22章 講演で手術方法を開示した
第五部 残酷な運命(第22~第28話)
新院長に就任した秋月は精力的に院内改革に努め、患者さんと全スタッフのための病院作りに没頭していた。雪子の卒業を待って結婚する決心は揺らがないが、あと僅か1年と考えると気持ちは少し落ち着くが、あと1年もあるかと思うと絶望した。
強風と豪雨のある日、香椎の丘に建設中の分院に向かった秋月は事故に遭い、2000GTもろとも河原に転落して落命した。秋月の後を追おうとした雪子は星野から阻止され、満身創痍のまま東京へ戻った。
秋月が忘れられずに虚しい日々を過ごした雪子は、福岡に珍しく雪が積もった朝、秋月が迎えに来た。享年60歳だった。
人は死ぬために生まれ、そして別れるために愛しい人と出会う、この世で真実はこれだけだ!
懐かしき日々、Good old days!
◆ 秋月は院内改革に取り組んでいた。
7月19日(月)午後3時、無精ヒゲの秋月は雪子を迎えに来た。
「お帰り、3年ぐらい待った気分だ。お母さんには明日帰って来ると言ってくれたか? よし、院長室を見せてあげよう」
2カ月ぶりに雪子に会えた秋月は、久しぶりに愛車で病院へ急いだ。雪子が東京に去った日から2000GTはガレージに眠ったままだった。
雪子に気づき、声をかけようとするスタッフを無視して、手を引っ張って駆け抜けぬける秋月に、雪子さんに会った途端にバカ先生に戻ってしまったと、山川は心配した。
院長室は改装されて、専門書を揃えた書架が並んだミーティングルームに変わっていた。
「どうだ、いいだろう? ここではみんなが情報を共有し、学び、ディスカッションする。そして誰もが自由に出入り出来る。
子育て中のナースや入院患者さんにはチャイルドルームを作った。個人病院から、働いてくれるみんなの病院へ少しづつ変えたいと思っている。次はチャイルドルームを見せよう。これは雪子が立案したことになっている」
「えっ、何ですって? とんでもない! 私にはそんな立派な見識はありません。なぜ私が? 子育てしたことも無いのに」
「ママになりそこなったんだろ」
「はぁ? 何か言いました?」
「いや、何も言ってない、気にしないでくれ。院長の僕が提案するより、妻になる雪子が考えたことにした方がスムーズに事が運ぶからだ。お陰で出産や育児で家庭にいた優秀なナースが何人も来てくれたし、新規患者さんも増えた」
チャイルドルームには授乳室と保母が常駐する保育室が設けられていた。秋月が雪子を伴って入って行くと、視線は雪子に集まった。
「これは婚約者の雪子です。女性の目線でいろいろと僕にアドバイスをくれる。雪子、皆さんに挨拶なさい」
ま、まさか、私が挨拶! 何を言えばいいのだろう? 眼を宙に浮かせたがすぐに微笑んだ。
「皆様、初めまして西崎雪子と申します。まだ学生で皆様の半分、いや中身はそれ以下の人生キャリアしかありません。生意気なことを申しますが、少しだけお耳をお貸しください。
病院は患者さまにご満足していただく医療を提供するのが使命です。それには働いてくださっている全職員の健康、生活の安定、快適な職場環境のサポートが重要です。特に子育て中のママさんナースはとても大変だと思います。それと、子供を置いて入院しなければならないママさんの患者さまの不安や心配を思うと、安心してお子さんを預けられるチャイルドルームが必要だと考えました。微力ながらお役に立って大変光栄に思っております」
わーっと拍手が起こった。秋月は満足げに雪子を見て笑った。さすが、俺の雪子だ、教え子だと誇らしく思った。
部屋に戻ったふたりは、
「さっきはあんまりです。何と言えばいいのか、考える時間すらなくてパニックでした。いきなりなんて酷すぎます」
「だけど上手に出来たじゃないか、スクール紹介でもそうだった。篠崎さんが言っていたように、雪子はぶっつけ本番に強いらしい、羨ましいなあ。僕は小心者だからスピーチは苦手だ。これからは僕の代わりにスピーチしてくれるかい。ああ、それより、やっと会えたね。愛してる……」
「ヒゲが痛いです」と嫌がられても雪子を抱きしめて離さない。
時が止まり季節が逆回りしたかのような永いキスをして、雪子をベッドへ運び、
「今夜は泊まってくれるか、いいだろう?」
「でも、何もしないと約束してくれますか? お願いです」
「なぜだ? 絶対イヤだ!」
「この前、山川さんにお世話かけました。そのときマサオ先生から、次に正常な生理が来るまでは慎みなさいと言われました。次も出血過多や不正出血があったら内診しますと脅かされました。もう産婦人科外来に行きたくありません。お願いです、何もしないと約束してください」
「マサオ先生がそうおっしゃったのか、わかった、約束する。あーあ、とても残念だ、がっかりだ」
眼の前の玩具を取り上げられた子供のように秋月は怒った。ヤブ医者め! 雪子に知識がないのを幸いに禁止したかと腹を立てた。そんな話は聞いたことがない、流産で生じた傷が治れば問題ないはずだ。次回月経が出血過多や不正出血の場合は、自然流産とした診断に疑いがあると考えられる。何も知らない雪子にいい加減なことを言うな! 秋月は不機嫌になったが、雪子は悪くない、俺が我慢するしかないか。
ふたりはお休みのキスして横になったが、なかなか眠れずに何度も何度もキスを繰り返して、夜明け前に細い眠りに堕ちて行った。
◆ 7月24日(土)、九大医学部講堂で秋月が講演した。
雪子は秋月やスタッフに弁当を差し入れして、時間があると院長室で本を読んでいた。
7月23日、家にいた雪子は古谷から電話をもらった。
「古谷だ、帰っていたんだね。急なことだが、九大医学部の講堂で秋月さんが講演するが、知ってるか?」
「いいえ、知りません。昨日お弁当を届けに行ったけど、そんなことは聞いてません」
「そうか、婚約者の君が知らないのか。一緒に講演に行かないか? 西崎さんを見て秋月さんが驚くのを見たいが、この悪巧みに乗ってくれないか?」
「講演は聴きたいですが、医大生や関係者だけで一般人は入れないのでしょう?」
「早稲田の学生証を見せればOKだよ。世の中そんなもんだ」
「行きたいです。この前はいきなり挨拶させられました、ぶっつけ本番ですよ。蒼一さんは隣にすまして立ってました。だから、蒼一さんがどんな顔して驚くのか見たいけど、多分、何も驚かずに講演を続けると思います。そういう人です」
「そうかなあ、来るはずがない最愛の人が突然に現れると普通は驚くはずだ。知らせてなかったのに誰が連れて来た? うろたえてもおかしくない、そう思うがあの人は違うのか?」
「仕事中は心が揺れても潰れても、表に出す人ではありません。だからオペが出来るのだと思います。今頃はお酒も飲まず、生ものも食べないで、講演の原稿を練っている姿が見えます」
「そんな人なのか。だから今宵は君さえも寄せつけないのか……」
古谷は秋月の氷のような視線を思い浮かべた。人の心の奥底まで刺すような鋭い眼光が和らぐのは西崎さんを見るときだけだ。それは知っていた。
7月24日、秋月は講演を行なった。
聴衆の大半は教授や医大生や医者で、熱心にノートを取っていた。最終講演者の秋月が壇上に現れたとき医学部講堂は満席だった。地元のRKB毎日放送とテレビ西日本がスタンバイして待っていた。
テレビカメラが回る中、話し始めてすぐ、前から5列目に座っている雪子に気づいて小さく笑った。雪子の耳には涙の雫が、秋月の胸元はいぶし銀のネクタイが結ばれていた。パネルとスライドを使って心臓手術の新手法、順序を惜しげもなく公開した。今日ではバイパス手術と呼ばれるこの手術は、人工心肺装置が発達して安全な手術になったが、50年前の手術例は極めて少なかった。動脈管結紮手術から改良した箇所や今後の問題点などを解説する秋月に、メモを取ることも忘れて古谷は唖然とした。普通は後継者や愛弟子にしか教えない秘伝に近いものをなぜ公開するのだろうか?
古谷はその疑問を雪子にぶつけた。
「ひとりでも多く患者さんを救いたいということでしょ。それが蒼一さんの願いですから」
事もなげに言われた古谷は、
「秋月さんが独自に確立したオペの方法や順序をなぜ公開したのだろう? 売ろうと思えば大金で売れるのに」
「私にはわかりませんが、オペの方法や順序って難しいのですか? 公開することによって、蒼一さんと同レベルのエキスパートが100人誕生すれば、100倍の患者さんを救けられるからいいことでしょ?」
雪子はにっこり笑った。
秋月は雪子を見ても動じることなく講演を続行し、講演中も何度か互いに見つめ合っていた。古谷は雪子を連れて来たことを後悔した。驚かすどころか力を与えてしまった気がした。盛大な拍手で秋月の講演は終了した。
控室で質問攻めに応じていた秋月は、古谷と訪れた雪子に、
「ありがとう! 応援に来てくれたんだろう? 冬眠前のリスを見たら、急に緊張が解けて楽になり、モチベーションが上がった、説明も上手くやれた。雪子おいで、ご褒美だ」
抱き上げて頰にキスした。
「みんなが見てます、降ろしてください。恥ずかしいです」
「なぜだ? 人の目は正しいとは限らない、気にしないことだ。今日は泊まって行きなさい」
「ダメです。帰らせてください」
秋月の耳元に小さな声で何かを告げた。
「そうか、おめでとう。normal か?」
「はい、普通です。ほっとしました」
「良かったな、いい子だ! 送って行くから少し待ってくれないか。古谷くん、次の水曜日の午後9時は空いているか、よかったら茶席に来ないか? 雪子が半東を務める。僕も行く」
「ハントウって何ですか?」
「まあ、茶道の先生の助手みたいなもんだ」
人目を気にせず、いつまでも雪子を抱き上げている秋月に、
「秋月さん、人が驚いています。テレビの人も見てます。そろそろ西崎さんを降ろしたらどうですか」
「そうだな、失敬。古谷くん、雪子を連れて来てくれて感謝する」
秋月が奥へ姿を消した後、古谷は雪子に尋ねた。
「いつも秋月さんはあんな人なのか?」
「あんな人って?」
「怖い人だとインプットされているが、君のことになると人目なんか気にしない、愛すべき人だ」
「はい、いつか古谷さんに言いましたよね。カンシャク持ちで、ワガママで、イジワルで、イタズラ好きで、甘えん坊で子供のような人だと」
「すぐ癇癪を起こす、カミソリ秋月どころか鬼の秋月だと聞いたことがある。そんなにいつも怒る人なのか?」
「最近は、私以外のことで癇癪を起こすときは必ず理由があります」
「君に関してはどうなんだ?」
「それは蒼一さんの我儘です」
古谷は人間秋月に興味が湧いた。秋月が公開したオペの方法や手順は、秋月の卓越した神の手と、一糸乱れぬチームワークがなせる神業だ。公開したところで、どの病院が完遂出来るのだろうか。古谷は早熟な心臓外科医 秋月蒼一が率いる秋月チームで学びたいと考えた。
◆ 7月28日(水)、古谷が茶席に顔を見せた。
4カ月ぶりに雪子は半東を務めた。秀明斎は、
「お帰りなさい。若先生はご立派になられましたよ。病院の総帥として覚悟を決められたようです。雪子さん、私に一服いただけますか」
秀明斎は雪子の茶をのどやかに楽しんで、
「なるほど、今は総ざらいのお稽古をなさっているのでしょう。以前はしっとりとまろやかだと申しましたが、それに深みが加わった気がします。茶は点てた人の成長を映します。甘露、甘露」
「恐れ入ります」
深く一礼を尽くした雪子に、秀明斎はやわらかな笑みを浮かべた。
古谷はスーツ姿で現れた。茶席では白足袋か白の靴下が礼儀ですと雪子から教えられたとおり、白い靴下を履いていた。
雪子が点てた茶を作法通りに味わって、古谷はにこっと笑った。
秋月は古谷が茶碗を掴む手つき、茶碗を回すしぐさを注視した。心臓外科医として不可欠である精妙な作業が出来るかどうか、指先のしなやかさを観察していた。当時の心臓手術は、執刀医の資質や職人芸に依存する部分が多かった。もし、古谷が心臓外科医になりたいならば筋は悪くない。鍛えればいっぱしの執刀医になれるだろうと思ったが、秋月の口から出た言葉は、
「どうだ、古谷くん、雪子はなかなかのものだろう。何をやらしても出来る子だ」
秋月の雪子自慢に秀明斎は笑いを噛み殺し、古谷は返答に困った。
8月、バイト講師の雪子の毎日が始まった。
今年も雪子は幼稚園と小学生クラスの担当になった。涙の雫のイヤリングはしているが、化粧っけがなく、長い髪は後ろで束ねて紺色のリボンを結んでいる。とても東京の女子大生には見えない。どこにでもいるお姉さん先生にチビっ子の人気は集まり、白衣が汚れても片膝ついて、チビっ子の目線に合わせて一緒に泣いたり笑ったりするユッコ先生に、子供たちは懐いた。
秋月は時間が許す限り、昼時に爆音を轟かせて雪子を乗せ去るが、必ず午後1時前に戻り、オペがないときは夕方5時過ぎに迎えに来た。そんなふたりを2階の窓から古谷は眺めていた。
ある日、雪子は弁当をふたつ用意していたが、秋月は現れなかった。古谷が講師控室を覗いたら、雪子が小さい弁当を食べていた。
「今日は秋月さんは来なかったようだが、どうしたのかな?」
「12時15分までに来れなかったので急患か緊急オペでしょう。古谷さんはお昼食べました? もし良かったら、勿体ないからこのお弁当を食べてもらえませんか」
「いいのかい? 僕が食べても」
「大丈夫です。約束のタイムリミットは過ぎてますから」
古谷は弁当を開いて驚いた。家庭の惣菜が彩りよく詰められていた。
「これは全部君が作ったのか?」
「そうです。東京は物価が高いからほとんど自炊してます。仕送りでやりくりしているので、自炊の方が安上がりです。このバイトでいただいたお金で参考文献や専門書を買います。ありがたいです」
「秋月さんに言えばいくらでも助けてくれるのと違うか?」
「はい、そう言ってくれましたが私は学生です、十分です」
雪子が秋月病院の新院長 秋月蒼一の婚約者だというニュースを知った塾長は、そんな人が今年もバイトに来るはずがないと疑ったが、必ず喜んで来ますと進言したことを古谷は思い出した。秋月病院を改革する原動力は、目の前でモグモグと弁当を食べているこの小さな人かも知れないと考えた。
「西崎さん、君は秋月病院の若奥様になるんだろう?」
「うーん、卒業してからのことですし、今すぐではないけど、蒼一さんは病院から離れるかも知れません」
「それはないだろう? なぜ院長が病院を辞めるのか?」
「ねえ、古谷さん、絶対秘密にしてくれますか」
「うん、絶対に他言しない。なぜだ? 教えてくれないか」
それじゃあ指切りしましょうと言って、雪子は小指を出した。指切りして約束したが、雪子の指は子供のように細くて冷たいと古谷は思った。
「もし男の子が生まれたら、その子は病院の跡継ぎと期待されてしまうでしょ。蒼一さんは、自分のような思いをさせたくない、自由に人生を選ばせたいと。それで誰も知らない土地に移って、一介の医者として生活を支え、子供をのびのびと育てたいって。まあ、実現できるかどうかはわかりませんが」
「しかし、『若き心臓手術の神様』をリタイア同然で見知らぬ土地へ? そんなことはして欲しくないな。その考えはおかしいと思う。子供が生まれても、その子の意思を尊重すれば済むことだ、違うか? 西崎さん、君は知ってるか? 秋月さんは医学部を首席卒業した人だ。そんな人を心臓外科手術の最前線から失いたくないと僕は思う」
「私もそう言いました。でも、蒼一さんは疲れています、走り過ぎて疲れ切っています。本当です。私にはわかります」
「とにかく秋月さんを第一線から引退させるのは、到底許されることではないと思う。君はどう思っている? 君の考えを教えて欲しい」
「有名な医者ではない、ただの秋月蒼一という人がいちばん幸せになれる道を探しています。蒼一さんは今すぐにでも私のとこへ転がり込みたいと言ってます。でも、心臓手術のスペシャリストを続けたいのであれば、もちろん応援します。いちばん悩んでいるのは蒼一さんです。私にはどうすることも出来ません、ただ、蒼一さんの心を温かく包むことしか出来ません。あっ、すみません。今言ったことも忘れてください。喋り過ぎました」
秋月の気持ちが少しは理解できた。秋月病院ほど大きくないが病院の長男として生まれた古谷も、医者への道を歩まされ、報道カメラマンの夢をあっさり放棄した。
「でも蒼一さんは優しい人なんです。病院のこと、スタッフや患者さんのことを考えると、すぐには決断できないと思います。あと10年ぐらいは院長かも知れません。私は若奥様になるより、子育てしながら働きたいと思ってます。蒼一さんは子守は僕に任せろ、髪結いの亭主になるのが本望なんだと笑ったことがありました。ああ、また話し過ぎました。こんな話は蒼一さんと私の夢物語です。本当に忘れてください」
雪子の話しを聞いた古谷はますます秋月に興味を持った。『若き心臓手術の神様』と賞賛されても、何かを模索していることがわかった。
秋月は悩みながらも雪子との時間を大切にした。
塾が終わると雪子を拐って行く秋月は、いつもベッドで待たされた。今日はこんな話を聞いた、こんなことがあった、こんなものを見たと報告する。
「わかったから早くおいで。おい、キミの話はいつになったら終わるんだ?」
じれ切った秋月が声を尖らせると、はらりと飛び込んで来る雪子が可愛くて抱きしめた。
もうベッドで虐めることはなかった。何よりもここまで育て上げた雪子を壊すことを恐れていた。秋月はゆっくり熱く雪子を燃え上がらせて、うねりが頂点に届いた瞬間に自分を解放する幸せを発見した。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。
かつては欲望のままに攻めたことがあったが、そんな子供じみた我儘は影を潜め、雪子を婚約者だと公表したことで、安心と幸せを掴んだような気がしていた。




