19章 舞い砕ける情念の雪景色
◆ 夜明け前の電話は…
2月10日(水)、秀明斎は欲張るなと諭した。
茶道教室に最後の客として秋月が訪れた。秋月の噂を人づてに聞き、その苦悩を理解していた秀明斎は、
「物事はなるようにしかなりません。先生が奔走されていた病院の企業化は実現できたのでしょう、他に何を欲張っていらっしゃるのですか。同時に幾つかの幸せを手に入れた人間は、必ずそれを失います。欲張らずにひとつづつ手に入れてはいかがですか。東京には雪子さんがいらっしゃいます。欲張る必要がどこにありますか?」
秀明斎の指摘に、秋月は雪子のことになると気が早って我儘になる自分を恥じた。
「あの離れは、雪が降り積もったら静寂の銀世界に包まれます。言葉では言い表せない恩讐を超えた幽玄の世界が広がります。私は『もののあはれ』をあの神聖な空間に乱れ舞う雪で知りました。哀しい情念の世界です。雪が積もったら、お忍びでお出かけなさってはいかがですか。なあに、先生が2、3日留守しただけで滞るような病院では先が思いやられましょう」
その言葉で、秋月は雪子と一緒に哀しい情念の世界に堕ちようと胸に秘めた。
2月12日(金)、夜明け前の電話は……
眠れずに寝返りを繰り返していた秋月は、電話が鳴ったときに、それは雪子からで話したいこともわかっていた。
「雪子です。あの~ その~」
「どうしたのか話してごらん。黙ってちゃわからない、どうしたんだ?」
「あの~ ごめんなさい。生理になりました。ごめんなさい」
雪子は泣き出した。秋月は産科医のマサオの言葉を思い出していた。この体で妊娠すれば母体は持たない、その場合は早期の中絶しかないと言った。それでも何とかなるだろうとタカを括ったが、そうか、神仏はそう簡単には俺に振り向いてくれないのかと知った。
「泣くな、悲しいことじゃないだろう、ずっと悩んで心配してたんだろう。雪子が悪いことなんてひとつもない、僕に謝ることもない。この前言ったじゃないか、30歳までに僕の子供を産んでくれると。雪子を苦しめたのは僕だ、謝る。悪かった。泣くな! 早く戻って来い」
雪子は泣き止まない。大学2年生で妊娠の恐怖と不安に浸って、もしそうだったら産もうと決めるまでの辛い日々を、子供が欲しい秋月は想像さえしなかった。絶望や後悔と孤独や不安をまったく理解してなかった。
「泣くな! 泣く理由なんて何もない! 止めろ、泣くな!」
雪子はいっそう泣きじゃくった。聴くのが辛くて秋月は電話を切った。そしてかけ直したが雪子は出なかった。辛いのは雪子なのに俺は逃げてしまった。最低な男だ、自分に幻滅した。子供に恵まれる資格がないのは雪子ではない、俺だ! たった独りで俺のために泣きじゃくっている雪子、ダメなのは俺だ! 雪子じゃない!
秋月は傷つけてしまった雪子に手紙を書いた。かつて「ich liebe dich」とたった1行だけのラブレターを送ったが、それ以来だった。人生で2度目のラブレターか…… 俺はラブレターは下手だと自嘲した。
◆ 情念の雪景色が広がった。
2月26日(金)、東京の最低気温はマイナス2度を示し、雨戸を叩く北風に雪子は目が覚めた。雨戸を開けると、鉛色の空から大きな雪が舞い降りていた。あっ、雪だ!
雪子の電話は突然だった。
「東京に雪が降ってます、積もりそうです。あ~ 雪の結晶が見えます。初めて見ました。福岡の雪とは違います、大きくて重たい雪です。見る見る真っ白になって、木がブルブル震えています。積もるようです。蒼一さんにも見えますか? 許してください」
許してください? どういうことだ? 想いの全てを手紙に綴ったが、雪子は何も語ろうとはしなかった。もうすぐ戻ってくるとは聞いたが、まだ心を閉ざしたままだ。
「山川くん、今から東京へ行く。スタッフを集めてくれ」
「どうなさったのですか、急にそんなことをおっしゃっても困ります」
秋月は山川を無視してスタッフルームへ向かった。
「申し訳ないが、僕は今から東京へ飛ぶ。今日と明日は幸いなことにオペの予定がない。頼む、東京へ行かしてくれ! 雪子は凍りついている。僕がいないとあの子はダメになりそうだ。僕の我儘を許してくれ」
スタッフに頭を下げた。
「若先生、行ってください。後顧の憂いなく東京へ行ってください。そして雪子さんを連れて戻ってください。あとは任せて行ってください」
あーあ、バカ先生はまるで熱に浮かされた子供のようだと、山川は笑った。
雪子が大学から戻り、「雪子です。戻りましたぁー」と母屋の玄関で声をかけた。
「お帰りなさい。今日は早いですね、雪で大変だったでしょう。あの坂を自転車で上ったのですか」
「いいえ、新雪は滑りやすくて進めません。諦めて押して上りました。大学は今日で終わりました」
高嶋は雪まみれの雪子に微笑んで「お客様ですよ、お待ちかねです」、えっ、誰だろう?
雪子を待っていたのは秋月蒼一だった。
とても優しい眼をして走り出て雪子を抱き上げ、赤ん坊をあやすようにグルグルと回った。高嶋は呆れ返り、居間に引き揚げた。
雪子は夢を見ているような気がして、眼をこすった。
「ホンモノの蒼一さん? どうして?」
「何をそんなに驚いてる? 僕は会いに来たんだ。ほら、離れの雪景色を一緒に見ようって約束したじゃないか、そして雪子に詫びようと思った」
秋月は高嶋から、星野は1週間ほど毎朝7時に訪れて、雪子の代わりに雨戸を開いて廊下を拭き、大学に連れて行った。戻ったら勉強して夕飯を済ませて8時頃に帰りました。妹さん思いのいいお兄さんです、感心しましたと告げられた。秋月は黙って聞いていた。星野、すまない。
「高嶋先生、今宵は離れで雪子に添わしてください。お願いします。雪子の心はまだ治っていません、お願いします」
秋月は座布団を降り、正座して高嶋に頭を下げた。
凍えきった離れに秋月を迎えて、姫火鉢の炭を起こして風呂を沸かした。
「何もしなくていいよ。雪子に会いたくて来ただけだから」
「でも、蒼一さんはお腹空いてませんか、何か作ります。ちょっと待ってくれますか」
「そんなことはどうでもいい。雪子に謝りたい、許してくれるか?」
「何のことでしょう?」
雪子は、ことさら何でもないように装って忘れようとしていた。秋月は、腹が減っているか、何のことかなど、そんな言葉を聞くためにここに来たのではないと腹が立った。互いの心がすれ違い、深々と積もっていく雪を無言で見つめていた。
いきなり雪子を引き寄せて乱暴にキスした。寒さで雪子の唇は震えていた。
「許してくださいと言ったがなぜだ? 謝るのは僕だと言ったはずだ。なぜだ?」
ひらひらと風に舞う雪を見つめながら、
「蒼一さんはもしかしたらと期待してたのに、私の心がついて行けなくて、やっと心を決めたけど、でも……」
「うるさい、何も言うな!」
雨戸を1枚だけ開いて、秋月は舞い砕け荒ぶる雪を見ていた。風すさぶ廊下に雪が舞い込んで来る。雪子をすっぽりと毛布に包んで胸に抱き、京子が残していった酒を傾け、夜のしじまに耳を傾けていた。この雪景色にはただならぬ気配を感じる。誰の情念か、風音に混じって女のすすり泣きが聴こえた気がした。雪子には聴かせたくないと思った。
胸の中で安らかに眠っている雪子が愛おしくて、どうしようもなかった。
冷え切った体を浴槽に沈めたとき、意識がない雪子を凌辱しようとした記憶が蘇った。雪子は眼を覚まし、
「えっ、私、眠ってましたぁ?」
あどけない表情で問われて、秋月は返す言葉がなかった。
ふたりで温まっても十分な広さの浴槽に浸って、
「あれはなんだ?」
ニヤッと笑って指差した先は、浴室の隅に干された下着だった。
「うあっ、恥ずかしい! 外には干せないんです。すぐ片付けます」
胸を隠して浴槽から立ち上がった雪子を秋月が笑った。
「洗濯物と裸とどっちが恥ずかしいのかい? 胸を隠しても、愛してる雪子のあそこは僕の眼の前だよ」
ふーっ、慌てて雪子は浴槽に沈んだ。
「泳げないんだろ、無理して潜るな。出ておいで」
こんな雪子が可愛くて面白くて、絶対に離したくないと思った。
居間に敷かれた1組の布団に、
「これはなんだ? こんな小さな布団なのか、まるで子供用だな」
「そんなことありません。私にはちょうどいいんです」
「僕は足が出て寒そうだ。どうしてくれる? だいたいこの部屋は寒すぎる! そうだろう?」
「蒼一さん、贅沢を言わないでください」
「おいで、雪子を抱きたい。そんな不安な顔はしないでくれ、あれをちゃんと用意した。妊娠の心配はない。明日は僕と福岡に帰ろう。もう大学は終わったんだろ、成績も出たんだろ? 僕と戻ろう」
「いえ、明日じゃなくて明後日のスカイメイトで星野さんと帰る約束しました」
「なんだ、雪子は僕よりも星野と一緒に帰りたいのか! そうなのか?」
何とつまらないことを俺は言っているのか、これはヤキモチ以外の何物でもない、秋月は自分に呆れていた。
「こっちを向いてごらん」
「ふぁい?」
雪子を抱き寄せた。星野だって? とんでもない! 仮面を被っているだけで雪子を好きなはずだ。腕に抱かれて甘えている雪子を奪われたくない! いきなり雪子を押さえ込んだ。
「あうっ、そ、そんな!」
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驚いた小さな体は暴れたが攻め立てた。未完成のしなやかな肢体は執拗な攻撃にさらされ、やがて仰けに反って気を失ってしまった。燃えあがって夢中になった秋月は約束を守らなかった。火照った雪子を抱いて、なぜ俺はこんなに雪子を虐めてしまうのか、すまない、またやってしまった。だが雪子を苦しめたくない。何と言おうか、自分が心底情けなかった。
雪あかりの夜が明けようとする頃、雪子は蘇生した。とろんとした眼で秋月を見つけて微笑み、再び眠りに堕ちて行った。俺はいったい何をするためにここへ来たのだろう、まだ雪は降り続けているようだ。
体中にキスして起こしてしまった。
「お願いだ、起きてくれ。もう一度僕の人になってくれ」
「ふぁい?」
「心配しなくていい。約束は守る」
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もうこれ以上雪子を壊してはいけない。優しく雪子を抱いて、ひとときの幸せを貪った。隣には雪子が眠っていて、その温もりが伝わって来る。ずっと抱きしめていたが、いつの間にか甘美な眠りに落ちて行った。
目が覚めたら、部屋中に香ばしい何とも言えない旨そうな匂いが漂っていた。
「起きてください、卵の焼き粥を作りました。早く顔を洗ってください」
雪子は既に身支度を整えていた。抱かれた記憶はしまい込まれたのか、影も形も見えなかった。食欲をそそる匂いには勝てず、旨い、旨いと食べる秋月をぽっとした頰で雪子は見つめていた。
「何が何でも連れて戻るぞ。用意をしなさい」
「でも、星野さんには何と?」
「心配しなくていい。僕が電話する」
雪子は思案顔のまま黙って聞いていた。
秋月は高嶋のもとに挨拶に訪れた。高嶋は茶を点て、
「秋月先生、雪子さんは大粒の涙を落としながら、今朝も拭き掃除していたのをご存知ですか。小さな体にたくさんの想いを隠しているのでしょうね。何事にも全身全霊で向かって行く子です。
まもなく、雪子さんに中級の免状を与えます。出来るだけ早く帰してください、教えることがたくさんあります。どうぞ、大切にしてください」
雪子と自分を比べて、恥ずかしさのあまり俯いていた。いつ腕の中から抜け出したのかも気づかず、俺はいい気になって眠っていた。雪子に会っても最近は虐めてばかりいる。自分の腹立ちやイライラや不安をぶつけているようで情けなくなった。契ってからは雪子の若さに無意識に嫉妬するのか、破壊したい欲望が渦を巻き、まだ未成熟の体に溺れて行く。しかも医者なのに許されないウソまでついてしまった。なんてやつだ俺は……
秋月は星野に電話した。
「星野か、用があって東京に来た。今から雪子を連れて福岡へ戻る。星野には世話になった、感謝している。雪子を連れて行くが悪く思うな」
「ちょっと待ってください。いつ来たんですか?」
電話は切れた。
ふたりは福岡空港に降り立ち、秋月総合病院に向かった。戻ったふたりを何よりも待っていたのは、秋月蒼一チームのスタッフだった。山川が雪子を見つけて駆け寄り、抱きついた。
「まあ、雪子さんお帰りなさい。若先生は大変心配なさってたのよ。元気になったの?」
「はい、ありがとうございます」
雪子はにっこり笑った。昨夜は乱暴な行為で失神し、夜明け前には再び俺を飲み込んだ。そんなことは微塵も想像させない完璧な微笑みだった。それを複雑な思いで眺めた秋月は、雪子を自分の傍に隠してしまおうと考えた。
さらさらと処方箋を書き、
「山川くん、雪子に点滴を頼む。まだアイツは完全ではない、疲れも残っている」
「承知しました。雪子さん私がついてます、怖くないですよ」
「はい、点滴には慣れました。星野さんという友達のお姉さんが女医さんで、3回も点滴してくれました。お陰で元気になりました」
「その方は星野京子さんでしょ、若先生を叱りつけたの。それがね、緊急連絡用のスピーカーから流れたのでみんながびっくりしたのよ」
「スピーカーから流れたのですか」
「そう、それでも若先生はオペを完璧に続けたの、さすがだわ。でも泣いてましたけどね」
「えっ、蒼一さんが泣いていた……」
「若先生はね、すまない、許してくれ、そう言って泣いてました。若先生は本当は優しい人なのよ。わかってあげてね」
「はい、知っています」
秋月が点滴室に入って来た。
「山川くん、ありがとう。僕が付き添う、あれっ、泣いてるのか? どうした? しょうがないやつだ」
涙を拭いて前髪をかきあげ、額に優しくキスした。
「今日は僕のところに泊まりなさい。いいね」
「えーっ、帰ります、母が待ってます。帰らせてください」
「ダメだ。お母さんは明日帰って来ると思っている。だから今日はオマケの1日だ。これを活かさない手はないだろう」
雪子は頭を振って、秋月を見つめた。
「あんなことはしませんか? 私が私でないようで、何が何だかわからなくなってイヤです」
「違うだろう? 雪子は僕を欲しがっている、そうだね」
「違います、怖いです。お腹が痛くなります。イヤです」
あー、まだ怖がっている。腹が痛い? もっとセーブすべきだったか。雪子を何度も蹂躙した自分が恥ずかしかった。
「約束する、何もしない。信用できないなら僕を縛ってもいい。だから傍にいてくれないか。僕は心が凹んだとき、雪子を探す。そのときの雪子は涙を堪えて上を向き、照れ臭そうに笑っている雪子だ。そんな雪子を探し当て、脳裏に呼び戻してオペを続ける。わかってくれるか? いつかドイツの民話『Vergiss mein nicht!』を読んでいたね、どんなことがあっても僕のことを忘れないでくれ。覚えていてくれるか」
「お願いですから、そんな悲しいことは言わないでください」
「そうだな、楽しい話をしよう。僕は成人式に髪飾りを贈った。それを飾った雪子はとても綺麗だった、10回ぐらい惚れ直した。雪子は僕の首を締めると言ってネクタイをくれた。オペのときはいつもそれを結んでいる。そうすると雪子が傍にいる気持ちで頑張れるんだ。雪子は何か欲しい物はないのか? 何かしてあげられることはないのか?」
「私はえーっと、うーん、欲しい物はありません。欲しいものはみーんな持ってます」
ひょいとジャンプして秋月にキスをした。雪子を抱き上げ、甘く切ないキスが続いた。
◆ 新妻を得たような幸せな時間が流れたが……
秋月は診療の合間に幾度も雪子に会いに部屋に戻った。スタッフは呆れて、
「今日の若先生は迷惑です、診療に気が入ってません。心配なんでしょう? あとは僕らに任せて上がってください」
言葉に甘えて自室に引き上げた。雪子は秋月に気づかず窓辺に佇んで外を眺めていた。
「雪子、帰ったぞ!」
いつの日かこの言葉を言いたかった。許されるなら毎日そう言いたいと願っていた。
「お帰りなさい」
雪子は白衣を脱がしてハンガーに掛け、ネクタイを解きにかかった。長身でダンディーな秋月は、ダブルノットで綺麗なディンプルを作っていた。ふーん、ここでグルグルと二重に巻いて、こっちの端を三角の中へ入れて、えっと、こうやってと、雪子は何度も結んでは解いていた。
「いつまで待たせるつもりだ? こうするんだ」
襟元を少し緩めたかと思うとスパッと外してしまった。そして、
「シャワーを使う、全部脱がしてくれ。診療が終わったらいつもそうだ、わかったか」
「えーっ! そんなぁ」
恥ずかしそうに顔を背けて脱がせようとする雪子を、仁王立ちした秋月は面白がって見ていた。どうしてだ? 何度も裸で抱き合った仲だろう。裸を見ただろう、何が恥ずかしい?
「ご飯を食べに行こう。何が食べたい? ただしチョコパフェはごめんだ。そうだ、たまには中華にしよう。支度はいいか?」
「はい、着替えます。あっちを向いてください」
何だって、今度はあっちを向けって? 裸であんなに暴れたくせに、面白いことを言う。可笑しくて笑った。
手をつないで天神因幡町へ歩き、『平和樓』という名の町中華の店に入った。
「子供の頃によく来た店だ。まだ父さんと母さんが仲が良かったときだ。雪子も来たことあるだろう?」
「はい、兄が連れて行ってくれました。ちゃんぽんが美味しいんですよね」
「そうだ。ちゃんぽんもいいが、皿うどんも旨いぞ。皿うどんと香ばしい八宝菜と春巻きと棒棒鶏と~」
「もうそのくらいにしましょう。確かこのお店は大盛りだった気がします」
「いいんだ、雪子にたくさん食べてもらうから。今日はビールぐらい飲みなさい」
コップ1杯のビールでほんのりした雪子を見つめて、毎日がこうだったらいいなあ、大学なんてやめちまえと本気で思った。
天神をそぞろ歩きして、ある店のウィンドウに惹きつけられた。『Teardrop』と書かれた小さな真珠のイヤリングに気づいた。涙の雫か、雪子にはぴったりだ。茶道ではマニキュアや指輪はご法度だと、女子大生には珍しく雪子は何もしていない。茶事では髪飾りさえ本来は許されてないと言っていた。雪子が気づかないうちにそれを買ってポケットにしまった。
お休みのキスをして、ふたりは抱き合って眠りに落ちて行った。心地良い温もりと穏やかな幸せに浸って、秋月はぐっすり眠った。
夜中に目覚めて水差しに手を伸ばしたとき、雪子は何か寝言を言っていた。「あと、5分待ってください」、そう言って髪をかきあげた。秋月に楽しくて懐かしい記憶が蘇った。合格のハンコだ、優しく額にキスした。雪子は安心したかのように眠り続けた。
おはようのキスを受けてパッチリと眼を見開いた雪子は、「こんなにいっぱい眠ったのは何日ぶりでしょうか」と笑った。秋月もそうだった。これほど温かい想いに包まれて眠ったのは、いつの日以来だろう。ふたりは転がるようにシャワールームに飛び込んで、ソープを互いの体に塗ってふざけあった。
ノックしても返事がない部屋に山川は入った。寝乱れたベッドは空っぽで、シャワールームから何やら楽しげな声が聞こえる。やれやれと思って、看護婦の鼻を効かせて辺りを見渡し、行為の痕跡を探したが何も見つからなかった。何をやってるのか、あのバカ先生は。雪子さんを妊娠させれば手離さないで済むのにと呆れて退出した。よほど大事にしてるのか、大バカ者か! 勝手にしろ! そう思った。
こんがり焼けたトーストと珈琲を秋月は運んで来た。
「僕が用意した愛情たっぷりの朝飯だ。さあ食べよう」
雪子にキッチンを使わせると、とびきり旨い朝飯が食べれるだろうが、貝になった母を刺激したくない。バターを塗ってトースターに放り込んだ。秋月は腹が減っても面倒で、パン1枚焼いたことがなかった。
「旨いだろう? 僕が作った。ほら、食べろ」
「ふふっ、トーストしただけでしょ」
簡単にあしらわれて、秋月はムッとした。
「バカめ、めったにこんなことはしないんだ。ありがたく食え!」
へへっと笑って、雪子はパンの耳を残そうとした。
「おい、最後までちゃんと食べろ。残すから大きくなれないのだ」
残されたパンの耳を雪子の口に突っ込んだ。眼をパチクリさせて両頬を膨らませ、モグモグと食べる様子は、成人式の振袖姿で冬眠前のリスに変身したときとそっくりだった。俺たちはずいぶん同じ時間を過ごし、同じ夢を見たようだ。今日は緊急外来はクローズで、ゆっくり雪子と出かけられる。
「どこか行こうか?」
「いいえ、ちょっぴり散歩するだけで、ずっと傍にいていいですか?」
「うん、いいよ。そうするか」
どうやら冬は終わったようだが、陽だまりを1歩外れると早春とは思えない寒気にふたりはぶるっと震えながら、抱き合って見つめ合い、時々立ち止まっては小さくキスして微笑んだ。話したいことはたくさんあるが、何も話したくなかった。同じ道を何度も往復し、同じ曲がり角で雪子を抱きしめてキスをした。




