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6章 もどかしい距離に苛立った

第二部 触れあう魂(第6話~第10話)


 雪子が入学した早稲田の学内は、革マルと民青の衝突、授業妨害、共勝連合・統一教会の執拗な勧誘など、荒れに荒れていたが、秋月の後輩の星野が兄のように寄り添って、雪子を守った。夏休みに帰省した雪子は塾講師のバイトをしながら、時々は秋月とデートした。秋月は雪子に魅かれていった。

 秋月は時間を作って2000GTを疾ばして、八女郡の星野川や“虹の松原”に連れて行った。当時の星野川は人工の護岸は一切なく、虹の松原は白砂青松の大パノラマが続き、今日では想像できないほどの景勝地だった。

 まもなく秋月は“ゴッドハンドの心臓外科医”と評価されて多忙を極めるようになった。大学へ戻る直前、不幸なアクシデントに雪子は遭遇した。

 星野と一緒に帰省した雪子は肺炎を併発し、危篤状態になった。秋月は無認可の薬剤を使用し、命を救った。

◆ 4月10日(木)、手紙なんかいらないと言った秋月に手紙を書いた。


 …………………………………

 秋月蒼一 様


 お元気ですか。私はまあまあ元気です。

 4月5日、文学部の体育館で午前と午後に分けて入学式がありました。私と星野さんは午前の式に出席しました。院生も合わせて1万人の新入生なので、父兄の方を含めて2階席まで満員でした。新入生のほとんど男子です。いるはずがない先生を探しました。まだ先生に頼っている自分を恥ずかしく思いました。あんな偉そうなことを言って東京に行ったのにと情けなくなりました。


 外では革マル派や中核派や民青などのヘルメットを被った学生がマイクで演説していて、総長先生の声が聞こえません。新入生を自分たちのセクトに入れようと、うるさく追いかけて来ます。反戦連合の学生が第二学生会館に突入して、学生会館と本部を占拠したとかで学内は大モメです。そんなことで、いろんな左翼や新左翼のセクトが大学内で睨みあっています。でも、セクトによってヘルメットの色が違うことを初めて知りました。


 早稲田で驚いたことが2つあります。1つは大学にもクラスがあったことです。クラス担任は本戸啓嗣助教授先生です。クラスは37人で女子は2名です。地方出身者が多いのが特長です。クラスには福岡出身者はいませんが佐賀出身の溝田さんと友達になりました。溝田さんは佐賀藩士だった大隈重信さんを尊敬していて、語らせるとうるさいので適当に逃げています。

 

 2つめに驚いたのは、大学を休むときは電話をくださいと本戸先生がおっしゃったことです。まさか大学にも出席チェックがあるのかと心配しましたが、何も知識がない新入生がセクトに監禁されて洗脳されることを心配なさっているからです。特に女子は狙われるので、授業がある日は必ず研究室に顔を出しなさいと心配してくれました。私はそうするつもりです。そして自宅の電話番号をクラス全員に教えて、この番号を故郷のご両親にも知らせてくださいと言われました。そこまで私たちを心配してくださる素敵な先生です。ここにその番号を書きます。


 本戸先生はイギリスに留学されていたので、とても美しい発音をされます。それをブリティシュ・イングリッシュと言うのかなと思います。もちろん本戸先生の「英文学1」は受講しました。William Wordsworthの『Daffodils』を暗唱してくれました。春の訪れを告げる金色の水仙が眼の前に見えるようでした。たくさんの詩を朗読してくれます。眼を閉じて聴いていると、木々を渡る風、小鳥のラブソング、花たちのささやきが耳元で歌うように流れます。

 思い出すと先生が教えてくれた英語の受験勉強、あれは最初とてもきつかったです。でもそのお陰で英語の詩を聴き取れます。情景を思い浮かべられます。先生、ありがとう。もう眠くなってきました。お休みなさい。


 雪子より

 ………………………………… 



◆ 早慶戦の生中継に雪子を見た。


 この2カ月、スケジュールどおりに几帳面に仕事をこなしているが、秋月は極めて不機嫌であった。カミソリ秋月どころか鬼の秋月と陰口を叩かれていた。年若い恋人に去られてから、前にも増して周囲を厳しく叱責し癇癪を爆発させると噂され、若先生は恐れられていた。早稲田大学のワの字を見ただけで聞いただけで腹を立てた。


 秋月は院内回診でロビーを通ったとき、たまたまテレビで早慶戦が映されていた。早稲田大学は主将の谷沢健一、荒川尭、小坂敏彦などプロ野球の注目を浴びる選手を抱えていたがリーグ戦では勝てなかった。秋月が尖った視線をテレビに移したとき、学ラン姿の応援団員に囲まれて紅一点の雪子を見た。白地に小豆色のWの字がプリントされたTシャツを着て角帽を被った雪子がいた。ほとんど女子がいない早稲田の応援席の雪子をテレビカメラは追った。カメラマンは雪子が被写体として気に入ったかのように執拗にレンズを向けていた。雪子は髪を切ったようだ。少年のように見えた。ため息とともにかき上げていた前髪は切られ、小さな顔はいっそう小さく、つぶらな瞳はより輝いて見えた。


 回診に同伴していた山川も気づいたようだ。

「あの泣いていた教え子さんですね。とても元気そうですね。しっかり食べないとお母さんになれませんと説教しました」

「お母さん? そうか、お母さんか…… それは言える。そうだな」

 雪子を妻に迎えて雪子が産んだ俺の子供がいて、そう夢想した秋月はとても優しい顔で笑った。


 秋月は気づいた。早稲田の応援歌の『紺碧の空』を歌う雪子の顔をアップで映し出したが、早稲田の打者がヒットを打って、声援に包まれた打球の行方を画面は追った。だが、ふたたび映像は雪子の横顔のアップに切り替わった。打球の行方を追わずに上を向き、涙を堪えた雪子を映した。

 自分の大学がヒットを打ったから涙ぐんだ可愛い女子大生として紹介したのだろうが、いや、そうではない。雪子はあんな席に座っていながら野球は見ていない。喧騒とどよめきの外に雪子はいる。秋月はそう思った。自分が選んだ道を後悔しているのか? 俺から離れて淋しいのか? 他に悩みがあるのか、五月病だろうか……


 早慶戦の観戦中に堪えた涙は何だ? 雪子の心は彷徨っている。過去から現在、その先にある未来に彷徨っている。そして何を考えているのだ? そんな影も形もないものを追い求めるな。現在だけを見据えろ。俺も昔は夢を見た、見ようとした、微かに見たようだ…… だがこのザマだ。こんなに苦しいほど心配しているのに、俺の心は届かない。涙を堪えた雪子の映像に悩み、眠ることも出来なかった。



◆ 元気を装っていても心細かった。


 …………………………………

 秋月蒼一 様


 私はテレビに映ったそうです。早慶戦の春季リーグ戦です。母から聞きました。男子ばかりの応援席で目立ったそうです。福岡では生中継のほかに夜のスポーツニュースにもちょっぴり映ったそうです。見てくれました? だけど先生は忙しくてテレビなんか見るヒマはありませんよね。ごめんなさい、ちょっと興奮しました。

 髪を切りました、すっきりしました。


 大隈重信さんと高田早苗さんの銅像にカラー・スプレーが吹きつけられて、『反大学、早大解体』の大きなタテカンがありました。テレビ局の人からマイクを向けられましたが、私は入学したばかりなのでわかりませんと答えて、逃げました。なぜあんなことをするのか不思議です。とても幼稚な行動のように思えます。

 お知らせしたかったのはこれです。引越しました! 叔父さんの東京事務所です。

 東京と言っても道路を挟んで埼玉ですが、少しだけ大学に近くなりました。最寄りの駅は東武東上線の「成増」で、川越街道からバスに乗って「向山」というバス停で降ります。事務所はバス停から徒歩2分です。2LDKのマンションで、奥の和室を使わせていただくことになりました。LDKのリビングが事務所でスチールの机が3つあります。そのひとつを使わせてもらっています。


 小切手の書き方を教わり、チェックライターと言うカチカチとダイヤルを回して印字するものを使いました。初めての事務なので失敗ばかりしています。仕事は電話番と帳簿づけと、池袋の東京信用金庫に受取手形を預けることです。不思議なことに電話は殆どかかってきません。この番号です。夜は私が出ます。先生、電話くださーい。

 

 雪子より

 …………………………………


 雪子の手紙に綴られた番号を回した。

「お電話ありがとうございます。永山東京事務所です」

 雪子の声が返ってきた。そうか、電話をもらったら「お電話ありがとうございます」と言うのか、秋月は自分の病院の対応と比較して感心した。しばらく無言が続いた。


「先生、先生ですね!」

 そう叫んだ雪子は突然泣き出した。雪子が落ち着くまでしばらく待った。傍にいれば泣きじゃくる雪子を宥めることも唇を塞ぐことも出来るのにと、何も力になれない距離と自分がじれったかった。

「泣くな、泣いてはいけないと言ったはずだ。そうだな、覚えているか? どうした、辛いことがあったのか? 話してごらん」


「先生、私は偉そうなことを言ってこっちへ来ました。一生懸命学んでいます、そのつもりです。だけど、私が考えていた理想の100万分の1も近づいていません。不安です、情けないです、恥ずかしいです。そんな自分に絶望しています」

「まだ大学は始まったばかりだ。2カ月や3カ月で人は学べない、賢くなれない。だが努力を続けていると1年後、2年後には変わっている自分を発見できる、焦るな。短絡的に絶望するな。

 僕にもそんな時期があった。なぜだ? こんなにそのことを想っているのになぜ通じない、そう思ったことがあった。心配するな、いつか想いは届く」

 秋月は自分の気持ちを隠してそう言った。


「先生もそんなことがあったのですか。だったら私なんか絶望に打ちのめされても当然ですよね。ごめんなさい。まだ甘えていました」

 恥ずかしそうに小さな声が伝わってきた。秋月は思った。よほど辛い気持ちを抱いて、しょげているのに違いない。何かあったのだろうか。コイツは誤魔化しの言葉は「それはヘンです」と見破ったやつだ。それが気がついていない。雪子はかなり落ち込んでいる、それがわかった。


「先生の声を聴いたら元気になりました。ちゃんとご飯食べていますか、眠れていますか、怒りっぽくなっていませんか? いつも心配です」

 なぜわかる、雪子が指摘したとおりが最近の俺だ。しかし、俺を心配する前に自分のことを考えろと言いたかった。お前は世間をあまりも知らなさ過ぎる。寝食忘れてその道に精進しても、そう希望どおり行かないということを。理屈なんてどうでもいい。早く戻って来い。

「雪子、大人のキスを忘れるな。あれが僕の気持ちだ。わかるか」

「はい……」 

「雪子、お休み。今宵ぐらいは楽しい夢を見ろ。僕もそうする」



◆ 6月9日(月)、星野が考えた巧妙な講義ノート作戦。


 …………………………………

 秋月蒼一 様


 ごめんなさい。この前は大泣きしましたが、もう泣きません。人前では泣いていません、本当です。

 すごく忙しくなりました。星野さんとは4つの授業で会います。星野さんは授業中いつも本を読んでいて、ノートを作りません。講義が終わると私のノートを持って行こうとします。イヤですと断りました。それで1週間後に渡す約束になりました。一方的な約束です。そのため、講義ノートを星野さんの分まで作ります。書き写していると疑問点や自分が理解していない箇所を見つけられます。2冊の講義ノートは私にも役立っています。

 これだけでフウフウなのに、星野さんは書きなぐりのノートを持ってきて、「これを清書してくれ。頑張れユッコ、頼んだよ」と言って消えました。私が受けていない授業のノートです。渡されたグチャグチャのノートと白紙のルーズリーフを眺めて、呆れました。そのため、映画や飲み会に誘われても時間がなくて行けません。


 こんなことがありました。今日は歓迎コンパだからノートは作れませんと断ったら、その飲み会は危険だ、行くなと言われました。あまり参加したい気持ちはなかったので止めました。星野さんって、先生のコピー人間みたいでなんでも断言します。でも、自分が受けていない「民事訴訟法」や「マスコミ総論」や「国際政治原論」などを少しですが学べます。そのうち教科書を全部私に預けると恐ろしいことを星野さんは言ってます。


 大学は初めて警察を学内に入れたそうです。多分、内ゲバのせいだと星野さんは言ってます。文学部が凶器準備集合罪とかで警察の捜査が入りました。文学部は民青が強い学部です。でも、民青の本拠地は4号館で一般学生は入れません。私たち、新入生に対する勧誘は民青がいちばんしつこいです。でも星野さんが守ってくれてます。それでも早稲田は他大に比べてマシらしいです。あと明大はソコソコ授業があるそうです。この前、クラスメートから紹介されて明大の人と友達になりました。ほとんど授業がない大学があるという話を聞きました。横浜国大とか法政大です。


 土日は近くのとても大きな空地に行きます。私を待っている「ボン丸」がいるからです。鉄条網で入れないようになっていますが、鉄条網が壊れている所から入ります。昔ここは特攻隊の基地だったそうです。ボン丸はマルチーズのオスです。飼い主は70代のご夫婦で、やんちゃなボン丸について行けません。ボン丸は私にすごく懐いてくれて一緒に走り回ります。お昼は奥様が用意してくれたおにぎりをいただきます。先生、かわいいでしょ。写真を同封します。


 雪子より

 …………………………………


 手紙を読んで秋月は笑った。星野が雪子を見守るとはそういうことだったのか。しかし、よく考えたものだ。自分に大きなメリットがあり、押し付けられた雪子は束縛されたことに気づかずに学ぶ。一見すると誰も傷つかない至上の策だ。秋月は唸った。だがあいつも男だ、とうてい油断は出来ない。なぜ星野は医者の道を選ばなかったのだろうか、ふと考えた。確かアイツには男勝りの姉がいたな、日大医学部に行ったとか聞いた記憶がある。それで医者にならずにすんだのか、恵まれたやつだ。

 だが、明大の学生だと? そんな男はろくでもない、つき合うな! 雪子、犬とだけ付き合っていろ! 

 同封された写真を見た。雪子に抱かれた子犬がうっとり雪子を見つめている。見ると下半身が発情していた。俺のライバルは犬か! あまりにも愉快過ぎて笑いが止まらなかった。



◆ 7月11日(金)、大学は夏休み開始を2週間延期した。


 …………………………………

 秋月蒼一 様


 こんにちは。

 前期授業が終了次第に帰ってくる予定でしたが、教職課程の受講を申し込みました。有名な織田幹雄教授の「青年心理学」や「教育心理学」、「教職概論」を受講します。教室は本学ではなくて文学部校舎です。ついて行けるのかなあと心配です。織田教授は厳しい指導で有名な先生で、授業を2回休むと単位をくれないそうです。頑張ります。


 相変わらず大学は学生運動の渦中です。休講の講座がけっこうあります。昨日は「大学立法」に反対する全共闘の決起集会が早稲田でありました。国会にデモったそうですが、道路の石を剥がして機動隊にぶつけるのは止めて欲しいと思いました。高田馬場には線路に沿って道が何本もありますが、アスファルトが剥がされてボコボコです。駅の乗降口には機動隊員が張り付いていて、早稲田の学生とわかると掌を開かせます。掌が汚れていると事情を聞かれます。投石の有無を聞いているようです。


 帰省中のバイトが決まりました。先生の病院から歩いて行ける『福岡進学塾』の幼稚園と小学生クラスの講師に採用していただきました。大学の学生部の紹介です。この話を持ってきたのは星野さんで、塾は男子ではなく女子学生を希望していたので、私に知らせてくれたのです。星野さんは、今後はユッコを働かせてマネージメントに専念すると、不気味なことを言ってました。星野さんはきっと山椒大夫の生まれ変わりです。


 推薦状は担任の本戸先生と朋友の篠崎先生にいただきました。自分の教科書代ぐらいはなんとかしたいと考えていたのでありがたいです。

 私に人を教える力があるのか本戸先生に相談しました。教える相手がたとえお子さんであっても、自分が知っているということ、人を教えるということの違いがわかるでしょう。是非やりなさいと背中を押してくれました。


 大学は今年だけですが夏季休暇が2週間遅れで始まります。その代わりに冬休みが1週間長くなるらしいです。そういうわけで、7月31日、16時着のフライトで戻ってきます。先生に早く会いたいです。


 雪子より

 …………………………………


 そうか、塾のバイト講師をやるのか、アイツが? あの泣き虫が? 信じられない思いで手紙を読んだ。篠崎教諭に推薦状をいただいた礼を言わなくてはならないと秋月は思い、ダイヤルを回した。


「篠崎先生、秋月です。ご無沙汰いたしております。突然で恐縮ですがお会い出来ませんか」

「僕も会いたいと思っていました。どこに行けばいいですか。ただ病院だけはご免ですよ」


 中洲中央通りから路地に入った小料理屋でふたりは会った。

「その節は大変お世話になりました。雪子から推薦状のことを聞きました。ありがとうございます」

「まっ、挨拶はそのくらいで一杯いきましょう。秋月さん、今日は車ではありませんね」

「はい、車は置いてきました」

「あの車は実にかっこいい。秋月さん、もてすぎて大変ではありませんか。大病院の御曹司がいつまでも独身というわけにはいかんでしょう。お見合いの話も星が降るほどあるでしょう。それで相談があるのと違いますか?」


「そうです。雪子を東京に出したくはありませんでした。福岡に残ってくれと幾度も伝えました。妻に迎えようと考えました。一緒に暮らそうとも言いました。だが、もっと立派な女性になりたいと言い残し、僕を残して翔び立って行きました」

「西崎はそういう子です。自分で考える子です。私はそう言ったはずです。秋月さんは西崎をどうしようと考えているのですか。秋月さんがやろうとしていることを西崎は喜びますか? 受け入れますか? 幸せになれますか? 聞かせてください。秋月さんの考えを」


「僕の気持ちをわかろうとはしない雪子に既成事実を迫り、どこへも行けないようにしようと考えたことがあります。僕は情けない男です。だが、そうしても雪子は出て行くでしょう。蔑み、軽蔑して二度と戻っては来ないでしょう。僕は間もなく30歳になります。雪子が卒業するまで待てません、待ちたくありません」

「なぜです? なぜ待てないのです? 待てない理由は何ですか? それは秋月さんの大人の事情ではありませんか。そろそろ身を固めなさいと周囲が騒いでいる、病院経営の観点からも妻という立場の女性が必要だ、そういう身勝手な大人の事情ではありませんか?」

「それは違います。いつも雪子の傍にいたいのです。それだけです」

「そうであれば簡単なことです。秋月さん、あなたが東京に住めばいいことです。全てを捨てて東京に行けますか?」

   

 秋月は黙り込んだ。

「行けないでしょう、それを大人の事情と私は言っているのです。自分は何も失わずに西崎の始まったばかりの青春を奪うのですか? それは勝手過ぎます」

 秋月は返す言葉がなかった。

 

「私はこの年頃の女子のことは秋月さんよりも詳しいと言ったことがあります。覚えていますか。秋月さん、あなたは大人で恋愛経験もあるでしょうが、西崎はそうではありません。女子ばかりの学園で過ごしました。秋月さんが大学生になったばかりの頃を思い出してください。男と女は少しは違うでしょうが、そんなときに結婚を考えられますか? 大学生の秋月さんは眼の前に広がる未来に向かおうとしたでしょう?」

 秋月の無言が続いた。


「聞いてください、人間には5つの欲があると云われています。食欲、寝欲、財欲、色欲、名欲です。西崎は財欲、色欲、名欲をまだ知りません。大人の事情で捕獲しようとしてもすり抜けます。わかりませんか? 育てながら待つことが出来ないのなら、愛する資格はありません。僕はそう思います」

「篠崎さん、それでは僕には待つことしかないのでしょうか?」


「そんなマヌケな質問はないでしょう。西崎の気持ちがわかりませんか? 西崎の心にいちばん大きな比重を占めている男は秋月さん、あなたです。ただ、あなたの愛は欲を知った愛です。西崎を自分だけのものにしたいという所有欲、つまり色欲です。秋月さんに必要なのは西崎の欲を育てることです。一緒にいたい、暮らしたい、この人に愛されたい、そういう欲を育てるのです。しかし、欲だけが先走りしてはいけません。大きな愛に導かれた欲を育てるのです。決して焦ってはなりません」

 秋月は俯いた。


「いいですか、あなたが間もなく30歳になっても、西崎はまだ19歳になったばかりです。わかってあげてください。ひとつ宿題を出しましょう。帰って来た西崎を大学生の秋月さんの眼で見てください。それでも愛していると言えるかどうかです。欲を知らない若い気持ちで西崎を見ることも必要です。おっと、秋月さん、申し訳ない、電車に遅れそうです。私の寺は糸島郡の山奥です。急いでいるので今日は借りということでお願いします。近々また会いましょう。西崎がどれだけ成長したか見ましょう。楽しみです。それでは失礼します」


 篠崎は慌ただしく帰って行った。残された秋月はじっと考え込んでいた。いつも篠崎さんからは言われっぱなしだが、そんなことを言ってくれる人を持たない秋月は篠崎に感謝した。大人の事情を押しつけてはいけない、本当に雪子を愛しているなら信じて解放してやれ、大人に育てろ、それが出来るか、半端な愛なんか雪子には迷惑だ、雪子の芽を摘むなと言っているのがよくわかった。



◆ 大学生の眼で見ても雪子は眩しかった。


 7月31日16時、1分の狂いもなく全日空機は福岡空港に到着した。到着ゲートから出てくる人波がほぼ落ち着いた頃、雪子は小さなヒマワリがプリントされたワンピース姿でゆっくりと姿を現した。秋月に気づき、驚いてはにかんだ笑顔を浮かべた。


「お帰り、雪子」

 秋月には雪子が眩しく見えた。たとえ大学生の俺でも雪子に会っていれば恋に落ちたに違いない。出来れば自分も大学生に戻って一緒に勉強して悩んでデートして、雪子との愛を育てたかった。そう思った。少し戸惑っている雪子を抱きしめた。

「先生、人が見てます」

「かまうものか」

 雪子は眼を閉じ秋月の腕の中に漂っていた。通りかかった外国人クルーが「Happy for a long time」、微笑んで通り過ぎた。


 秋月は2000GTに雪子を乗せ、アクセルを踏み込んだ。どこへ行くのですか、不安そうな声をシャットアウトして車を走らせた。大名町にオープンしたばかりの西鉄グランドホテルの地下駐車場に駐めた。


「すごいですね、こんな大きなホテル、いつ建ったのでしょう」

「今年の4月だ。東京にはもっと大きなホテルがたくさんあるだろう。行ったことはないのか?」

「学生の身分でそんな所に行けるわけがありません」

 雪子は小さく笑った。

 カフェレストランに入り、秋月はダージリンティーを頼み、メニューを見ている雪子に、

「雪子の顔を見たのは久しぶりだな。何でも好きなものを遠慮しないで頼みなさい」

「ホントにいいですか? これにします、大好きです」

 運ばれてきたのは顔が隠れてしまうほどの大きさのフルーツパフェだった。


「星野さんが浅草の浅草寺に連れて行ってくれました。先生はいつも車だから事故に遭わないようにとお願いしてお守りを授かりました。ご本尊の観音さまはどんな願い事も聴いてくださいます。受け取ってくれますか」


 フルーツパフェを夢中で食べながら、小さな包みをポシェットから取り出した。金色の錦地に交通安全と織り込まれていた。秋月は微笑んで雪子を見たら、額にパフェのクリームが付いていた。雪子の額のクリームを拭い、指についたクリームを舐めてみた。甘い! 甘さがとろけてどこか懐かしい味がした。その光景を支配人が笑顔で眺めていた。いつも気難しい顔の若先生があんなに幸せな顔をなさるのか、初めて見たと思った。


「ありがとう。雪子の気持ちを大事にしよう。ところで浅草は楽しかったかい?」

「はい、とても豪華なお寺です。仲見世というのがあって、すごい人でした。そうそう、星野さんは私のことを親父が外で産ませた可哀想な妹だから、みんなも妹を守って欲しいと紹介しました。マスコミ研究会のみなさんは星野さんの言葉をすっかり信じたようです。星野さんを引っ張って止めさせようとしたのですが、恥ずかしがることはないと言って相手にしません。びっくりしました。星野さんはウソつきです」


 さすがに秋月も驚いた。星野はそんな手を考え出したのか…… ふたりは楽しそうに笑った。

「そして担任の本戸先生やクラスメートさえも星野さんを兄だと思っているようです。私はウソの片棒を担いでいるので地獄に落ちたら舌を抜かれそうです」

 雪子といると楽しかった。見つめているだけで心が幸せになる。そう感じた。


「明日は雪子が講師デビューする日だな。朝は何時からだ? いつ終わる?」

「はい、ミーティングのあと、朝9時から幼稚園クラスを受け持ち、12時から1時間の昼休憩のあとは中学受験を目指している小学生クラスです。5時に終わりだそうです。日曜日は休みです」

「明日は無理かも知れないが、気が向いたら覗きに行く。お母さんが雪子を心待ちにされているだろう。もう送って行こう」


 その夜、星野から電話を受け取った。

「ああ、星野か。どうやらお前は雪子の兄になったらしいな。厚かましく講義ノートを作らせているそうだな」

「秋月さんに断らずにすみません。しばらく前からユッコの兄貴をやっています。なぜ兄貴になったかを説明する前に、ユッコからバカ野郎の話を聞いてませんか?」

「聞いてない。何のことだ?」

「聞いてないのですか。ユッコが極真空手副部長の山田というバカ野郎から一方的に一目惚れされた話です。ユッコに聞くと、授業で会うぐらいで名前も知らない、話したこともないと言ってました。ある日、部員を引き連れた山田に14号館ロビーで待ち伏せされて交際したいと言われたそうです。そのときユッコは何と言ったと思いますか?

「そうだな、私には好きな人がいますと言ったのか、そうだろう?」

「そうです、そのとおりです。これは秋月さんが教えたセリフですか?」

「いや、俺は関係ない」


「それで終わったかと思っていたら、その次は応援部員でした。まあ、ほとんど同じケースです。ユッコは、全然知らない人で接点がないと首をひねってました。コイツも同じセリフで撃退したらしく、お陰でユッコと気安くしている僕が疑われるハメになりました。極真空手や応援部に囲まれると男でも震えます。ユッコが狙われると僕も危険にさらされます。そこで考えたのが僕が兄になることです。わかってもらえますか。ユッコを守って僕を守る秘策です。これでも僕は苦労しているんです」


「ふざけるな! お前たちの大学はそんな野蛮なやつばかりか、そのため雪子はそんなに危険なのか?」

「野蛮ではありません。むしろ純情で純朴です。俺にはこんな可愛い彼女がいるぞと、部員に見せたいだけです。強姦はまずありません。彼らは単細胞だが愛すべき男たちです。秋月さん、ユッコのあの潤んだ大きな瞳で見られると男はイチコロだと以前にも言いました。おまけにバージンだとすぐわかりますからね。危険すぎます」

「なぜそんなことがわかる! 雪子に失礼だ。お前の話はまったく不愉快だ」

「怒らないでくださいよ。頭を冷やして聞いてください。もしユッコが危なかったら兄の僕にみんなが知らせてくれます。悪い話ではないでしょう。念ために言いますが僕には彼女がいます。ユッコが本当に妹だったらいいなと思いますが、単なる友達です。安心してください」

「お前の話は聞きたくない。俺は雪子に直接訊く。切るぞ!」


「ちょっと待ってください。ユッコを泣かす気ですか。ユッコは悪くありません。可哀想です」

「最後にひとつだけ訊く。雪子はお前の前で泣いたことがあるか?」

「いえ、涙眼になって上を向いて、にっこり笑いました。いじらしいユッコを絶対に泣かさないでください」

 秋月は星野の電話に苛立った。星野が言ったように雪子に訊くことはやめよう。無事に帰って来たのだから許そう。雪子が悪いわけではない。東京へ送り出すときに腹立ち紛れで伝えた「私には好きな人がいます」を2度も使ったという。なんと恐ろしい現実だ。だが雪子を責めること止めよう。しばらくは雪子と会えるのだから、そう自分に言い聞かせた。

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