13章 個人病院から医療法人へ
◆ これからは『オペの神様』なんていらない。
静かな空間で食事したいと思い、『一柳』に電話した。
「秋月だ、これから行くが隣室のアレだけは絶対に片付けておけ! 1年前は意味がわからず、綺麗な布団だと感心していたが、今回はダメだ。見つかったらアウトだ。わかってくれ! そして何かとびきり旨いものを雪子に食わせてくれ」
「はいはい、若先生もだらしないお人になられましたこと、わかりましたよ」、女将は呆れた。
「この前のお礼だ」
「ふぁい? 何でしょう」
「高嶋先生の屋敷で食べたやつだ。実に旨かった。そのご褒美だ、たくさん食べてくれ。とびきり旨いものを出してくれと頼んだから、何が出てくるか楽しみだ」
「えっホントですか!」 雪子はにっこり笑って期待した。
料理長が運んできた料理は、先付けはモズクの冷やしとろろ寄せ、翡翠梅氷砕盛り、八寸には若鮎と夏芋、向付は伊勢海老の花造りに加茂茄子の吉野煮、焼物は琵琶湖産鮎塩焼き、蒸し物は岩牡蠣、揚げ物は山女と太刀魚、鯵と大葉の彩り揚げ、酢の物だった。
「うあっ、すごい!」と歓声を上げ、刃先で化粧土が規則的に削られた薄茶色の器をまじまじと眺めて、
「これは小石原焼ですか? 『白樺』の柳宗悦先生が賞賛された子鹿田焼のルーツが小石原焼だと聞きましたが、本当でしょうか?」
「そうです、お客様はよくご存ですね。小石原焼は子鹿田焼と同じように日常使いの器で、その温かみが料理を引き立てます。用の美の極致だと有名になりましたが、大量生産ではありません。今も山里で焼かれています」
若い客から小石原焼のことを訊かれて、料理長は驚いた。
「若先生、器に詳しい雪子さんを夏休み限定で若女将にお願いしましょうかねえ。さぞかし人気者になられることでしょう。雪子さんどうでしょうか?」
「ふぁい?」
「とんでもない、断じて断る、許さない! 雪子は塾で講師をする。女将、用はないからあっちへ行ってくれ!」
「そんなに怖い顔なさらなくても、冗談です。退散いたしますよ」
「さあ、邪魔者はいなくなった。ここに連れて来たのは話があったからだ、よく聞いて欲しい。いつか僕は秋月病院を法人にしたいと言ったことがあるが、憶えているか?」
「はい」
「ふぁいと言わないところをみると憶えているようだね。僕は個人経営の病院から医療法人にしたいと考えている。父は反対するかも知れない。それは、法人にすると父や僕は病院から給料をもらうようになり、今よりも可処分所得が減るからだ。しかし、経営はガラス張りになり、スタッフは全員社会保障制度の対象になって生活が安定する。もともと医療従事者はリスクが高い、社会保障は絶対に必要だ。
そして将来大きな投資が必要になった場合は、今のように父や僕が金融機関から個人的に借り入れるのではなく、病院全体が借入金を背負うことになる。そしてみんなで返していくんだ。簡単に言えば、医療と経営を切り離し、経営はプロに任せるということだ。そうすればスタッフやその家族が路頭に迷うことが少ない。加えて、法人のほうが優秀な医者やスタッフに来てもらえる」
眼をパチクリさせて静かに聴いていた雪子は、
「それで蒼一さんはどうなるのですか?」
「そうだな、僕かぁ、僕に能力がなければクビかな? そうなったら雪子のとこへ転がり込むか……」
「えっ、それってどういうことですか?」
「はははっ、雪子に働いてもらって僕は髪結いの亭主気取りでラクしようかな? どうだ、いい話だろう?」
雪子はウーンと口をへの字に曲げて考え、
「大丈夫です! 私は教師になって働きます。お茶も精進して先生の代稽古が務まるように頑張ります。任せてください!」
あっけなく英断した雪子を見て、コイツは俺を養うために教師になるのかといじらしくてたまらなかった。
「ありがとう。現在の秋月蒼一チームは12人中5人が医者だ。彼らにすべてを教えて、全員で研究し、勉強し、技術を高めている。これからの時代は『オペの神様』なんて必要ない! 全員がオペのスペシャリストになるんだ。すべての情報を共有し、みんなで研鑽して行く、これが僕の夢だ、そして目標だ。わかってくれたか?」
「私には難しくてよくわかりません。だけど私は何をしたらいいのでしょうか?」
「僕が疲れて戻ったら迎えてくれるだけでいい。心配するな」
「いえ、そうじゃなくて私は大学で学んでいます。必要なのは経営学ですか、会計学ですか? 蒼一さんの役に立ちたいです。何を学べばいいのか教えてください」
「ああ、そのことか。雪子は雪子のままでいい。働きたければそうしてもいい、束縛するつもりはない。僕の子供を幾人も産んで、家庭を守り育てて欲しい。それだけでいい」
唐突に秋月の夢と目標を話された雪子は、ずっと遠くに視線を泳がせて考え込んでいた。時間は止まってしまい物音ひとつしなかった。
「私は蒼一さんについて行けばいいのですか? そしてたまには引っ張って行けばいいのでしょうか?」
「引っ張る」という言葉に笑った秋月は、
「そうだな、引っ張ってくれ。僕が迷ったときはキミが必要だ。この前のようにあの坂道を自転車で上っていくキミのパワーが必要だ」
「はい、そうかも知れませんね」
「もうひとつ、言わなければならないことがある。僕は雪子を愛しているがとても恐れていることがある。僕はキミよりずっと年上で、たくさん経験もしているから雪子を想う気持ちは絶対にブレない。だが雪子は世間も異性もほとんど知らないはずだ。僕は我儘で癇癪持ちで気が弱く臆病で、嫉妬深く意地悪な男だ。こんな僕と結婚して、幻滅して絶望し、キミが壊れてしまうのが怖い。わかってくれるか?」
雪子はじっと考えていた。涙が溢れそうになると上を向いて何度も頭を振って涙を切っていた。
「どんなに考えても知らないことはわかりません。それでもいいでしょうか?」
俺が腹を括ったように、雪子も覚悟を決めたに違いない。
「ありがとう。僕はやってみようと思う。いいね」
「はい」
秋月は、涙を払って笑顔を作った雪子を狂おしいほどに抱きしめた。
◆ 副院長室で臨時茶道教室が突然始まった!
来週からは塾のバイトがスタートする。8時40分の講師ミーティングから始まり、1時間の昼休憩を挟んでほぼ5時までの勤務だ。雪子は忙しくなる前に会いたくて副院長室を訪れたが、秋月は不在だった。そこへ山川が入って来て、クッションを2つ雪子の足元に敷いて、正座した。
「若先生は接客中でしばらくはお戻りになりません。そこで鬼の居ぬ間に、少しで結構ですからお茶を教えていただけませんか」
「えっ? はっ、はい、若輩者の私でございますが……」
雪子は常時持ち歩いている帛紗を取り出し、山川と向かい合った。常に高嶋から「一生に一度の出会い」と教えられている雪子の眼は真剣になった。
「帛紗はお茶を点てるときに茶筅や棗を清めるのに使います。接待するときは茶室に入る前に帛紗を帯に掛けます。女性は上からで男性は下からです。棗は抹茶を入れる容器で鮮やかな色をした薄茶をしまいます。濃茶は茶入にしまいます」
薄茶と濃茶の違いを説明した。
「正式のお茶は濃茶です。荘厳な雰囲気の中でひとつの茶碗に人数分の茶を点てて、全員で飲み回します。千利休さんや秀吉さんの時代はみんな濃茶でした。薄茶は一人分の茶をその都度点てます。飲み方はこうします」
大ぶりのモーニングカップを茶椀に見立て、雪子は手本を示した。山川の次は秋月蒼一チームの宮本と福沢も教えを受けが、背中をピシャリと叩かれた。
「違います。もっと背筋を真っ直ぐ伸ばしてください。剣道の中段の構えのようにです。そうすれば体に1本芯が通った美しい姿勢を保てます」
開け放されたドアからは見物人も参加し、「臨時茶道教室」は大盛況だった。
はあ? 俺の副院長室前の人だかりは何だろう? 秋月が驚いて覗くと、雪子は入口を背にして、小粒ながらも凛々しく床に正座していた。またアイツが場所を変えて不思議なことをやっている。今度は何だ? 雪子が気づかないように、そっと足音を忍ばせて部屋へ入った。
「違います、背筋はもっと真っ直ぐに、指先に力が入り過ぎています。そうではありません。ダメです!」
雪子の指導は容赦なく、チームメンバーは何度トライしても背中や手をバシッと叩かれた。
「ここの力を抜いてください。首はこう向けます」
小さな手で首を掴まれ、グイッと上を向かされたメンバーは照れ笑いを浮かべている。ついに秋月は吹き出した。
「おい! 頼むからもっと優しく教えてくれ。外科医の大事な手と首だぞ!」
「えっ、蒼一さんいつ戻られていたのですか。気づきませんでした。すみません、夢中になって。自分がいつも叩かれているので、みなさん本当にごめんなさい」
「いやあ、とんでもない。有名な高嶋先生の愛弟子さんから教えてもらったなんて、医局で自慢できます」
「猫背で姿勢が悪いと言われ、姿勢が悪いのは万病の元凶で呼吸が浅くなり、肩こりや腰痛になると注意されました。若先生どうでしょうか、この見立ては?」
これには気難しい秋月も爆笑して、
「そんなことまで医者に向かって言ったのか? 呆れたやつだ。雪子、キミは医者を卒業した名医だ、そうだな!」
この言葉に、チーム全員は腹を抱えて笑いこけてしまった。たまたま通りかかった秋月院長は何が何だか分からず、狐に抓まれたような顔で去って行った。
7月27日(月)、1年ぶりに『福岡進学塾』を訪れた。
塾では雪子のためにSサイズの講師用白衣が用意されていた。昨夏世話になった先生方への挨拶を終えたとき、親しげに古谷が話しかけて来た。
「やあ、ちょうど1年ぶりだね。元気そうで良かった。実は西崎さんを次年度も採用してくれと推薦したのは僕なんだ。君は朋友学園の紹介テレビに出ただろう。あれが決め手になった。僕も観た。いい授業だったし、君の熱意が伝わった。僕はあれが君の真の姿だと思ったが、君は国文学専攻か?」
「いいえ、違います」
「西崎さんは教師に向いていると思う。頑張りたまえ。そうそう、君は正月に死にかかったと? そのとき秋月から救けられて特別室に10日間も隔離されたと聞いた。驚かなくてもいい、医師会関係者は誰でも知ってることだ、本当か?」
「死にそうだった私を救ってくれたのは本当です。特別室も事実です」
「ではなぜ君は東京へ戻った? あっちに好きな人でもいるのか?」
「そんなことには答えません。失礼します」
「不躾な質問だった。撤回させてくれ。悪く思わないで欲しい。じゃあ、今年も授業を頑張ってくれ」
受講者の名簿を見せられた。昨夏の幼稚園児は福岡教育大附属のような有名小学校の生徒になっていたが、今年も塾通いをするようだ。なぜこんな小さな子が夏休みだというのに、塾で勉強しなければならないのか雪子は理解できなかったが、今年も子供たちと過ごせる夏が嬉しかった。昨年同様、幼稚園児のクラスと小学生クラスを任された。
◆ 茶道教室の開設が提案された。
秋月の多忙な日々は続いていた。
驚かされた臨時茶道教室以来、雪子とは会えなかった。予定されているオペやチーム全体の掌握と指示、チーム内の未熟な医者へのフォローなど、秋月には仕事が多すぎた。山川を脅かし、せめて昼飯ぐらい食う時間を作ってくれと頼み込んで、やっと雪子と同じレベルのランチタイムを獲得した。
「要するに雪子さんと一緒にいたいだけなんですよね。ランチでもディナーでも構わないんですよね」と念を押した。山川の物わかりの良さで、日によってはランチタイムが取れることがあった。秋月は「明日の昼は時間が取れるかもしれない。待っていてくれるか?」と電話した。
天候を気にしながら雪子はふたり分の弁当を作った。もし雨だったら蒼一さんの車で食べればいい。秋月のビジョンを聞かされたときから、自分に出来ることをしようと思った。キスしようとした秋月を「ヒゲが痛いです」と雪子が避けるほど、秋月は自分のチームに心血を注いでいた。
忙中に閑あり。山川は茶道教室の開設を提案した。
「院長先生にお許しをいただきました。毎週水曜日に2階の談話室で茶道教室を開いてはどうでしょうか。実現したら確実に雪子さんに会えますが、いかがでしょうか?」
「しかし、高嶋先生がお許しくださるだろうか? それに雪子はずっと福岡にいるわけではない。9月初旬には東京へ行ってしまう」
「難しく考えないで夏だけの限定でいいじゃないですか。本気で高嶋先生にお願いされるかどうか、雪子さんに任せましょう」
「うーん、山川くんのアイデアは悪くないが、雪子にまた負担をかけることになる。夏季のみの半端な稽古を高嶋先生は却下されるに違いない」
「何をおっしゃるのです。若先生は雪子さんに会いたいのでしょう? こんなに忙しくては時間を確保できないでしょ。どうしたのです? 雪子さんを昼間は眠らせていたのでしょう? そして夜になってお相手していたことを考えれば、どうってことないじゃないですか」
山川はいとも簡単にそう言った。秋月は何も言えなかった。
雪子の弁当を頬張りながらその話をしたが、
「それは無理です。私はたった5カ月しか教わっていないヒヨッコです。高嶋先生がお許しになるはずがありませんし、私は茶道の何もわかってません。せっかくですが高嶋先生にお話することは出来ません」
そうだろう、それが当たり前だ。山川は何を考えているのだと、秋月は山川を責めたくなった。思うように行かないと自分よりも先に周囲の人間を責めるのが秋月だった。
だが待てよ、雪子はピヨピヨのヒヨコだがこの福岡に高嶋先生の弟子はいないのか? 期間限定ではなく、継続的にナースや従業員の福利厚生をサポートする茶道であれば、考えてくださるかも知れない。よし俺が交渉してみようと秋月は考えた。
雪子は高嶋に事情を説明したが、あなたは何を勘違いしているのですか、茶道のサの字さえ知らないあなたに代稽古は認めません。話になりませんと厳しく諌められた。
秋月は雪子に内緒で高嶋に電話した。
「話は雪子さんから聞きましたが、雪子さんには絶対に任せられません。私の恥になります。茶道はそのような簡単な道ではありません。10年、20年と精進して会得できるかどうかもわかりません。秋月先生が歩まれている道と同じです」
高嶋は取りつく島もなくそう言い放った。秋月はお願いするだけはしてみよう、当たって砕けろだと心を決めた。
病院に勤務している全従業員の福利厚生の一環として、加えて、ともすれば殺伐になりがちな医療従事者のメンタルケアとして、茶道教室を継続的に開きたいと述べた。受話器の向こうで高嶋は笑った。
「福岡には秀明斎という者がおりますが、人間嫌いで弟子を取らず、人里離れた山の麓で晴耕雨読の暮らしをしています。現在は四季折々の交流しかありませんが、秀明斎が出稽古をするのであれば私に依存はありません。雪子さんは秀明斎の半東なら認めましょう。私からも手紙を書きますが、秀明斎が応じるかはわかりません」
どう考えても上手く行きそうに思えない。霞を食って仙人みたいな暮らしをしている人間を説得して、下界に引き摺り下ろすなんて無理だろう。プランを立てた山川の気持ちは嬉しいがどうすればいいのか?
そのとき、口いっぱいの卵焼きと奮闘しながら雪子が言った。
「私、その方にお会いして来ます。会いたいです。高嶋先生のお弟子さんが福岡にいらっしゃるなんて知りませんでした。行きます、行きたいです」
「僕はその方に手紙を出すが、ついては行けない。雪子は一人で行けるか?」
「はい、大丈夫です。これは私のことです」
雪子は愛宕山の麓にある庵を訪れ、秀明斎に会った。愛宕山は室見川河口の西岸に位置し、山というほどの標高はないが、不思議な霊気が漂う霊場であった。秀明斎は40歳代の痩身の男で、心身ともに無駄な物を一切持たない人のように雪子は感じた。
「失礼ながら、まだあなたはお若い。高嶋先生から何年教えをいただいている方ですか」
「はい、私は大学生で先生のお屋敷の離れに住んでいます。教えをいただいていますが、ほんの5カ月です。数にも至らぬ者です」
「ほう、あの離れですか…… 秋になると紅葉が障子を茜色に染め、冬になり雪が積もると一面に哀しい情念の世界が広がります」
秀明斎はどこか遠く懐かしい眼をしてそう言った。
「一服さしあげましょう」
秀明斎は高嶋と違って、やわらかく円をまろんで雪子の前に茶を置いた。それは今まで味あったどの茶よりもまろやかで人をいたわる味がした。雪子は眼を閉じ、いつまでも舌に残った馥郁さに酔いしれていた。
「秀明斎先生ありがとうございました。生き返った気がします」
「あなたのような若い人が生き返るとは、只事ではありませんね」
秀明斎は追憶の彼方を探すように視線を這わせて微笑した。
◆ 秀明斎は出稽古を快諾した。
秋月は秀明斎から快諾の返書が届き、驚いていた。
「キミはまた催眠術を使ったのか? 外科医の大事な手や首を容赦なく叩き、僕をコロリと眠らせる、不思議なやつだ。これで山川くんが言ったとおり雪子と会えることになった。楽しみだ、僕にも旨い茶を飲ませてくれ」
高嶋からは単衣の着物一式が送られて来た。ミニスカートや男の子のような格好で茶事をしてはいけませんと、長い手紙が添えられていた。雪子は帛紗の用意がないスタッフのためにせっせと帛紗を縫った。
雪子は塾の更衣室で着替え、秀明斎の半東として雑事をすべて引き受け、菓子を運び、替茶碗を用意して全体の進行に気を配った。午後6時から9時までの出稽古は、若先生の恋人見たさに、看護婦だけではなく医者や事務職員など大勢が参加した。秀明斎はにこやかに茶を振る舞った。
終了時間寸前に秋月が顔を見せた。秀明斎は気を利かして「雪子さん、どうぞ」と席を譲り、道具を清め始めた。秋月は白衣を脱いで真面目に一礼し、美味そうに一服所望して仕事に戻って行った。さすがに真夜中のオペは減少したが、多忙であることに変わりはなかった。
秋月は帰ろうとする雪子の腕を掴み、今夜は月夜だと中庭へ連れ出した。
「大変だろう? バイトの後でその衣装に七変化して、秀明斎先生の半東を務めるのは疲れるだろう。僕は僕で茶席で雪子に会えてもこんなことは出来ない」
雪子を絡め取って抱きしめ、キスして離さない。雪子は眼を閉じたまま「蒼一さんは我儘なんだから」と喘いだ。雪子の襟足から何か懐かしい匂いが立込めた。
「何の匂いだ?」
「香袋です。伽羅を入れました」
雪子は胸元から小さな袋を取り出した。
「これは預かっておく」
不機嫌な顔で香袋を奪い取った。
◆ 林健太の苦悩は続いていた。
一方、林は1年前の悔恨の夏から抜け出せてなかった。謝りの手紙を出し、電話でも謝った。しかし永い沈黙の後の返事は頼りないものだった。「私も悪かった。ケンタ、ごめんなさい」、そう言った。どういう意味だと尋ねたが返事はなかった。
手紙には、自転車で通学している、ドイツ語で苦労しているなどの近況が綴られていたが、あのことについては1文字も書かれてなかった。林はあの夏の日を消化できずに1年が過ぎてしまった。
なぜあんなことをしたのかと問い詰められ、蔑まれた方が、許されることではないが、よほど気持ちが軽くなったかも知れないと思っていた。だが問い詰められたとしても、その答えを持ってなかった。確かに幼馴染で妹のような雪子をいつも見守っていた。可愛くて大切な妹だった。その雪子を秋月に奪われそうになり、渡したくなかったからか? それは嫉妬か? そんなにオレは雪子を好きか? 好きであっても理由にならないことはよくわかっていた。
成人式のとき、ユッコは誰よりも美しく輝いていた、オレの眼にはそう見えた。だが言葉を交わすこともなく、慌ただしく東京へ去った。3月末に帰って来たときに電話したが、秋月が倒れたので付き添っていると母親から聞いた。なぜユッコが看病をするのか、そういう関係なのか、自分に話してくれないのか、それが淋しかった。幼馴染に戻れなくても、泣いたり、笑ったり、怒ったりするユッコの顔が見たかった、傍にいたいと思った。
オレは先輩に連れて行かれた店で童貞を捨てた。それは記憶に残るほどの出来事ではなく、記憶に残す必要もない人生の欠片だと思った。
自分の気持ちとは無関係に抱いた女の顔を見た。20歳を幾つか過ぎた女は「どうしたの? 初めてなの?」と笑った。下着を剥ぎ取ったユッコの下半身を思い出そうとしたが、白いカマボコのように見えたこと以外は、何も思い出せなかった。眼の前で婉然と立膝ついている女のそれは充血して男を誘い込んだ。
ユッコは今年も塾でバイトをしていると、天神町のサテライトスタジオの前で水球部の後輩から聞いた。「すごいです! ミニスカートでした」と興奮していた。「先輩、知らないんですか? 振られたんですか?」と煩くつきまとう彼らと別れて考えた。そうか、あの塾か。ユッコに会ってちゃんと話をしたい。触れたくない過去を揺らして、苦しめることになるのだろうかと考えたが、会いたい気持ちを抑えられなかった。
8月7日(金)、林は雪子に会おうとした。
ユッコは子供たちに話しかけながら塾を出てきた。子供たちはなかなか立ち去らない、ユッコは人気があるようだ。近づこうとした林は、ユッコの後を追いかける男に気づいた。あの男だ、1年前に星野さんから一喝された男だ。ユッコと何か話してすぐに立ち去った。そして2000GTが停まり、ユッコは車内に滑り込んだ。やはりユッコは秋月とは続いていたと林は思い知らされた。
あのときユッコは「先生、ごめんなさい」と大泣きして目を閉じた。そんなユッコを強姦したら獣以下だと思ったとき目が覚めた。そのときの絶念は今でも忘れられない。ユッコ、オレに話すことはないのか、これ以上遠くへ行くな、林は雪子がわからなくなった。
◆ まもなく旧盆の休みだが。
今年はどうやら篠崎さんの邪魔はないらしい。雪子を連れて海へ行き、波の音をたくさん聴かせてあげたい。山川には、人並みに最低3日間の休暇を都合しろと頼んでいるが、まだ返事はもらっていない。今年こそは雪子と出かけたい! こんなに働いているから許されてしかるべきだ! 秋月はそう考えていた。
まだ明けきらない浜辺を縺れながら歩こう。頰にかかった髪をかきあげて、おはようのキスをしよう。抱いて俺の夢を語ろう。大人のキスをたくさんしよう。もし雪子が許してくれたら俺たちは本当に結ばれたい……
「若先生、虚ろな表情で何を考えているのです? 残念ながら3日間の全休は無理です。救急指定のこの病院で、市内中の医院が休む期間に、3日間のエスケープは認められません。特に15日の土曜日に緊急搬送と救急搬送に対応可能なのは、日赤とここだけなんですよ」
「山川くん、講釈はわかった。僕は休暇が取れるのか、いつ休めるのか、それを聞いている!」
心地よい夢想を切り裂かれたうえに、まったく希望がない言い方にカチンと来た秋月は額に青筋を立てた。
「13日と14日は全休を獲得しました。15日の10時には診療に当たっていただきます。これでも大変だったのです。わかってください」
うーん。まあまあか、秋月は黙り込んだ。多分、山川はギリギリまで事務方と折衝したのだろう。受け入れるしかないか……
「若先生、12日の夜に抜け出すと2泊は出来ますよ。ご自由になさってください」
「そうだな。ありがとう」
雪子にはどう話せばいいんだ?
雪子は秋月から聞いた法人化の話を星野に電話で伝えた。
「わかった。詳しい話は後で聞こう。オマエの顔もしばらく見てない。ユッコ、大濠公園でデートしよう。ボート乗り場で待ってる。オマエが自由になる5時半だ。いいな」
湖面は涼風が吹き渡り、夕涼みの家族連れで賑わっていた。ボートに乗ったふたりは、
「ここのボートに乗ったことはあるか?」
「うん、受験間際に蒼一さんとデートした。ものすごく寒かった。だって氷が張ってたもん」
「バーカ、それはデートじゃない、誘拐と言うんだ。大人が子供を拐うやつだ。話はなんだ?」
「蒼一さんはあの病院を個人病院から法人にしたいって。私にはよくわからないけど、そうなったら蒼一さんは収入が減るかも知れない。失職するかも知れないがどうするかって聞いた」
「法人化か……」
将来の病院経営を予測してのことなのか、親から縛られて自由がなかったことへの反抗なのか、きつい労働条件で働いている医療現場を直視してのことなのか、星野にはわからなかった。しかし、さすがはカミソリ秋月だ、着眼点は見事だ。だが、この問題とユッコは関係ないはずだ。ユッコは秋月さんではなく、もっと普通の男の嫁さんになって欲しいと考えた。
「それでオマエは何と答えた?」
「うん、私は教師になって頑張りますと言った」
「それで秋月さんは何か言ったか?」
「そんなに無理しなくてもいいって。私は私のままでいいって。子供を産んで育てればそれでいいって」
「ふーん、そうか」
星野は何もわかっていない雪子を見つめていた。雪子が目から鼻にぬける才媛であれば、頑張れと背中を押すだろうが、秋月さんの子供を産んで育てることをオマエはわかってるのか? 絵空事ではないぞ、あの家は普通じゃない、大変だぞ……
秋月さんが本気でオマエに惚れてることをわかっているのか? このバカ! 雪子はあまりも頼りなく見えた。
秋月さん、コイツはわかってません。そんなユッコを不幸にしないでくれ。
◆ 着の身着のままで連れ出した先は……
12日の夜、明日から塾は3日間の盆休みに入る。茶道教室を終えて、家路についた雪子は、蒼一さんは今日は来なかった。明日から盆休みだというのにやはり忙しいのかなと、淋しくなって空を見上げた。そのとき、「雪子、起きているか? 星を見に行こう。出ておいで」と突然の電話があった。見上げるとぎっしりと散りばめられた星空があった。きっと蒼一さんは眠れなくて、気まぐれで私を呼んだのだと何も疑わずに外へ出たら、2000GTが不思議なことに音もなく擦り寄った。
「どうだ驚いたか? そこの公衆電話からかけた。早く乗れ! 僕は時間が惜しい」
驚く雪子を車に乗せ、無言でアクセルを踏み続けた。
「あの~ 星を見るだけでしょう? 家に帰してください」
「帰さない、イヤだ、誰が帰すと言った?」
「母が心配します。どこへ行くのです? 帰してください」
雪子の心配顔を無視して、秋月はいつまでも車を走らせた。
真夜中、満天の星が煌めく海岸に着いた。
「ここだ、連れて来たかったところは。どうだ? すごい数の星だろう?」
「はい。すごいです。こんな星空は見たことありません」
天空から南に溢れ流れる天の川、宝石箱をひっくり返したような星の数々、デネブとアルタイルとベガが織りなす「夏の大三角形」に、雪子は眼を見張り心を奪われていた。
「今夜は泊まるぞ。あそこだ」
松林の中に佇む白いコテージを指差した。一瞬にして雪子は現実に引き戻された。
蒼一さん、急にそんなことを言っても、私は何も用意がありません。心も体も…… お願いです、帰らせてください。どうしよう、ふーっと星空を見上げたとき、
「約束する、何もしない、心配するな。僕たちは人生を寄り添う旅人として巡り会った。それは始まったばかりだ。今は一緒に眠るだけでいい、心配するな。ただし大人のキスはするぞ、覚悟しておけ! お母さんには急に臨海学校に行ったと電話しなさい」
コテージに入った途端、「着替えも何も持たない旅人同士だ。裸で暮らすしかないだろう」と、秋月はさっさと衣服を脱ぎ、逆らう雪子の衣服を剥いでベッドに寝転んだ。
「気持ちいいなあ。人は生まれて来るときも死ぬときも裸だ。わかるか?」
「ふぁい?」
コイツと頭をこずいて、発展途上の乳首を舌先で転がした。
雪子は「いやっ、やめてください、恥ずかしい」と驚いた。
「そのうち僕のものになるんだ。恥ずかしがることはない。僕の夢が実現するときに雪子を抱くと決めた。その前に抱いてしまえば、僕は弱い人間だ、キミに溺れて夢を追うことを諦めるかも知れない、簡単に挫折しそうだ。僕は雪子を封印した、そう決めた。だがそれを守れる自信はない」
「蒼一さん、私は普通の女子大生で、何の取柄もない人間です。だから、何でも知っていて何でも出来る蒼一さんに愛されていることが怖いです。不安で、辛いです。夢なら早く覚めて! そう思います」
「泣くな。キミが泣くと僕も悲しくなる。なぜ雪子と出会ったのだろうかと考えたが、答えは見つからなかった。つまらないことを心配するな、もっと僕をしっかり見ろ。キミが思っているほど僕は立派な人間ではない、心配するな」
アダムとイブのようにふたりは裸で過ごしたかったが、雪子が恥ずかしがるのと自分の自制心に自信が持てずに、雪子がシーツを纏うことを許した。
「イヤです。見られたくないです」と言って、シーツを引きずって歩いて裾を踏んで転んでしまい、膝小僧から血を流して、その痛さに涙目になった。傷口に砂が入ったらしい。放置すると砂が痣になるので、秋月はナイフを熱して傷口を少し切り開いて砂を取り除き、ブランデーで消毒した。あの泣き虫が泣かずに痛みに耐えていた。シーツを裂いて包帯の代わりにした。
転んで怪我するなんて可笑しかった。可愛くてたまらなかった。そんな雪子が脇目も振らず裸で駆け出すのは、プライベートビーチだった。
膝を庇いながら波と戯れ、波にさらわれ、波と遊んで、波に何かを話しかけているようだ。波打ち際に寝そべり、打ち上げられた貝殻を拾い集め、砂を固めて砂時計を作り、陽が陰って来るのを待っている。秋月はじっと雪子を眺めていた。泳げない雪子が大波にさらわれたら、俺も一緒に海の底に引きずり込まれたい。そこが暗黒の奈落であっても雪子がいればいいと思った。
たくさん話をするつもりで、たくさん話をしたようで、何も話してはいなかった。裸で波と遊んでは戻って来る雪子を抱きしめ、遊び疲れてまどろんでいる雪子を抱きとった。気が済むまで遊んだか? たくさん波の音を聴いたかい?
腕の中で背伸びをし、背中を丸め、鼻の頭にシワを作って口を拭い、耳たぶをひっ張り、クルクルと回転してベッドの端まで転がり、またクルクルと戻って来る。そんな雪子を飽きずに眺めていた。
1月の病室で、何かに怯えて泣き疲れた雪子を抱いて眠った記憶が蘇って来た。あの恐怖を忘れることが出来たのだろうか。雪子が小さく笑った。起きたのかと話しかけたら、また眼を閉じて眠りに落ちて行った。愛する人と一緒に眠る秋月はとても幸せだった。
「何か着てください、私が恥ずかしいです」と言われて、雪子を真似てシーツを体に巻きつけた。「わあっ、ジュリアス・シーザーみたい、素敵!」と雪子は喜んだ。多分、眼のやり場に困っていたのだろう。雪子と一緒だと俺はガキのように、悪戯して意地悪してからかって、1日が終わっていく。なぜだか気持ちが和んでいる。
隣に雪子が裸のまま眠っているのに、眺めているだけだなんて考えられないことだ。誰も信じないだろう。もう僕は焦らない、キミを信じる。明日はもっと遊ぼう。夜明け間近に秋月は少しだけまどろんだ。雪子、愛している。
夜明けとともに雪子は遊びに行ってしまった。開け放たれた窓から見ていると、少し遅れて波から逃げて来る。いつも逃げ遅れて頭からずぶ濡れになって、大海原に戻る波をぼーっと見送っている。バカ、早く逃げないからだ。
「おーい、いつまで遊んでいるんだ? ご飯食べに行くぞ。早く戻って来い」
呼んでも呼んでも雪子はひとりで遊んでいた。
昼過ぎ、雪子はベソかき顔で体中が痛いと言った。日焼けした肌はピンク色に熟れて熱を持っていた。
「濡れたシーツにくるまって、おとなしくベッドに寝てろ。ここに医者がいるから安心しろ」と抱きしめたら、痛いと首を振って嫌がった。なんて世話がやけるやつだ。コイツは遊びすぎだ!
海の彼方に陽が落ちるころ、やっと火照りが鎮まったがまだ痛そうだ。潮風を避けながら、天穹を埋め尽くす星たちのささやきに耳を澄ませ、砕け散って海原に消えゆく幾多の流れ星に願いをかけた。肩を寄せ合っているふたりに言葉はなかった。
やっと眠った雪子を抱きしめようとしたら、痛いのか嫌がって離れてしまう。秋月は腹を立て、眠っている雪子にキスマークをつけて楽しんだ。この人は俺のものだという正鵠を射るようでその行為は楽しかったが、やがて、ひとり遊びに飽きて秋月も眠ってしまった。
翌朝、顔中をソープで泡だらけにしたまま、
「大変でぇーす、ムカデに噛まれたぁ、部屋のどこかに絶対に潜んでます! いっぱいいます」
雪子があたふたと駆け込んできた。「どこを噛まれた?」と訊くと「こことここ、あっ、こっちもこんなとこも」と指差した。それはアレの跡だが。
そうか、ムカデか…… アレの跡なんか見たことがないのだろう。よもや自分が? 想像すら出来ないのだろう。ムカデに噛まれたと信じているアイツに今さら本当のことは言えない。
「こんなに大きくなかったけど、草取りして噛まれたことがあります」
「顔を洗っている途中なんだろう、ムカデは僕が退治するから、大丈夫だ、あっちへ戻れ」
バスルームに追いやって吹き出してしまった。知らないということはこんなに幸せなこともあるのだと秋月は羨ましく思った。




