17章 急転・衝撃・契り
◆ 母は激昂し、事態は急転直下した。
秋月院長は蒼一の提案を受け、メインバンクの福岡銀行と福岡相互銀行に法人化を打診した。両行ともいくつかの条件を出したが、法人化については賛成の意向を示した。なぜならば、現在進めているホテル並みの待遇をうたい文句にした分院の建設は、秋月家の個人担保では不足する恐れがあった。
東京女子医大からのスカウト話は、蒼一を期間限定で貸し出すだけなら、全国的に有名な大学病院に招聘されたとハクが付いて問題ないが、蒼一不在の状況をどうやって乗り切るかの難問が残った。あれだけの腕を持ち、この病院のために働いてくれる心臓外科医はおいそれとはいない。
院長は迷った。自分は秋月家に婿養子に入り病院を大きくした。だが個人経営としては規模を拡大し過ぎた。今後、ますます医療機器や設備に金がかかることは承知している。職員の社会保障や福利厚生など懸案はさらに増えるだろう。蒼一が院長になるとさらに業容は拡大するに違いない。蒼一の苦悩はそのまま父親の院長に引き継がれて行った。
ところが事態は急転直下した。
院長夫人の晴子は夫と息子を自分の居間に呼びつけ、ふたりの眼の前に2通の封書を置いた。
「蒼一、それを開けなさい」
封筒に入っていたのは戸籍謄本だった。秋月は初めて雪子の戸籍謄本を見た。鬼籍に入った父親の華々しい結婚歴と、雪子から聞いていた20歳以上も年が離れた姉と兄のほか、聞いていない姉がふたりいた。どうも戸籍を貸したらしい。多分、これは雪子も知らないだろう。
「この戸籍は何ですか? 父親は亡くなっていますが、ここに記載されている方々のことは聞いています。雪子が僕の妻になるのに何か問題がありますか?」
「そうですか、知っていましたか。それならいいでしょう、この方々は結婚して除籍されてますからね。ひとつ覚えておいて欲しいのは、雪子さんは情熱家の父親の血を受け継いでいることです」
あまりにもバカバカしい難癖で、反論する気すら起きなかった。だから何だって? 雪子は淫乱で次の男を求めて結婚を繰返すと言いたいのか、くだらない話だと無視した。
「問題はあなたです!」
母のただならぬ形相に何事かと父を見たら、腕を組んで宙を眺めていた。叱責の原因がわかったのだろう。分厚い文書が入った封筒には興信所の名があり、浮気が発覚したかと思ったとき、
「許してくれとは言わない。だが、この子に罪はない」
秋月は驚いた。父が言った「この子」とは愛人のことか? ただでさえ雪子のことで母は自分の殻に閉じ籠っているというのに、このタイミングの悪さを嘆いた。
「この子は5歳だ。今まで隠していたことは謝る。はっきり言おう、由美子と付き合って8年になる。子供は男の子だ。とても賢い子だ」
「そんな話は聞きたくありません! あなたは私や蒼一を騙し、裏切り続けていたのです。女だけだったら我慢もしましょう。それが何ですか、子供までいるとはこんな酷い話がありますか! その子の存在が蒼一にどれだけ迷惑をかけるか、考えたことがありますか! その子に秋月家の財産を分けるぐらいなら、蒼一が言っている法人にしたほうがよっぽど諦めがつきます。私は法人に賛成します」
秋月は悪い夢を見ているのかと思った。俺に弟? まだ5歳だと! とんだ茶番劇だ。父さんは62歳だ。その子が成人するまで生きていることすらわからないのに、よくまあ産ませたものだと呆れたが、突然に弟がいると言われても実感はなく、面食らうばかりだった。
院長が激昂した妻を宥めようと肩に手を置いたとたんに振り払われた。触らないで! 父と息子は顔を見合わせて退散するしかなかった。
幼い弟の存在を聞かされて、まったく気持ちの整理がつかなかった。こんなことは初めてだ。褒められたことではないが、父がどこかの家で父親を演じているという現実が愉快に思えた。
シンデレラタイムでいきなり、
「聞いてくれ! 僕に5歳の弟がいるそうだ」
「ふぁい? まさか蒼一さんの子供ですか? ふざけていたら怒りますよ」
「違う、違う、僕の子ではない。父さんの子だ」
「えーっ、ウソでしょ!」
「僕もさっき聞いたばかりで動転している。どうすればいい?」
「どうするもこうするもないでしょ。だけど……」
「だけど何だ?」
「だって、私の父は友達のお父さんより年上でイヤでした。その坊やもそんな思いをするんでしょうね。だから若いうちにお母さんになるって決めてます」
「そうか、だったら僕の子をすぐ産んでくれるか?」
「何を言ってるんです、悪乗りしないでください。私はまだ学生です。タイムリミットまでたっぷり時間があります。無茶言わないでください」
「卒業を待っていたら、僕は34歳だ。いいだろう?」
「何を甘えているのですか、私の都合を少しはわかってください。それで、お母様は何とおっしゃってますか?」
「そうだ、ふざけている場合じゃないな。母は法人化することに賛成してくれた」
「まあ、おめでとうございます。蒼一さんの気持ちが通じたのでしょうか」
「いや、そうではなくて、その子に秋月家の財産を分けるなら企業化したほうがマシだと言った」
「そうですか、裏切られたお気持ちなのでしょうね、お気の毒です。お父様は何か話されてましたか?」
「そういう雰囲気じゃなかったから何も聞いてないが、困った展開だ。その子だって祝福されて生まれたかったはずだ。父は何を考えているのだろう。信じてくれ、天地神明に誓って言う。僕に子供はいない」
「聞いてください。私には大きな子供がいます」
「! ????」
「そうです、蒼一さんです!」
あーあ、距離の隔たりは女を成長させ、男を退化させるのか。秀明斎先生が言った産む性と放出するだけの性の違いがやっとわかった気がした。
◆ 突然に訪れた初めての夜。
12月に入り、銀行や弁護士、公認会計士などで「秋月総合病院法人化プロジェクトチーム」が結成され、秋月家との間で幾度も話し合いが行われた。一般企業が法人成りする場合と違って複雑で、関係官庁への届けが煩雑だった。大部分はプロジェクトチームに任せたが、肝要な官庁には秋月が出向いた。
秋月は上京していた。関係省庁や医師会や要人との会談や懇談・饗応に3日間を費やした。幾度も癇癪が爆発しそうになったが、我慢だ、自重しろと自分に言い聞かせ、雪子と暮らす日々を心に描いて耐えた。ただひとつの朗報は秋月が不在であっても、チームは完璧にオペをやり遂げていた。
12月26日のムーンライトで帰福する予定の雪子に、
「帰省の支度して、すぐ駅前からタクシーに乗って紀尾井町のホテルニューオータニへ来なさい」
秋月は電話で告げた。法人化のことで上京していることは知っていたが、あまりにもぶっきら棒な言い方に、蒼一さんはどうしたんだろう? 何か困ったことが起きて、上手く行っていないのではないかと雪子は心配した。
ホテルニューオータニは、1964年に開催された東京オリンピックのために建てられ、帝国ホテルやホテルオークラと同格の高級ホテルだった。クリスマスは終わったが本日も満室のようだ。雪子が部屋の前に立った途端にドアは開かれた。秋月はわかっていた。この部屋に雪子が入って来たら俺は雪子を抱いてしまうだろう。雪子、早く帰れ、逃げろと叫ぶ、もうひとりの俺がいた。
雪子は不安そうに見ていたが、バッグを投げ出して秋月の胸に飛び込んだ。
「やっと終わった、結果待ちだ。こんなときに雪子を呼び出したのは僕の我儘だ、弱さだ。ここにおいで。僕にご褒美をくれないか、雪子と同じ夢を見たい」
雪子を抱いてベッドに降ろし、
「後悔はさせたくない。本当にいいのか?」
コートを剥ぎ、服を脱がせようとする秋月に、
「お願いです、このままではイヤです。走って来ました、いっぱい汗かいてます。きれいになりたいです」
最後は聞こえないほどの小さな声でバスルームに消えた。俺がこれから始めようとすることを恐れているのか、逃げ出したいのか、心が揺らいでいるのか……
「何も恥ずかしがることはない。一緒に浴びよう」
秋月は湯気の中で抱きしめた。
「僕の愛する人に本当になって欲しい、いいね」
「はい、もう怖くないです。決めました」
ふたりは濡れたまま縺れるようにベッドへ転がり込んだ。
雪子は瞼を閉じて、棺に横たわった人のように血の気がない顔で両足を固く閉じ、両腕で乳房を隠して震えていた。何百年も棺の中でひっそりと眠っている人のように見えた。もう怖くないと威勢のいいことを言いながら、こんなに怯えている女は初めてだった。秋月は濡れたままの髪を優しく撫でながら、
「何も怖がることはない、心配しないでいい。さっきは怖くないと言っただろう、僕を信じなさい」
くすっと雪子が笑った。医者の口調で諭した秋月を笑った。
ささやかに隆起したふたつの頂上にキスすると、雪子は驚いて体を反らし、眼を閉じた。体中にキスの雨を降らせると、陶器のような白く透き通った肌はやがて薄紅色に染まっていった。
「体の力を抜いて少し足を開いてごらん。そう、そうだ」
何度もささやいてキスした後、雪子の唇を塞いだまま自分の位置を確認して、上へ逃げようとする肩を押さえ込んだ。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡。
その瞬間に小さな悲鳴が漏れたが、雪子は身を硬くしたまま両頬に涙の跡を残して、静かに横たわっていた。ふたりは抱き合ったままで、時間は未来に届かずいつまでも現在を漂っていたように思えた。
「ああっ、痛い……」
雪子は喘いだ。秋月はその痛みに不安になり、もっと包きしめた。
「まだ痛いか? ごめん。悪かった。大丈夫か?」
「はい」
涙を溜めて笑った雪子の顔は痛みで引きつり、包まっているシーツを捲ると淡い紅色の染みが残っていた。初体験が必ずしも出血を伴うものではないという認識はあったが、十指に余る女を抱いた秋月でも出血を見たのは初めてだった。雪子は大学生だがまだ未成熟だ。青いまま摘み取ってしまったことを心の奥で密かに詫びた。
「ひどく痛いか? 薬を飲むか?」
「ううん、平気です。私のお医者様だった蒼一さんがいるから」
やがて抱かれたまま雪子は眠ってしまった。どうやら出血は止まったようだ。ほっとしたが、大事なことを確かめていない。ああ、いつも雪子の前では医者ではないなと痛感した。
もし、雪子に小さな命が宿ったらすぐに結婚しよう。雪子は俺を受け入れてくれた! 眠っている雪子を見つめて、今の俺は世界中のどの男よりも幸せだと思った。
夜明け前の薄闇の中で、雪子はベッドから抜け出て行った。秋月は眠りの狭間でその姿を追った。
カーテンを細く開いて外を眺めているその人は、朝霧の森に迷い込んだ精霊のようで、今にも消えてしまいそうに淡く儚い人に見えた。雪子を失いたくなかった。
「僕の傍に戻っておいで。もう一度いいかい?」
「えっ、はい……」
これ以上赤くなれないほど頰を染めて眼を閉じた。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。
話したいことは両手に抱えきれないほど持っているのに、なぜか雪子はぼーっとどこかを見つめていた。秋月は不安でたまらなかった。
「僕を見てくれ、もしかして後悔しているのか……」
その言葉を遮り、
「なぜでしょう、風が吹いています。体の中を風が吹き抜けて行きます。お願いです、支えてください。怖いです」
秋月に抱きついた。
雪子の繊細な感覚は、秋月が開いた穿孔から風が吹き渡っていると感じていた。その響きに耳を澄ませて怯えた。怯えているわけを知ってあまりにも愛おしく、怯えている雪子を優しく抱いて開かせた。
そして、♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。
その激しさに雪子は小さく痙攣したあと、腕の中で動かなくなった。やはり俺は医者失格だと後悔し、不規則な呼吸のまま眠ってしまった雪子を見つめた。
雪子は再び出血していた。どうやら膣壁を傷つけてしまったようだ。幼い子を犯してしまったようで恥じ入り、不安も痛みも超えた天女のような寝顔に謝った。
「ごめん。僕は無茶してしまった、悪かった。ものすごく嬉しかったからだよ。聞こえているか? 雪子、愛してる」
その言葉は雪子に届いたかどうかはわからない。
◆ ショックで雪子は発熱した。
12月27日、ふたりはフライトで戻った。
雪子はぼんやりしていて、機内食に手をつけなかった。秋月は膝に掛けた毛布の中でずっと手を握っていたが、雪子の瞳は何を見つめているのか、心はどこを彷徨っているのか、何かを拒絶するように時々頭を振り、何かを探していた。あの行為がショックだったのだろうか、男の秋月には雪子の痛みや不安、悔恨を到底理解できるはずがなかった。
話しかけると「ふぁい?」と応えるが、その顔がうっすらと赤みを帯びているのに気づき、額に手を当てたら熱があるようだ。どうしたのだろうか? 咳き込む様子はなかったが気管支炎になるとやっかいだ。早く手当てしたい。
「熱があるようだが、大丈夫か? このまま僕の病院へ直行する。お母さんには連絡するから心配するな。いいね」
「いえ、大丈夫です。我慢できます」
コイツがそんなことを言うときは通常レベルではないことを知っている秋月は、駐車場で留守番していた愛車に雪子を乗せて連れ帰った。
めざとく山川がふたりを見つけ、にっこり笑う雪子を見て、
「若先生、お疲れさまでした。お帰りなさい。雪子さんもご一緒だったんですね。あれっ! 熱があるのと違いますか?」
雪子の顔を覗き込み、
「内科部長の西尾先生をお呼びしましょうか」
「いや、いい。僕の部屋に寝かせておく。すまないが院内着を持って来てくれ」
山川は純白のバスローブガウンを持ってきたが、西尾も連れて来た。
熱は38.8度。危うい数字だ。さらに上昇する場合を考えて治療する必要がある。山川は大丈夫ですと言う雪子を手際よく脱がせ、院内着に着せ替えた。西尾が院内着の胸を開いたとき、秋月は小さく声を漏らして背を向けた。雪子を自分以外の医者に診せたくなかった。雪子は恥ずかしさのあまり眼を閉じて震えている。山川が西尾を連れて来た以上、任せるしかない。内科に関しては彼の診断が最も信用できることはわかっていた。
西尾は慎重に診察して、
「若先生、特に異常はありません。触診でも炎症はありません。採血しますが何も炎症反応が認められなかったら、ストレス性の発熱でしょう。私の息子は鹿児島の全寮制の高校ですが、こっちへ戻ると必ず発熱します。いろいろと悩みや心配があるのでしょう。それが一挙に出て来るようです。このような『ストレス性高体温症』は、ウイルス感染等によって生じた炎症とは異なり、発熱のメカニズムが違います。現状では解熱剤の投与はしません」
「ストレス? そんなものが雪子にあるわけがないだろう! 何を言うのだ!」
「若先生、落ち着いてください」
山川がとりなした。
「炎症がないので抗生物質は使いません。患者さんがよく眠れるように睡眠障害の薬剤を投与します。ストレス性の発熱では眠るのがいちばんです。これが効かない場合は若先生の判断にお任せします」
山川は取り乱した秋月に呆れ、西尾と去って行った。
ヤブ医者め、自分の息子と雪子を一緒にするな。あれで内科の部長か! 雪子は初めてのアレで驚いただけだ。ストレスなわけがないだろう! 秋月は不機嫌極まりない顔でそう思った。
山川が氷嚢と氷枕を持ってきた。
「血液検査で炎症はありませんでした。よほど雪子さんはお疲れだったのですね。若先生の顔を見たら疲れが一度に出たのでしょう。朝までに熱が下がらなかったら病室の手配をしましょうか、それまで看病してください。私はこれで仕事上がりです。それから、くれぐれもムカデにならないでください」
山川は冗談めかして、雪子をかまうなと言っていた。
雪子は起きているのか眠っているのか、現実と夢の世界を流離っていた。明け方、目覚めた雪子の瞳に覗き込んでいる秋月がいた。白衣のままで難しい顔をしていた。
「おはよう、気分はどうだ?」
「ふぁい、元気になりました。蒼一さんは眠らなかったのですか?」
「当然だ。僕のベッドは誰かさんに占領されている。どこに寝ろって言うのかい」
「ごめんなさい……」
どうやら熱は下がったようだ。西尾はまんざらヤブ医者ではなさそうだな。体温計は38.2度を示していた。
「おはようのキスをしよう。今日は静かにしていなきゃダメだ」
「えーっ、星野さんちへ行く約束があります。京子さんと会うんです」
「星野の姉さんか?」
「はい、そうです。京子さんが大好きなんです」
「ふーん、星野には僕が電話する。とにかく今日は絶対に外へは出さない。言うことを聞きなさい!」
秋月は、熱のあるなしに関わらず、やっと結ばれた雪子を離したくなかった、いきなりあんな局面に遭遇した雪子を心配した。
星野に電話した。
「星野、悪いが雪子は発熱して俺の傍にいる。今日は行けない。昨日は38.8度あったが、ようやく下がった」
「本当ですか? ユッコは昨日じゃなくて一昨日帰るはずだったんでしょう。なのに1日遅れて秋月さんと帰って来たと、おばさんから聞きました。また特別室に隠したのですか?」
「違う。主治医は俺ではない、内科の部長先生だ。明日には元気になるだろう。外に出せるのはそれからだ。お前の姉さんによろしく言ってくれ」
その話を聞かされた京子は、秋月め、どうもおかしいと怪しんだ。
山川が検温に来た。
「本当にありがとうございました。こんなに元気になりました!」
「あら、ホントね。よかったわ。38.0度か、ここまで下がればいいでしょう。病室をキャンセルしておきます」
「押えてくれたのか」
「そうです。1年前を思い出しましたから」
「これから僕は雪子と大事な話があるから、30分ほど遅れる。スタッフにそう言ってくれ」
「それではごゆっくり」
山川はイヤミを言って去った。
「僕が悪かった、許してくれ」
「????」
「あのことだ。自分勝手だった。悪かった、ごめん。初めての雪子をいたわることすら忘れていた。だが僕はとても幸せだった、ありがとう。あのことが心の傷になったら僕は辛い。怖いだけ、痛いだけだったかも知れないが、あれは恥ずかしいことではない。愛していれば当然のことだ。そのうちきっとわかる。わかって欲しい。
いいか、男と女は違う。男はどうしようもない欲望で苦しむときがある。それは熱せられたフライパンの上で焼き焦がされるように強烈なものだ。そして目の前に愛する人がいればなおさらだ。僕はずっと雪子を我慢していた。それはとても辛かった。やっと自分の道が見えたから雪子を抱いてしまった。雪子はまだ学生だと躊躇したが、それ以上に愛してしまった。どうしても雪子が欲しくてあんなことをした。そんな僕が嫌いか? 嫌いになったか?」
「いいえ、好きです。でも、やっぱり恥ずかしいです。何が何だかわかりません。そして……」
「そしてどうした? 話してごらん」
「若先生、いいですか、開けますよ」
話はこれからだというのになぜ邪魔しに来たのか! バカ野郎と山川を睨みつけると、
「雪子さんが発熱したと聞かれて、院長先生が差し入れしてくれました」
ロイヤルの包装紙に包まれたケーキの箱を抱えて入って来た。雪子は嬉しそうに、
「わー、ありがとうございます。お腹空きました。いただきます」
おい、さっきの話はどこへ行ったんだ、秋月は嘆いた。
夕方には平熱に戻った雪子を家に帰さなかった。診療の合間に部屋に戻っては雪子の様子を見た。ぼーっとして、秋月を見ると慌てて笑顔になるが何かを考えているようだ。
診療が終了したのが午後8時。秋月が部屋に戻ったら雪子はドイツの民話『Vergiss mein nicht!』を読んでいた。
「お疲れさまでした」
飛びついた雪子は涙ぐんでいた。その本は若き騎士のルドルフと恋人のベルダの悲しい恋物語で、別れの言葉が「Vergiss mein nicht!(=僕を忘れないでくれ!)」だ。どうも心が感じやすくなっている、そう思った。
「そんな本は読むな、悲しい話は忘れろ、一緒にシャワーを浴びよう」
「いやです! 恥ずかしいです」
「どうして? 恥ずかしくないと言っただろう。早くおいで」
手足をバタつかせる雪子を抱えて、シャワーを浴びせてベッドへ運んだ。
「恥ずかしがるな、怖くない。こんなに雪子を愛しているのに、なぜそんなに嫌がる。どうして逃げる? 約束する、痛くしない。僕を信じてくれ。だからそんなに緊張しないでくれ。力を抜いてごらん。そうだ、そのまま」
白く輝く肌が桜色に変わり始めたとき、雪子は気持ちが吹っ切れたように秋月にすがりついた。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。
雪子は眼を閉じて穏やかな表情をしていた。気が遠くなるほど永い時間、繋がったままふたりは抱きあっていた。すっぽりと幸せに包まれていつの間にか秋月は眠ってしまった。
◆ 星野京子から教えを受けた。
12月30日(水)、雪子は星野産婦人科を訪れた。
「秋月さんから聞いたが熱を出したんだって、もういいのか? 姉ちゃんはユッコの旨い肴を食いたいと張り切って、もう飲んでいる。早く上がれよ、何か作ってくれないか」
「はい、蒼一さんには内緒にしてくれますか」
「どうしてだ? よそでは料理するなと言われたのか、自分のためだけにしろってか、そう言われたんだろう? 秋月さんが言いそうなセリフだ」
雪子は笑っていたが、星野は福岡空港で思わず見とれたディープキスを思い出した。
「姉ちゃん、ユッコがやっと来た」
「ほう、元気になったか、私はこれでも内科医だから外科医の秋月より信用できる。心配事があったら何でも聞いてやるよ。まずは1杯だ。涼、じゃんじゃんビールや酒を持って来な!」
「こんにちは。私、何か作ってきます。冷蔵庫を開けていいですか。ちょっと待ってください」
「勝手にどこでも開けろ、そこに積んであるお歳暮で使えるものがあったら何でも使え」
まもなく、お歳暮の荒巻鮭を使った餃子、鮭のチーズから揚げ、こんがり焼きあがったジャーマンポテトグラタン、白菜と豚肉のロール巻きを持ってきた。
いい匂いにつられて院長夫妻が顔を出し、初対面の院長夫人の友恵が人懐っこい表情で、
「雪子さん、この前の『冷やし粥』はすごく美味しかったわ。暑い夏の朝ごはんであんなに喉に通りがいい物を食べたのは初めてよ。大学では涼の面倒も見てくれてありがとうね」
「とんでもない、星野さんはいつも私を助けてくれます。お兄ちゃんになってくれて、嫌な男の人をやっつけてくれます。お礼を言うのは私です」
ふと秋月の家庭を思い出し、雪子は星野の家族が羨ましく思えた。蒼一さんのご両親は健在だが温かな家庭という気はしない。だから星野家で料理をさせたくなかったのか、乱暴に唇を塞いだ秋月の怒った顔と気持ちがやっとわかった。
食事が終わって両親が引き上げたとき京子が、
「アンタ痩せたか? それ以上痩せると免疫力が低下して病気に罹りやすくなる、40キロはキープしな。そして、秋月なんかとは別れた方がいい、あんなやつと付き合っていたら振り回されて病気になるのがオチだ。何か私に話がある顔をしてるが、どうだ?」
「あの、教えて欲しいことがあります。星野さんに席を外して欲しいのですが」
「何だ? なんの話だかわからないが、涼、オマエはどっか行け、女同士で話があるらしい」
「はい、はい、消えればいいんでしょ。終わったら呼んでくださいよ」
星野はひょうげて自分の部屋に戻った。
「雪子が教えて欲しいことって何だ?」
「思い切って言います。教えてください、妊娠のことです」
京子が息を呑み込むほどの真剣さだった。ことさら冗談めかして京子は、
「おお、ついに秋月と進展したのか、それでどうした? 雪子は妊娠したのか? 月経が止まったのか?」
雪子は頭を振って、
「いいえ、そうではありません。生理と妊娠について知りたいのです。保健の授業で習っただけで私の知識はあやふやです。本当のことを知りたいのです。お願いします、教えてください」
京子は呆れてしまった。雪子には秋月という物騒なパートナーがいる。あんな遊び人にかかったら雪子なんてあっと言う間に弄ばれるだろう。京子は排卵から着床までの経緯をチャートに描いて説明した。
「ということはこのゾーンは危険で、こっちは安全なのでしょうか?」
「そういうことではなくて、女にとっていちばん大事なこと、それは男がエチケットを守るかどうかってことだ。いいか、月経なんて毎回1日の狂いもなく訪れるものではない。風邪引いた、熱が出た、腹を壊したで、1週間や10日も崩れることがある。それを考えて男がエチケットを守るかどうかの話だ。アンタの恋人の秋月なんて生まれついての殿様だから、まずエチケット違反でやらかすだろう」
「あのー、エチケットって何でしょうか?」
「アンタそんなことも知らないのか、持って来るから待ってな」
京子は言い残して小さな包みを持ってきた。それはコンドームだった。
「これはなんでしょう?」
眼を丸くして不思議がっている雪子に、パッケージを破って息を吹き込んだ。雪子は細長い風船だと思っただけで、まったく実感はなかった。ちょうどそのとき星野が、
「女同士のくだらない密談は終わったか? オレは腹が減った、ユッコ、何か作ってくれよ」
「涼、ふざけんな! オマエの嫁でもないのに気安くほざくな。今大事なところだ。そうそう、これで見本を示せ、雪子に見せろ。こいつは鈍いからそうでもしないとまったく理解できないバカな女だ!」
先程のコンドームを渡そうとした。
「じょ、冗談でしょ。何でオレが!」
星野は股間を押さえて逃げて行った。
「よく聞け、雪子。これを用意しないで欲望と暴力で女を押さえつけようとする男は、絶対に信用してはいけない。男の本性がいちばんわかるのがこういう場面だ。頭に入れとけ! 愛してるとかグチャグチャ言われても信じるな! こんなとき男は平気で嘘をつく。秋月は女への配慮なんてこれっぽっちも持たない男だ。それにあいつは家庭を欲しがっていると涼から聞いた。危険過ぎる。
アンタが秋月と何をしようと勝手だが、望まぬ妊娠だけは避けろ。産んでくれと言われたらどうするんだ? 家庭を欲しがっている秋月は危ない! 雪子が好きだから説教しただけだ」
秋月の気持ちに負けて契ってしまった雪子は、心細さと自分の弱さに涙ぐんだ。
「泣くな、泣くと男の思うつぼだ。笑え!」
秋月とほとんど同じことを最後に京子は言った。何かあったなと京子は思った。
◆ 昭和46年1月1日、静かな元旦を迎えたが。
昨年は病室で過ごした正月だったが、今年は電話1本ない静かな元旦を迎えた。
母は振袖姿の雪子と住吉神社に参拝し、お櫛田さんまで足を伸ばした。お櫛田さんとは櫛田神社のことで、博多どんたくはこの神社からスタートする。博多祇園山笠の飾り山がいつも展示されている、博多っ子の守り神だ。川端商店街にある『川端ぜんざい』で、母と娘は水入らずの元日を楽しんだ。
受験間近の1月、秋月はどこにでも雪子を連れて行った。お櫛田さんで合格祈願し、そこで食べた焼きとうもろこしが美味しかった。どこに行っても秋月を思い出した。あんなことがあったからだろうか?
関係を持ってもそれを特別なことだと考えるな、京子はそう言った。男は初めての女を簡単に忘れるのに、なぜ女は初めての男を忘れないのか? それは真実ではなく、そう思い込まされているだけだと言った。男から束縛されるなとも言った。そして、秋月は京子が断言したとおりのエチケット違反だった。エチケット違反の男は信用してはいけないと京子は釘を刺した。
蒼一さんは好きだ、大好きだ。愛していると思う。でも本当に愛しているのかわからない、考えてもわからない。流されて行く自分が怖かった。秋月の幸せな顔を見ると恥ずかしさも痛みも忘れられる。それだけで流されていいのか、それが愛しているということか、私は一体どうしたのか。誰にも言えない秘密を抱え込み、悩んでいた。
真夜中、ベルが鳴った。
「蒼一さん?」
「悪い、こんな時間に。事態は最悪だ!」
「どうしたのです?」
雪子は不安になったがこれは法人化などの公的なことではなくて、ご両親のことだと思った。元旦に金融機関の決裁部門が動いているとは考えられなかった。
「明日の朝、迎えに行くから一緒に行ってくれないか。父が大晦日に家を出てしまい、昨日は修羅場だった。電話も出来なかったが、雪子がいなくて良かったと思ったくらいだ。こんなところを見せたくなかった。明日は父さんの家に行く。僕ひとりでは相手の人に何を言い出すか自信がない。何もわからない5歳の弟を虐めたくはない」
「はい、わかりました。蒼一さん、もう眠ってください」
翌日の1月2日、2000GTは雪子を迎えに来た。
「どこへ行くのですか?」
「六本松だ。六本松の電停から少し入ったところにあるアパートらしい」
アパートは軍艦のように大きかったが、木造モルタル2階建てのどこにでもある普通のアパートだった。ドアの外まで子供の声が聞こえる。ブザーを押すのもはばかる思いがした。
「パパ、誰か来たよ!」
男の子の声が聞こえ、ふたりは顔を見合わせた。ドアが開かれ、セーター姿の院長が病院で見せる顔とまったく違う表情で立っていた。白々しい挨拶の後、ふたりは室内に案内された。愛人はさぞかし妖艶な人だろうと想像していたが、雪子の眼から見ると普通のおばさんだった。秋月の訪問でかなり緊張しているようだ。秋月は雪子に目配せした。大人の話を坊やには聞かせたくないので、雪子は近くの公園に遊びに連れて行った。
「僕はトオル。お姉ちゃんは?」
「私はユキコ。トオルくん、一緒に遊んでくれるかな?」
「うん、あそぼ!」
滑り台やブランコで遊び、砂場でトンネルや迷路を作った。無邪気にトンネルを作っているトオルを見ていると、切なくて雪子は涙ぐんでいた。
「お姉ちゃんどうしたの? いじめられたの? ボクがやっつけてやるから、いじめたヤツを教えてよ」
トオルは心配顔で尋ねた。
「ううん、お姉ちゃんは泣き虫なだけなの。心配しないでね」
「ふーん、ママも泣き虫なんだよ。あっ、パパだぁ!」
院長と秋月が迎えに来た。
「おじちゃんだな、お姉ちゃんをいじめたのは。いじめちゃダメだよ!」
秋月は苦笑いして、ガキの眼には俺はおじさんに見えるのかと気落ちした。
「もういじめないよ。約束する」
「お姉ちゃん、大丈夫だよ。おじちゃんはいじめないってさ」
あまりの可愛さに雪子はトオルを抱きしめた。
「泣くなよ。ボクが守ってやるからさ」
「蒼一、何とかしろよ。雪子さんはあんなに泣いているじゃないか。何があったんだ? 泣かせるようなことをしたのか?」
秋月は赤くなって頷いた。
5人でカレーライスを食べた。ごく普通の家庭の味がした。院長はパパになりきってトオルとはしゃぎ回り、秋月はあんな父さんは見たことがないと羨ましく思った。どのような話し合いがあったのか雪子は知らされなかったが、トオルを抱きしめた感触が忘れられなかった。別れ際に、
「蒼一、そのネクタイは雪子さんだろう。うまくやれ、応援するぞ」
院長は幼い息子と大人の息子を見比べた。
◆ 雪子の質問に秋月は窮した。
「弟というにはあまりにも幼すぎて実感はわかないが、あの子が父さんの愛情を独り占めしていることだけはよくわかった。僕には厳しい父親だった、母もそうだった。いいなあ、あんな親子は。父さんはあのアパートから病院に通うらしい」
「私の父は優しいけれど厳しかったです。漢詩の素読はいつも泣いていました」
「僕はいつも反抗しようとしたが出来なかった、情けない子だった。満点の答案しか持って帰れない家だった。運動会も1番じゃないと怒られた、まるで飼い猫だ」
「私は自分の世界に閉じこもりました。本の世界です。そのとき読んだ本が私を創っています。淋しかったです。蒼一さんも淋しかったのですか?」
「そうだ。僕も心を閉ざした。そしてやっと雪子に会えた。だから雪子を離したくない、わかってくれるか。同じ独りっ子で育った同士だ。寄り添えばもう淋しくなんてない。そうだろう?」
「はい、でも教えてくれますか。なぜ人はあんなことをするのでしょうか?」
「あんなことって? ああ、あのことか」
あーあ、コイツが考え込んでいたのはそれか。どう答えたらいいのだろうか。この前、男の性衝動について説明したじゃないか。愛し合っていれば当然の行為だと教えた。あれでは理解できなかったのか…… 何と面倒なやつなんだ。そんなことで悩む必要はないと諭しても聞き入れないだろう。雪子を納得させる答えがこの地球上にあるとしたら、それは理屈ではない。秋月は答えに窮した。
「蒼一さんでも答えられないことがあるのですね。よかったぁ! 雲の上の人だと思ってた」
「失望したかい?」
「いいえ」
「この質問はふたりで解いていくしかない質問だ。そうしようね」
「もうひとつ、どうしてもわからないことがあります。恥ずかしくて人には訊けません」
まだあるのか、何を言い出すのかと不安になった。
「どうしてもわかりません。なぜ蒼一さんが私の中に入ることが出来るのでしょうか。そんな入り口はありません。なぜでしょうか」
吹き出しそうになったが、真面目に訊いてくる雪子に真実を教えるかどうするか、一瞬考えた。そのうちわかるだろうと。
「それはね、僕が雪子をとても愛しているから、その心が雪子の体に伝わって、扉が開かれる。わかったかい、僕は医者だからそういう医学的な質問にウソはつけない」
「そうなんですか、人間って不思議ですよね。お腹の中の赤ちゃんがお母さんの喜びや不安がわかるというのと同じなんですね」
あっさりとウソの回答を信じてしまった。おい、雪子の頭はどうなっている? コイツは賢いのかバカなのか、さっぱりわからない不思議な子だ。翻弄されているのは俺だ。とりあえず、今日のところはわかってくれたようだ。内心、ほっとした。
「今日はお疲れさんだった。何でもご馳走するよ。何がいい?」
「うーん、トオルくんと会ったから胸がいっぱいで、カレーも食べたし、でも、何でもいいですか?」
「うん、何でもいいよ、言ってごらん」
「フルーツパフェかチョコレートパフェです」
秋月が最も苦手とするものだった。
車は西鉄グランドホテルの地下駐車場に滑り込んだ。
ホテルのパーラーで、雪子は左にフルーツパフェ、右にチョコレートパフェを抱え込み、秋月に口を開けさせて無理やり食べさせていた。甘い、甘すぎると文句をつけながら楽しそうで幸せそうに見えた。
そんなふたりを支配人は眺めていた。若先生はプロポーズしたが、東京の大学へ逃げられたという噂を聞き込んだ。お連れの方を若奥様と見誤ったほどにお似合いで、この前は人前で堂々と抱き包んでいた。若先生、どうぞお幸せにと微笑んだ。
◆ ふたりは誓いの茶に招かれた。
1月4日(月)、愛宕山の麓にある秀明斎の庵にふたりは招かれた。初釜だと聞いていたが客はふたりだけだった。雪子は淡い青磁色で染められた桜が舞い乱れている訪問着姿で現れた。秋月はこの着物に見覚えがあった。雪子が若奥様と間違えられたときのものだ。あのときコイツはまだ高校生だった。
秀明斎は濃茶を点て、
「これをおふたりの誓いの茶といたしましょう」
ふたりは顔を見合わせたが、秋月は静かに一礼して居ずまいを正した。右手で茶碗を取り左の掌であしらい、次に古帛紗を右手で取って左手に持ち替え、茶碗の左下に置いて、お先にと一礼した。雪子は微笑んだ。秋月は茶をすすり、雪子に茶碗を回して、送り礼をした。雪子が茶をいただいて誓いの茶は終了した。
「いつの間にこんなに上達されたのですか?」
「雪子に笑われないように秀明斎先生から教わった。どうだ、たいしたもんだろう?」
「はい、びっくりしました」
茶事だけの簡素な初釜だったが、久しぶりに顔を合わせた3人は積もる話に花が咲いた。雪子は9月の初めに東京に行って以来で、秀明斎の柔和な顔を見ると懐かしさと嬉しさでじんわりと頬が濡れてきた。
「高嶋先生はお元気ですか」
「はい、とってもお元気でいらっしゃいます。だから私は毎日叱られています。友達に星野さんという人がいますが、お姉さんが日大板橋病院の女医さんで、高嶋先生の主治医になってくださり、とにかく歩きなさいと散歩を推奨されました。それで毎朝、散歩なさってます」
「そうですか。高嶋先生は雪子さんのお陰で若い方と知り合えて、いいですねえ」
秀明斎はいっそう優しい眼で雪子を見つめた。
「秀明斎先生がおっしゃっていた雪見障子に映る紅葉は、とても綺麗でした。昼間の陽光に輝く紅葉も素敵ですが、空気が澄み渡った真夜中に月明かりに照らされて揺れ動く紅葉の影…… 言葉もなく見とれてしまいました。もの哀しく、忘れられない情景でした」
緩やかに時間は3人を包んで行った。
◆ 茶事はじめの茶席の前に……
1月6日(水)、秋月病院の茶道教室の稽古始めだ。秋月はこう告げた。
「今日は稽古初めだから3時から始まるそうだ。迎えに行くからそのつもりで」
雪子は身を清めて身支度を始めた。髪を結い上げて、稽古初めだからと特別に珊瑚の玉かんざしを飾り、濃紺地に雪輪を散らした訪問着で車を待った。
「お待ちどうさま、半東さんどうぞ。それにしても雪子の着物姿はいつ見ても素敵だ。僕はわくわくしている」
秋月は上機嫌で雪子を車に招き入れた。
「えっ、どこへ行くのですか? 道が違います」
「今日はね、少し寄り道をしようと思っている」
「でも遅れませんか、私が遅刻したら秀明斎先生にご迷惑をおかけます。器の用意もあります」
「そう心配するな、初稽古は6時からだ。遅刻することはない」
「えーっ、騙したのですか、どこへ道草するのです?」
車を老舗割烹『一柳』に乗り入れた。
女将は秋月と着物姿の雪子を見て、
「ようこそいらっしゃいませ。まあ、お着物がよくお似合いでございますね。着付けはご自分で?」
「こんにちは。はい、振袖や留袖は無理ですが、訪問着までは自分で着れます」
「雪子は茶道の先生の内弟子みたいなもので、しょっちゅう着物を着ている。どうだ綺麗だろう。馬子にも衣装だ」
女将は雪子を自慢する秋月を微笑ましく眺めていたが、もしもの場合に着付けの手伝いが必要かどうかを確認したかった。雪子と会ったのは昨年の夏以来で、目の前の雪子が別人のように艶やかな女性になったことに驚いた。
「今日は軽い食事でいい。あとで茶席に出る」
「はい、承知いたしました。お酒はいかがいたしましょう」
「僕は車だ。そうだ雪子は何か飲みなさい。もう大人だから酒を飲んでもいいんだよ」
「いいえ、私はすぐ酔っ払っちゃいます。ダメです」
「それでは酔わないお酒を少々お持ちしましょう」
「うん、そうしてくれ」
若先生の希望に添ってあげよう、女将はそう考えたら楽しくなった。秋月を見ていると何を想像して頭と胸がいっぱいなのかがよくわかる。正直な人だとおかしくなった。
運ばれて来た料理は雪景色を表現した懐石料理だった。彩りやあしらいに心が込められた料理に雪子は感動していた。
しばらくして、昆布とするめが添えられた「床盃」と推測されるものを女将が持って来て、無言で立ち去った。これはひょっとして契りのための酒か? 秋月はそう気づいた。三宝に土器の盃が2皿載せられて酒が満たされている。秋月は大きい盃を手に取ったが、これは水だとわかった。
「乾杯しよう、その盃を持って」
「はい、これはお屠蘇なんでしょうか」
雪子は何も疑わずに乾杯して、一口で飲み干した。
「これでしょうか、酔わないお酒って。甘くてとっても美味しいです」
たちまちほんのりと上瞼が紅色に染まってしまった。
女将が雪子の酒に媚薬を入れたに違いないと思った。
「雪子、ここにおいで!」
秋月は隣室との襖を開けた。敷き延べられた褥の上に2つの枕が並んでいるのを見て、雪子は後ずさりした。
「蒼一さん……」
「そうじゃない、女将が気を利しただけだ。僕が頼んだわけではない。嫌なら何もしない。どうする?」
ほんのりと紅色に染まったまま、雪子は考えていた。
「私はもうじき東京に行きます、蒼一さんと別れます。それで……」
「それで?」
「だから……」
「だから? 僕にどうしろと?」
雪子は秋月の胸に取りすがった。
「抱いてください」
女の着物を脱がすのは初めてのことで未知の世界だった。やはり最初はこれだろうと思って帯〆と帯上げを解いたら、帯が解けた。何本もの紐を使ってなぜこんなに縛らなければならないのか不機嫌になった。緋文字(ひもんじ=腰巻)姿の雪子は眼を閉じて秋月の服を脱がせようとした。なぜ眼を閉じている? 不思議に思ったが秋月は嬉しくなった。ふたりは手をつないで褥に横たわった。
「少しこのまま話していいでしょうか。初めて蒼一さんと会ったときを思い出しました。考える時間をくれますかと言ったら、怖い顔で睨まれました」
「そうだったかも知れない。あのときはガキのくせに生意気な、僕が教えてやろうと言ってるのに、考えさせてくれとは何というやつだと思った」
「あれから2年半です」
「雪子は大人になった、今は僕の愛する人だ。いつまでもこうしていると風邪を引く。雪子、愛している、雪子を早く抱きたい!」
雪子はほんのりした眼で頷いた。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。
媚薬のせいか、しばらく会えないからか、雪子は秋月の胸にすがって切なく喘ぎ、初めて声をあげた。こんなに幸せでいいのだろうか、秋月は不安に襲われた。だが、抱かれたあとの雪子は空蝉のように儚く、その心はどこにあるのか、体から離れてしまったのか、手が届かない時空を浮遊していた。
長襦袢を肩にかけ、髪をほどき梳かして結い上げる雪子を、秋月は余韻を忘れられずに褥の中で腹ばいのまま眺めていた。きれいに結い上げられた髪と長襦袢の下に潜む白磁のような体も壊してしまいたい衝動にかられ、再び褥に引きずり込んだ。
「ダメです。ダメ、あぁ…… 髪が崩れてしまう」
うなじを見せて抜け出そうとする雪子を後ろから抱きしめ、
「どこへも行っちゃダメだ! イヤだ! 許さない」
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。
隠されていた埋み火に火が戻り、雪子はたちまち燃え上がってしまった。秋月は泣きながら耐えている雪子を組み敷き、なぜ雪子がこんなに欲しいのか自分の心を探ったが、理由はわからなかった。朧げに思ったのは、雪子には初めての男でも俺には最後の愛しい女だと。
再び、雪子は髪を結い直した。長襦袢と訪問着の背の中心を合わせ、ずれないようにヘアピンで挟み、着物を着始めた。博多献上の伊達巻で着物を締め上げ、帯板を挟んで帯を巻き、帯〆と帯上げを結んだ。どこから見ても一分の隙もない、茶席に出掛ける訪問着姿の雪子が出来上がった。秋月は褥に寝転んだまま雪子をぼんやりと眺めていた。
さっきまで俺の腕の中で呻いた雪子はどこに行ったんだ? あんなにすすり泣いたじゃないか、俺を残してどこへ行く? 抱かれた記憶を封印して、何もなかったように見事に着物を着てしまった雪子を怨んだ。あれは何だったのか? 幻か? 秋月は独りぼっちになった気がした。
「おいでよ、お願いだ。僕を置いて行かないでくれ」
雪子は秋月の額をパチンと叩き、
「何を甘えているんですか、しばらく離れてもしっかり出来るように心を決めたのです。邪魔しないでください。辛いのは私です、わかってください」
まだ子供だと思っていた雪子からそう言われた秋月は、黙ってしまった。
「早く服を着てください」
ぼんやりして動こうとしない秋月に服を着せながら、ふーっと息を吐いた雪子の膝が崩れた。
「どうした!」
うずくまって雪子は泣いていた。肩を震わせ、秋月を拒み、独りで泣いていた。
その拒絶に秋月はどうしても入ることが出来なかった。しばらくして、
「ダメだ! ダメだ、しっかりしなくっちゃ。男の前では眠ってはいけない、泣いてもいけない」
ふと、その呟きが止まった。
「私には好きな人がいます」
にっこりと笑って秋月を見た。
ああ、秋月は愛おしくて、切なくて、淋しくて、何が何だかわからなくなり、雪子を抱き寄せて大人のキスをした。雪子は冬眠中のリスのように眼を閉じて動かなかった。
「ごちそうさまでした」
雪子は涙が残った顔で俯いたまま車に消えた。
女将は目を見張った。髪も着物もまったく乱れていない。若先生は今日も? そんなはずはない。髪を結い、着物は着直したに違いない。何よりあの涙の跡がそれを物語っている。だが、秋月はなぜか沈んでいた。
「若先生どうなさったのですか?」
「いや何でもない。抱かれても結局は東京へ逃げてしまう。何度抱いても消えてしまう子だ」
「若先生、逃げられないようにしっかり捕まえてくださいな」
「ところで女将、雪子の酒に媚薬を盛っただろう?」
「何をおっしゃいます。はあ、少しはね」
「それは不問に伏すが、女は初めての男を忘れられないものか?」
「いきなり何ですか? そんなことは若先生がいちばんご存知でしょう。散々追いかけられたのと違いますか」
「いや、あれは欲得ずくの話だ。雪子は違う、そんな女ではない。俺は雪子に忘れられたくない」
「えっ、何とおっしゃいました? それは女によりけりですよ。雪子さんは若先生を忘れないでしょうが、辛くても身を引く人です。雪子さんに涙の跡を見ましたよ。虐めちゃダメですよ、嫌われますよ!」
新年初の茶席、昼下がりの情事は霧消していた。
茶道教室は盛況だった。蒼一チーム全員が顔を揃え、
「以前、雪子さんから叱られましたが、このとおり少しはサマになりました」
宮本がそう言ったら、どっとみんなが笑った。そういえば、全員が背筋を伸ばして和気藹々で茶を楽しんでいた。秀明斎先生の茶道は少しづつ皆さんの心に命の水を与えてくださるのか、雪子は思った。
「早く大学を卒業してくださいよ。4年を3年で卒業できないのですか? 飛び級とかは早稲田にないのですか。我々は雪子さんの卒業を待っています。若先生の癇癪はなくなるし、みんながハッピーになれますから」
「なるべく若先生の近くにいてくださいよ。僕らはチューなんてちっとも気にしてませんから、盛大にやってください」
爆笑の渦だった。雪子は頰を染めながら、替茶碗の用意や水差しや炭火に気を配り、昼下がりに抱かれたことを隠して、心は静やかにと言い聞かせた。
最後に院長と秋月が訪れた。雪子は面を変えずに秀明斎の半東に徹した。院長は肩の荷を降ろしたのか、いつになく饒舌で世間話から研修医時代までジョークを交えてしゃべり続け、自分で笑って納得していた。
秋月と雪子は向かい合った。
「雪子さん、若先生に差し上げなさい」
「はい、かしこまりました」
雪子は茶を点て、秋月の前に置いた。雪子の両手を包んで、
「冷たい手だなあ」
そんな秋月を瞬きもせず雪子は見つめていた。
コイツはさっきまで、俺に抱かれて暴れていたじゃないか。眼の前の雪子を心の中でなじった。未練がましく着物の下に隠された体と乱れた姿を脳裏に描いていた。
◆ 秋月は仕事に専心すると宣言した。
雪子は呉服店から紹巴織の名物裂を分けてもらい、蒼一チーム全員の古帛紗を縫った。古帛紗とは、濃茶を出すときに茶碗に添えて使う、約15センチ四方の布である。出来上がった古帛紗を携えてスタッフルームを訪れた。声をかけてドアを開けたが、折悪しくミーティング中で、
「何の用だ?」
振り向いた秋月は凍りついた声で雪子に言った。
「失礼しました。すみません」
あの人はもうすぐ東京へ戻るんだろう、優しい言葉のひとつもかけてやればいいものを。いつものチューもなく、追い返すなんて、あれじゃ可哀想じゃないかとスタッフは思った。山川が、
「若先生はご機嫌ナナメなの。部屋で待ってましょうね」
雪子の手を取り、秋月の部屋へ連れて行った。ドアの前で雪子は立ち止まり、山川に抱きついて泣き崩れた。
「どうしたの、何かあったの?」
ははーん、何かあったなと山川は思った。あのバカ先生は何を気取っているのだ。東京に戻るのが心細くて泣いているというのに、まったく女心をわかってない、涙を拭いてやった。
そのとき、先程とは別人のように優しい表情の秋月が戻って来た。
「山川くん、雪子と話がある。しばらく入室禁止だ」
雪子の肩を抱き部屋に入っていった。
何? あんなにカッコつけて、あのバカ! 山川は怒った。
「明日、東京へ行くんだって? そうだね」
雪子は大きく眼を見開き、
「そうです。蒼一さんは私を嫌いになったのですか?」
福岡と東京に離れるとき、必ずコイツは泣きながら駄々をこねる。答えはわかっているくせに訊いてくる。まだ子供だ、きっと心細いのだろう。たまらなく可愛くて、抱きしめたい、そう思った。
「そんなことはない、大好きだ。もう泣かないで東京に行きなさい。そしてしっかり勉強しなさい」
雪子は頭を振ってイヤイヤした。
秋月はネクタイを外して、雪子の目線に合わせるように少し屈んで、
「これから言うことをよく聞いて欲しい。とても気がかりなことだ、大丈夫だったのか?」
「???」
「何度も抱いてしまったが、安全な日だったか心配なんだ」
「えっ、安全って、それは、その……」
「わからないのか?」
「あんなことが私にあるって、あるとしても先のことだと思っていて、ごめんなさい」
雪子は本当に小さくなって謝った。
「そうか、想定外だったのか。もし雪子がママになっていたら僕はすぐにパパになる。とても嬉しい話だ。こういう心配は僕の配慮が足りなかったせいだが、雪子を愛し過ぎたからだ、許してくれ。僕はこの瞬間でも雪子をさらって逃げ出したいのが本心だ。だが、そんな無責任なことは出来ない。4月にこの病院は新しく生まれ変わって、僕一人が責任を負うことはなくなる。それまでは僕が支えなくてはならない。
雪子に会えば溺れたくなってしまう。雪子は可愛かった、僕の腕の中ですすり泣いていた。今だって僕の心と体は疼いている。だからさっきは冷たくした。だが、雪子が心を決めたように僕も仕事だけを考える。わかってくれるね」
雪子の腹を撫でて、
「早く顔が見たい、楽しみだ。そうだ、そこのネクタイ、雪子がくれたやつ、早く結んでくれ。仕事に戻る」
「こうでしょうか?」
何度やっても雪子は結べなかった。何だ、コイツは? あんなに複雑な帯は結べるくせに、ネクタイ1本結べない雪子に、まったく男を知らないやつだと秋月はほくそ笑んだ。
雪子を抱き上げたままスタッフルームに入り、スタッフの前でキスをして、
「みんなに雪子からプレゼントがあるそうだ」
スタッフは驚き、そして爆笑して拍手した。
雪子が帰った後、秋月は山川に、
「明日は東京へ行ってしまう、絶対に送って行く。明日の予定はどうなっている? その時間を空けてくれ、午後4時のフライトだ。絶対に空けてくれ。それだけだ」
唐突な要求に、あのバカ! いい加減にしろ! 山川は呆れ返った。
1月9日(土)午後3時過ぎ、どの便も満席でロビーは見送る人、出迎える人で混雑していた。
「そのバッグにこっそり忍び込んで東京に行きたいが、そんな小さなバッグでは無理だな」
「首だけだったら入ります」
「首だけでは雪子を抱けないが、いいのか?」
雪子はポーッと襟足まで薄紅色に染めてしまった。コイツはだんだんわかってきたな、秋月はいじらしくなった。
「首だけでもいいです。チョコパフェをたくさん食べさせます」
そうか、そんな屁理屈で来たか、そんな雪子が可愛くてどうしようもなかった。抱きしめようとすると、雪子は立ち上がってキョロキョロと辺りを見回した。
「人がいます。恥ずかしいです、この前は星野さんに見られました」
「星野がいた? 同じフライトだったのか。今日はいないようだ、安心しろ」
立ち上がり、逃げようとする雪子を抱きしめて、
「忘れるな! 2カ月分だ」
永すぎるキスに体が痺れ、雪子は腕の中に砕け落ちてしまった。そんな雪子をいつまでも離さなかった。周囲は驚いて見ていたが秋月はまったく気にしなかった。どこへも行くな!




