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28章 人は死ぬために生まれる

◆ 真の仏の子になれと、篠崎は叱った。


 雪子の母は、秋月から入籍を懇願されたが拒否したことを後悔した。もし入籍されて妻であっても、子供がない雪子は騒動に巻き込まれただけかも知れない。母は入籍を拒んだことを秋月と娘に詫びて、床に伏せりがちになった。


 京子は父と雪子の母に相談して、半病人の雪子をしばらく預かることにした。

 何をするか予測できない雪子の付き添いは、到底母親では無理だろうと判断した。今ならマサオもいる、医者が3人揃っている。何か事を起こされても救命措置が可能だと考えた。

「涼、雪子は当分うちで預かるが、病室は満室で雪子のベッドは用意できない。オマエの部屋に寝かせる。オマエは廊下で寝てろ、そして雪子を見張ってろ。これはオマエの贖罪だ」

「何だって? 贖罪って何だよ? 罪ほろぼしって何だよ? オレだって落ち込んでるんだ。ユッコが可哀想だ!」

「バカな弟よ、雪子が可哀想だったら守ってやれ。アイツは秋月の呪縛から逃れてない。秋月は雪子を地獄まで連れて行く男だ。しっかりしろ、涼。オマエの気持ちは私にはわかっているんだ!」


 葬儀で包帯姿の雪子を見て心を痛めた篠崎は手紙を書いた。


 …………………………………

 西崎へ


 西崎の姿を見た。仏の子が何をしている。その姿を見て秋月さんは泣いているだろう。人生の終焉まで西崎を守れなかった己れを恥じて、苦しんでいると思う。嘆いているに違いない。わかるか、西崎。


 4年前、講師として学園に招かれた秋月さんを思い出した。彼は人から羨望される環境と立場にあったが、人生に疲れた老人のような諦めを抱いて、不機嫌な表情をし、全てに興味と意欲を失くしていた。そんな秋月さんを救いたい気持ちがあって、西崎と会わせた。


 僕は西崎の6年間の作文は全て読んだ。今でも残している。カミさんが西崎のファンだからだ。文学少女だったカミさんは西崎の作文を読んではいつも泣いていた。

「ボーンボーン、柱時計が刻をふたつ刻んだら私は亡き父を思いだす……」から始まる作文を、カミさんは暗記している。思春期にありがちな父親を嫌悪して揺れる感情をありのままに綴る西崎だったら、この感性ならば、秋月さんを救えるかも知れないと考えた。ちょうど西崎は何も考えずに大学受験を迎えようとしていた。


 西崎に逢ってから秋月さんは変わった。興味と目標を持ったからだ。

 想定外だったのは秋月さんが西崎を愛したことだ。まさか大人の秋月さんが子供の西崎に教え子以上の興味を持つとは想像しなかった。だが、よく似たふたつの孤独な魂が寄り添い、共鳴するのは当然のことだったと今は思っている。


 秋月さんは早逝の宿星のもとに生まれ、短い月日だったかも知れないが、西崎と幸せな時間を過ごしたと信じている。ふたりが巡り逢ったのは仏縁で、これは幾千万年の昔から決まっていたことだ。人がいつ生まれ、いつ死ぬか、それは誰にもわからない。生きたいと願っても生きられず、死にたいと思っても人は死ねない。だが、人は死ぬために生まれ、別れるために人と出会う、現世の真実はこれだけだ。

 わかって欲しい、秋月さんが亡くなったのは天命だ。ああすれば死なずに済んだ、こうすれば良かったと自分を責めるな。仏教では天命という言葉は使わない。「御仏の御心」と言うが敢えて天命と言う。これは人の力ではどうすることも出来ない。


 葬儀で西崎の姿を見た。西崎はまだ死ねない、死んではいけない。天命が尽きる日まで生きろ。そして、御仏の御心をあるがままに受け入れて、真の仏の子となって欲しい。これは西崎に想いを残して亡くなった秋月さんのためだ。今でも秋月さんは西崎を心配して極楽浄土へは行っていない。三途の川は渡ってもあの不機嫌な表情で西崎を案じている。秋月さんを救えるのは西崎だけだ。死んでしまった秋月さんに心配かけるな。


 今から約2カ月前、大きなスケッチブックを何冊も抱え、秋月さんは寺を訪れた。ページを捲ると、ぎっしりと英文や数式が几帳面に書かれている隅に、勉強している西崎の姿や泣き顔、安らかな寝顔が落書きのようにたくさん描かれていた。これはなんですかと訊いたら、照れ笑いしながら「アイツが真面目に勉強している横でこんな物を描いたのがバレると叱られます。預かってください」と置いていった。


 今思うと、別れの挨拶に見えたのだと思っている。秋月さんは自分の天命を薄々わかっていたかも知れない、そういう人だった。このスケッチブックは、西崎が真の仏の子となるまで、私が預からせてもらう。

 もう一度言う。頑張り過ぎずに頑張れ、死ぬな! 秋月さんを地獄に堕としてくれるな!  合掌


  篠崎 智慧

 …………………………………


 篠崎の手紙を読んだ雪子は既に涙は枯れ果てた脱殻ぬけがらで、秋月を偲んでシクシクと泣いてベッドにいた。星野は片時も傍を離れず、無理して朗らかに話しかけるが返事はなかった。

 食べることを忘れた雪子に、母が作ったスープやお粥をスプーンで一口づつ食べさせた。気が向けば赤ん坊のように口を開け、無表情で飲み込んだ。

 夜になると星野は京子から言われたように、廊下で毛布に包まって寝たが、毎晩、雪子のもとに秋月が訪れる気配を感じていた。

 秋月さんはユッコを衰弱させて黄泉の国へ誘っている、そんな気がしてならなかった。21歳であっちの世界に引きずり込まれるなんて、あんまりだ、オレは許さない! 秋月さん、そんなに人の命が欲しければ僕の命を奪ってもいいです。でもユッコは渡しません、絶対に守ります。そう言おうと心に決めた。


 秋月の霊魂と話をしたいと姉に打ち明けたが、それを聞いた京子は秋月を恨んだ。なぜ涼まで苦しめるんだ! オマエが事故に遭って死んだだけじゃないか、医者だったくせに生きている人間をなぜ苦しめるのか! いい加減に成仏しろ! フザケンナ! 京子が泣いた。


 星野は秋月に語りかけた。

「秋月さん、あなたは本当にユッコを愛していますか? 僕は絶対に信じません! なぜ、ユッコの命を奪おうとするのですか、ユッコの人生をなぜ断とうとするのですか。アイツはまだ21歳です。秋月さんはユッコを愛してない、絶対に! 僕はそう思います。ユッコの若さと将来に眼がくらみ、嫉妬しているだけです、独占したいだけです。どうしてもユッコをあっちへ拐って行くのなら、僕が相手になります。ユッコを救えるなら、秋月さんを敵にしても恐くありません。ユッコを救ってみせます。このままではユッコが可哀想すぎます。秋月さん、眼を覚ましてください」


 それから幾日か過ぎた真夜中、2000GTの爆音で雪子は眼を覚ました。

 あっ、蒼一さんだ、迎えに来てくれた! 雪子は頼りない足取りで階下に降りた。足音を忍ばせて玄関に向かう廊下で、涼と母の友恵が雪子の明日の献立に頭を悩まし、試作している光景を見てしまった。

「母ちゃん、この味は濃いよ。ユッコはもっと薄味が好きだ。ユッコに比べるとホント下手だなあ。アイツが食べれる物を作ってくれよ、母ちゃん、頼むよ」

「そう言われても私だって一生懸命なんだけど、肝心なとこでちょっと違うのよね」

「母ちゃん、栄養やカロリーとか考えずに明日はうろんにしよう。それだったら食えると思う。オレさ、秋月さんからユッコを預けられたんだ。秋月さんが死んじゃったから、ユッコが母親を養えるように教師にさせるか、就職させたいんだ。今はその気力と体力が必要だ。母ちゃん、頼むよ。明日はうろんを作ってくれよ、お願いだ」


 立ちすくんで雪子はふたりの会話を聞いていた。それをホールの陰から京子が見ていた。もし雪子が外に出ようとしたら遮るつもりだった。だが雪子は手摺りに掴まってそろそろと階段を上って部屋に戻り、さめざめと泣き出した。あの光景を見せたくて蒼一さんは私を起こしたんだ。

 蒼一さん、約束します。哀しいけど、もう人前では泣きません。蒼一さんへの想いを封印します。明日からしっかり食べます。何の関係もない星野家の皆さんに大切にされて甘え過ぎてました。蒼一さんから合格のハンコをもらえるように生き直します。思い残すことがないように、蒼一さん、蒼一さんと、大声で泣いた。

 その声に驚いた星野が走り戻ったとき、雪子は全身を震わせて泣いていたが、涙で塞がった眼のままで、「お兄ちゃん、心配かけてごめんなさい」と呟いた。

「泣きたいだけ泣け! 秋月さんの代わりは出来ないかも知れないが、オレはオマエの兄ちゃんだ。どんなことがあっても守ってやる」

 雪子を抱きしめて星野も泣いた。雪子が憐れで可哀想でどうしようもなかった。



◆ 蒼一の日記は僕を忘れないでくれ!

 

 少しずつ元気を取り戻す雪子に、ある日、山川とトオルを連れた蒼一の父が訪れた。トオルはベッドの雪子を見るなり駆け寄って、

「お姉ちゃん、どうしたの? 誰にやられたの、あのおじちゃん? ここが痛いの?」

 そう言って恐々と雪子の包帯で包まれた手に触った。まあるい瞳に涙をたくさん溜めて、

「おじちゃんは、もういじめないってボクと約束したのにどうしてだろう?」

 雪子はトオルの手を包んで、

「あの人はおじちゃんじゃないのよ。トオルくんのお兄さんよ」

「ウソだぃ! おじちゃんだよ!」

 トオルは頰をプッと膨らませた。


「すみません。トオルは雪子さんを心配していました。それで会わせたくて連れて来ました。そして、これは蒼一が残した日記ですが返しに来ました。少し読ませてもらいましたが、毎日、毎日、貴方のことが綴られています。読まれたくないことはドイツ語で書かれています。これを読んで、初めて蒼一の心がわかりました。私は蒼一のことを何ひとつわかってませんでした。恥ずかしく、情けなくなりました。本当に申し訳なかった、蒼一と雪子さんに。蒼一の心を包んで支えてくれた雪子さんに、これはお返しします」


「日記のことは知ってます。一緒に暮らせるようになったら、もう日記を書くことはないだろうと笑ってました。そして、子供が大きくなったときに読んでくれる約束でした。お父様、最後のページを読んでいただけますか。何が書かれていても驚きません。お願いします」

 目を瞬きながら最後のページを開いた、それは蒼一が亡くなった3月16日の朝に綴られた日記だった。


『おはよう、雪子。今は午前5時だ。キミが隣にいないと僕はどうも眠れないようだ。だから日記を書いている。キミを待って3年過ぎた。あと卒業までたった1年かと思うときと、まだ1年もあるのかと絶望するときがある。キミはどう思っているのかい? 多分この時間はスヤスヤとベッドの中だろう、一度眠るとなかなか起きないからなあ。そんなキミを羨ましく思い、つい虐めてしまう。ごめん。


 最近の僕はおかしいとキミは言った。確かにそうだ。いつも雪子を欲しがるのは重なっているときだけが安心できるからだ。なぜだろう?

 戻って来る度に雪子は大人の女性になっている。僕が知らないことを学び、僕がわからないことをバッグに詰めて戻って来る。もう東京へは行かせたくない! 僕は置き去りにされて埃を被って行きそうだ。不安で仕方がない。もう戻って来ないのではないか、これが最後かも知れない、そう思ってキミを抱く。他の男に渡すくらいならキミを壊したい、首を絞めたいと思う。キミに包まれているとき僕は最高に幸せで、この瞬間に死んだら幸せの記憶しか残らないだろう、だったら死んでもいいなあと思う。


 だが朝になるとキミは僕の腕を逃れて、大学生に戻ってしまう。雪子、もっと早くキミに逢いたかった。ふたりで一緒に学び、少しずつ大人になりたかった。いや、そうではない。キミに会わなかったら、こんなに苦しまずに済んだかも知れない。今頃は何も考えず、偉そうに院長を演じているだろう、そんなことを考える。人生を演じて彷徨っていた僕の魂を救ってくれた雪子、感謝している。

 今日は何時に会えるのかい? 不機嫌な顔で脅かそう、怒っているふりをしよう。僕はヤセ我慢して3年待った。早く雪子の顔が見たい。今、やっと6時になった』

 

 雪子は涙を堪えて聴いていた。山川は目を閉じて何かを思い出し、星野夫妻は涙で顔をグシャグシャにし、怒った顔で京子は柱に寄りかかって聴いていた。

 蒼一の父は涙で喉がむせってしまい、読み手はマサオに変わった。トオルは不思議そうに周りの大人たちを見上げていた。


『今日は星野の家へ行くと言ってたな、夕方までに迎えに行けるだろう。京子先生、内村先生が羨ましいなあ、いいなあ。次は僕たちだ。そう信じている。

 キミは昨日言っていた。風に南の匂いがするから、きっと明日はキツイ雨ですと。その通りだ。夜明けから激しい雨が降っている。なぜわかるのか? いつも僕は不思議に思う。僕にわからないことがなぜキミにはわかるのかと。お願いだ、大学なんてやめちまえ! 僕は埃を被った置いてきぼりには耐えられない。早く一緒に暮らしたい! ヤセ我慢して待つのはもう限界だ、僕の最大の我儘を許してくれ! お願いだ、雪子……』


 次のページをマサオが捲ろうとしたとき、

「マサオ先生、もういいです。蒼一さん、ありがとう……」

 雪子は頭を左右に振って涙を払い、しばらく上を向いて眼を閉じて、淋しげに笑った。

「私は蒼一さんを追いかけて死ぬのを止めました。そんなことをしたら蒼一さんから叱られます。この日記を抱いて生きて行きます」

 雪子は、日記の表紙に書かれた『Vergiss mein nicht!』(=僕を忘れないでくれ!)を見て、全てを知った。右肩上がりの綺麗な文字だった。

 我慢できずに星野は床を叩いて泣いた。



◆ 蒼一のお金はトオルに、遺骨を抱いて東京へ。


「雪子さん、こんな時に申し訳ないのですが、若先生から預かっていたものがあります。これは誰にもお見せしてません。雪子さんにお渡しします」

 雪子名義の預金通帳と印鑑を出した。

 それを受け取って、雪子は歌うように山川に言った。

「これは蒼一さんが、私の離れに転がり込むために用意されたお金です。蒼一さんは言ってました。僕はもう疲れてしまった。僕がいなくてもチーム全員で責任を果たせるようになったら、あそこで子守をして私の帰りを待ちたいなあと。でも、蒼一さんは亡くなりました。これは受け取れません。お返しいたします」


 山川は顔を真っ赤にして怒り出し、

「よく見てください! 若先生が雪子さんに残したお金じゃありませんか。このお金があったら、少しは親孝行が出来るでしょう。しばらくは雪子さんが落ち着ける金額ですよ。まったく何を考えているんですか! 若先生の気持ちをわかってくださいよ。若先生の気持ちを無にするんですか!」

 受け取らないと言う雪子に、どうしてこの人は受け取ろうとしないのか、山川は完全にブチギレた。


 星野家族が何とも言えない表情で見守るなか、

「山川さんのお気持ちは大切にさせていただきますが、蒼一さんはトオルくんの将来を心配していました。蒼一さんが生きていれば必ずトオルくんを応援したと思います。足りないかも知れないけど、このお金はトオルくんに役立てください」


 なぜ父親の不始末に若先生のお金を使おうとするのか、山川は不満だった。

「雪子さん、わかりますか? 普通に働いてこれだけのお金を残すことは大変なんです。若先生だから残せたお金なんです! 世間知らずもいい加減にしてください! 守ってくれた若先生はもういないんですよ、これから雪子さんは一人で生きていくんですよ。お金は絶対に邪魔にはなりません!」

 山川は秋月の苛立ちが乗り移ったかのように雪子を睨んだ。通帳の印字は約450万円で、なぜこの人は受け取らないのか、若先生が一緒に暮らす日を楽しみにしていたお金ではないか、若先生が亡くなってしまった今は、このお金で雪子さんが幸せになれるなら、若先生は喜んでくれるだろう。そのためのお金ではないか、山川は怒っていた。なお、当時の450万円は、貨幣価値は違うが、現在に換算すれば2,300万円だろうか。


 星野院長や京子が口を挟もうかどうしようかと見守るなか、

「蒼一さんの蒼という字はどこまでも澄み切った『蒼天』の蒼です。私はこのお金で蒼一さんに蒼い茶碗と、私に白い茶碗を買わせていただきます。あとはトオルくんに残します。蒼一さんにはたった一人の弟なんですもの。父さんはやってくれたなあ、僕に弟なんて嬉しいなあって。だからきっと私の我儘を許してくれると思います」

 雪子の言葉が終わるか終わらない前に、蒼一の父は雪子の手を取って、

「雪子さん、これは受け取れません。蒼一が死んでしまった今、あなたはどうやって生きていくのですか。この金で少しでも幸せになってください。私の後始末を蒼一に押し付けることは出来ません。蒼一に申し訳なくて面目がありません。これは受け取れません。どうぞ、雪子さんが納めてください。お願いします」


「お父様、私はまもなく22歳になります。大学を出たら働きます。蒼一さんの気持ちだけをいただきます。毎朝、蒼い茶碗に茶を点て、挨拶します。これはトオルくんに役立ててください。私はもう大人です。幼いトオルくんが心配です。

 蒼一さんは、僕の言うことは何ひとつ聞いてくれないのか、やっぱりそうかと呆れても、許してくれます、そう思います」

 蒼一の父は獣が吠えるような声で、「蒼一、許してくれ!」と叫んだ。トオルが「パパ、どうしたの、泣かないで」と父にすがりついた。

 雪子が「私はトオルくんのお姉さんよ、忘れないでね」と言ったら、トオルは「うん、知ってるさ、お姉ちゃんだよね」とにっこり笑った。


 星野院長は雪子を抱きしめて、

「辛いことがあったら、いつでもここに帰っておいで。みんなで待ってるよ」、眼鏡を外して妻の友恵と泣いていた。涙を堪えた京子は雪子の肩を抱いて、

「アンタは妹なんだから、いつでも戻って来いよ。ホントにバカなヤツ……」

 

 新学期には少し遅れた4月中旬、星野の介添えで大学に戻って行く雪子に、蒼一の父は蒼い小さな壺に納められた骨と遺髪を託した。真っ白でさらさらした綺麗な骨だった。遺髪には愛用していたマリン系のコロンが残っていた。蒼一さんは本当にお星様になってしまった…… 雪子の心はまだ揺れていた。



◆ 留袖姿の雪子に秋月が泣いた、お披露目の茶会。


 秋月の魂は雪子の離れで暮らしていた。コロンの匂いを漂わせて雪子を抱きしめ、大学に通う雪子を見送り、昼間は縁側に座布団を並べて寝転び、どのような本を読んでいるのかわからないが読書三昧の日々を送っていた。午後は秀明斎の茶をすすり、雪子の帰りを待った。

 雪子は形がない秋月に話しかけ、寄り添って抱かれた。だが、四十九日を過ぎてもこの世に留まり、いつも雪子の傍にいる秋月と雪子の将来を案じた秀明斎が、鎮魂の茶会を催した。

 秀明斎は合掌のあと丸く袖をさばき、いつもの旨い茶を点てて秋月を諭したが、秋月は聞く耳を持たずに、ずっと雪子に寄り添っていた。


 高嶋は左手が動くようになった雪子に猛稽古を始めた。茶道の歴史をひもとき、有職故実や真贋を見極める慧眼けいがんを教え、禅の真髄を講じた。横に控える秀明斎が思わず目を伏せる厳しい修行が続いたが、雪子は涙ひとつ零さずに稽古を続けた。上から眺めていた秋月は、俺の雪子をそんなに虐めるな! 腹を立てたが、何の力にもなれない我身を恥じて、口を噤んだ。

 面影橋に蛍が乱舞する季節になり、雪子は4名の先生から推薦をもらって、東京大手町にある読売新聞社本社の総務部に就職した。4通もの推薦状なんてあり得ない特例だ、秋月は驚き、喜んだ。当時は総合職という概念がなかった時代で、さまざまな雑用を引き受け、見学に訪れる小学生を案内して、新聞が出来るまでの工程や社会に果たす役割を伝える日々を送っていた。休日は茶の師範代を務め、雪子を慕って訪ねてくる小学生に茶を振る舞い、福岡に出稽古に通う秀明斎の留守を守った。星野は中日新聞社名古屋本社に入社していた。


 数年後、雪子は茶名・紋許を許され、代稽古ができる助教授になった。吉日を選んで、そのお披露目の茶会が内輪で開かれ、星野涼と榊原記念病院で研修医を勤める古谷潤のほか、星野院長夫妻と山川婦長が出席した。雪子は三つ撫子の紋を染め抜いた黒留袖に初めて袖を通した。秋月家の紋を見た山川がそっと涙を拭った。まだ雪子さんは若先生を愛してる……

 頭上から見つめていた秋月は雪子の留袖姿に驚いた。京子先生とマサオ先生の結婚式のために誂えたらしいが、初めて見た。俺に見せたくてこれを着たんだね、今でも秋月蒼一の妻だと…… 死人の俺を泣かせてどうするんだ。雪子が愛おしくて、どうしようもなかった。


 雪子は静かに瞑目し、涙を隠して天女が舞うような所作で茶を献じた。人々は在りし日の秋月の姿を思い浮かべた。

 最近の秋月さんは気配はしても姿は既に見えにくい。微かにコロンが漂うだけだ。霊魂だけでもいいから傍にいてやれないのだろうか、星野は雪子が可哀想でそんなことを考えていた。突然ふわりとコロンの匂いがきつくなった。

「星野、お前はもっと大人になれ。まだお前には雪子を渡せない」

 秋月の言葉が聞こえた気がして空を見上げた。あの日と同じ、蒼天の空が広がっていた。


 それからも雪子は秋月を忘れられず、いつも語りかけていたが、秋月がだんだん透明になって、声も聞こえなくなった。褥の隣に滑り込むこともなく、思い出の中でしか会えない秋月が恨めしく思えた。

 秀明斎先生から聞いたように、蒼一さんは小さな光の塊になって、遠くへ去ったのかと永遠の別れに打ちひしがれた。心を澄ませば「雪子、愛している。待っているよ」と秋月の声が蘇る。それだけを胸にしまい、涙を隠して生きていた。


 秋月の没後6年の月日はいたずらに過ぎ去り、雪子の母は亡くなり、雪子は帰る家すら持たない独りぼっちになった。

 星野は出張で九州を訪れた折りに実家に立ち寄ったが、京子は弟の顔を見ると開口一番、一喝した。

「オマエはまだ雪子を抱いてないのか? 大バカ者め!」

「姉ちゃんは急に何を言い出すんだ?」

「バカタレ! オマエしかいないだろう、雪子を幸せに出来る男は。何を怖がってるんだ? 死んだヤツをいつまで気にするんだ、フザケンナ! 雪子を好きになって10年だろ? オマエは10年も何してたんだ? 秋月に負けないほど愛してるんだろ、違うのか? そろそろ雪子を嫁に連れて来い、アイツは私の妹なんだ。手込めでも何でも許す、それまで帰って来るな、わかったか!」

 マサオが我慢できずに吹き出した。


 姉からそう言われたものの、星野はまだ心を決めかねていた。オレはユッコが好きだ。初めて会ったときから、あの一途なヤツが放っとけなかった。じっと考えた。秋月さんの大人の愛に負けると思ったときもあったが、今は負けない。姉ちゃんが言うように、やっぱりオレはユッコが好きだ。いつしか可愛い妹のユッコから家庭を守って子供を育てる、そんな大人の愛をユッコに求めている自分がわかっていた。


 東京出張を名目にして、雪子の離れに星野は訪れた。

「お仕事ですか、大変ですね。お疲れさまです」

 星野を迎えて喜んだ雪子は、旨い夕飯を用意して歓待した。

「お風呂沸かしましたよ、お先にどうぞ。仕事の汗を流してください。母屋に布団を用意して来ます」

「うん、ありがとう。ユッコも一緒に入るか」

「はあ? なに言ってるんですか」

 冗談だと雪子は笑った。


 星野はいきなり雪子を抱えて、押さえ込んだ。

「何するんですか、離してください!」

 叫びそうな雪子の唇を塞いで、目を見開いて驚いている雪子が落ち着くのを待った。押し倒された雪子は身を硬くして怯えていた。

「ユッコ、オレに抱かれろ。オレは秋月さんの次でいい、そんなことはわかっている。オマエは鈍いからオレの気持ちをサッパリわからなかったらしいが、オレはユッコがずっと好きだ、愛してる。秋月さんが言った愛していると同じだ。ユッコ、オレの嫁さんになってくれるか」

 雪子の顎を掴み、力まかせにキスした。

「秋月さんの気絶させるキスとは違うだろうが、ユッコ、わかってくれ!」

 逃げようとした雪子に星野と秋月の顔が重なった。蒼一さん! 呼んだが、秋月は助けに来なかった。


「ユッコ、オレの嫁さんになってくれ!」

 助けて、蒼一さん…… ポトリと涙が落ちたとき、星野は強引に重なり、お兄ちゃんからダンナさんに昇格した。雪子は最後の瞬間に抵抗できなかった自分を恥じ、背を向けていつまでも泣いていた。星野は甘えても許してくれるお兄ちゃんだと信じていた。まさか、こんなことになろうとは、甘えと隙があったからだと自分を責めた。

「ユッコ、ごめんな、強引で悪かった。怖かったか、痛かったか。こうしないと挫けそうだったんだ、自信がなかったんだ。オマエを絶対に幸せにすると約束して、秋月さんから許しをもらったが、何か悪い気がしていた。明日からオレはお兄ちゃんじゃない、ダンナさんだ。わかってくれるか」


 抱かれてしまったふしだらさを嘆き、左手首の自刃じじんの傷跡を見つめて絶望した雪子に、秋月の声が響いた。

「雪子、幸せになってくれ。星野にキミを託した。だが、あの世では僕の妻だ。安心しろ、この世は仮の世だ。あっちが真実の世だ。雪子、愛している、真実の世で待ってるよ」

 秋月はそう虚栄を張った。秋月の心が痛すぎて雪子は泣きやまなかった。


 その一夜で雪子は身ごもって寿退社した。ふたりを本当の兄と妹だと信じていた周囲は大仰天したが、孫まで授かったと知った星野院長夫妻は天にも昇る気持ちで祝福した。

「涼、でかした! 一撃で決めたのか、よくやったな!」、珍しく京子が褒めた。やがて雪子は年子で3人の男児を産み、子に恵まれない京子とマサオを呆れさせた。


 歳月は慌ただしく走り続けた。何より星野は毎日が楽しかった、幸せだった。まもなく東京支社に転勤して離れに住み、息子たちを育てた。休日は家事や育児を手伝い、いつも優しく雪子を労わったが、雪子の心の奥底にはいつも秋月がいた。無邪気に走り回っている息子たちを見つめながら、この子たちが蒼一さんの子だったらという気持ちを隠した。子供たちが遊び疲れておとなしくなる夕方、膨らみ落ち行く夕陽を追いながら涙ぐんでいる雪子を、秀明斎は知っていた。秋月先生とお話されているのか…… 人の世の無常と儚さに涙した。


 雪子は裏千家茶道師範になって門下生を指導する傍ら、高齢になった高嶋千鶴子の世話をし、福岡に出稽古に通う秀明斎の留守を守り、慎ましく家計をやりくりして息子たちを育て上げた。次男は九州大学医学部に進学し、マサオを継いで産科医になり、現在も星野産婦人科病院は存在している。


 高嶋の没後、星野の定年と寡婦になった母の懇願に負けて、福岡へ戻って来た雪子の眼に、秋月と過ごした思い出の風景は失われていた。市内電車の代わりに地下鉄が走ってビルが立ち並び、波を追いかけて遊んだ大きな海は消え去り、雪子は異邦人になった気がした。

 37年ぶりに秋月の弟のトオルと再会した。トオルは循環器内科の医者になり、秋月病院の院長に就任していた。大学を卒業するまで援助を続けた雪子をお姉さんと呼び、眼を潤ませて再会を喜んだ。雪子は夫に隠れて、出稽古で頂いたご祝儀を送り続けていたが、星野は知らないふりをしていた。

 ロビーから病棟を見上げると、白衣の秋月が「お帰り」と微笑んでいた。


 しかし、福岡に戻ってから雪子はなぜか元気が失くなった。病気はなく、精密検査でも異常はなかったが、星野は不安になった。オマエ、大丈夫かと訊いたら、もう年だし、夏バテかなと雪子は笑った。

 秋風が吹き抜ける居間で、凛と背筋を伸ばして蒼い茶碗に茶を立てる雪子の周りに、秋月のコロンの匂いが漂っているのに気づいた。星野は福岡に戻ったことを後悔した。秋月さんが待ちきれなくて、帰って来たユッコを連れて行こうとしている、そう疑った。だが雪子は毎日旨い食事を作り、家族で食卓を囲み、姑の話し相手になって、いささかも不調は見られなかった。


 福岡に珍しく雪が降り積もったある早暁、雪子は誰かの声で目覚めたが、全身が氷のように冷たく感じた。

「お帰り、雪子。やっと会えたね、迎えに来たんだよ。ほら、温めてあげるよ」

 秋月は雪子を抱きしめて、懐かしい大人のキスをして離さなかった。

 そのとき、部屋を包む冷気に目が覚めた星野は、隣の雪子を起こそうとした。

「ユッコ、雪が降ってる、ぼたん雪だ、綺麗だよ。見てごらん」

 声をかけたが返事がないので、まだ眠っているのかと抱き寄せたら、頭が枕から滑り落ちた。驚いた星野はすぐさま京子とマサオを呼び、緊急救命措置の後、秋月病院に運んだ。


 トオルと古谷の懸命な蘇生措置も虚しく、雪子は穏やかな表情で眠っているように亡くなった。救急処置室に漂うコロンの匂いに気づいた古谷は、秋月さんが迎えに来たと知った。西崎さん、やっと秋月さんと幸せになれるんだね、古谷は涙を堪えた。

 最愛の妻を亡くした星野は唇を噛みしめた。

「ユッコ、オレはオマエをずっと守った、秋月さん以上に愛してた。オレはものすごく幸せだった、オマエも幸せだったか? そうだよな」

 号泣する星野の隣には立派に成人した息子たちが俯いていた。星野雪子となって32年、享年60歳だった。



◆ 50年後、街は変貌し、人も変わったが…


 秋月が亡くなって半世紀の歳月が流れ、福岡の街は激しく変わった。市内電車は撤去されて地下鉄が縦横に走り、博多っ子が応援したプロ野球球団『西鉄ライオンズ』は消滅し、雪子を乗せて蒼一が向かった海岸線は埋め立てられ、ショッピングモールや高層ビル街になった。


 現在の秋月病院の院長は秋月トオルだが、トオルが一人前になるまで病院を支えたのは、秋月蒼一心臓外科チームと榊原記念病院で研鑽を積んだ心臓外科医の古谷潤であり、内科部長を務める和田史朗である。トオルは秋月蒼一の再来かと噂されたほどの秀才で、兄同様に首席で卒業したが、既に父は他界していた。

 トオルは、蒼一と雪子のお陰で今の自分があると肝に銘じ、院長室には今でも二十歳の振袖姿の雪子に照れくさそうに寄り添った蒼一の写真が飾られている。まだ人生の怖さを知らなかった二人は、写真の中で見つめ合って微笑んでいる。

 そして、結納の儀で職員たちに披露された蒼一の哀しく切ない伝説のキスは、今になおこの病院に語り継がれている。


 歳月の流れの中で多くの人が亡くなり、雪子も旅立った。

 秋月はやっと会えた雪子に、元気だったかい? そう言って抱きしめて、毎日お決まりの大人のキスをしているのだろうか? 今もふたりで波の音をたくさん聴いているのだろうか……


 どんなに時代が変わっても真実はひとつ、

 『人は死ぬために生まれ、別れるために人と出会う』

 そして、50年経っても100年後であっても、人を愛する気持ちは変わらない。 (完)


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