

「もちろんです! ホントは真っ先に先生に見て欲しいです! 私、そのために髪を伸ばしています。アップに結ってもらうんです」 

 

 秋月は眠っている雪子の髪を洗ったときを思い浮かべた。薬で人形のように眠らされている雪子は、優しく髪をかきあげて洗ってやると気持ちがいいのだろうか、安らかに微笑んでいた。「さっぱりしましたぁ」と眼を開きそうだった。



◆ 未だ本懐を遂げず、星野院長は呆れた。


 1月8日(木)、涼は飲み明かし、夜明けに戻ってきた。ようやく酒が抜けた頃、待ちかねたように星野院長は涼の部屋へ押しかけた。

「どうだ、西崎さんは元気だったか、退院は出来そうか」

「元気だと思う。話もした。退院うんぬんは秋月さんの心の中だ。ユッコを自分の檻から野に放つ決断をするかどうかだ。オレにはわからん。親父、ふたりで真夜中の舞踏会を開いているらしい」

「真夜中の舞踏会! それは何だ? なぜ真夜中に舞踏会があるのか理解できない!」

「秋月さんは昼間は診療で忙しい。ユッコの相手が出来るのは夜だけだ。病後の回復にいいと嘘をつき、ダンスを教えているみたいだ。それを信じて喜んでいるバカがユッコだ」

「ダンス??? それは病後の社会復帰に効くのか? 信じられないが!」


「オレにはわからん! わかっていることは、秋月さんはユッコに惚れ込み過ぎて、為すべきことも為せない憐れな男だ。オレはカミソリ秋月と言われる男を憐れみ、同情した。ユッコを何とか手元に置きたがっているが、アイツはやわらかな表現だが、きっぱり拒否していると思う」

「若先生は未だ本懐を遂げ得ずか。普通の娘さんならば大病院の御曹司に喜んでついて行くものを、西崎さんは若先生を振ったのか、これは面白い!」

「振ったかどうかはわからない。それに、秋月さんは簡単には引き下がらない男だ。親父、ひとつ言えることは、間違いなく15日にユッコは晴れやかな笑顔の振袖姿で親父に会いにくるぞ! 秋月さんは、成人式までに退院させてくれと言われて嘆いているだろう」

「ほう、お前の説明はよくわからんが、西崎さんは自分で歩こうとしているようだ、それはいいことだ。若先生の嫁になることだけが幸せとは思えない。涼、実に痛快な話だ。どれ振袖姿を楽しみにしよう。うちの娘と違ってあの子は可愛いなあ。愉快、愉快!」

 院長は勝手に納得し、朗らかに診療室に戻って行った。


1月12日(月)、雪子を解放しようと思った。

 いつまでも昼夜逆転の生活を雪子に強いることは出来ない。秋月は徐々に薬を調整していった。そのためか雪子は日を追うごとに健やかさを増し、わずか2週間前に死線を彷徨った人とは思えないようになった。秋月は雪子の若さが放つ煌めきに気づかないふりをしながら、苦しんでいた。

 雪子は2週間近く外光を浴びなかったせいか、もともと色白の肌がいっそう白くなり、大きな瞳は不思議な光をたたえていた。そのうえ、少女期を脱皮したばかりの華やかな輝きを放ち、秋月をひどく悩ませていた。本人が気づいていない輝きほど始末が悪いものはない、それをどうすることも出来ない秋月はもがいていた。


 秋月は眼を閉じ、雪子のフィルムを脳裏に描いた。

 東京に旅立つ雪子を離したくなかった日、瀕死の雪子と出会った大晦日、雪子と死のうと決めた瞬間、雪子を凌辱しようとした刹那、意識がない雪子を見守った日々、眠っている雪子を洗った切ない想い、初めて雪子が胸に飛び込んだとき、楽しかった真夜中の舞踏会…… 走馬灯のように回り流れる追憶を静かに遮断した。

 雪子を俺の手から解放しよう。わかるか、わかって欲しい、最愛の人よ。戻ってきてくれ、俺の胸へ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ