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11章 秋月は婚約者? 茶道の特訓が始まった

第三部  医療法人への道(第11話~第15話)


 雪子は茶道師範の高嶋邸に移り住み、内弟子になった。オペに追いかけられて休みが取れない秋月は、仮病を使って1日だけ体を休めたが、本当に過労で倒れてしまった。雪子は大学へ戻るのを遅らせて看病した。そのとき秋月は、個人経営の病院では時代の進化に取り残されると、法人化することを雪子に打ち明けた。

 超多忙の秋月が雪子と会えるチャンスを作ろうと看護婦長の山川は、病院内で茶道教室を開くことを提案して実現し、雪子は半東(茶事の助手)を務めることになった。

 この夏、ふたりは初めて泊まりで海に行ったが、深い関係にはならなかった。秋月は雪子を本気で愛していたが、抱いてしまうと溺れて行く自分の弱さを予感し、病院の法人化を実現してから抱きたいと考えた。

◆ 叔父が亡くなり、住まいを探した。


 星野は成人式を終えて大学に戻った雪子を飲み会やコンパに誘った。夏から冬にかけて、ぼんやりと物想いに沈んでいた雪子の背中を押しては、マス研の仲間と伊豆や房総に連れ出した。そのうち悩みをどこかに置き忘れたかのように、明るい表情を見せるようになった。命を落とさずに20歳の輝きに満ちた妹と学ぶことが星野は嬉しくて、雪子の振袖姿の写真をみんなに自慢して歩いていた。


 病後の安静で少し授業に遅れて参加した雪子に、大谷助教授は最前列の中央、教卓の目と鼻の席に座るように指示した。そして雪子のノートを確認しながら講義を進めた。雪子は蛇に睨まれた蛙のようにせっせと鉛筆を走らせていた。大谷助教授の講義は2回欠席すると名簿から削除されるという噂があり、毎回100人以上の受講者の出席を確認し、代返者は追放された。星野はあんな席は滅相もないと最後列で相変わらずペーパーバックを読みふけっていた。


 東京に去った雪子を想い、秋月は毎朝振袖姿の写真に向かって、おはようと声をかけた。相変わらず不機嫌だったが、突然に癇癪を起こして周囲を混乱に陥れることは少なくなった。雪子の手紙を開いて、怒り出すこともなかった。


 秋月が雪子に魅かれていることを山川は知っていた。特別室に囲い込んだとき、秋月がオペで不在時の世話を頼まれてスペアキーを預かったが、なぜか昼間はいつも雪子は眠っていた。病室の冷蔵庫に保管されている薬剤を見て、全てを悟った。急患で秋月が階下に降りたとき、ベッドの雪子からはシャンプーの匂いがし、ドライヤーが転がっていたことがあった。毎晩のように雪子を説得していることも知っていたが、一切他言しなかった。その口の固さを信頼されて、心臓外科チームの婦長にしていただいたと思っていた。人が噂するように若先生は血も涙もない人ではないことを山川はよく知っていた。


 2月、雪子の叔父が病に倒れた。多くの基礎疾患を持ち、肥満体だった叔父は糖尿病の悪化によって昏倒し、1週間後に亡くなってしまった。雪子が住んでいる東京事務所と埼玉営業所も閉じることになり、雪子は住まいを確保するために星野と学生相手の不動産屋を巡った。高い家賃を払えばあるだろうが、女子大生が安心して住める物件は少なかった。都下や埼玉まで足を延ばして探したが、新築物件で安いと見に行くと、畑の中にポツンと建てられた物騒極まりないアパートだった。


 ようやく学生生活課から紹介された家へ星野と訪れた。それは大学からほど近い「落合」という地の小高い丘の上に建っていて、『裏千家茶道師範 高嶋千鶴子』と表札がかけられた古いが大きな屋敷だった。家賃は光熱費一切込みで3,000円、電話料金のみ個人負担という格安物件で、大学付近では四畳半で共同トイレの安アパートが5,000円することを考えると、魅力的に思えた。


「ユッコ、幽霊が出そうな屋敷だ。やめようよ」

「話だけでも聞きましょうよ。3,000円ってとっても魅力だわ」、雪子は乗り気だった。

 応対に出たのは高嶋千鶴子本人で、ジロリとふたりを眺めて、家賃が安い代わりに条件があると言った。まず、弟子たちが閉めて帰った母屋の雨戸を毎朝開き、廊下を拭き掃除すること。週に1回は草取りをすること。このふたつだと言った。母屋に通されたふたりは顔を見合わせた。なぜなら母屋の四方を取り囲んでピカピカに磨かれた廊下が続いていたからだ。星野は小声で雪子に、

「お寺の本堂みたいな家だ。あんな廊下を雑巾がけする体力がオマエにあるとは思えない。無理だ、やめよう」


 それを聞きとがめた高嶋は、

「西崎さん、隣の男性はどなたですか。お友達ですか」

 雪子が答えようとしたら、

「星野と言います。コイツは親父が外で作った妹なので名字が違いますが、宜しくお願いします」

「星野さんと言いましたね。兄ですが事情があって名字が違いますと言いなさい。嫁入り前の妹さんに先程の言い方はいけません。今後は気をつけなさい。西崎さん、気に入ってもらえたら、住んでいただくのは離れです。案内しましょう」

 

 案内された離れは新しく建てられた建物のようで、八畳間の和室に台所と浴室とトイレがあり、四畳半の茶室が設けてあった。電話が引かれていたのが何よりも雪子は嬉しかった。

 高嶋が「お茶を一服差し上げましょう」と席を外したとき、

「あのおばさん、えらくきつそうだぜ。オマエに務まるか? やめよう、他を探そう」

「いいえ、私はここが気に入りました。ここで頑張りたいです」


 出された茶を美味しそうに楽しむ雪子を尻目に、作法を知らない星野は雪子の真似をするだけで汗をかいてしまった。

「西崎さん、お茶はどこで習いましたか?」

「はい、私は女子ばかりの学園で学びました。月に1度ですが茶道の時間がありましたので、ほんとに少しだけです」

「そうですか。背筋が伸びているのが大変よろしい。住む気になりましたか?」

「はい、お願いいたします」


 星野の心配をよそに、雪子はきっぱりと決心した。

「それでは肉親以外で保証人をおふたりお願いしたいと思います。これがその書類です。詳しいことはここに訊いてください」

 その封筒には港区虎ノ門にある弁護士事務所の名が記載されていた。


 翌日、弁護士事務所に問い合わせたところ、あの家の母屋には座敷蔵があって高価な茶道具が収められており、しっかりした保証人が必要なのだと説明された。

「担任の本戸先生にお願いしてみるけど、もう一人はどうしよう」

「大丈夫だよ。オレの親父に頼んでやるよ。あれでも医者だぜ!」

「でも星野院長は私のお父さんにもなるんでしょ。だからダメでしょう」と困った顔になった。

「おいユッコ、いた、いた、身近にいたぞ! 秋月さんだ。あの人は大病院の副院長だ。オマエから頼めよ。オレはイヤだ。痛くもない腹を探られる。これで決まったな」


 

◆ 秋月は保証人の欄に婚約者と記入した。


「蒼一さん、お願いがあります。私は引越しをしなくてはなりません~」から始まる長い手紙をもらった。

 保証人になっていただけますかという内容だったが、つい笑ったのは、雪子のミニスカートを「膝小僧が出るような服は女の嗜みに欠けます」と高嶋千鶴子が指摘したことだ。秋月もミニスカートをやめさせたかったが言い出せなかった。

 星野は反対したが自分で決めたと書いていた。雪子が惹かれる住まいとはどのような空間だろうか、興味を持った。時間が取れるなら俺も見に行きたいと思ったがオペの連続だ。当分行くことは出来ない。高嶋は異性関係にも厳しく、離れは男子禁制だが星野だけは兄ということで入れてもらえるらしい。星野はOKだと? 面白くない話だ! 星野はいいやつだが信用できない。何と言ってもアイツは雪子とちょうどいい年頃の男だ。

 星野よりも、見ず知らずの高嶋先生に委ねたほうが雪子のためになり、俺も安心ではないかと考えたが、毎朝雑巾掛けか…… 秋月は心配した。真冬は冷たくて辛いだろう、真夏はバテるだろう。


「山川くん、高嶋千鶴子という人を知らないか?」

「はい? その方は茶道の先生ではないでしょうか。滅多にお弟子さんを取らないことで有名で厳しい先生らしいです。婦人雑誌で読みました」

「そんなに有名な人なのか?」

「はい、『孤高の茶』を探求なさっているらしいです」

「孤高の茶とは?」

「切腹にも通じる孤高の一期一会らしいですが、私は教養がないのでわかりません。明日、雑誌をお持ちしましょうか」

「そうしてくれ。雪子はその先生のお宅に住む気らしい。毎朝、何十枚あるか知らないが雨戸を開けて、100メートルもある長い廊下を拭き掃除するらしい。あんなに細い体でそんなことが続くだろうか?」

「へっ? 西崎さんは高嶋先生の内弟子になられるのですか?」

「そうではない、雪子は事情があってその屋敷の離れをお借りするだけだ。茶室が付いて快適らしい。しかし、草取りもしなければならないそうだ。雪子にそんなことが出来るだろうか」

「西崎さんがそう決められたのですか?」

「そうだ、僕に保証人になってくれと言っている」

「西崎さんなら出来ます。あのお嬢さんはそうと決めたら必ずやり抜きます。止めても無駄でしょう」

 どんなに説得しても首を振り、「必ず戻って来るので信じてください。お願いです」と翔び去った雪子を思い出した。


「毎朝そんなに長い廊下を雑巾がけすると足腰が鍛えられます。西崎さんは立派なお母さんになれます」

「山川くん、キミは何てことを言うのだ」

 秋月は真っ赤になって背を向けた。山川は笑って秋月の背中を見ていた。


 その夜、雪子に電話した。毎朝の雑巾がけや広大な庭の草取りは大変だぞと脅かしたが、雪子の決心は変わらなかった。そうか、わかったから頑張れ! 保証人のことは心配するな。僕でよければ何でもしてあげるよと言ったら、「蒼一さん、ありがとうございます」と礼を言った。「もう雪子の家庭教師ではない、主治医でもない、秋月蒼一というただの男だ」と告げたときから、雪子は先生と呼ばずに蒼一さんと呼んでいた。まもなく届いた書類を見ながら、秋月は一計を企んだ。


「速達で出してくれ。しかし、一筆啓上したいので少し待って欲しい」

 指定された書類の他に自己紹介書と雪子は生来気管支が弱いこと、抗生物質が効かないこと、故に何かあったらすぐにご連絡を賜りたいと書いて名刺を添えた。ふと迷ったのは保証人の欄で「本人との間柄」という項目があった。しばらく考えた末に「婚約者」と記入した。背後で山川がはっと息を呑み込んだ。



◆ 3月6日(金)、慌ただしく雪子は落合に引っ越した。


 雪子の引っ越し荷物は少なかった。事務所の奥を住まいにしていた雪子は、私物を人目に触れる場所に置くことが許されてなかった。唯一家具と呼べるものは三段の押入れ箪笥だけで、女性に人気の三面鏡やぬいぐるみもなかった。手伝いに来たクラスメートはこれが女子大生の部屋か? あまりの殺風景さに驚いた。洗濯機と冷蔵庫を譲ってもらい、雪子は喜んで落合へ引っ越して行った。


 畳替えされた八畳間はイグサの匂いが立ちこめ、襖は淡い雪輪模様に張り替えられていた。雪子は高嶋の心遣いに感謝した。

 初めての草取りは星野とクラスメートが手伝いに訪れ、小一時間で終わった。高嶋はみんなを歓待して茶を点てた。雪子から簡単に作法を習っていた星野は、得意げにみんなに教えた。ゆったりと時間が流れる午後、

「若い人はいいですねえ。人生の怖さを知らないだけ幸せです」

 高嶋は白い綿雲を追いながらそう呟いた。


 3月7日(土)。

 高嶋は保証人の書類を手に取り、

「この秋月さんとおっしゃる方は、幹事長の手術をなされた先生ですか?」

「はい、そうです」

「書類に、間柄は婚約者と書かれていますが、そうですか?」

「はい?」

 あーっ、蒼一さん! そう書いたのですか、悪戯ですか、それとも私を案じてそう書いたのですか、雪子は判断に迷って俯いた。雪子の様子を眺めて高嶋は、

「恥ずかしがることはありません。お相手がこの方であれば茶の心得は必要でしょう。今日から貴方に茶を教えます。雪子さん、いいですね。まず帛紗ふくさを与えましょう」

 それからは週に2、3回、手ほどきを受けることになった。評判どおりの厳しい指導で背中に物差しを差し込まれ、爪は短く切ること、マニュキアや指輪、香水は厳禁だと告げられた。

 星野に、「蒼一さんは書類に婚約者と書いた」と告げると、秋月さんも考えたものだ。オレには大人の悪知恵はまだまだ読めなかったと考え込んでいた。


 雪子は秋月に真意を尋ねた。

「蒼一さん、なぜ婚約者と書いたのですか、困ります! そのためにお茶のお稽古が始まりました」

 電話でなじった雪子に秋月は居直った。

「本当のことを書いたまでだ、僕の気持ちだ。悪いか?」

「勝手過ぎます、迷惑です。あまりにも先走りしていませんか」

 その言葉にも聞く耳を持たなかった。


「それでどうだ? 茶の道は」

「お相手が蒼一さんならば茶の心得は必要だと早合点なさって、特別に教えていただくことになりましたが、厳しいです」

「一芸を学び通すことは辛く苦しいことだ。たまには僕の気持ちをわかった方がいい。雪子、12時まではシンデレラでいてくれ。それ以上遅い時間には電話しない。朝から廊下拭きがあるのだろう」

 秋月は上機嫌で電話を切った。


  3月11日(水)。

 星野は雪子より一足先に帰省した。帰宅するとすぐ父の院長から質問攻めに遭った。

「どうだ雪子さんは元気でやっているか? 手紙によると茶道の先生のお宅に下宿したと書かれていたが、あの細っこい体で毎日廊下の雑巾がけしていると思うと涙が出る」

 星野院長は本当に目を瞬いていた。

 このバカ親父、どうして涙ぐんでいるのかと星野は腹を立てた。なぜユッコは秋月さんやオレの親父なんかのオッサンにもてるんだ? 大谷だってそうだ。授業中にグーグー寝てしまったユッコの成績は優だった。有り得ない評価だ。しかも秋月さんから逃れられた途端、あんなババアに捕まった。あーあ、アイツが可哀想だ。面白くない! そうだ、あの話をして秋月さんをからかってやろう。


「ほう、星野か。もう戻って来たのか。雪子は帰ってないぞ。何か用か」

「ユッコはまだ教職の受講中でしょう。ユッコのお陰で僕もたくさん優が貰えました、ありがとうございます。

 話は変わりますが、茶会に招かれた有名な政治家のバカタレ息子がユッコに一目惚れしたそうです。そして高嶋のババアにユッコを愛人にくださいとせがんだらしいです。本人に聞いてみましょうとなり、ユッコは何と言ったかわかりますか」

「俺は忙しい、くだらん話はいい!」

「待ってください。はいと受けたらしいです。秋月さん、どう思いますか?」


「!? お前のウソ話は不愉快だ! 切るぞ!」

「ウソ話ではありません。自分は母子家庭で母の行末が心配です。お金が必要なのでお金をいただけますかと言ったらしいです。いくら欲しいのか300万か? 500万か? と聞かれ、本日は1円いただけますか? 次の日は2円いただけますか? その次の日は4円いただけますか? そうやって30日間貯金してくださったら喜んで愛人になりましょうと」

「雪子は本当にそんなことを言ったのか?」

「高嶋のババアから聞きました」

「それでどうなった? 早く言え!」

「自分で計算してくださいよ。バカタレ息子は来なくなったそうです。いい話でしょう」

「何がいい話か、お前の話はやはり不愉快だ。切るぞ!」

 頭の中でざっと計算してみたが、数字を2倍にして行くと30日までの累計総額は10億円ぐらいか。うまくトンチで逃げたなと感心した。なるほど、星野が俺をからかうように雪子は心配だと唸った。



◆ 3月16日(月)、雪子はやっと戻ってきた。


 昼下がりの午後、雪子は帰省した。福岡空港に着いたら副院長室に来いと言われていた。ノックした途端にドアはすぐ開かれ、秋月は走り寄って無言のまま雪子を抱きしめた。大人のキスを始めた秋月の背後に山川の視線があった。雪子が「ううっ、あ、あ」と呻いたとき、山川は何も見なかった表情で部屋から出て行った。

 いつも冷静な若先生が婦長との打ち合わせ中だということを忘れてディープキスするなんて、可笑しくて笑いが止まらなかった。秋月が中学生のときから見ている山川は、「入室禁止」のプレートをドアノブに下げて、「若先生、お幸せに」と呟いて去った。


 オペの時間がせまり、山川がノックした視線の先に雪子はいなかった。

「西崎さんはお帰りになられたのですか?」

「当然だろう」

「元気になられましたか?」

 山川の視線をまともに見られず、横を向いて、

「当然だ。手術室はNo.3だな、よし始めよう」


 やっと雪子が帰って来たというのに、俺はコマ切れの時間しか与えられていなかった。病院も経営を最優先する企業であり、3月は年度末の決算月だ。最後の帳尻を合わせるようにオペが山積していた。一体これだけの数のオペを誰がやるのだ? これでは雪子が東京でも福岡に帰っていようと同じではないか。スケジュール表を確認すると、目眩がしそうだったが癇癪を起こす気力は既に無かった。


「山川くん、僕は贅沢は言わないがわかってくれ。雪子が帰って来たというのに、オペ、オペの連続だ。なんとか休みを取る方法はないのか。4月の2週めには雪子は東京へ行ってしまう。雪子と過ごす時間が欲しい。何か策はないか?」

 秋月の表情は山川の記憶に残っている高校生の秋月と同じだった。神経質で虚無的な眼差しを投げる少年に見えた。

「私に出来るかどうかわかりませんが、考えてみます」


 3月28日(土)。

「若先生の車のキーを私に預けてくれませんか。弟に運転させて、車を今晩中に西崎さんの家の前に移動します。若先生には明日の日曜日、つまり3月29日の未明に病気になっていただきます。過労で倒れたというのが怪しまれないと思います。そして病院から脱出してください。ですが若先生の不在を隠し通せるのはそう永くはありません、深夜には戻って来てください。それしか思いつきません。若先生は西崎さんと一緒に過ごすことだけ考えてください。これからは西崎さんのことを雪子さんと呼んでよろしいでしょうか? あのお嬢さんを好きなんです。若先生、共同正犯になった気分です」

 山川は楽しそうに笑った。若先生とおだてられているだけの無力な自分の我儘を許してくれる山川にすまないと思った。



◆ 秋月は仮病を装い、重病人になった。


 3月29日(日)、朝刊を取りに出たら車があったが、秋月の姿はなかった。わけがわからず朝靄の中で立ちすくんでいた雪子の前にタクシーが止まり、秋月が現れた。

「どうしたんですか? 車だけ停まって蒼一さんがいないから、何かなあとびっくりしてたとこです」

「おはよう。僕は病気だ、面会謝絶だ。そういうことにして抜け出して来た。どこかへ行こう! 早く消えよう」

「えーっ、ついにやったのですか。ふーん、朝ごはんまだでしょ。お腹をいっぱいにしてから考えましょう」

 コーヒーとトーストとハムエッグだけのシンプルな朝食だったが、雪子がトースターにパンをセットする、バターを塗る、ごくありふれた日常のシーンが秋月には新鮮に思え、じっと見つめていた。インスタントのネスカフェですと出されたコーヒーがなぜか旨く感じた。


「どこに行こうか? どこにでも連れていく、どこへ行きたい? ただし職場を抜け出して来たから24時間以内には戻らなければならない」

 ゆっくり考えて、微笑んだ雪子は

「行きたい所はありません。戻りましょう病院に。面会謝絶なんでしょう? 看病します」


 正午、不安を隠しきれない表情で、「面会謝絶」のプレートが下げられた秋月の部屋を覗いた。ベッドに横たわった秋月に何やら楽しそうに話しかけている雪子がいた。

 山川に気づいた雪子は恥ずかしそうに小首を傾げ、「こんにちは」と挨拶した。「お大事に……」と退出した山川はホッとして、雪子さんはこういう人なのかと嬉しくなった。


 ふたりは手を握ったまま、いろんな話をした。

「蒼一さんが婚約者なんて書いてしまったので、高嶋先生がお茶を教えてくださることになりました」

「そうらしいね」

「あのような立派な方の妻になるのなら茶道は必要ですと急におっしゃって、しごかれています。お稽古はものすごく厳しいです。背中と手は物差しでバシバシ叩かれ、首だけでお辞儀をするな、お辞儀は相手に尊敬の念を持ってするものだ、目線は上がらず下がらずとか、もうメチャクチャです。月謝はいらないとおっしゃってますが、雑巾掛けより大変です。最近は雑巾掛けが楽しくなりました。汚れは拭けば綺麗になりますが、茶道は違います。さっぱりわかりません。みーんな、蒼一さんのせいです、どうしてくれるんです!」

「まあ、いいじゃないか。高嶋先生は弟子を取らないので有名な方らしいから、有難いと思え」

「そんな簡単に言わないでください。ちっとも有難くありません!」


「星野から聞いたが、くだらない男から愛人に欲しいと言われたそうだね。高嶋先生も困られただろう?」

「はい、そうです。相手が相手なので高嶋先生はいきなり断わることが出来ず、お困りになられていました。愛人だなんて、私を人間として見ていない方です。寒気がします。大嫌いな方です。一休さんの話を思い出して、その方を困らせようと思いました」

「キミは30日間の累算金額は知っていたのかい?」

「いいえ、正確には知りませんが途方もない金額になることは知っていました。お金を積んで愛人になれと言う方は人間のクズだと思います」


「そうだね。高嶋先生は雪子を愛人に渡すような方ではないので心配はしていないが、雪子はお金に困っていないか? そうだったら僕が何とかするよ。僕は婚約者だから遠慮することはない」

「大丈夫です。母からは75,000円の学費の他に仕送りを受けています。この前、中古ですが自転車を買いました。自転車屋のお兄さんが赤いペンキを塗ってピカピカにしてくれました。自転車に乗ったことがないので支えてもらって練習しました。今は自転車で大学に通っています。電車代やバス代がかからないし、風を受けて走るって楽しいです。坂が多いので大変ですけど」

「ふーん、赤い自転車か」

 不機嫌な眼をして布団の中に顔を埋めた。


「蒼一、気分はどうだ?」

 ちょうどそのとき、秋月院長はノックもせずにいきなりドアを開けて室内に入り、付き添っていた雪子に驚いた。秋月は眠ったふりをした。

「西崎さんお元気ですか、見舞いですか?」

「はい、面会謝絶だとお聞きして心配でお見舞いに伺いました。院長先生には大変お世話になりました。ありがとうございました」

「いや、そんなことより蒼一はどうでしょうか、重病ですか?」

「私にはわかりませんが、ご本人がそうおっしゃるのでそうだと思います」

「なるほど…… 食事はまだでしょう? 病人はこのまま寝かしておいて食事に行きませんか。美味しい店にお連れしましょう」

「ありがとうございます。でも、蒼一さんはもうすぐ眼を覚まされるでしょう。傍にいたいと思います」

「西崎さんから看病されると蒼一はいつまで経っても重病のままでしょうが、任せましょう。お大事に」

 秋月院長は含み笑いのまま去って行った。



◆ 院長の差し入れはロイヤルのサンドイッチ。


「ふーっ、親父との問答は面白かった。吹き出しそうになったよ」

「院長先生はお見通しでした。重病ですかと訊かれたときはドキリとしました」

「星野のように雪子もウソが上手くなったなあ。感心した。考えてみれば病気になるのもいいものだ。雪子が傍で看病してくれるし、最高だ! また病気になったら来てくれるかい?」

「蒼一さん、『全快』のハンコをあげましょうか?」

「いや、今はいらない。あーあ、雪子が苦手なドイツ語の勉強でもしようか? そこの本を取ってくれるか、『Undineウンディーネ』だ。声を出して読んでごらん」


 その本はドイツの恋物語で、銅版画の挿絵が載っていた。おずおずとドイツ語の本を読みだした雪子をやわらかな眼差しで見つめていたが、雪子の顎に手を当て口を大きく開かせ、

「もっと大きく口を動かして、はっきり発音してごらん。口の中の空間を上下と前後にたっぷり使うとしっかりした発語になる。そうだ、そんな感じだ」

 山川のノックにも気づかず、『Undine』の朗読にふたりは夢中になっていた。


「おや、ドイツ語の勉強ですか。院長先生から差し入れをいただきました。ロイヤル中洲本店のサンドイッチです。珈琲もお持ちしました。どうぞごゆっくり」

 ロイヤルとは、日本航空に機内食を提供していた、やや高級なファミリーレストランで、このロイヤルが後年『ロイヤルホスト』に成長した。もともと旨いパンやお洒落な洋菓子が評判の店だった。


「いやあ、山川くんのごゆっくりには笑うしかない。病気のふりして脱走する計画を立てたのは山川くんだ。戻って来て悪いことをしたな。だが病気にならないと時間が取れなかったことは事実だ」

「蒼一さんが戻って、いちばん安心されたのは山川さんだと思います。良かったですね。それはそうと、とっても美味しいです。お昼は食べてないのでペコペコです。怖いドイツ語の先生から絞られたし、ふふふっ」

 差し入れはカツサンドとフルーツサンドだった。雪子はにっこりと頬張っていた。


 それから秋月は『Undine』の続きを読んで聞かせた。涙を溜めて雪子は聴いていた。

「もうやめてください。水の妖精ウンディーネに愛された騎士フルトブラントは、約束を破って違う人と結婚したので、死んでしまうのでしょう? 悲しい話です」

「そうだな、やめよう。次は楽しい話を読むことにしよう。僕は雪子と会ったときから日記をつけている。最初は受験勉強のことばかりだったが、そのうち人に読まれたくないことはドイツ語で書くようになった。いつかこの日記を雪子に見せてあげよう」

 夜は更けて行った。


「雪子、一緒に眠ろう。このところ忙しすぎて、ベッドに入っても神経だけは起きていて僕を眠らせてはくれない、だからずっと眠れていない。ここにおいで」

「何もしないですか?」

「何もしないよ。僕は重病人だから何も出来ないよ」

 恥ずかしそうに笑って雪子は秋月の腕の中にするりと滑り込んだ。秋月は大人のキスをしたが本当に眠ってしまった。雪子が傍で眠っているだけで心が静まり、眠ってしまった。灯りが消えた。

 翌朝、服を着たまま眠ってしまった雪子を抱えて、愛車で送り届けた。

「西崎を見守り、焦らずに欲を育ててください」と語った篠崎さんの呪文にハマっている自分がおかしかった。アイツはやはり「仏の子か……」、そう思った。


「おはようございます」、山川が声をかけた。

「すまなかった。脱出させてもらったが、雪子は傍にいるだけでいいと言ったから戻って来てしまった。雪子の傍で僕は久しぶりによく眠れたよ。さあ、今日はいくつオペがあるんだ?」

 まあ? 若先生は雪子さんと眠っただけ? 信じられない気もするが、若先生も大人になられたのかも知れないと思った。

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