7章 本気モードのスクール紹介
◆ 雪子はバイト講師にデビューした。
8月1日(金)午前9時、幼い塾生を迎えて、雪子は初めての体験に緊張して忙しく走り回っていた。幼稚園児は集中力が続かない、すぐに飽きて遊ぼうとする。講師用の指導バイブルは既に暗記した。簡単な「仲間はずれを探す」問題から、「推理思考」や「巧緻性」に進めて行くカリキュラムを、雪子は遊びながら教えて行こうと考えた。
初日は顔を見せないと雪子に言ったが、昨夜の星野の電話が気になって、秋月は密かに物陰から福岡進学塾の入り口を眺めていた。講師用白衣のサイズが合っていないのか袖を大きくまくり、ウェスト位置を赤いベルトでブラウジングした雪子がチビッコに囲まれて出て来た。元気に帰って行くチビッコが多いなか、雪子に抱きついてグズっている男の子がいる。その子の手を引いて塾内に消え、再び現れたときには男の子は泣き止んでいた。「先生、またあしたね」と機嫌よく駆け出していった。
「雪子、どうしたんだ。あの泣いていたチビに魔法でもかけたのか?」
「ふふっ、内緒です。あれっ先生、今日はお忙しいのではありませんか? 子供はすぐに機嫌を直してくれます。どこかの誰かさんとは大違いですよ」
秋月は雪子の先生ぶりに眼を細めた。星野の話は忘れようと思った。
「仕事のあとは予定があるか?」
「積文館に行こうと思ってます。後期授業のために本を捜します。東京では星野さんのためにゆっくり本屋巡りも出来ません」
「積文館で6時に待っている」
「無理しないでください。ひとりで大丈夫ですから」
午後6時、積文館にて。
林健太は定期的に雪子から手紙をもらっていた。必ず返事を出した。寮暮らしの健太は「愛の定期便」と寮生から冷やかされる手紙が楽しみだった。大学や高田馬場周辺のこと、星野から無理やり講義ノートを作らせられていることなど、学生生活の細々した出来事が綴られていたが、秋月のことは1行も触れられたことはなかった。7月は教職の受講で帰れないが、8月1日からは塾でバイト講師をすることも知っていた。
健太は雪子より早く帰省したが、7月から8月にかけてスイミングスクールのバイトで忙しかった。バイトは午後5時には終わるが、たまたま天神町の交差点で雪子によく似た女の子を見た。その子は積文館に入って行った。やはり雪子だった。驚かそうと跡をつけたが、途中で見失ってしまった。次の本棚を曲がったとき、髪を切って額を出し、大きな眼をキラキラ輝かせた妖精のような雪子を発見した。ユッコと呼ぼうとしたら両肩に男の手が伸び、雪子は振り返った。
あの男が秋月か、健太は初めて秋月を知った。さすがカミソリ秋月と言われる男だ、神経質な眼差しで冷たい表情だ。ただ、雪子を見つめる眼は違った。この男は雪子に惚れていると直感した。ふたりは「憲法概論」や「社会科学論」、「民法講座」など、健太とは無縁の本を選んでいた。秋月が雪子に話しかける、雪子が何かを伝える。その表情を本棚の陰からじっと見ていた。雪子は健太には見せたことがない、優しい女の表情をしていた。オレのユッコはどこに行った? 呆然として立ち去った。
◆ 篠崎の電話で秋月の計画は消えてしまった。
あれから雪子と会える時間はまったく取れなかった。手を伸ばせば届く距離にいる雪子、それでも会えないスケジュールを組む事務局を怒鳴りつけたが、それはまったく解決策にはならなかった。俺は機械ではない、たまには休ませろと怒ったが組まれた日程は動かせなかった。病院のスタッフはカミソリ秋月を「鬼の秋月」と言い、「地獄の秋月」と恐れ、その癇癪を呪った。
秋月は勝手に職場を抜け出して雪子を眺めに行った。なぜ雪子を見ていると心が落ち着くのかわからないが、来てしまった。正午、チビッコが退散してくれる時間だ。雪子はチビッコの目線に合わせるように、地面に片膝をつきしゃがみ込んで話を聞いている。頭や背中を優しく撫でて、泣いている子を抱きしめ、「またあしたね、指切りげんまん」と送り出している。雪子がお母さんになったらああするのだろうか、勝手に想像した秋月はとても幸せだった。
「えっ、先生、そこにいたのですか、まさか見ていました?」
「いや、今来たばかりだ。忙しそうだね」
「そんなことありません。私がドジだから昼休憩が減っちゃうんです」
「うん? 昼休憩が減る?」
「はい、それでお弁当を作って来ました。先生、多めに作ったので召し上がりますか? あそこの公園に行きましょう、お茶もあります」
「ほう、お手製弁当か面白そうだ。まさか、腹を壊すことはないだろうな。心配だな」
「失礼です。先生は私が大嫌いなお医者様でしょ、自分で治してください」
秋月は雪子の額にキスしてからかった。人通りが多い道路のまっ昼間だった。
手作りの弁当なんていつ食べたのだろうかと秋月は思った。雪子と並んでベンチに座り、いただきますと挨拶した。
おにぎりや卵焼き、キャベツと魚肉ソーセージの炒めもの、ほうれん草のおひたし、いんげんの卵とじ、ヒジキの煮物が詰められた弁当を見つめた。
「外で食べる弁当は旨いなあ。遠足みたいだ。少々出来そこなっていても旨い!」
焼き海苔を巻き込んだ卵焼きを頬張りながら、旨い! つくづくそう思った。雪子が手を伸ばして秋月の顎についた飯粒を掴み、笑いながら勿体ないと食べてしまった。雪子がお母さんになったら、子供に弁当を作って、子供の飯粒を食べるだろうと思ったら、心が少し温かくなった。
俺の遠足はどこかの店に作らせた豪華な弁当を持たされた。秋月総合病院の名に恥じない弁当が用意されたが、それは披露されることなく捨てられた。母さん、そうじゃないんだ。こんなものはいらない、そう思った日を思い出した。
「バイト講師でも盆休みはあるんだろう。どこかへ連れて行ってやる。希望はあるか?」
秋月は、盆休みは能古島にあるホテルを予約していた。たった3日間だが雪子を独り占めにして、ふたりでずっと海を眺め、とりとめのない話をして、1日中手をつなぎ、朝は浜辺を散歩し、陽が沈む夕べには雪子を抱きしめ、夜はお休みのキスを降らせよう。なんて心踊る日々だろう。男と女の関係になれなくても、雪子と一緒にいるだけで楽しそうだ。そう勝手に決めていた。
ところが、
「秋月さん、篠崎です。8月14日は午後1時までに学園に来ていただけませんか。テレビ西日本のカメラが入って、西崎が古典の授業をします。無理やり頼み込みました。秋月さん、必ず来てください。お願いしましたよ。それでは失礼」
何ひとつ秋月に質問させないまま、篠崎の電話は一方的に切れた。俺の密かな企てになぜ邪魔が入る! なぜ雪子が授業しなければならない? 篠崎さん、あなたがやればいいことでしょう。俺の邪魔をするな! 激怒した。
一方、雪子には、
「西崎、立派に講師をやっているそうだな。塾生に人気があって引っ張りだこだと聞いたぞ。推薦した甲斐があった。ところで、8月14日午後1時から40分間、学園で授業してくれ。スクール紹介の番組でテレビ西日本のカメラが入る。古文の授業だ。厳しい入試を突破した先輩が後輩に要点を伝授する、魅力的な授業だ」
雪子は絶句した。自分は文学部ではない、国文学専攻でもない、大学生活は始まったばかりで何も学び取ってはいない、慌てた。
「篠崎先生、待ってください。私にはそんなこと出来ません。何を授業すればいいのですか、そもそも教えるものを何も持っていません。無理です。せめて何を授業すればいいのか教えてください。私は教師ではありません。まったく自信がありません」
「何を授業してもらうかは私が当日決める。いいか、よく聞いて欲しい。現役教師がクソ真面目に正しい授業をして何が面白い? そんなものは印象に残るか? 教科書どおりに教えられたものは記憶に残るか? もう決めたことだ。頼んだぞ」
電話は一方的に切れた。
◆ 8月14日(木)午後1時、スクール紹介番組の収録が行われた。
当日、篠崎教諭から渡された書物は『徒然草』だった。雪子はスモークグリーンのワンピース姿で教壇に現れた。生徒たちは息を呑んだ。それほど雪子には緊張感が漂っていた。教室の後に立っている教師の中に秋月の姿を認め、戸惑いながらも微笑んだ。スーツ姿の秋月も緊張していた。今日の秋月は愛する人の初舞台を案じる恋人にしか過ぎなかった。
「大学入試において出題される古典のほとんどは『源氏物語』、『徒然草』、『枕草子』の3つです。本日は『徒然草』を大学生になったばかりの西崎雪子が授業させていただきます」
冒頭の「つれづれなるままに~」を眼を閉じたまま澄み渡る声で暗唱した。次に生徒に厳しい視線を向け、
「この冒頭の文は必ず暗記してください。ここは全巻の総序にあたります。総序とは入り口です。作者が執筆した動機、考え方、態度が述べられています。この心情を把握すると全巻が理解できます。『あやしうこそものぐるほしけれ』とは、気分のおもむくままに書き綴っている自分を冷静に第三者の眼で見た言葉です。『徒然草』は気晴らしや思いつきで綴られたものではなく、緻密なプロットとコンセプトによって構成されています。
みなさん、『徒然草』のどの段を学びたいですか。リクエストがなければ私に選ばさせてください」
『折節の移り変わるこそ』、『人の亡きあとばかり』、『蟻のごとくに集まりて』、『心なしと見ゆる者も』を選び、文法的な解説は一切せずに筆者の心に映ったこと思ったこと、そこから導かれた考え方を説明した。教室は針1本落ちても気づくほどの静けさが漂っていた。雪子は最後にこう言った。
「『徒然草』は兼好さんが亡くなって後、残されていた原稿や反古、襖の下貼りなどをもとに編集されました。兼好さんが著者だという明確な根拠もありません。有名な「つれづれなるままに~」よりも素晴らしいプロローグが存在した可能性もあります。また、僧侶でしたが有名な歌人でもあり、恋文の代筆業をしました。でも、恋を綴る文章は上手ではなくて失敗の連続だったと伝わっています。こんな兼好さんの素顔を知ると、その博学多才ぶりが面白く読めます。受験に必須なのでいやいや読んでいるかもしれませんが、時間があったら全巻を読んでみてくださいね。人生の指南書になるかと思います。本日はご静聴ありがとうございました」
授業が終わり、教室には拍手が響き渡った。篠崎が教壇に駆け寄り、「素晴らしい授業だ。明日から私と代わってくれ」と労った。教師たちはあっけにとられて雪子を見ていた。
秋月は唸った。泣き虫でグズで無口の雪子になぜこんな授業が出来るのか? しかも、ぶっつけ本番だと聞いた。俺が知っている泣き虫の雪子はほんの一部分でしかないことを秋月は痛感した。
「先生、どうして学園に? 篠崎先生から聞かれたのですか?」
「そうだ。キミの父兄だ、関係者だから来てくれと誘われた」
周りがクスっと笑った。
「秋月さん、感想をひとこといただけませんか。西崎はモト教え子でしょう。さあ前に出てください」
篠崎は秋月を引っ張って教壇に立たせた。
「えー、昨年1年間学園で英語を担当していた秋月です」
生徒たちは大きな拍手をして見つめている。
「私は雪子、いえ、西崎を教えましたが受験英語がメインで国語系はまったく教えてはいません。西崎がこんなマジックのような授業をしたことに大変驚いています。これは篠崎先生が雪子の感性に気づき、それを育んでくださったからだと感謝いたします。篠崎先生のご指導の賜物です。ありがとうございました。
本年度の入試はどの大学も合格最低点が50点以上高くなりました。それでも合格してくれた西崎を私は誇りに思います。皆さん、自分を信じて限界に挑戦してください。それでは悔いのない高校生活を送ってください」
いきなり篠崎に指名された秋月は焦った。それを面白そうに雪子は聞いていた。
「秋月さん、西崎の本気モードに驚きましたか? そういう子なんです。授業範囲を予告した場合、西崎は優等生の授業をするでしょう。それではインパクトに欠けます。学園への入学希望者を増やすことは出来ません。多分、西崎の放映は話題になると思います。楽しみです。秋月さん、西崎に惚れ直しましたか?」
篠崎は言いたいことを言って教室から足早に出て行った。雪子はと見ると、在校生の質問攻めに遭っている。ときおり頬を染めているのは、俺とのことを訊かれているのだろう。秋月は早く逃げようと言って、2000GTに押し込んだ。やっと生きた心地がした。
「先生、今日のスーツ姿、バッチリ決まってます。素敵です!」
「そんなことよりあれは何だ? あの授業は驚いた! 雪子にあんなマジック授業が出来るとは知らなかった。いきなり本番では、教壇で立ち往生するのかと心配した。現職の教師でも慌てるだろう。篠崎さんは何と乱暴なことをするのかと腹を立てた。それをキミは杞憂にした。なぜあんなことが出来たんだ? 種明かしをしてくれ」
「先生、褒めているのか怒っているのかどっちですか?」
「いや、最高に驚いた! 雪子の授業は素晴らしかった、面白かった!」
「あっ、褒めてくれてるんですね、嬉しいです!」
眼を潤ませ、本当に嬉しそうに笑った。
「こっちを向いてごらん」
「ふぁい?」
路肩に車を停め、雪子の顎を引き寄せてご褒美だと大人のキスをした。雪子は眼を閉じて抗わなかった。震えながらギュッと力一杯眼を閉じた顔が可愛かった。その顔はまるで子供だった。そんな雪子を見つめていると、愛おしくて胸が一杯になる。抱きたい! 自分の人にしたい、ダメだ、秋月は話題を変えた。
「腹減ってないか?」
雪子はキスの余韻なのかぼーっとしている。こういうときがいちばん危ない。何かを心に記憶させているか、呼び戻していることが多い。
「ペコペコです。お昼は食べてません。緊張して食べれませんでした。食べたら気持ち悪くなってしまいます。私ってタフじゃないんです。だめですねぇ」
雪子はふーっとため息をついた。
その体でタフなはずがないだろうと秋月は笑ったが、ふと考えた。雪子が言った「タフ」とは心のことかも知れない……
「マジック授業のご褒美だ。何を食べたい? 何でもご馳走するよ」
「お好み焼きです」
「ふーん、お好み焼きか、ちょっと待っていてくれ。電話して来る」
お好み焼き屋には行きたくなかった、ふたりだけでいたかった。
◆ マジック授業のご褒美だと秋月は言った。
老舗割烹『一柳』に2000GTを寄せた。
秋月は電話で女将とちょっとした押し問答をしていた。
「お好み焼きですか、お安い御用です。ご用意させていただきます。若先生、ご同伴はあのお嬢さんでしょ。いい加減にお嬢さんを女になさったらどうですか」
「バカなことを言うな。大学生になったばかりのまだ子供だ」
「あとで後悔なさいますよ」
案の定、案内された部屋の次の間には褥が用意されていた。しかも、左端の襖が半分開けられ、赤の縮緬地に牡丹の花が咲き誇っている寝具が見えた。秋月は赤面して狼狽した。雪子は泣きながら逃げ出すに違いない。追いかけなくては、追いかけて何と釈明しようかと雪子を振り返ったら、「わあ、綺麗なお布団ですね」と言った。その言葉に驚き、耳を疑った。そっと襖を閉めて雪子を見たが、大皿に盛られたエビやアワビに眼を輝かせていた。秋月は大笑いした。何が可笑しいのですと睨まれた。
ああそうだ、篠崎さんがさんざん言っていたな。男の欲望なんてまるっきりわかっていないやつだと。
雪子わかって欲しい、男にはどうしようもなく女を抱きたいときがある。それは気持ちがなくても可能だが、愛する人が目の前にいればなおさらだ。それが所有欲かどうかわからないが、愛する人を抱きたいという気持ちは手をつないで散歩することではない。心と体もつながってこそ完全な愛なんだ。いっそ、そうしようかと思って雪子を見たが、食材を前に夢中だった。緊張が解けたのだろう、上機嫌だ。またもや雪子に負けた。しかし、布団を眼にして何も想像できないのかコイツは、呆れはてた。危険だ、危険すぎる!! 秋月は頭を抱えた。
「キミの授業で恋文の話が出ていたが、ラブレターをもらったことはあるか?」
「はい、あります」
雪子は「これは素焼きにしようかな」と独り言の後に、エビや蛤や帆立をジュッと焼き、その横で楽しそうにお好み焼きを作っている。
「読んだのか?」
「読まずに星野さんに渡しました。兄の立場で返して来ると言ってました。あとはわかりません。先生、質問ばっかりしていないで食べてください」
雪子は手際よく裏返しにして青のりをまぶしている。はいどうぞと皿につがれると食べないわけにはいかない。
「先生、どうしましたぁ。美味しくないんですか? 先生は何だか痩せたみたいです。もっと食べてください。人はお腹が空いてると怒りっぽくなるそうです。いつも怒ってばかりいませんか?」
まさにその通りの秋月だった。
「生意気なことを言うな、僕はこんなに食ったぞ。食べてないのはキミだ。僕が作るからたくさん食べろ」
しばらく経って、
「お腹いっぱい食べたら眠くなりました」
どうにでもなれと思った秋月は、
「隣の部屋で眠ってもいいよ。起こしてあげるから」
「じゃあ、ちょっとだけ失礼します」
雪子は隣の部屋へ行き、バタンと布団の上に転がったが、すぐ跳ね起きた。
「いけない、いけない」
首を振りながら戻って来て、
「男の前では寝てはいけない。男の前で眠りこけるのは恥ずかしいことだ。そうでした。眠りません。やめました」
隣室に用意されている褥の意味もわからず、そんなことをぶつぶつ言って戻ってきた雪子が不思議だった。秋月の理解の範疇を超えていた。まさか男女の営みをまったく理解していないのか? 秋月は例えようのない不安で混乱した。
眠そうに眼を瞬いている雪子を強引に引き寄せた。
「何をしている! こんなときこそ『私には好きな人がいます』と言うのだろう。どうした、約束を守っていないじゃないか。このウソつき!」
雪子は困った表情で、
「だって先生は特別な人です。大好きだからです」
またもや、秋月は雪子に負けてしまった。
「聞いてくれ、本当は能古島のホテルを3日間予約していた。雪子とふたりきりで休みを過ごしたいと思っていた」
雪子は眼を見開いて驚いたあと、真っ赤になって俯いた。その様子を見て、多少は知識があるらしいとほっとした。
「潮騒のなかで満天の星を眺めて雪子と眠り、夜が明けたらテラスでおはようのキスをしよう。そう思っていたのに篠崎さんにぶち壊された。今でも僕は怒っている。古文の授業なんか篠崎さんがやればいいじゃないか。雪子をこき使うことはない。そうだろう」
まだ秋月は腹を立てていた。雪子は申し訳なさそうに小さくなって聞いていた。
「だが明日までは休みだ。どこかに行こう。残念ながら日帰りだ。16日から雪子は仕事だろ。それとも、ふたりで職場放棄してどこか遠いところへ泊まりに行くか? どうだ? 僕はちっともかまわない。さあどうする?」
「そんなこと無理です、ごめんなさい。職場放棄は出来ません。でも行きたい所はあります」
「ほう、どこだ?」
「山と川と星空しかない山里です。父の故郷です。先生に話した河童伝説が残っているところです。10年以上行ってませんが、空気と水がおいしい田舎です。平家の落人が住みついたと云う伝説が残されていて、久留米の先にある八女郡の星野村です」
秋月は頭の中で地図帳を開いた。大分県の日田に近い山間部だ。車では時間がかかりそうだ。西鉄大牟田線で久留米まで行くことも考えたがやはり車にしよう。雪子とふたりきりでいたかった。かなり早く出発するしかない。
「よし、そこに行こう。楽しみだ。だが早起きだぞ、いいか、5時だ」
「はい、材料があるかどうか不安ですけどお弁当作ります。お菓子も用意します」
「腹痛はご免だ。火を通したものにしてくれ。それから僕はキミのようなお子様じゃない、お菓子はいらない」
「運転してくれる先生が疲れたときや眠くなったら、粒チョコやラムネ菓子があったらいいなあと思います。用意します」
「ああ、そういうことか。じゃあ頼む。そうと決まったら早く帰ろう」
「ごちそうさまでした。また先生に散財させてしまいました。ごめんなさい」
「何を言ってるんだ。今日は雪子のマジック授業のご褒美だ。気にするな」
明日は1日中コイツと一緒にいられるかと思うと、秋月は遊園地に出かける小学生のように気分がウキウキした。
雪子を車に待たせて伝票にサインしていると、
「若先生、雪子さんの様子を見ているとまた失敗されたのですか」
「なぜ名前を知っている?」
「亡くなられたお父様がそう呼ばれていました。なんでも、4月なのに珍しく小雪が舞う日にお生まれになったそうです。普通の赤ちゃんのように赤くなくて雪のように真っ白で小さかったそうで、これでは育たないと役所に届けを出さなかったと聞いてます。10日めにやっと泣き声あげたときも雪が舞ったそうで、それで雪子さんと名づけたと聞きました」
「そうなのか、それで雪子か……」
「ぞっこんでしょ、若先生。顔に書いてありますよ。もうすぐ雪子さんは少女から脱皮して眩しいほどの女になられますよ。私にはよくわかります。手放すときっと後悔されますよ」
「うるさい、つまらんことを言うな!」
女将は笑顔で見送った。見送られた雪子は小さく手を振った。
◆ 星の降る里、山と清流の星野村へ。
秋月は午前5時に迎えに行った。雪子はチェックのシャッにコットンパンツで、3本の水筒と魔法瓶を肩から下げ、背中には大きなリュックを背負っていた。
「おはよう雪子。キミはどこに行くんだ? どこかに探検に行くのか、それとも外国にでも移住するのかい?」
秋月がからかったら、
「いろいろ用意していたらこんなになりました。早く連れて行ってください」
2時間ほど走ってやっと筑紫平野だと思える地点まで来た。朝ごはんにしませんかと雪子は温かい紅茶を魔法瓶から注いだ。車内には芳醇な香りが漂った。アッサムティーだ。
「あり合わせで作りました。ゆで卵とコロッケサンドとジャムサンドとチーズサンドです。先生、ゆで卵とジャムサンドは絶対に食べて欲しいです」
「どうして?」
「だって私のために朝早くから車を運転してくれて、だから消化のいいタンパク質と疲れた神経を鎮める甘いものが必要です。生意気ですがそう思います」
「いつ勉強したんだ? 雪子から病院の栄養士のようなことを聞いてびっくりした。今度は栄養士の授業をするつもりかい。もう勘弁してくれ、授業参観には行かない。僕の心臓が持たないよ」
「言いませんでした? 東京では基本的には自炊してます。だって物価が高いんです。自分で作ると食べたい物を食べられるから好きなんです。いつも失敗ばっかりですけど、たまにはポコっと頭を叩いてGOOD!と自分を褒めます」
こんな会話が秋月は楽しかった。目的地なんてどうでも良かった。雪子が用意した朝ごはんは旨かった。雪子が作ってくれて、傍にいれば何でも旨いことに気づいた。おはようのキスをした。雪子はゆっくりと視線を閉じておはようのキスを受けた。
だが国道は想像以上に混雑していた。ノロノロとしか進まない道路に秋月はうんざりしていた。いつ癇癪を爆発させるのか秒読み段階に入っている横顔を見ながら雪子は笑っていた。
かつてはこのステージに入った秋月が恐ろしかった。何をやっているんだ、そんなことではどこにも合格できない、受験する資格すらないと叱咤された日々を思い起こしていた。だが、そんな秋月が好きになった。この人はウソを言わない、思ったことを言う正直な先生だと知った。その頃の自分は受験生の自覚はなく、県内の大学を受ければどこかには入れるだろうと漫然と思っていた。なのに、先生は散々癇癪を起こしながら、私に命と息吹きを吹き込み、心を持った人間に育ててくれた。もはや、癇癪を爆発させようとそれには何かしらの原因があるのだから何も怖くはなかった。
国道を逸れて山道を辿った。渋滞を何より嫌う秋月はどんなに悪路であっても進める道を選んだ。やがて川のせせらぎが聞こえてきた。切り立った崖の眼下に急流が流れている。川は山々の隙間を流れ落ち、民家は後ろの崖が織りなした僅かばかりの平坦地に点在している。
「あれか? 星野川というのは」
「そうです。もう少し先が目的地です。河童淵まで連れて行ってください」
午後1時過ぎ、雪子から聞いた故郷にやっと着いた。さすがに秋月は疲れていた。
「お疲れさまです。あの河原に降りてお昼にしませんか。先生は怒ってます。何か食べたほうがいいです」
「そうか、そうしよう。雪子がそう思うならそうだろう」
雪子の肩を抱いて空を見上げると、どこまでも澄み切ったスカイブルーが広がり、木々はしっとりと露を抱いて濡れそぼっている。深呼吸したくなるような空気だ。転がり続けて丸くなった小石が河原まで続いている。人工的な護岸が一切ない自然の川だ。雪子が自慢しただけのことはある。素晴らしい景色と心地よい空間だった。
雪子は秋月の額の汗をぬぐいながら、昼の弁当箱を開いた。大きな弁当箱だった。開いたとたんに文字が飛び込んできた。「おつかれさま!」とご飯の上に錦糸卵やホウレン草、椎茸や紅ショウガなどの食材で文字が描かれた、ちらし寿司だった。その気配りが嬉しくて微笑んだ。こんなに心が通うメッセージを受け取ったことがなかった。
食後は雪子の膝を借りて少し眠った。風向きが変わったのか川面が波立ち、涼やかな風に包まれた。木漏れ日が秋月の顔に届き、雪子はハンカチで覆った。楽しい夢の中にいるのか、穏やかな寝顔をしていた。雪子は流れる水音に耳を澄まし、秋月の目覚めを待った。
帰路は混雑が予想される国道を避け、村道や県道を辿ることにした。雪子に地図を持たせてナビゲートさせたがまったくの方向オンチということがわかった。どうも地図上の点が線に繋がらないらしい。数学で3次曲線を理解できるやつがなぜアタフタしているのか、認識する脳の領域が違うのかと秋月は面白がった。汗をかきかき地図帳と格闘している雪子を笑って見ていた。
ふたりは車内でたくさん話をした。
雪子は星野村の平家伝説を話した。そして実生活では20歳以上年上の兄が父親代わりだったこと、『川丈ストリップ劇場』に連れて行かれて可愛がってもらったこと、25歳年上の姉がいて雪子が生まれた時は婚家していて一女があり、自分は生まれながらに叔母さんだと笑った。その姉と兄が戦争中に疎開したのがこの星野村で、父の奔放な生活ぶりに若い母親は心の病に罹り、この地で亡くなったらしいと語った。兄は神風特攻隊を志願した最後の幼年兵で、知覧飛行場で終戦を迎えたと言った。先生は子供の頃からお医者様になろうと考えたのですかと訊いた。
秋月は雪子に話して聞かせる言葉がなかった。
生まれたときから脇目を見ることが許されない環境で育った秋月は、若先生になり、若先生を演じることしか許されない存在だった。俺が望んでいるのはそうじゃない、そうじゃないんだ! 大病院なんていらない、贅沢な暮らしに興味はない、雪子と普通に暮らしたいだけだ。医者がいない島がたくさんあるだろう、そこで潮騒を聴きながら愛を実らせよう、子供たちを元気に育てよう。それが俺の望みだが、大学生になったばかりの雪子に、こんな告白をしたところで言葉の暴力に過ぎない。俺の想いは言葉にしてはならないと思った。
「僕の病院は外科手術が多い。県外からも患者さんが訪れる。執刀医のトップが僕で、難しいオペは僕に回って来る。オペは人の命がかかっている、失敗は許されない。しかし、逃げ出したいときがある、オペの途中で迷うことがある、自信を失くすときもある。そんなとき僕は涙を堪えた雪子を心の中で想う。雪子は逃げなかった。髪をかきあげて天井を見上げ涙を隠した。わかるか、泣くなと言った意味が……」
人の命を預かる仕事の厳しさと孤独を知って、泣きそうになっていた雪子は慌てて背筋を伸ばして、にっこり笑った。
「そうだ、その顔だ。僕がいちばん好きな雪子の顔だ」
福岡に戻ったのは午後10時を過ぎていた。やっと街の灯りが見えてきた。
「先生、お疲れでしょう。夜ごはんにしませんか。食べてくれますか? 用意します。どこかに停められますか」
「いいよ。僕も疲れた」
「ごめんなさい、私のワガママに付き合ってくださって。自信がありませんが、夜ごはんはこれです」
出された弁当箱は2つあって、海苔で包まれた梅干しのおにぎり、もうひとつには鯨の竜田揚げ、筍の煮物、トマトとキャベツのソテー、いんげんのベーコン巻き、豚肉の甘辛煮、きんぴら牛蒡が並べられていた。
「ほう、大変だったろう、こんなに作るのは。雪子は何時に起きたんだ? すごいやつだなあ。旨そうだ!」
「先生がお腹を壊さないように、おにぎりは梅干しにしました。おかずはこれしか作れません。また食べてもらえるようにレパートリーを増やします」
「はははっ、実は僕は腹を壊したことはない、おかしいと思ったら食べないからだ。雪子の弁当はどうかな? じっくり検分しよう」
「そんな……」
「大丈夫だ、食うぞ、旨い! 旨いぞ! お茶はあるか」
「はい、お茶よりもこれはどうでしょう。星野川で汲んできました」
星野川の水はすっきりとした甘みがあり、秋月はごくごくと飲んだ。たくさん話をし、雪子が作った弁当を食べ、吹き込んだ風で乱れた髪を直してやり、ときたま小さくキスをして、あっというまに1日は終わってしまった。
「しばらくは会えないかも知れない。僕は若先生とおだてられているが18時間も働かざる得ない。辞めてやると言いたいところだが、そうもいかない。雪子に会う時間さえ自由にならない。とんだ若先生だ」
「先生を必要とする人がそれだけ多いということでしょう? 私だって忙しい先生を『時間ドロボウ』しました。だから大きなことは言えません。ただ、先生は痩せました。痩せっぽちの私が言うのも変ですが、18時間も働くのならたくさん食べてください。お願いです」
秋月は雪子の頭をバチンと叩いて、大学生になって生意気になったなと笑った。