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18章 何もかもチグハグで

◆ 早稲田は学生運動から解放されたのか?


 大学は徐々に講義が行われるようになったが、早大全共闘と名乗る学生たちが勝手に占拠した第二学生会館は、9月になって学生たちが排除されても荒れ放題のまま放置されていた。早大全共闘と称しても大半が他大学の学生だった。また、小教室を気ままにロックアウトしていた学生は昨年末までにほぼ排除されたが、それら教室は様々な物が散乱し腐臭が漂っていた。


 学生運動に翻弄され続けた受験を経験した雪子たち昭和44年度の入学生は、しらけた眼でセクトの学生たちを見ていた。学内の階段を上りきると必ずロックアウトされた小教室にぶつかった。出入り口は机や椅子が積み重ねられ、バリ封されていたが、父親が機動隊員だというクラスメートは、あんなものは砂上の楼閣です。バカバカしいおもちゃですと笑った。


 セクトがロックアウトした小教室等は、大学当局が要請した警官隊により完全に解放された。そこにはおびただしい数のコンドームの残骸があったという噂が大学内に広まり、一般学生はしらけた。偉そうに資本論? 革命? 早大改革? そんなことをウソ吹いてもやってることは最低なやつらだと軽蔑した。

 不運なことに、早稲田にはノンポリ学生を魅きつけるスターは汐見以外にいなかった。三島由紀夫と互角に討論した東大全共闘レベルの活動家は存在しなかった。一般学生の共感を得られなかったセクトがさらに凄惨な内ゲバに走ったのはこれ以後だ。


 一方、大学が警官隊を学内に導入したことで、「在野精神は踏みにじられた」と嘆く学生も多かった。また、受講したい授業が行われずレポート提出になった講座が多かったことや、お粗末な学生運動の終焉を見せられて、大学や学友、ひいては自分自身に失望して大学から消えていく学生も多かった。雪子のクラスでは7人がいなくなった。


 雪子はドイツ語ではやっと「良」で単位をもらった。本来は「可」の評価だが、出席率を加味しての評価だと告げられた。「本当にドイツ語を学びたいなら3年生で私の上級講座を受けなさい」、大槻助教授は勧めた。秋月がすらすらと書きなぐるドイツ語に憧れていた雪子は、上級講座に登録した。

 卒業までに必要な最低単位は124単位だが、すでに78単位を取得していた。3年生になると専門科目の選択が中心になり、1教科は4単位である。しかし今までの4単位とは講義内容が違う。ふぁーっとしていると落としてしまう。星野と話し合って、講義スケジュールと単位数を計算した。


 この2年間、星野と雪子は、早大全共闘に怖気ずに講義が行われている講座を選んで受講していた。レポート提出だけの講座を選択する方が、どんなに楽か知れなかったが、ふたりは大学が好きだった。特に星野は2度めの受験で合格したので、雪子に「自由・進取の精神と反骨魂」を熱っぽく説いた。説かれた雪子もすっかりその気になっていた。


 ほぼ学年末試験は終了し、星野の今年度の取得単位も雪子の力に依るところが大きかった。あとは提出したレポートの評価だけだ。

「オマエのお陰で留年せずに卒業できる見通しがついた。バイトの金が入ったから『金城庵』に行こうぜ。何を食ってもいいぞ、おごってやるぞ!」

「ホントですか! あんな高いとこ、いいんですか、三島由紀夫さんが通った店なんですってね」

 金城庵は、宴会が出来るスペースを持った大学近くの蕎麦屋だが、教授や先輩と一緒でない限り、学生が気軽に入れる店ではなかった。正門通り入り口にある、大隈家のご用達だった蕎麦屋『三朝庵』とは違って敷居が高い店だ。



◆ 心と体に負荷がかかってしまった。


 ふたりは向かい合って天ぷら蕎麦を食べた。雪子が突然むせって胸を叩いた。

「どうしたんだ? 滅多に食えない天ぷら蕎麦を貧乏人に食わせると、これだからなあ。それともアレか?」

 星野は雪子の背中をトントンと叩いてやった。 

「アレって?」

「秋月さんだろう、つわりか?」

「何をバカなことを言ってるんですか。そんなこと、あるわけないでしょ。ちょっとつかえただけです」

 

 雪子が「そんなこと」と言ったのを星野は聞き逃さなかった。そんなことを知ってしまったのだろうか。

「痩せなかったか? 顎が尖っている。そういえばガリガリじゃないか、いったいオマエは何キロあるんだ? 心配事でもあるのか? かったるそうだし」

 1年前、病室で抱え上げた雪子の軽さと頼りなさを思い出し、顔を覗き込んだ。その視線を雪子は正視できず、視線を外した。


「ううん、何でもありません。あまり食べたい気がしないんです。すぐお腹いっぱいになっちゃうんです」

 この年頃の女子はやたら食べたがるのが普通だが、何かあるぞと思った。何かおかしい、秋月さんか? こんな状態が続くなら秋月さんに文句のひとつも言いたいところだが、言ってどうなる? 血が通っている人間とは思えないほど透き通った顔の雪子に、オマエは本当に大丈夫か? 白血病とか悪い病気じゃないのかと心配になった。


 星野は姉に電話した。

「姉ちゃん、ユッコがやたら痩せちゃって心配だ。どうすればいいんだ?」

「バーカ、オマエが抱いてやればいいじゃないか。近いうちに雪子のとこに遊びに行くから、心配するな。女はオマエが思っているほど弱くない、くだらないことで電話するな。こっちは忙しいんだ。切るよ」


 星野はデートの約束をキャンセルして、雪子と出来る限り一緒に過ごした。痩せて体力がなくなった以外は、何も変わってないが、時々ぼんやりと遠くを見つめている。昼飯は学食や定食屋に誘ったが、大学周辺の定食屋は、学生が食べ残すと嫌な顔をする店主が多かった。半分も食べれない雪子の分まで星野が食べてやった。ユッコ、元気になれよ、姉ちゃん、早く来てくれ、頼むよと星野は願っていた。


 京子は大きなバッグを抱えて、マサオのバイクの後ろに乗ってやって来た。マサオも医者らしい。

「マサオさん、初めまして雪子です」

「雪子、オマエが元気がないとバカな弟が心配していた。旨いものを作る前に熱を測れ」

 婦人体温計を雪子に渡し、有無を言わせずに測った。

「そー、36.8度か。まあ普通だが、マサオこれは高温期か?」

「低温期ではないだろう。そもそも通常時の体温はどれくらいか、高温期だとしてもそれがいつ始まったかでしょう。2週間以上続くと調べたほうがいいな」

「そうだな、いきなりじゃわかるわけないよな。いくら産科医だってな。雪子、血を採るよ。マサオ、これを検査に回しといて。貧血は絶対ありそうだ。さあ、これでおしまいだ。早く、旨いものを頼む。材料は持ってきた。盛大に『博多すき焼き』といこうじゃないか」


 雪子が台所に立った隙に京子は、

「涼、オマエはいったい何を心配してるんだ? 雪子の妊娠か? それは今日はわからない。そうだとしてもオマエには関係ないだろう。雪子を好きなのか? こんなに心配しちゃって、どうしたんだ。確かに雪子は痩せた。あんなやつと付き合ってりゃ痩せるだろうよ」


「姉ちゃん、秋月さんはここを押しながらディープキスしてユッコを気絶させるんだ。そして人工呼吸して目覚ませた。驚いたから心配してるんだ」

「オマエ見てたのか? 見てたオマエに呆れるが、秋月にはもっと呆れた。そんなことをいつもやられたんじゃ身がもたない。何だと思ってるんだ、雪子をおもちゃにするな! 若い恋人を持つと男はしつこくなりがちだ。秋月ってそんなバカな男になったのか。オマエ、秋月から雪子を奪っちまいな」


 そんな会話が交わされているとは知らずに、酒の肴とすき焼きの支度をして部屋に戻り、

「心配かけてすみません。星野さんは大袈裟なんだから。用意が出来ましたので、マサオさんもどうぞ」

「すき焼きはこうでなくっちゃ、割り下を使う関東風なんて邪道だよ。博多のすき焼きに限る。雪子はいっぱい食べろよ」

 東北人のマサオは、すき焼き鍋でいい匂いを放ちながら煮られているネギの細さに驚いた。

「九州ではこんなに細いネギをすき焼きに使うのか? こんなの初めて見た」

「ネギといえば博多ではこれだ。関東や東北の太くて下品なやつはネギとは認めない」

 京子とマサオは星野と雪子そっちのけで戯れていた。


 台所で物音がして洗い物をしていた雪子が倒れた。真っ青な顔でうずくまっていた。

「おい大丈夫か? めまいか?」

 星野に助け起こされた雪子はぼーっとしていた。京子は頬をピタピタ叩き、

「しっかりしろ! 目を覚ませ、マサオ、血圧計だ、脈だ!」

 やはりSBPが62だ! 何だこれは? コイツはこの若さで死にそうなババアと同じだなんてどうかしている。なお、SBPとは収縮期血圧で、上の血圧を表す。

「涼、秋月に電話しろ。オマエのせいで雪子が死にそうだと脅してやれ!」

「こんな時間にか」

「時間なんかどうでもいい、ガツーンと言ってやれ。雪子を衰弱させるな、おもちゃじゃないと言ってやれ」

 しかし、オペ中だと告げられて電話は繋がらなかった。11時過ぎだというのにオペ中なのか、星野は驚いた。

「私が電話する。涼、ダイヤルを回せ!」


「東京の日大板橋病院の内科医、星野京子だ。秋月蒼一に西崎雪子のことで連絡したい。オペ中だろうとかまわない。緊急だ。早く繋げ、患者は死にそうだ!」

 星野は横でハラハラしていた。姉ちゃん、それは言い過ぎだろう。


 電話は手術室に回され、壁の緊急連絡用スピーカーから京子の声が流れた。

「日大板橋病院の内科医、星野京子だ。アンタの恋人、雪子の傍にいる。雪子が倒れてSBPが62しかない、衰弱している。若さでもっているようなものだ。処置はしたが、いったいアンタは雪子に何をしたんだ。雪子は何も喋らない。アンタは医者だろう、雪子をこんなに衰弱させて何が医者だ。ふざけんな! 若いから急変することはないと思うが、少しは雪子のことを考えてやれ。これ以上雪子をおもちゃにするな!」

 

 スタッフは驚き、手術室は瞬時に凍りついてしまったが、スタッフの視線を浴びて秋月はオペを続けた。気持ちの揺れを一切見せずにパーフェクトに進めて行った。

「すまない、許してくれ」

 秋月はぽつりと呟き、オペ用のゴーグルを投げ捨てた。大粒の涙が溢れ落ちた。

「山川くん、オペが終ったら電話すると伝えてくれ」

「ですが、今の様子だと酔っ払っているようです。明日になさっては」

「酔っているからホンネが出ることがある。雪子を心配してくださっている」

 

 雪子が心配で秋月は電話した。

「秋月です。先ほどは手術中でしたので、大変失礼いたしました」

「星野です。すみません。姉は勝手なことを言って寝てしまいました。すみません、オペ中だというのに申し訳ありませんでした」

「そんなことより、雪子はどうなんだ? 話させてくれないか」

「ユッコは注射を打たれて眠ってますが、起こしましょうか」

「いや、おそらく起きないだろう。衰弱していると聞いたが、本当に大丈夫か?」

「何だか食欲がなくて、ぼーっとしていて。大学では健気に元気そうにしてますけど、かったるそうです。もともと丈夫じゃないと聞いたし、かなり痩せました。でも大丈夫でしょう、内科医と産科医がついていますから」


「産科医!」

 秋月はゾッとした。もしや……

「もしもし、聞いてますか。姉貴の恋人です。マサオさんです。代わりましょうか」

「いや、いい。何かおっしゃってなかったか?」

「別に何も言ってません。姉貴と何か話してましたが、僕には何のことだかわかりませんでした」

「雪子は何か言ってなかったか?」

「元気ないな、どうしたんだと訊いても、平気ですと笑ってました。僕は病気のことはわかりませんが、ユッコは心と体の両方に大きな負荷がかかっているような気がしてなりません。何かあったのですか、話してくれませんか」


「星野の推察どおりだ。雪子を父と母の修羅場に巻き込んで苦しめてしまった。父は家を出て母は雪子の存在を無視している。父は雪子に好意的だが、母の完全無視には心を痛めたと思っている、それに……」

「それに?」

「心配かけて悪かった。俺は自分の気持ちばかりを先走りさせて、雪子をいたわることを忘れていた。それが雪子の衰弱の理由だと思っている。俺が悪い。雪子は押しつぶされそうな不安に、この瞬間も必死で耐えているだろう。もう少しだけ時間をくれないか。いろいろと面倒をかけて悪かった、申し訳ない。お姉さんには後日電話をしたい。連絡先を教えてくれないか」

「いいですけど、姉貴が出るかどうかは保証できません。秋月さんに見合い写真を送ったら、突っ返されたと今でも怒ってますから」

「それはいつのことだ? まったく記憶にないが」

「そうでしょうとも。いつのことだか僕は知りませんが、本当らしいです」

「申し訳ない」

「気にしないでください。今はユッコを妹のように可愛がってますから」

「ありがとう。星野、すまなかった」

 カミソリ秋月は謝ってばかりいた。


 翌朝の7時。

 秋月の電話に出たのは星野だった。

「星野か、昨日は迷惑かけて悪かった。雪子は起きているか、雪子と話したい」

「すみません。叱りつけて寝かせました。ユッコがいないのに気がついて母屋を探したら、パジャマ姿のアイツが素足のまま廊下をハアハアと荒い息遣いで雑巾掛けしてるんです。朝の5時ですよ! 考えられますか! そんなの止めろ、寝てろと言っても聞かないので、叱りました。すみません。ユッコの手足は冷え切って氷のようでした。

 姉貴はまだ寝てますが、検査次第で点滴と栄養注射をすると言ってました。僕が病院に連れて行きます。今日は大学を休んで付き添います」

 秋月は静かに聞いていた。どうすることも出来ない距離と状況に苦しんでいた。傍にいれば治療が出来る、話しを聞いて悩みを半分にすることも出来る。食べる気力を失うほど悩んでいる原因は、妊娠の不安だろう。雪子、すまないと詫びた。


「星野、お前に心から感謝する。お姉さんとマサオさんにもだ。こんなに心配してくれる人がいて、雪子は幸せだ。迷惑かけて申し訳ない。俺はお前に嫉妬したことがあった。雪子の傍にいられるからだ、悪かった。そんな自分を恥ずかしく思っている。雪子は俺の最後の恋人で愛する人だ。だが今は守ってやることすら出来ない自分が情けない」

「もういいです、僕は秋月さんからユッコを預かっているだけですから。アイツは何だか心配で放っとけないんです。初めて会ったときから、あまりにも一途なヤツなんで気になるんです。可愛い妹です」

 星野の恋心に秋月は気づいた。俺がいるから星野は自分の心に鍵をかけている。

「雪子が起きた頃に電話する。あいつは一度眠るとなかなか起きない困ったやつだ、寝かしておいてくれ。朝早くから悪かった」


 10時30分、受話器を取ったのは雪子だった。

「おはよう、やっと起きたのかい。倒れたと聞いて心配した。熱はないのか? 痛いところはないか? 苦しくはないか? 傍にいたらどんなことでもしてあげられるのに許してくれ。僕のためにちゃんとご飯を食べなさい。食べないから倒れたんだよ」

「はい、食べます。うろんが食べたいと言ったら星野さんはおつかいに行きました。ちゃんと食べます、約束します。学年末試験はクリア出来ました。3年生になれます。もう平気です」

 雪子は平気だと言っているが、平気でないことをよく知っている秋月は、いちばん知りたいことを訊けず、言いたいことも言えなかった。今の雪子にそんなことを訊いたら心が折れるだろう。


「しばらくはゆっくりと休んでなさい、大学は心配ないのだろう。いいね、わかったかい。それとも僕のところに戻って来るか?」

「そうも行きません。私だって忙しいんです」

「ダメだ! 僕だったらベッドに縛りつける。回復するまで静かにしてなさい。昨日は星野のお姉さんにこっぴどく怒られた。

「えーっ、どんなことを言われたのでしょう? ごめんなさい。眠っていたので」

「お姉さんは雪子がよほど可愛いらしい。雪子への愛情が僕を叱った。悪者扱いされたが正しい指摘だった。雪子のことを考えてやれ、おもちゃにするな、そう言われた」


 雪子は、ふーっと息を吐いて頭を振った。

「ごめんなさい。誤解しないでください、京子さんは悪い人ではありません。思ったことを遠慮なくおっしゃる方です。悪意はありません」

「悪い方とは思ってない。雪子のことを心配してくださっている」

「ふふふっ、京子さんからこんなことも教わりました。初めての男性に縛られるな、そんなことは気にするな、初めての男性を忘れられないという説は間違いだ。そんなことは気にせず自由に人生を選びなさいって」

「はあ? そんなことを雪子に吹き込んでいるのか、油断できない人だな。雪子の声を聞いたから仕事に戻るよ。また電話する」


 秋月がいちばん訊きたかったことは、月経があったかどうかだった。あれから4週間以上だ。雪子が悩んでいるということはまだないということだ、可能性は高い。学生の雪子には悪いが秋月は密かに期待していた。大学は2年間休学できるはずだ。そうなったらすぐ戻って来るだろう。


 おつかいから戻った星野は、熱々の「うろん」が盛られた丼を2つ運んできた。うどんのことを博多ではうろんと言う。

「うわっ、美味しそう! 星野さんが作ってくれたのですか」

「そうだとも。生まれて初めて作ったうろんだ。絶対に旨いはずだ! ユッコの好きな天ぷらを揚げてもらった。食べろ、食べろ」

 汁をひとくち飲んで、

「これって魚政さんでしょ、トビウオのあごだしだ! ふーっ、美味しい!」

「バレたか、魚屋のニイちゃんがユッコはどうしてると聞いたから、面倒だから貧血で倒れたことにした。そして、うどんを食べさせたいと言ったんだ。そしたら、待ってろって、汁を作ってくれた。天ぷらも作ってくれたんだ。八百屋のおっちゃんが小ネギをくれた。早く元気になって、赤ダルマみたいな顔で坂道を上っていくのを見たいってさ」

 美味しい、美味しいと言って雪子はきれいに食べ切った。なお、博多では「さつま揚げ」のことを「天ぷら」と言う。


 

◆ 秋月は殿様に生まれついた憐れな男か?


 縁側のガラス戸を叩く音で雪子は目覚めた。魚政の定岡が煮付けの皿を持って立っていた。

「貧血で倒れたって兄ちゃんから聞いた。兄ちゃんとはお母さんが違うんだって? ユキちゃんも苦労したんだね。これは金目鯛の目玉の煮付けだ。ほら、この目ん玉が貧血に効くんだ」

「うわっ、ありがたいですけど怖いです。とても食べられません」

「眼をつむって薬だと思って食べるといいよ、じゃ置いとくよ。早く元気になんな」

 日大板橋病院から薬袋を持って戻った星野を待っていたのは、目ん玉の煮付けだった。

「こりゃあ、何だ! グロテスク! イヤだよぉ、気味悪くて食えねえよ!」


 シンデレラタイムに電話が届いた。

「どうだ、少しは元気になったか? 星野はもう帰ったのか」

「はい、今晩も心配だから泊まるって言ってくれたんですけど、大丈夫だから帰ってもらいました。京子さんが処方した薬をもらって来てくれました。昼はうろんを作ってくれたんですよ。とっても美味しくて全部食べれました。夜は栄養をつけろって、水炊きを作ってくれました。みーんなぶつ切りだったんですが、博多の味が懐かしくていっぱい食べました」

「そうか、良かったな。星野は雪子のいいお兄ちゃんだ。明日もたくさん食べて欲しい。今日はどんな薬が出たのか教えてくれるか?」


 雪子が薬剤の名前を読み上げた。

 何? ちょっと待て、なぜエストロゲンが? これは雪子に必要だろうか? 納得できなかった。

「この薬は必要ないと思うから、飲むのを待ってくれるか。京子先生に聞いてみたい」

「はい。今日はこんなことがあったんですよ。金目鯛の目ん玉を5つも食べました。これって貧血にとっても効くそうで、魚屋さんが私のために煮てくれました。真っ白い目ん玉を思い切って食べたら、コリコリして味はなくて、カルシウムの大きな錠剤みたいでした。周りのブルブルしてるとこは美味しいって思いました。これってきっと効きますよね?」

「うん、効くだろう」

 効果がないとは思わないが、気休め程度とは言えなかった。おい、あれはどうした? まだなのか? 訊きたかったがやめた。もう少しだけ待つしかないか……


 処方されたエストロゲンは発育不全の改良、月経不順や精子の着床を助ける働きがあるが、副作用が心配だ。雪子は確かに成熟しているとは言い難い。しかし、ホルモン剤が必要だろうか、秋月は悩んだ。星野京子に電話しようと考えた。

 星野京子は電話に出た。長時間ふたりは話していたが、そこで何が話されたのだろか。


「姉ちゃん、秋月さんが電話したんだって? 礼でも言われたのか、それとも何か訊いて来たのか」

「検査結果と処方薬に関して内科医として説明しただけだ。秋月がうるさく質問したのはマサオが処方した女性ホルモンの薬だ。なぜそれが雪子に必要かと文句つけて来た。恋人ならわかるだろうと言ってやったが、あとはマサオに説明させた」

「マサオさんが?」

「11時過ぎてもオペをやらざる得ない秋月をマサオは気の毒に思って、雪子がちゃんと母親になれるようにホルモン剤を出したんだ。雪子はまだ未成熟で、母親になるのは無理だと判断したらしい。それを秋月に話したら、しつこく質問されていた。ヘキヘキしたマサオは、あと2年もしたら期待に添えるでしょうが、その前に無茶したら母子ともに危ないと脅かしていた。秋月は納得するまで引かない男だ、そして恐ろしい男だ」

「秋月さんは昔からそう言われている」


「あんな時間までオペなんて、ヤツは1日何件のオペをやらされてるんだ? あの病院はおかしい。拒否すればいいだろうに、何を考えているのか? いくらカミソリ秋月だっていつまでもそんなことをやれるわけがない。心臓手術は盲腸を切るのとはわけが違う。想像を絶する精神力と神技に近いテクニックが求められる。そんなことを考えたら、殿様に生まれついた憐れなヤツだと同情しちゃったよ。だが、雪子の前では秋月は普通の男だ。心配でたまらず今にも東京へ来そうだった。秋月がここまで雪子に狂っているとは考えてなかった。だから、恐ろしい男だと言ったんだ」


「姉ちゃん、どうしてだ? ユッコは愛されて幸せじゃないか」

「だからオマエはバカというんだ。物事には限度ってもんがある。地獄の底まで連れて行かれそうで、あんな男に愛されたら女はシンド過ぎる。男には初心者の雪子がいきなり秋月かよ! ふざけんな! 雪子が実の妹だったら地球の裏側に隠したいよ」

「親父も同じことを言った。去年の4月だったか、本当の父親だったら海外留学させるって」

「そうだろうな。私が心配しているのは、バカな雪子は秋月の恐ろしさを知らないことだ!」

 秋月さんはそんなに働かなければならないのか、なぜだ? 4月か5月に病院は法人になると聞いている。慌てる必要はない、ユッコの卒業を待てばいいじゃないか。そんなに働いてどうする、ユッコを悲しませることだけは止めてくれ、星野はなぜか不安でたまらなかった。


 2月9日(火)、雪子が微睡んでいた夜遅く、秋月から電話があった。

「ふぁい、雪子です」

「眠っていたのか? 体調はどうだ、よく眠れるか? 大事な話がある。聞いて欲しい」

「はい」

「はっきり言ってくれるか、まだ月経はないのか?」

「はい、ありません」

「わかった。今日は火曜日だが、13日の土曜日に福岡に戻って来れるか? 僕がそっちへ行ってもいい。これから言う事をよく聞いてくれ。それまでになかったら検査を受けよう。もちろん、雪子ひとりでは行かせない、必ず付き添う。わかったね」

「そんな…… いいです、平気です」

「平気で済むことではない。もしそうだったら、お願いだ、産む覚悟をしてくれ。頼む」

「はい、命を粗末にする気はありません。罰があたります。あの~ いいでしょうか。恥ずかしいことですが、私は京子さんから教わったグラフのような曲線ではありません。今まで気にしたことがなかったのですが、正しいサイクルではありません。ごめんなさい」

「星野のお姉さんに教えてもらったのか?」

「はい、私は基礎知識すらなかったので、女子としての常識を教えてもらいました。ごめんなさい」

「謝ることはない。僕の身勝手で雪子を悩ませてしまった。僕が謝るべきだ。何も今すぐ雪子にママになれと言っているわけではない。ただ、心配なだけだ。雪子が元気になって欲しいだけだ。あの坂道を自転車で上るんだろう、早く元気になってくれ」


「蒼一さん、聞いてくれますか。私、悩みました。いろんなことを考えました、ずっとです。自分が一人前じゃないのに、母になる資格なんてあるんだろうかと、毎日毎日考えました」

「………………………」

「そして少しわかりました。もし縁があれば授かるかも知れないと。まだお前にはそんな資格はない。もっといろんなことを見て、聞いて、学んで、苦労しなさいと神様や仏様がそう考えられたら今は諦めます。私の考えっておかしいでしょうか」


 雪子が思った以上に悩み苦しんでいたかと思うと、いじらしくて何も言えなかった。こんなときこそ慰めてあげたいのに、言葉にするとなぜか薄っぺらで虚しく感じられ、何も言えなかった。

「聞いてくれてますか? いつか蒼一さんの子供を必ず産みます」

 ここに雪子がいたら涙を拭けるのに、ふたりを隔てる距離を悔やんでもどうにもならなかった。


 オペ中に星野京子の声がスピーカーから流れて後、秋月はスタッフにひとことも釈明しなかった。喜怒哀楽を押し殺して言葉を惜しみ、淡々と必要な指示を与え、時々頭を抱えてため息をつき、視線はどこか遠くに泳いでいた。スタッフはそんな秋月を見るのが辛くて、癇癪玉が破裂する方がよっぽどマシだと思った。雪子さん、早く若先生の傍に帰って来てくださいと願っていた。

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