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27章 レクイエム、秋月は突然に

◆ これは結婚指輪か?


 1月5日(水)、秀明斎は、虫垂炎で本日しか半東を務められなかったと詫びる雪子に、

「正式の結納は流れても、病院の皆さんから真心がこもった結納の儀をしていただいたのですから、それを誇りに思ってください。最近の秋月先生は落ち着かれてますよ。雪子さんと会うときだけです、動揺なさるのは。ただ先生は体を休める時間もないほどお忙しい毎日をお過ごしです。本日は最後にお見えになります。雪子さん、お受けしなさい」

 お受けしなさいの意味はわからないが、秀明斎先生がおっしゃることだからと何も考えず、はいと雪子は答えた。


 やっと仕事が終わったのか、10時近くなって秋月はスーツ姿で訪れた。秀明斎はいつものように、ふたりに背を向けた。雪子が点てた薄茶をゆっくり飲み干し、

「ああ、実に旨い! 疲れが溶けて行くようだ。眼を閉じて左手を出してごらん」

 秋月は雪子の左手の薬指に指輪を填めた。眼を閉じてもその感触は伝わり、驚いて眼を開いた雪子に、

「これから1年の間、キミを待っている心を指輪にした。見てごらん、僕のリングは from YUKIKO で、キミのは from SOICHIだ。この前のように勝手なことして嫌われたくないから、気持ちを伝えた。貰ってくれるか?」


 秀明斎先生がお受けしなさいと言われたのはこのことか? どう見ても結婚指輪にしか見えない。

「これは結婚指輪でしょうか? あの~ まだ結婚してませんが」

「そうだ、結婚指輪だ。正しくは wedding ring と言う。僕が雪子を愛する心、雪子が僕を愛している心、永遠の愛の証だ。

 雪子を信じてもキミは僕の傍にいない。時々、僕はキミがいないと淋しくて挫けそうになる。これは僕の弱い心のお守りだ。さあ、僕の指にも填めてくれ。僕には愛する妻がいますと堂々と世間にアピールしたい、それが僕の願いだ」


 雪子はほんの刹那、迷った。なぜ、蒼一さんは慌ただしく wedding ring を用意したのか。私のお腹に埋めたダイヤだけでは安心できないのか? 何が不安なのかと不思議に思った。

 秋月は雪子からリングを填めてもらい、乱暴に抱きしめてディープキスをした。秀明斎は背を向けていつものように微笑んだ。


「大学でリングは恥ずかしいだろう、大学では許してあげるよ。だが1日に1度はリングを見て僕を思い出してくれるね」

 いえ、大学ではウソの結婚指輪を楽しんでいるカップルがたくさんいます。卒業までの同棲カップルが多いのですと言おうとしたが、秋月の穏やかで優しい眼を見て、そんなことを言っては蒼一さんの心配をひとつ増やすだけだと黙った。たくさん愛されて、雪子は大学へ飛び立った。


 山川は秋月の指輪に気づいた。

「それは雪子さんとお揃いの結婚指輪でしょう。妻帯者に見られますけどいいのですか」

「いけないか? 遅かれ早かれそうなる」

「そうですよね。雪子さんは大学ではどうしてるんでしょうか。でも、大学生には同棲が流行ってますから、指輪ぐらい平気でしょうね」

「学生で同棲している子は卒業したら結婚するのか?」

「違いますよ。一緒に暮らせばアパート代は半額で済むし、エッチは出来るしで、卒業と同時にバイバイです。東京ではすごく流行っているそうです」

 そうなのかと呟いた秋月の顔は曇った。



◆ 学年末試験の大半がレポート提出になった。


 大学は1月10日(月)から始まったが、14日に法学部が学年末試験の延期を発表した。試験延期とは名目で、ほとんどの講座がレポート提出に変わり、他学部も同様だった。昨年、評議会が昭和48年度からの学費値上げを発表し、それに反対して昨年末から各学部で学生大会が開かれ、授業ボイコットが行われていた。しかも学部によって学生集会を牛耳るセクトが異なり、混乱を極めてぃた。

 学年末試験がレポートになったことに不満を持った教授は、提出されたレポートの内容に出欠の有無を考慮して評価した。受講登録だけして一度も出席していないユーレイ学生にも、チャンスを与えて単位をあげるのかと、真面目に出席した学生から強い不満の声があがったのは事実だ。また、レポート代筆の相場が3倍に跳ね上がったのは当然だった。


 星野に wedding ring を見つかった。

「へえーっ、これが結婚指輪ってものか。結婚してなくてもこんなもんをするのか。ふうーん、高そうだな、プラチナだってさ。あっ、名前が彫ってある、ヤバイなあ、隠しとけよ。これはユッコを束縛する小道具だ、シカトしろ。金に困ったら売り飛ばせ。それよりニュースがあるんだ。姉ちゃんがやっとマサオさんと結婚するんだ」

「うあっ、ホントですか。おめでとうございます! 良かったですね。いつですか?」

「オレもほっとしたよ。これで親父も大喜びだろう。何だか纏まるまではグチャグチャあったみたいだが、マサオさんがウチを継いでくれるそうだ。オレんちみたいな小さな病院でも大人たちの欲がらみだ。秋月さんだって院長になっても、組織の歯車にしか過ぎない。そのくせ責任だけは大きい。あの家つきババアが死んじまえば話は別だがな。オマエさ、そんな指輪なんて真剣に考えるな。秋月さんの我儘だ、それはユッコの囲い込だ」



◆ 水底に沈めたはずの記憶が蘇る不安。


 2月20日(日)、雪子は戻って来た。秋月は上機嫌で迎えて、薬指のリングを確認して微笑んだ。お決まりのとろけるようなディープキスの後、お母さんの許しはもらった、泊まって行け、あっさり自分のテリトリーに運び去った。


「京子先生が結婚なさることは知ってます?」

「ああ、知っている。内村先生だね。5月14日の結婚式に雪子と招待されている、楽しみだ。お似合いのカップルだ。次は僕たちだ、そうだね」

 雪子の眼を覗き込んで秋月は囁いたが、眼を細めたその表情はあまりにも優しく、雪子は不安を感じた。理屈ではなく言葉にも表せないが、何んだかおかしい、ヘンだと感じた。不安は次第に膨らんで行った。蒼一さんはあと1年を待てないほど精神的にギリギリなのだろうか? お願いです。卒業したら、蒼一さんの胸にすぐ戻ります。卒業させてください、心の中で願った。

 

 秋月は雪子を片時も離そうとはしなかった。診療やオペの合間に部屋を覗いては雪子がいるのを確認した。たまに雪子がいないと、

「山川くん、雪子はどこに行ったのか」と問い、

「家にお帰りになったのではありませんか」と応えると、

「聞いてないが、本当か?」、落胆した眼差しに変わった。

 私は雪子さんの番犬ではありませんと山川は言いたかった。


 雪子は家に戻って弁当を作ってスタッフにも振る舞ったが、秋月家のキッチンを使うことは遠慮していた。

 秋月の仕事が終わると肩を寄せ合い、天神や中州をそぞろ歩いてデートを楽しんだ。ウィンドーの前で立ち止まり、秋月は何か欲しい物はないかと尋ねるが、雪子はいつもないと答えた。その繰り返しで、

「欲しい物があったら何でもあげたいと思っているのに、淋しいな、本当に何もないのか?」

「蒼一さんのほかには何もいりません」

 どんなに甘く切ないディープキスを受けても、雪子の心に小さな不安の灯火は消えなかった。


 雪子は恐れた。水底に沈めたはずの記憶が蘇った。

 父は心筋梗塞で突然亡くなる半年前から、雪子は何が欲しいのか、これはどうだ、あそこに連れて行こう、あれを買ってやろうと、雪子の笑顔を見たいばかりにかなりの散財をした。当時の雪子は父を避けていた。父を嫌ったのではなく、友だちの父親よりも老いた父を見たくないだけだった。

 妾宅で亡くなった父に、そんな自分の我儘な思いを詫びようにも冷たくなっていた。お父さん、ごめんなさい。雪子は父への想いを記憶の水底にしまった。

 蒼一さんはどうしたんだろう、やっぱりヘンだ。不安は際限なく広がった。


 昼間の雪子を離さない秋月が夜の雪子を離すはずはなかった。何かに憑かれたように雪子を求めた。

「どうしたのですか、何だかヘンです。何かあったのでしょうか。私はおかしくなりそうです。もう、許してください、離してください、無理です。お願いです!」

「どうしてだ? 僕は少しもヘンではない。雪子こそ何を言ってるんだ。雪子はこんなに僕に抱かれたがっている。ウソ言っても僕にはわかる。そうだろう? 逃げないで早くおいで」

 ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。

 秋月は触れるか触れないかの愛撫を続けた。雪子が苦悶を堪えて硬直し、ため息とともに弛緩する瞬間に夢中になった。腕の中で動かなくなる雪子が愛おしく、いつまでも抱きしめて見つめた。

 蒼一さんは何か違う、激しく噴き出す衝動だけでなく、物の怪に取り憑かれたように私を気にして干渉する。何かヘンだと感じたが、自分の不吉な予感を信じたくなかった。蒼一さんは33歳、父のように突然死するはずはない、考え過ぎだと思い込もうとした。


 ある日、秋月は雪子の母親を訪ね、正式な結納が出来なかったことを謝罪した。そして、秋月家の紋が入った留袖と喪服を誂えて欲しいと、大金を置いた。嫁入り支度にはまだ早いでしょうと固辞する母に、

「雪子を婚約者として公に発表しました。ふたりで結婚式や葬儀に列席することもあるでしょう。5月には結婚式に出席することが決まっています。ほかに何も支度はいりませんが、秋月家の三つ撫子の紋を染め抜いたこれだけは揃えてやりたいと思います。お願いします」

 これを雪子が知ったのは、全てが終わった後だった。


 秋月の眼を盗んで星野に電話した。

「聞いてください、蒼一さんがヘンです。おかしいと思います。とにかく私を離してくれません。いないと何処へ行ったかとうるさいし、何か欲しい物はないのかと毎日しつこく尋ねて、こうしろ、ああしろと指示して、おかしいです」

「何言ってんだよ! そんだけ秋月さんはオマエを愛してるんだろ、そんなノロケ話なんて聞きたくないぞ。ユッコは幸せなんだろう? 心配するな、オマエの考え過ぎだ。切るぞ!」

 星野は孤独だった。

 自分の胸の内を探ってみた。オレはユッコが好きだ。だが、アイツは最初から秋月さんの預かりものだ。ユッコの男はオレではない。勝手にしろ! ユッコのタワゴトなんか聞いてられるか、ふざけるな! 星野は秋月と自分に怒っていた。



◆ 爆音と姿、それは幻の秋月だったのか?


「星野さんから電話があって、京子先生とマサオ先生が結婚式の打ち合わせに福岡にいらしてます。お会いしたいです」

「両先生にはずいぶんお世話になった、頭が上がらない。雪子、行っておいで。いつ行くのか? 僕は追いかける」

「うーん、明日、蒼一さんと一緒に行きたいけど、ものすごい雷雨がありそうです。だから、どうしょうかなあと考えてます。明後日にしようかなぁ」


「こんなに天気がいいのに降るのか? 明日は建設中の分院に行く用がある。送っては行けないが必ず迎えに行く。明後日は朝からオペの連続で出かけられない。明日はそんなにすごい雨が降るのか?」

「ふぁい? 南から吹く風の匂いでそんな気がします」

「風の匂いとはなんだ??? どうしてわかる? 生意気なやつだ、どうだ!」

 カミソリ秋月が理性とプライドを捨て、雪子に重なった。なぜかいつまでも雪子を離さず、幾度も重なって、修羅に堕ちて行った。

 ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。 


 翌日の3月16日(木)、雪子は星野病院を訪れた。未明からの雨はいっそう激しくなり、テレビの音は雨音に打ち消され、稲妻が走り狂う度に蛍光灯は怪しく揺らいで瞬いた。春雷にしては、いかずちが不思議なことに暴れまくった。


「あれっ? 蒼一さん?」

「そうだな、秋月さんの車の音だ。迎えに来たらしい。ユッコ、見て来い」

 雪子と星野は2000GTの爆音と地響きに気づいた。

「姉ちゃんに秋月さんが来たって言ってくる」

「うん、私、見てくる」

 雪子はなかなか戻って来なかった。京子が、

「涼、雪子はどこに行ったんだ? 見て来い、ひどい雨だ」

「イヤだよ、あいつらチューしてるから見たくないよ。それにしても凄い雨足だ。しょうがないか、見て来るか」

 ドアを細めに開けて星野は外を見た。そのとき天地を揺るがして、ひときわ大きな雷鳴が轟き、雪子が倒れていた。てっきり雷に打たれたと思った星野が雪子を助け起こしたとき、

「蒼一さん! 蒼一さん! 待ってください。お願い!」

 雪子は地面を這って、車寄せから道路に出ようとしていた。

 道路にはスカイブルーの2000GTが停まっていた。


「ユッコ、待て!」

 星野が叫んだとき、院内では電話を受けた京子が顔色を変えて、息を呑み込んだ。

「どうした? 何があった?」

 マサオが尋ねた。

「秋月が事故に遭ったらしい。車ごと崖から転落したと聞いた。皮肉なことに分院の工事トラックがカーブを曲がり切れずに、丘を上って来る秋月の車と正面衝突したらしい。とにかく雪子を連れて行かなくては」

 山川からの電話だった。


「マサオ、雪子と涼はどこだ?」

「さっき、車のブレーキ音が聞こえて外に出たが、戻ってない」

 マサオはドアを開けて外を見た。

 目を開けられないほどの大雨の中で、地面を這って道路に出ようとする雪子の足を掴み、行かせまいとする星野がいた。まるで2匹の巨大なナメクジが雨に打たれながら移動しているように見えた。マサオは星野を引き剥がして雪子を抱え、室内に戻った。驚いた父親が息子を運んだが、ふたりは歯の根が合わぬ程、わなわなと震えていた。


 雪子はマサオに抱えられたまま気を失っていた。マサオは雪子を正気に戻したくなかった。気がつけば哀しい現実が待ち受けている、出来ればこのまま眠らせたいと思った。

「涼、しっかりしろ!」、父の院長が頰を叩いた。

 ふーっ、星野が正気に戻った。

「あーっ、親父、ユッコは?」

「雪子さんは完全にのびている。何があったんだ? オマエは何をしていた?」

「秋月さんの車が停まっていた。ユッコは行こうとしたがオレが止めた。何か違う気がした。こっちは土砂降りなのにあっちは降ってなかった。真っ青な空だった」

「秋月院長を見たのか?」

「見たと思う。いや、見たような? 見た気はするがわからない。スカイブルーの車は見た。エンジン音を聴いた、確かに見た、聴いた、そう思う……」


 京子が涼に告げた。

「いいか、落ち着いて聞け! 電話があって、秋月は事故で緊急搬送中だ。オマエの話を聞くと、秋月は死んだのかも知れない。死ぬ瞬間にいちばん気がかりな人の前に現れる話はよく聞いている。だが、雪子には言うな! とにかくオマエらは泥まみれだ。アイツを洗って眼を覚まさせろ。いいな、急ぐぞ」


 星野は頭から湯を浴びせたが、やっと立っているだけの雪子はされるがままで、服を剥いだ男が誰だかわからないまま、魂が失せた虚ろな眼を見開いた人形だった。雪子を洗ってやりながら、あまりにも可哀想だと泣いていた。こんな酷いことがあるか! なぜ、ユッコを残して死んだのです! 秋月さん、酷すぎる! 勝手すぎる!

 コイツは、賢い娘が知っているような世間や価値観がわかりません。それは、秋月さんが大切にし過ぎたからです。秋月さん、あなたは酷い人だ。雪子をどんだけ苦しめたら気が済むのですか! 言葉に出せない辛い気持ちを星野は胸に収めて泣いた。


「姉ちゃん、あとは頼む」

 鼻水をすすり上げながら、人形の雪子を京子に渡した。

「アンタ、しっかりしなさいよ!」

 素っ裸のままつっ立っている雪子に服を着せようとして、腹のダイヤに気づいた。こんなことをしていながら、雪子を残して死んじまうなんて最低の男だ! 何てヤツだ! どこまで雪子をおもちゃにすれば気が済むのか! 秋月、地獄に堕ちろ! 気丈な京子が泣き崩れた。

 ただ一人、辛うじて冷静を装っているマサオの運転で、雪子は秋月病院に着いた。車内で少しだけ正気に戻った雪子は、蒼一さん、蒼一さんと呟いていた。



◆ 突然、秋月蒼一は黄泉の国へ消え去った。


 秋月病院は戦場さながらの混乱が生じていた。搬送されたばかりの秋月は手術室に運び込まれ、心臓外科チームは勿論、全ての医者が招集されたが、2時間経過しても手術室のランプは点灯していた。やがて、慌ただしく出入りするスタッフの姿は減り、静寂な時間だけが刻まれて行った。

 数多くの死に直面して来た医者の京子とマサオは、今行われているのは遺体の縫合手術だとわかっていた。秋月に大切に守られ育てられた雪子に、秋月の死を誰がどう伝えればいいのかと悲嘆に暮れて顔を見合わせた隣で、雪子は星野の肩にもたれて雨音を楽しみ、ときおり微笑んでいた。何もわかってはいなかった。


 手術室のドアが開かれ、山川が「秋月院長はお亡くなりになりました」と告げた。

 ストレッチャーに乗せられた秋月は全身を白い布で覆われていた。

 雪子は場違いなかん高いトーンで、

「そんなことはありません。山川さん、何を言ってるのです、ウソ言わないでください! さっき蒼一さんと会いました。雨の中、迎えに来てくれました。星野さん、そうでしょう、会いましたよねぇ」

 雪子が溢れ落ちる涙を拭おうともせず首を振ったとき、山川が泣きながら雪子を抱きしめた。


 遺体は秋月の部屋に移された。白い布をめくると不機嫌な秋月が眠っていた。右目は潰れてしまったのか眼帯が掛けられていた。

「蒼一さん、こんな顔してどうしたのです。何を怒っているのです? 機嫌を直してください! お願いだからいつものように、脅かしただけだよと笑ってください。わかった! 寒いのでしょう。こんなに冷たくなってどうしたのです。待ってください、温めます」

 雪子は秋月に抱きついた。母の晴子が泣きすがったが、人々は泣くことも忘れて悄然と俯いていた。


 秋月を抱きしめた雪子は、

「蒼一さん、お願いです! 起きてください! 遊びましょう、波の音をたくさん聴いて遊びましょう。起きて! 起きてください! 私と遊んでください! 眼を開けてください。蒼一さん、お願いです!」 

 抱きしめた遺体を大きく揺すって泣き喚いた。

 錯乱した雪子を見るに忍びず、山川は宮本に目配せして鎮静剤を注射させた。まもなく雪子は静かになったが、「死んじゃイヤだ、どうして私を残して死ぬのです」と呟き、いつまでも秋月を離さなかった。全てを失くした晴子は打ち拉がれ、支えられて部屋に戻って行った。


 昨日の大雨がウソのように翌日は晴れ渡った。

 時間はどれほど経ったのか、秋月の遺体を抱きしめた雪子を見守っているのは、山川と星野だけだった。どうやら夜が明けたようで、昨日とは打って変わった晴れやかな太陽が昇っていた。

「雪子さん、いつまでメソメソしているのですか。今日は本通夜です。早く支度をしてください」

 山川は、ぼーっと遺体を抱いている雪子の頰を容赦なく叩いて、

「若先生はそんな雪子さんを喜びませんよ。しっかりしてください。その指輪が泣きます。そこに転がっているお兄ちゃんからもそう言ってください」

 山川は辛かった、どうしようもなく悲しかった。だが、ここで雪子に優しい言葉をかけてはいけないと思っていた。


 星野は呆気にとられた。そんな! そりゃあないだろう! ユッコが可哀想じゃないか。こんな結末を誰が予想したか? だからオレは不安だったんだ、イヤだったんだ。秋月さん、死ぬんだったら、あん時ふたりで死んでいてくれよ! だったらオレは諦めたものを……  これは何だよ! いったい何なんだよ!

 星野は秋月を責め、雪子を心配した。ふざけるなよ! オレはイヤだーぁ! 星野は吠えるように泣いた。初めて星野は温かい涙を落として泣いていた。 



◆ 死のうとした雪子を蒼一が叱った。


 3月17日(金)、ロビーで本通夜が行われた。

 雪子から秋月の遺体は取り上げられ、棺に納められて本通夜が始まった。眼帯は外され、右眼は完璧に修復されたが、不機嫌な表情に変わりなかった。雪子は、秋月家の紋を染め抜いた喪服に着替えて親族席に座り、弔問者に面を伏せていた。心を閉じ、魂を投げ捨てた無表情な眼差しのまま、ただ時が経つのを待っていた。


「涼、雪子はバカだが何をするか予測がつかないやつだ。オマエは雪子を見張ってろ、アイツは危ない。あの顔を見ればわかるだろう。バカな弟よ、オマエがもっと大人でしっかりしていれば、こんなことにはならなかった。とにかく雪子から眼を離すな、わかったな!」

「姉ちゃん、何言ってるんだよう」

 涙が乾かぬ眼で星野は困惑した。


 夜も更け、弔問者もまばらになった。ひっそりと人目を避けて蒼一の父はトオルを連れてきた。トオルは棺の中を覗いて、

「おじちゃん、どうしたの、怒ってるの?」

 小さな掌を合わせて呟いた。

 トオルを送りに席を外した雪子は戻って来なかった。星野は親族席を探したが見当たらず、慌てて秋月の部屋をノックしたが応答はなく、人の気配はなかった。トイレにでも行ったのかとロビーに戻ろうとしたが、

「星野、聞こえるか? 頼む、雪子を見てやれ」

 ?? 秋月さんか? どうしたんだろう、空耳か? もしや!! 星野に血が凍りつくような戦慄が走った。ユッコが何かやっている。止めなくては! 秋月の部屋へ走った。

 ドアを叩いたが応答はない。開けようとしたが内鍵が掛けられて開かない。


「ユッコ、開けろ! オレだ、星野だ。開けてくれ! 開けるんだ!」

 星野の大声で、棺を守っていた秋月チームが驚いて駆けつけた。ドアを蹴破って室内に走り込んだが、ネクタイで膝を縛って正座した白装束の雪子は眼が据り、先祖伝来の守り刀を喉元に突きつけていた。これ以上近づくと一気に喉を刺す気迫が伝わり、星野は立ち止まった。既にためらい傷があり、胸元は朱に染まって左手首からダラダラと血が垂れていた。

 秋月家の紋が飾られた守り刀は、魔性のものから死者を守るために棺に納められていた短刀である。


「ユッコ、止めろ! そんなことして秋月さんが喜ぶか、ちっとは考えろ!」

「来ないで! 死なせてください。お願いです、邪魔しないでください! 蒼一さんのところに行きます。行かせてください!」

「オマエは何やってんだ、ヤメロ!! オレはたった今、秋月さんの声を聞いた。雪子を見てやれと言われた。だから来たんだ。ユッコ、オマエがいちばん辛い時にもっと辛いことを言う。よく聴け!」


「2年前、オマエが死にかけたとき、秋月さんは認可されていない違法の注射でオマエを救った。それは知ってるな。そのとき秋月さんはオレに言った。俺は命なんか惜しくない、俺の命を持って行け! その代わりにユッコを助けてくれと言った。

 そして、オマエがその注射で拒絶反応を起こしたとき、次にそうなったらこれを注射するとアンプルを用意した。何だったと思うか? それは二人分の安楽死の薬剤だ。オマエが死んだら一緒に死のうとしたんだぞ。そんな秋月さんはオマエが自殺して喜ぶと思うか! 生きろ! どんなに辛くても生きろ!」

「イヤです! 星野さん、お願いです、私を刺してください、蒼一さんのところに行きます!」


 騒ぎを聞きつけた蒼一の両親や医者やナースが身守るなか、どこからか秋月の声が聞こえて来た。

『すまない、許してくれ…… 雪子、傍にいてやれなくて。だが、死ぬな! 死んではダメだ! 死んでもいい命なんてひとつもない!』

 それは確かに秋月の不機嫌な声だが、喋っているのは星野だった。

 見守っている全員が驚愕して星野を凝視した。星野の閉じられた眼から涙が流れ落ち、ふーっと大きなため息をひとつ溢して、優しく語りかけた。


『雪子、僕はとても幸せだった。本当にありがとう。僕を忘れないで、時々は思い出してくれ。雪子、いつまでも愛している』

「蒼一さん、待ってー」

 雪子の絶叫と同時に星野が昏倒した。雪子は短刀を叩き落とされ、星野と処置室に運ばれて行った。


 星野の口を借りて秋月が語りかけたのだろうか、確かに秋月の声だった。あれは院長の声と言葉だと全員が信じた。京子は涼の語りを遮ろうとしたが、金縛りにあったように意識が朦朧となって動けなかった。



◆ 葬儀は安国山聖福寺で行われた。


 翌朝、左手が使えず帯が結べない雪子の前に現れたのは、静かな微笑みを浮かべた高嶋千鶴子だった。

「雪子さん、秋月先生の後を追った貴方は女のかがみです。褒めてあげましょう。今日は本葬です。偉い方々もお見えになりましょう、粗相があってはなりません。最後まで先生の妻としてしっかり努めなさい。貴方に教えることがたくさんあります、早く戻って来なさい。今はどんなに悲しくて辛くても堪えなさい。人の道も茶の道も一期一会です」

「先生!」

 高嶋は雪子の帯を結んでやり、涙を拭ってやった。高嶋のこんなにも優しい顔を初めて見て、涙が止まらなくなった雪子を高嶋は無言で抱きしめた。高嶋の後ろには泣きはらした秀明斎が立っていた。

 

 古刹 安国山聖福寺で行われた葬儀に参列した人々は、雪子の痛々しい姿に驚き、あまりの壮絶さに眼を伏せた。死人のような顔色で、喉から胸にかけて巻かれた包帯には血が滲み、左手首は完全に固定されていた。星野院長夫妻、京子、マサオ、篠崎教諭、古谷、和田、一柳の女将、西鉄グランドホテル支配人など、雪子を知る人々は声を殺して泣いていた。


 林健太はニュースで悲報を知り、雪子が心配で弔問に訪れた。だが、遺族席の雪子を見て怒りがこみ上げ、外に出た。誰がユッコをこんなに不幸にしたんだ、秋月さん、あなただ! あの姿がなりよりの証明だ。許せない! オレからユッコを取り上げ、ユッコを幸せにする前にさっさと勝手に死ぬなんて、最悪の男だ! 腹が立って、自分が情けなくて、仕方がなかった。オレとユッコの友情と幼い恋心を奪い去って、ユッコを悲しみのどん底に陥れるなんて、あなたは悪魔だ、鬼だ! 自分の青春が怒りとともに崩れ去ったと感じた。


 山川の介添えでやっと焼香した雪子を見て、古谷と和田は堪えきれずにさめざめと泣いた。

 古谷はどうしようもない苛立ちと怒りに襲われた。なぜ秋月さんはあの若さで死んでしまったのか、生きていたら多くの命を救えたはずだ。ただ、ただ、無念だった。古谷は初めて人の世の無常を垣間見た。

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