24章 幸せは儚い夢、Last Summer
◆ この夏も懐かしいコテージを訪れた。
8月12日、真夜中に走り出した2000GTは、薄闇にいだかれた瑠璃色の海面がグラデーションを描きながら曙色に染まる頃、懐かしい浜辺に到着した。東雲の光に包まれて、幸せいっぱいのふたりは永い間見つめ合っていた。
「お疲れさまでした。ずっと運転してくれたから、蒼一さんは少し眠ってください」
「僕を寝かせるために催眠術をかける気か?」
「はい、そうです」
雪子は秋月を脱がせるときは眼を閉じるか視線を泳がした。シャワーを浴びせて秋月をベッドに寝かせた。
なぜ雪子はいつまで経っても俺を裸にするときに恥ずかしがるのはどうしてだろう、なぜだろうと考えた。
そうだ! 高嶋先生を訪ねたとき、ふざけ半分で「これが秋月蒼一だ、よく見ておけ!」と間近で裸を見せつけた。そして息子を拭かせた。その驚きの記憶が残っているのだろうか? こんなに何度も重なり合ってもそれは消えないものか? 不思議な女だと思った。
「キミは寝ないのかい? 僕だけ眠らせようって魂胆か?」
「ええ、私は本館のダイニングでモーニングを持って来ます。駄々っ子みたいなことを言わないで、ほんの少し待ってください」
旧盆で本館は家族連れで溢れ、まるで市内の天神通りと同じような熱気と喧騒が渦巻いていた。待たされてモーニングを受取ってコテージに戻ると、さらさらと風が吹き流れる窓辺のベッドで秋月は本当に眠っていた。
まとまった休みを取るために苦労したことを雪子は知っていた。帰省する医者やスタッフが多く、やりくりが大変な時期に院長まで休暇を取るとなると、事前にどれだけ無理したかは想像できる。秋月は病院内で見せる顔と別人のように穏やかな表情で、口元に笑みを浮かべて眠っていた。雪子はベッドサイドで飽きることなく見つめていた。
小さな唇が重ねられて秋月は眼を覚した。雪子をたくさん抱いた夢を見たようだが思い出せなかった。
「起きてください、独りじゃつまんないです。早く~」
「ひどいなあ、さっきは寝ろと言い、今度は起きろと言う。あーあ、ホントによく眠れた。気持ちいい朝だ。待っていたんだろう? ここにおいで」
飛び込んで来た雪子にキスの雨を降らせ、服を剥ぎ取って抱きしめた。
「耳元で潮騒が歌っている。ほらこんなに僕を待っていたんだ、僕にはよくわかる。雪子は正直ないい子だね」
秋月は決して乱暴な行為はしなくなった。トラウマに苦しんでいる雪子をいたわった。優しく抱くと安心してねだって来る。秋月は幸せだった。
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夢中で波を追いかけて遊んでいる雪子に、
「おい、また日焼けするぞ、ヒリヒリして眠れないぞ。ムカデも来るぞ! 帰っておいで」
「イヤです! あの~ 蒼一さんが泳いだのを見たことありません。ホントに泳げるんですか?」
「疑ったな、僕の背中に乗ってごらん。竜宮城へ連れて行ってやるからしっかり掴まれ。大波が来たらガバッと抱きつけ」
背中に雪子を乗せて沖へ向かって泳いだ。
最初は亀に乗った浦島太郎の気分だった雪子は次第に不安になった。とうてい足がつかない深さだ。波は大きくうねっている。秋月は気にしないで沖へずんずん進んで行く。幾度も波を被った雪子は、
「戻りましょう、怖いです。お願いです。帰りましょう」
振り向いた秋月は、僕を疑った罰だと雪子を振り落とした。雪子はバシャバシャとやみくもに暴れて沈んで行った。水中でもがいている雪子を捕まえて海面に上がった。ゴボゴボと海水を吐きだす雪子に、ちょっと悪戯が過ぎたかと秋月は少しだけ反省した。
「ホントに泳げるんですか?」と挑戦的に問われたとき、秋月の脳裏は林健太の影を見た。俺だって緑猷時代は遠泳で鍛えられたんだ。水球部だった林には負けるだろうが、たいしたものだ、そう思わせたいだけだった。
「大丈夫か? ずいぶん海水を飲んだようだが胸が痛くないか、鼻は平気か」
「はあ~ 死ぬかと思いました。でも、救けてくれようとする蒼一さんを死なせてはいけないと必死でした」
「キミは必死でどうしたんだ?」
「ふぁーい、なーんも出来ませんでした」
ふたりは笑って抱き合った。
午後の突き刺さる日差しを避けて、ふたりはコテージに転がった。ぼーっと寝転び、視線がクロスすると理由もなく微笑み、寄り添い、陽が陰るのを待った。現実と遮断された空間に身を置き、何も考えず、何もしないで、のろのろと過ぎていく時間に身を委ねた秋月は、このひとときが最高に幸せだと感じていた。
「もう日焼けしないから遊んであげよう、おいで、海に出るぞ」
「ふぁい」
抱き上げてザブザブと波に乗って沖へ向かい、大波に襲われるとふたりは波のてっぺんまで持ち上げられ、浜辺に投げ捨てられた。楽しくて仕方がない雪子は秋月の胸にひしと抱きついて、飽くことなく波と戯れていた。
遊び過ぎて疲れてしまって、ディナーはデリバリーにした。とびきり冷やされたシャンパンを注いで、
「乾杯しよう!」
「ふぁーい、カンパーイ」
キャンドルの灯りは濡れた髪を後ろで束ねた雪子を妖艶に輝かせていた。いくらか料理を口に運び、シャンパンを傾けた雪子は瞬く間に上瞼をほんのりと紅色に染め、酔っ払ったみたいですと呟やいてストンとテーブルに顔を伏せた。
「何だ、どうした? あんなに遊んだからもっと食べなさい。寝ちゃだめだ、起きなさい、こら、起きろ」
雪子の顔を持ち上げたとき、上目使いでふふっと艶美に雪子は笑った。秋月はドキッとした。
「なぜそんな眼をする? そんな顔を他の男の前でするな、許さない。なぜそんなに誘うのか」
「ふぁい??」
酔ったのか、夢見心地なのかわからない雪子の誘いに負けてしまった。今は最も危険な時期だ。もうあんな目に遭わせたくない。官能的な雪子に溺れたが約束だけは守った。雪子が仰け反ってやるせない声をあげた瞬間、秋月は束の間の夢を射貫いた。
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ミャーミャーとウミネコが鳴いている。今朝は波が穏やかなようだ。
「蒼一さん、起きてぇ~、ホントにお寝坊さんなんだから」
うん? 眼を開けると雪子がにっこりと笑って、ふわっと香る珈琲で誘った。
「いつまで寝てるんです、もう9時ですよ」
「キミはいつ起きたんだ?」
「何言ってるんですか、蒼一さんがあまりにもぐっすり眠っているので、そっと抜け出たんです。それも知らないんですか」
「ふーん、知らなかった」
何だ、あいつは? 小さな体で俺を包み込み、燃え上がって仰け反っていたくせに。あれは夢か? いや絶対に夢ではない! なぜあいつは何もなかったようにしている? あの泣き虫はいったい何者だ?
「どうしたんです、そんな不機嫌な顔して。早くきれいになりましょうよ」
雪子はさっさと消えて行った。慌ててあとを追いかけ、いつものようにソープを塗ってふざけあった。
「ずっと前、雪子は僕に質問したことがあった。2つの質問だ。覚えているか?」
「えっ? ああ、あれでしょうか?」
「答えはわかったかい? その答えは」
「はい、ひとつめは」
雪子は秋月に抱きついてキスした。
「よし、正解だ。ふたつめは?」
「医者だから医学的な質問にウソはつけないと言って、ウソを教えたでしょう。院長室の専門書を読みました。ウソつき!」
「あの専門書を見たのか。ごめん、あのときはああ言うしかなかった。そのうちわかるだろうと考えたからだ」
「ふふっ、私の扉は蒼一さんだけのものだから可愛いウソです、許してあげます。ねぇ、帰らなくてはいけません。お願いです、いっぱい抱いてください」
秋月は嬉しいため息をついた。朝だというのに、なんてやつだ。俺はまったく抵抗できなかった。
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「昼間はたっぷり眠って、少し回り道して遠見ケ鼻で夕陽を見よう。日本一美しい夕陽がみられる絶景スポットだそうだ。そのあと食事して夜走ることになる。明日は僕のとこから塾に行くことになるがいいか」
「はい、買っていただいた服があります。大丈夫です」
崖下の群青色とオレンジ色の海に、とてつもなく大きな夕陽が潜って行った。
「夕陽を見ていると悲しくなってきます。昔これと同じように大きな太陽を見た気がします。とても寒い日でしたが、海面にΩ型の夕陽が乗ってました」
「キミにも語るべき昔があったのか? 生意気にも」
雪子は何が悲しいのか、秋月に寄りかかって泣いていた。俺と別れるのが淋しいのか。本当は俺だって寂しい。
「ここにキスしてごらん。そして思いっきり吸ってくれるか」
胸を開いて、雪子の顔を押しつけた。
8月16日(月)午前4時、ふたりは戻って来た。
「お疲れさまでした。蒼一さん、ありがとう! いっぱい泳いで楽しかったぁ、また素敵な思い出が作れました!」
「誰が泳いだのかな? あーあ、子守で疲れた。汗を流そう、おいで」
秋月の胸に残るムカデの痣に雪子は驚いた。
「あの~ 山川さんからムカデは若い女性しか噛まないと聞きましたけど、これはムカデの痕でしょうか?」
「思い出してごらん、キミはここにキスしなかったか?」
「ふぁい? えっ! あれ? だったらこの前の…… えーっ!」
「そうだ。僕がムカデだった。世間ではこれをキスマークと言う、覚えておけ」
「ふーっ、うぁっ、恥ずかしい!! 山川さんはわかっていたんですね。蒼一さんのウソつき! どうしましょう」
「終わったことだ、気にするな。ひとつ賢くなったじゃないか」
「山川さんに会わせる顔がありません。あーあ、どうしよう」
「そんな心配する前に、ずっと運転して疲れた僕を心配してくれよ」
ふふふっと秋月を見て、
「ちっとも疲れてません、元気です!」
「そんな冷たいこと言わないで、抱かせてくれよ」
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◆ 星野院長との密談は何だったのか。
8月21日(土)の夜、秋月と雪子は星野病院を訪れた。ブザーを押した途端にドアが開き、満面の笑顔で星野院長がふたりを招き入れた。
「雪子さん元気だったか、いつも心温まる便りをありがとう」
星野院長は雪子の肩を抱いて、まるで幼児にするように頭を撫でた。それを険しい眼つきで秋月が見ているのに気づいた星野は、
「親父止めろよ、ユッコは秋月さんの婚約者なんだぜ」
「ああそうだった。いやあ、本当の娘のような気がして心配でたまらない。雪子さんが可愛くて、申し訳ない」
星野院長は眼鏡を上げて涙を拭いていた。実は京子から真実を聞かされていた。そして涼の心が何処にあるのか知らされていた。秋月、雪子、息子の涼、この3人が不幸になりそうな気がして、心配だった。星野院長は秋月を医者としては尊敬していたが、雪子の伴侶として考えると不安が先立った。純粋培養で育った人間にありがちなエゴや脆さを危ぶんでいた。
「ユッコ、何か旨いものを頼むよ。母ちゃんは酒の肴ぐらい早く出せばいいのに、苦戦中だ。ユッコ、頼むよ、手伝ってくれよ」
秋月は苦笑いして、
「手伝って差し上げなさい」
雪子はにっこり笑って台所へ入った。まもなく、普通の惣菜をひと工夫した肴が次々に登場した。いつの間にか院長夫人の友恵は台所を雪子に明け渡して、
「あとは雪子さんにお任せしました。雪子さんの魔法にかかるとホント美味しくなるの、不思議だわ。だから任せたの、気が楽でいいわ。あんな人がウチのお嫁さんだったら嬉しいわ!」
母ちゃん、秋月さんの前でそれは最大の禁句だ、爆弾だ!! 星野は慌てた。
「ユッコのヘルプで母ちゃんの料理が旨くなったな。旨いなあ! あっちも旨そうだ!」
星野は無理にはしゃいだ声をあげたが、秋月はフザケンナと言いたい無愛想な表情を持て余した。
旨い肴がたくさん登場して、やっと座が和んだ。しばらくして星野院長が、
「秋月院長と込み入った相談があるので、悪いが席を外してくれないか」
何か話があって呼ばれたと思っていた秋月は、姿勢を正して上着のボタンを掛けた。
「えっ、オレも?」
「そうだ、涼も向こうへ行きなさい」
星野院長の声は重く響いた。
「ふーん、ユッコ、久し振りに遊んでやるぞ、トランプでもやるか? ホールへ行こう。親父と秋月さんは何を話してるんだろう。大人は突如ああやって密談するからなあ、油断が出来ない。オマエ、心当たりはあるか?」
「いえ、何もありません」
「多分、オマエのことだろう。親父は心配してたからなあ」
姉ちゃんが親父に余計なことを言ってなければいいなあと、星野は不安だった。
「涼、入っていいぞ。話がまとまった。来月から星野産婦人科病院は秋月病院と提携することになった。両病院と患者さんにとっていい話だ」
「どういうこと? 秋月さんの傘下に入るの?」
「星野、そうではない、give and take だ。病種や症状によって患者さんの選択肢が増える提携だ。心配するな、俺がうまくやる。雪子の恩人の星野院長には絶対に迷惑はかけない、約束する」
「よくわかりませんが、秋月さん、よろしくお願いします」
雪子に向き直り、
「よく聞いて欲しい。早くて秋、遅くとも年内に吉日を選んで結納を交わすことにした。心積もりしておきなさい。お母さんには僕がお願いさせていただく」
「何ですか、急にそんな話を進めて、まず私に訊くのが最初でしょ。こんなやり方は蒼一さんらしくないです」
「そうではない。この前の披露パーティーで公的に紹介したが、未だに結納を交わしていないのは片手落ちではないかと思っただけだ。ちょっとホールへ行こう」
秋月は雪子の腕を取り、部屋を出た。
「親父、秋月さんに何て言ったんだ? ユッコは本気で怒ってたぜ」
「雪子さんのためを思って勧めたんだ」
「どうしてユッコのためになるのか、説明してくれよ」
「いい、そのうち涼にもわかる」
ふたりはなかなか戻って来なかった。
「ずいぶん静かだなあ。秋月院長は説得に難儀してるのか?」
「親父、あいつらが静かなときはほっとけ! どうせディープキスしてんだから」
「??? あの真面目くさった院長がディープキス? そうか、それは面白い!」
「面白くも何ともないよ。いつもそうやってユッコをごまかすんだ、ずるい人だ」
「中座しまして申し訳ありません。雪子は承知してくれました」
「それはおめでとうございます。それでは飲み直しましょう」
雪子の頬には涙の跡がくっきりと残っていた。
「少しはいただきなさい」
秋月が薄めたスコッチのグラスを渡したら、雪子はふくれっ面でグイと一息で飲んでしまった。
「おや、雪子さんはいけるくちか?」
星野院長が注ごうとしたスコッチをほぼ同時に秋月と星野は止めた。
「ユッコ、やけくそになって飲むな。この前みたいに酔っ払って倒れるぞ。やめとけ!」
雪子は酔っ払った挙句に妖艶なあの微笑みを星野に見られたのか、そう気づいた秋月は面白くなかった。
「雪子はいつ酔っ払ったのか?」
「ふぁい、蒼一さんが送ってくれたお酒です。甘くて美味しくて、酔っ払ってストンと寝ちゃいました」
そのとき、ユッコはこれにしろと星野が“三ツ矢サイダー”を持って来た。嬉しそうにサイダーを飲んでいる雪子を見て、秋月はため息をついた。
ふたりが帰ったあと、星野は父親に尋ねた。
「なぜ結納なんかするんだ? 今のままじゃいけないのか」
「あの家はもめている。オマエも知っているだろうが、父親は家を出て愛人宅から通っている。そこには幼い男の子がいる。母親は、雪子さんが院長を誘惑して法人化を唆したと吹聴している。つまり、結納を交わすということは、雪子さんの存在を院長夫人として明確にし、母親に時代は変わったと思い知らせることだ。『若き心臓手術の神様』が母親を説得できるかの踏み絵だ」
「えっ、弟がいるのか! そんな家に嫁に入ってユッコは幸せになれるか? 虐められて病気になるのがオチだ! そして法人化とユッコはまったく無関係だ、それに誘惑なんてしてない! ユッコは秋月さんから好かれて戸惑っていた。そんなふうに思っている鬼ババアじゃユッコが可哀想だ!」
「涼、わかるか? 本人同士が好き合っても結婚となると話は別だ、特にあの家はな。涼にはこれ以上話せない。時が過ぎればオマエにもわかる。さっき気づいたが涼と雪子さんはよく似ている。目元がそっくりで、本当の兄と妹みたいだ。雪子さんを実の娘のように感じるのはそのせいかも知れないなあ」
◆ 母と愛する人、どちらも幸せにしたいが……
秋月は時間を見つけては結納を認めてもらうため、母を説得していた。
母の晴子は雪子が気に入らない以上に、息子から愛されている雪子に嫉妬し、小娘に狂っている息子が許せなかった。かつての派手な女遊びを放任したのは、息子の気持ちがないことを見抜いていたからだ。蒼一が遊びに飽きた頃に、財力と体面が釣り合う娘を与えようと考えていた。そうすれば秋月総合病院は安泰で、晴子は夫と息子を操って、いつまでも権力の座に君臨できるものと思っていた。一度も反抗したことがない自慢の息子を誰よりも愛していた。
それが「若き心臓手術の神様」と世間から注目を浴びて、鼻高々になったところに、あの小癪な小娘が出て来た。披露パーティーでも、ひときわ大きな拍手を受けたのはあの小娘だ。晴子は若さに輝く雪子が憎らしかった、許せなかった。
夫とは既に破綻して会話はなく、仮面夫婦を演じているだけの晴子は、夫が愛人宅へ逃げ出してくれて清々したと思ったが、愛する一人息子は小娘を追いかけ回すことをやめない。晴子が閉じこもった理由は夫ではなく、息子が自分ではない女を愛していることにあった。
秋月は母が頑なに心を閉じているのは父の愛人騒動だと考え、晴子の興味が夫から離れていることに気づかなかった。
「母さんはなぜそんなに雪子を嫌うのです。雪子はすでに公表しました。形だけでいいから、結納をしてやりたいと思います。母さん知ってますか、僕が有名になった手術は雪子の励ましで成功したのです。僕には掛け替えのない人です」
秋月がどんなに言葉を尽くしても、いつも晴子は無言のまま拒否した。息子が雪子をかばうほど嫉妬の炎は大きく膨らんで行った。
「雪子のどこが嫌いなのです。至らないところがあれば直させます。はっきり言ってください」
「私は蒼一の嫁として今は誰も認めたくありません。蒼一を立派にしたのは私です、この母がついています。結婚を急ぐ理由なんて何もないでしょう」
母の言葉に驚いた。30歳を過ぎた息子に、結婚を急ぐ理由なんかないでしょうとは! 母の真意がわからず、秋月は秀明斎の姿を見つけて相談した。
「秋月先生は雪子さんとお母様とどちらをお選びになりますか。母親は自分が選ばれないと知っていながら、息子にそう迫るものです。母親と愛する人、どちらも幸せにしようとした私はこの有様です。もう一度、お母様を茶席へお呼びなされてはいかがでしょうか」
晴子は最後の客だった。贅を尽くした訪問着姿で雪子の前に訪れた母に、どういうつもりなのかと秋月は驚いた。雪子は表情ひとつ変えることなく、波打つ心を隠して茶を点てた。
晴子が飲み干すと、雪子がにっこり笑った。その笑顔につられて晴子も笑みを浮かべたが、すぐさま硬い表情に戻って帰って行った。
「秋月先生、雪子さんにあの笑顔がある限り希望を持てますが、もし笑顔が失せたときは僭越ながら申し上げます。先生は覚悟なさった方がよろしいかと存じます。お母様は雪子さんに先生を奪われたくないご様子です」
「おい、雪子は泊まって行け。雨が降っている、帰るのも大変だろう。お母さんには腹が痛いとでも言っておけ」
「で、でも、私、あのー、アレです」
「ふふーん、そろそろだと思っていた。心配ないか、normal か?」
「はい、大丈夫です」
「誤解しないでくれ、僕はキミを抱きたいだけではない。傍にいてくれると何故だか心が安らぐ。今夜は静かに眠るだけだ。そんな夜もいいだろう。雪子が横にいると僕はぐっすり眠れる。まるで安眠マクラみたいなものだ」
「へぇ、私は安眠マクラですか?」
秋月は眠りに落ちた雪子をいつも密かに検温し、頭の中でグラフを描いていた。基礎体温の変化が正しいカーブを描く、しっかりした体に成長して行くよう願っていた。
◆ 女性目線の小さな改革、秋月病院は変わって行った。
雪子は秋月に提案した。
「蒼一さん、教えてください。病院で医療以外に患者さんにサービスを提供するのは大変でしょうか?」
「何の話だ? 悔しいがキミの話は僕の常識外のことが多い。何を言いたいのか簡潔に説明してくれ」
「あの~ 女性の患者さんに安心して来てもらえる病院にしたいなあと考えました。だって、私が病院やお医者様が大嫌いですから。何だか病院って緊張するんです、落ち着きません。そんな女性の患者さんのために、例えば外来の女性トイレに無償のナプキンはどうでしょう。それはトイレに用意するのではなく、トランプみたいなカードを置いて、そのカードをナースステーションに持って行くと、急に必要になった方に1回分のナプキンをプレゼントするんです」
「キミは急に何を言いだすのか? そのアイデアは唐突すぎないか? 女性はそういうものは常に用意してないのか? なぜ話がナプキンになるのか僕にはさっぱりわからない」
「これは女性に愛される病院にするためのほんの一例です。女性はナプキンを常に携帯しているわけではありません。急なときもあります。それに、入院か見舞に来た時しか行かないナースステーションのナースさんに、親近感が湧くかも知れません。そして勝手な考えですが、ナプキンのメーカーさんが病院に無償提供してくれると助かりますよね?」
「それは当然だが、向こうは商売だ。タダというわけにはいかないだろう」
「他社製品を使っている人には宣伝になりますとか言っても、無理でしょうか?」
「いろいろサービスを提供して、さらに患者さんを増やそうと考えたのか? 雪子はいつから病院の宣伝部長になったんだ? まず、ナースにキミの考えを理解してもらいなさい。最前線で働いている彼女たちがどう考えるかだ。この案件に関して男の僕はよくわからない、キミが直接ナースに説明してくれ。やれるか?」
各診療科および病棟のナースに説明すると、ほとんどのナースが賛同してくれた。「女性に愛される病院、女性が通いやすい病院」にしたい、それは「みんなに愛される病院」につながると雪子は訴えた。
「女性が通えばそのうちお子さんを連れて来てくれます。新規の患者さんに来ていただくチャンスにもなります」、雪子は熱っぽく説いた。
あの泣き虫は今度は何をする気だ? 秋月は呆れて傍観していた。
雪子は早稲田学報で取材した『アンネ株式会社』の本社部長に話を聞いてもらった。すぐ福岡支社を紹介されて話がまとまり、ナプキンを無償提供する代わりに、外来の女子トイレにアンネのパンフレットやサンプル、アンケート用紙を置くことになった。カードはアンネ側が用意した。雪子のアイデアにアンネの坂井社長が大賛成し、異例のスピードで実現した。このサービスはアンネの経営が苦境に立つまで続いた。
ナプキンの無償サービスの実施はRKB毎日放送の『福岡ビジネス最前線』というテレビ番組で紹介された。
「時代の変革につれ病院も変わりつつあります」とオープニングが流れる中、雪子が「女性に愛される病院」のイメージを語り、フロントラインで働くナースが「人に愛される病院」にしたいと語って、現場における反響を披露した。
院長室でスタッフに囲まれながら放映を見た秋月と雪子は、
「雪子が大きく見えるぞ、こんな偉そうなことを言って大丈夫か? 僕は知らないよ。いつ勉強したのか?」
「へへっ、内緒です」
「確かに、お子さんは母親に連れられて来院します。雪子さんは大学なんて中退して、うちの宣伝部長になって、いろいろ提案してくださいよ」
「いや、information を新設してそこに座ってもらおう」
「そのアイデアっていいですよね。ねぇ、蒼一さん、考えてくださいよ」
「みんなでアイデアを出して患者さんを増やしてくれるのか、ありがたい話だが、コラ!! 僕を朝から晩まで働かせて過労死させる気か? そんなに widow(=未亡人)になりたいのか、そうだろう?」
雪子に優しくキスした秋月をタッフは拍手して笑っていた。




