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10章 秋月蒼一はただの男になった

◆ 1月13日(火)、雪子は退院した。


 午前10時、雪子は院長室に呼ばれた。秋月から何も知らされてなかったが、感謝の気持ちを申し上げようと心に決め、緊張して院長室を訪れた。雪子が深く一礼して顔を上げたとき、初めて雪子と対面した院長は驚いた表情を浮かべ、硬い表情で付き添っている息子の蒼一を見上げた。

 大学の1年生だと聞いていたが息子が伴って来た女性があまりにも幼く見え、信じられない思いで見つめた。

「あなたは朋友学園の『スクール紹介』に出た方ではありませんか」

「はいそうです。西崎雪子と申します」


 蒼一はこの若さに魅かれている。そして、遅れてやって来た自分の青春に溺れている。蒼一はやっと幸せに出会ったのかと。しかし、いつかは眼が覚めるだろう、そう思って微笑んだ。

 お礼を言おうとした雪子に、

「堅苦しい挨拶はやめましょう。心から申し上げましょう。退院おめでとう。そして成人式だそうですね、おめでとう。蒼一がなぜ貴方を病室に匿ったか、貴方に会って理解できました。西崎さん、学業を納めたらこの地に戻って来なさい。蒼一が救けた命を粗末にしてはいけません、大切にしてください」

 胸がいっぱいの雪子は潤んだ瞳で院長を見つめ、「ありがとうございます」、静かに頭を下げた。


 雪子は2000GTに運び込まれ、退院した。職員間では特別室に軟禁状態になった若先生の恋人が話題になって、玄関前ではひとめ見たさに用もないのにぶらつく職員がいた。秋月は普段は使用されていないエレベーターで降り、裏口に2000GTを回し、見事に雪子を外界に放した。

 黙って助手席で俯いている雪子をチラチラ見ながら秋月は、

「これから淋しくなるなあ、泣き虫が消えるってことは…… ヒマを持て余しそうだな」

 秋月が何を言いたいのかわかっている雪子は、

「でも、明後日には会えます。見てくれますよね。先生からいただいた珊瑚の玉かんざしをつけて振袖を着ます」

 雪子の言葉で秋月は悟った。勝負はついたな。俺は雪子に負けっぱなしだ、そう思った。 


 秋月は、特別室に絡め取った雪子を毎晩説得した。

 東京に戻したくないばかりに、考えられる限りの提案をした。九大の編入試験を受けないか? 自信がないなら教えよう。福岡女子大ならすぐに編入できるのではないか? 福岡教育大はどうだ? いっそ大学なんて行かずに僕の嫁になれと冗談めかして言い、雪子を抱き包もうとした秋月の手をピシャリと叩いて雪子は首を振った。

「だって、先生が早稲田に行きなさいと勧めておいて、そんなのおかしいです」と、取り合わない。

 幾晩も押し問答を重ね、ついに万策尽きた秋月は、

「雪子、本当は僕が嫌いなのに我慢してるのか、そうだろう? 合格させてくれた先生だから、命を救ってくれた医者だからおとなしくキスされてるのか、正直に言って欲しい。遠慮することはない」


 しばらく雪子は眼を閉じ、小首をかしげて秋月に言った。

「先生、正直に言います。でも眼を閉じてください。そして怒らないでください」

 怒らないでください? 秋月はドキリとした。コーナーに追い詰める質問をした自分に愛想がつき、これが最後通告かと落胆した。

「私は怖かった『大人のキス』を待っている自分に気づきました。先生の腕の中にいると、とても安心できて、ずっとこのままでいたいと思います。命を救けてもらったからそう思うのか、考えていました。でも、そうではないとわかりました。先生が思ってくださるような私になるために大学に戻ります。先生、許してください」


 秋月は完全に打ちのめされた。秋月が傍にいても、腕の中に取り込んでも、雪子の心はいつも自由に解放されていた。ずっとこのまま病室で、ふたりだけの世界が続いて欲しかった。囲い込んでも、雪子の自由な気持ちを捕えることは出来なかった。



◆ 1月15日(祝)、雪子は成人式に出席した。

 

 成人式は二千人の新成人を集めて、中央公民館で開催された。

 雪子は黒地綸子の振袖姿で出席した。振袖は漆黒の地色に大輪の白百合が咲き乱れ、手鞠が刺繍されていた。淡い地色の振袖が多い中で、ひときわ目立ち輝いて見えた。結い上げた黒髪には赤い珊瑚の玉かんざしが飾られ、メイクされた顔は健康そのものに見えた。

 林健太は神戸商船大学の制服に身を包んでいた。日焼けした精悍な風貌と凛々しい制服姿は、女子の熱い視線を浴びるには十分だったが、健太の表情はなぜか冴えなかった。雪子は健太を避けて視線を合わせようとはしなかった。


 健太は眩しいほど美しい雪子を見つめていた。あの夏の日、恐怖の眼で自分を拒んだ雪子を忘れることが出来なかった。僅か半年にも満たない月日が過ぎ去っただけだが、雪子は輝きを増し、手が届かない距離を感じた。式が終わり雪子を追いかけたが、すぐタクシーを拾って乗り込んだ。走り去っていく雪子をいつまでも見ていた。雪子はあの夏の日のことは心に閉じたままなのか何も言わない。いっそ、なじられ責められた方がどんなに楽かと健太は思った。


 星野院長は眼を細めて雪子を眺めていた。

「綺麗だ、実に綺麗だ!」

「親父、その言い方は失礼だぞ。それよりも、成人おめでとうと言うべきだろう」

「失敬、失敬、新成人になられた雪子さん、おめでとう。大人の仲間入りだね。あなたは地図がない道に地図を描いて歩いて行きなさい。命を救ってくれた人を大切にして、自分を大切にして~~~」

 院長の話は終わるかと思えば、また続いていく。雪子は眼をぱちくりさせながらも、笑顔で聞き入っていた。


「雪子さん、若先生は雪子さんよりもずっと大人だ。ほとんど完成された人間だ。最新医療技術を学び、あの大きな病院を背負い、働いている全スタッフの生活を担なう、そんな厳しい宿命の人生を送らなければならない。気の毒な人だ。その若先生があなたを選んだのは何故だかわかりますか」

 雪子はいっそう怪訝な表情を浮かべ、

「いえ、何も、わかりません……」


「若先生はこれまでいろんな女性と巡り会われたと思います。その方々が持っていなかった魅力が雪子さんにあるからです。それは未完成ではあるが、とても不思議で大きなものです。あなたはそれに気づいていない。若先生を支えられるように早く大人になりなさい。だが、人生というものは何が起こるかわからないもので、若先生よりも雪子さんを大切にしてくれる人に出会うかも知れません。その方と人生を歩まれるのもいいでしょう。そのときは~~」


 院長の言葉を星野が遮った。

「親父、もういいだろう。ユッコを混乱させて面白がっているのか? 聞いてられない。ユッコ、秋月さんがイラついて待ってるぜ。早く行ってやれ」

「長々と説教をして悪かった。雪子さん、私にも時々は便りをください。それでは、元気で頑張ってください」

 雪子は微笑んで退っていった。


 タクシーに乗り込む雪子に、

「とんでもないことをクドクド言ってたが、気にするな。親父に代わってオレが謝る」

「いえ、院長先生は私を心配してくださったのです」

「悪かったな。親父の言い草は秋月さんが最も嫌う、イジルってことだ。それにしても、親父がユッコのペンフレンド志願とはなあ、オレは呆れた。秋月さんによろしく言ってくれ。じゃあな」


 時計の針は午後2時を指そうとしている。秋月は待っていた。成人式は午前中に終わったはずだが、雪子の姿は見えない。ロビーから車寄せを見る。エンジン音が近づくたびに、部屋とロビーを幾度往復しただろう。父の院長は、階段を上ったり降りたりする息子が今まで一度も見せたことがない、思春期の少年に似た自信のない表情をしていることに気づいて笑っていた。


 やっとロビーに雪子が着いた。

「ごめんなさい、先生。星野院長がなかなか離してくれなくって大変でした。遅れてごめんなさい」

 微笑んで佇む雪子を見て、秋月は何も言えなかった。雪のように白く透明な肌に赤く塗られた小さな唇。黒綸子地に大輪の白百合と手鞠が舞う大振袖。固唾を呑んで見とれていた。どう表現すればいいんだ、何と言えばいいんだと。秋月は時間が止まったかのように見つめ続け、時間が止まって欲しいと願った。


「蒼一、待ちに待ったお嬢さんじゃないか、見とれていないで案内しなさい。西崎さん、成人おめでとう。ゆっくりして行きなさい。私はこれで失礼するよ」

 父親の声で秋月は我に返った。

「先生、遅くなったので怒ってますか? 機嫌を直してください。先生の顔、怖いです」

「怒っているのではない、つい見とれていた。とても綺麗だ! どう言えばいいんだ? 雪子、キミはいつの間にこんなに美しくなったのか、それは反則だ。それは絶対に許せない! ダメだ」

 秋月は雪子の手を取り、部屋に招き入れた。


 部屋に入るなり、雪子の肩先を覆っていたショールを剥ぎ取って、抱きしめた。

「せ・ん・せ・い、息ができない……」

 潤んだ瞳で秋月を見つめ、雪子は喘ぐように呟いた。

 秋月は雪子をじっと見つめた。これが大人のキスだと一方的に唇を奪ったとき、雪子は眼を見開いて抗った。次にキスしたときはギュッと眼を閉じて震えていた。それがいつのまにか、引き込まれそうな艶やかさを秘めた女へと変身しようとしている。それを雪子はわかってはいない。


「雪子、おめでとう。やっと半人前になったね。乾杯しよう!」

 2つのグラスを持ち、ブランデーを注いだ。

「えーっ、半人前ですか? 大人じゃないのですか。私、もう大人です!」

 唇を尖らせた雪子の唇を塞ぎ、

「そんなに急ぐな、ゆっくり大人になっていけばいい。大人っていいことばかりじゃないぞ。雪子はこのままでいい。大人にならなくても半人前でも、それでいい。雪子であればそれでいい」

 秋月は苦しくなった。雪子は気づいていないが男を引きつける何かを持っている、それが開花しようとしている。


「写真を撮ろう。雪子が半人前のまま翔び立つ記念だ。さあ、おいで、ここに立ってごらん。撮すよ」

 何度も何度もファインダーを覗いて雪子を確かめた。どれも雪子だが、幼女のように無邪気な雪子、気取った女子大生の雪子、穢れを知らない乙女の雪子、潤んだ瞳で男を誘う雪子。秋月は未知の雪子を見せられて動揺した。

「先生、一緒に写ってくださーい。先生と一緒の写真、欲しいです」

 雪子の無心に負けて、セルフタイマーでふたりの写真を数枚撮った。


 カメラを片付けていた秋月の足元に雪子が崩れ落ちた。秋月に恐怖とともに歓喜が走った。

「どうした!」

 抱き起こされた雪子は、

「緊張が解けたら突然クラクラしちゃいました。先生、私、朝から何も食べていないんです。そのせいですか」

 秋月は失望した。ここで雪子が病気になれば俺に時間が戻ってくる。しかし、雪子は細くはあるが健康そのものだ。若鮎のように陽光で跳び跳ね、清流でひねもすに違いない。若さとは恐ろしいものだ。秋月は雪子が放つ若さのすべてを呪った。だがそのすべてを愛しているのだと思うと、無性に悲しかった。


「車を呼んで、食事に行くか?」と聞いた秋月に、

「ううん、行きません、行きたくないです」

「腹ペコなんだろう」とからかったら、

「お腹が空いても当分は死にません」

 当分か…… 秋月は苦笑した。

「ピザだったらあるぞ。食べるか?」

「はい、いただきます」


 秋月はキッチンに行き、大型冷凍冷蔵庫を開いてピザを取り出し、電子レンジに放り込んだ。温められて熱々のピザに雪子は感心した。「ボタンひとつで解凍できて、熱々になって食べられるのってすごいです!」、まるで、秋月が電子レンジを発明したかのように感動した。


 そのくせ、襟元にハンカチを広げて冬眠前のリスのように両手でピザを持ち、眼を白黒させてモグモグと両頬を膨らませて食べている姿は、秋月を大笑いさせた。ガキだってこんな食い方はしない。こんなに笑ったのは、水球部のアレ以来3回目だ。なぜ雪子はこんなにも楽しませてくれるのか。もっと一緒にいたい、離したくない思いがほろ苦く込み上げた。

「そんなに笑わないでください。ピザが熱すぎて口の中でふうふう転がしていたんです。あ~ 熱かったぁ。猫舌なんです」

 笑われた雪子は不満そうに言い訳した。

 氷のカケラを口に含み、雪子の口の中に転がした。冬眠前のリスは「フー冷たい」と眼を閉じた。


「私、19日の月曜日に大学に戻ります。病気してたから何だか短かったなあ……」

 秋月の儚い夢は崩れ散った。

「ふーっ、そうか…… 少しぐらい後期授業に遅れたっていいじゃないか。しかも、2月の中頃から入学試験のために在校生は春休みに入るはずだ。いっそ春休みが終わるまで福岡にいるってのはどうだ?」

「何言ってるんですか、学年末試験は受けないとダメです。先生、学生時代を忘れましたぁ? 学生には辛~い試験が待ってるんですよ。私、難波田教授の『社会経済学原論』は落としたくありません。できれば優が欲しいなあ」


「難波田教授とは東大で教鞭をとっていた、あの難波田春男先生のことか?」

「そうです。お爺ちゃまですけどね。10月頃だったかな、難波田教授の授業中に革マル派の人たちが教室に入ってきて、大声で教授を罵倒したことがありました。戦犯とか御用学者とか言って罵りました。教授は淡々と講義を続けてくれましたが、次の週も革マル派の人たちが教室に来たんです。

 私、つい革マル派の人たちに言ってしまいました。大勢でやって来るなんて卑怯です。何か言いたいことがあるなら、1人で来て話せばいいじゃないですか。授業妨害して、早稲田の学生として恥ずかしいと思いませんかって。星野さんは止めろって私を引っ張りました。でも、革マル派の人たちは帰ってくれました」


 話を聞いた秋月は、雪子はなんと世間知らずで無鉄砲なやつだ。襲撃されたらどうするんだ、内ゲバや襲撃のニュースが頭をかすめた。1960年前後の学生運動を体験しているが故に真っ青になった。ああ、大学には戻したくはない、危険だ。頭を抱えて悔やんだ。


「先生、酔ったのですか? この話には続きがあるのですが、聞いてくれますか?」

「ああ……」

 力なく呟いた。

「難波田教授とたまたま廊下で出会ったら、『たった一人で声をあげた女性の貴方に驚きました。女性の声が届く、そのような社会を貴方たちの世代で作ってください』とおっしゃったんです。だから試験を落とすわけにはいきません」

「うーーーん」

 秋月は唸った。そして、「先生、学生時代を忘れましたぁ?」の言葉にショックを受けた。そればかりではない、革マル派に意見したとは。それが男子学生であれば確実に袋叩きになっているはずだ。しかし、何事もなく雪子はここにいる。


「その後、革マル派の学生たちはどうしたんだ?」

「どうって?」

「待ち伏せされたことや危ない目には遭わなかったか?」

「ああ、そのことですか。数日後、6号館前で革マル派の汐見委員長に呼び止められました。うわっと緊張しました。だけど、汐見さんは『何もわかっていないノンポリの女子学生には手を出さない。出すなと言っておいた。安心してくれ、僕を信じてくれ』と言いました。そのときの汐見さん、すごく素敵でした」

「シオミ委員長とはあの有名な京大の塩見か?」

「違います。サンズイに夕暮れのユウです。でも、汐見さんって怖い人だと思いました」

「なぜだ? 雪子によると素敵な人ではないのか?」

「うまく言えませんが、生真面目で絶対に妥協しない人だと感じました。自分の考えと違う人を絶対に許さない人です。だから近づいてはいけないと思いました」


 なるほど、どうやら雪子だけが持っている感受性で人を見分けているらしい。だが、その感受性が人を魅了しているのかも知れないが、どう考えても天真爛漫すぎる雪子が心配だ。気が狂いそうなくらい心配だ。


 自分は外科医としての腕はまあまあだと自負している。病院は県下一の医療設備とベッド数を誇っている。雪子の励ましで成功した手術以来、来院者数は爆発的に増加している。分院の建設計画も順調に進展しているらしい。よほどの投資を必要としない限り、病院経営は安泰だろう。それがなんだ、どうした? 俺に残ったものはあるか? 俺が持っているものはあるか? それで俺は幸せか? 自分に訊く。俺は雪子を持っているかどうか自信はない。しかし、たったひとつ失いたくないもの、それが雪子だ。雪子といるときだけが幸せだ。もうすぐ俺は31歳になるが雪子はやっと20歳になる。

 星野が言っていた。「ユッコの青春を奪ってはいけない」と。俺には辛い言葉だ。奪おうとしてもどうにもならない、そう自分に言い聞かせようとした。


 秋月は、冬眠前のリスに言った。

「18日の日曜日、時間をくれないか? 海に行こう」

「えーっ、海ですか! でも、私、泳げません」

 振袖姿で髪を結い上げていなかったら、ポカリと頭を叩いていただろう、秋月は呆れた。誰が真冬の玄界灘で泳ごうと誘ったか? 雪子はこんなやつなんだ。これが雪子である証明かと思い、苦笑いするしかなかった。

「雪子が凍え死んだら可哀想だから泳ぎはしない。泳ぐのは夏までとっておこう。冬の海を見たいんだ、いいね。行こう」

「そうですよね、真面目な顔をして私を驚かせるんだから。あー、びっくりしました。行きます。とっても嬉しいです。ふふっ、デートですよね。サンドイッチを作ります。何か食べたいリクエストってありますぅ?」

 キミのリアクションに驚いたのは俺の方だよと言いたかったが、笑いを押し殺して、

「無理しなくていいよ。冷たい風が吹きそうだ。暖かくてラフな格好がいい。迎えに行くからな」



◆家庭教師でも主治医でもない、ただの秋月蒼一になった。


 1月18日(日)、迎えに来た秋月の白いセーターにGパンと革ジャン、レイバンのサングラス姿を見て雪子は驚いた。

「うあっ、先生がGパンだなんて思ってませんでした。足が長~い。いいなあ、羨ましい。よく似合ってますよー」

「こら、大人をからかうな」

 まんざらでもない表情で秋月は雪子を見た。若草色のワンピースに白いカーディガンを重ねている。春まだ浅く残雪が残る頃、人目を避けて顔を出す新芽を思わせた。

「約束したサンドイッチ、頑張って作ったんですよ。食べてくれます?」

「うん、楽しみだ。さあ乗って」

 

 豪快なエンジン音を響かせ、2000GTは博多湾に向かった。どの海岸に行こうか、どこの景色を見せようか、そんなことはどうでもいい。明日、消えてしまう雪子を独占したいだけで車を走らせている、そんな自分に失望していた。

 星野に「俺には青春はなかった、何もなかった」と言ったが、本当に何もなかったのか、思い出したくもない記憶を探ってみた。


 九大医学部に現役合格した俺は教授たちから歓迎された。自分たちが指導した学生の就職先として秋月総合病院とコネクションを結びたいからだ。大学で俺は大事にされた。試験では出題範囲を教えて恩を着せようとする教授がいた。俺はいい気になった。女には不自由しなかった。ナースは医者と結婚する夢を、女医の卵は実家の医院を大きくしたいために、若先生の看板を背負った俺に体を開いた。そのうち、俺を軽蔑するもうひとつの俺の存在に気づいた。そして雪子と出会った。


 秋月は思った。雪子が欲しい。どこへも行けないように俺のものにしたい。それは旅立つ雪子に烙印を押すことなのか? もし離れることがあっても俺を忘れないでくれという、卑劣な烙印か? 雪子の彷徨う心を無視して俺の欲望を遂げることは簡単かも知れない。どんなに泣き叫んでも決して手を緩めないだろう。そうやって雪子を蹂躙して何が残るか? 残るものは悔恨と絶望だろう。ああ、一体俺は何を考えている、秋月は頭を振った。


「先生、どうしたんですかぁ?、大丈夫ですか、車酔いですか?」

 心配した雪子の声で現実に引き戻された。

「バカ、僕が車酔いするか? したことあるか? 運転する人間は車酔いはしないものだ」

 よくそんな発想をするなと呆れた。

「はい」

 秋月の額に手を当て心配する仕草が言葉が可愛かった、たまらないほどいじらしく思えた。これ以上密閉された車内に雪子といることに耐えられない。抑えきれない欲望が暴走しそうだ。国道から外れた小道に2000GTを停めた。


「外の空気を吸いたい。外に出よう」

「そうですね、先生なんだかヘンですもの、ホントに大丈夫ですか」

 雪子はサンドイッチを入れたバスケットと魔法瓶を抱えて、外に出た。

 思いのほか暖かい陽だまりを見つけたふたりは腰を下ろした。

「先生、少し早いけどお昼にしませんか、熱はなさそうだけど、食欲はあります?」

「熱はなさそうだけど」のセリフに秋月は笑った。主治医の俺が何度も患者に労られている。おかしかった。

「聞いてもらえますか。午前3時まで仕事をしていて、少し仮眠してからお迎えに来たのです。だから腹ペコです。どうぞサンドイッチを分けてください」

 ふざける秋月に雪子は手を叩いて喜んだ。口を開いて待っている秋月にサンドイッチを一口大にちぎり、そっと入れた。


 魔法瓶から注がれた紅茶が芳醇な香りを漂わせた。こんなに緩やかに流れる時間を過ごしたことがあるだろうか、秋月は思い出そうとした。ひとつだけ記憶がある。雪子が初めて俺の胸に飛び込んで、泣き疲れて眠った午後のことだ。ベッドに移そうと抱えたが、しがみついて離れず、一緒にベッドに入ったことを…… あのとき、愛する人の傍で眠ることは、こんなにも温かく幸せなことなのかと初めてわかった。怯えて子犬のように丸くなって眠る人を、いつまでも抱いていたいと思った。そしていつのまにか、その幸せに包まれて自分も眠りに落ちてしまった日を思い出した。


「先生、よっぽどお腹空いていたんですね。私が2個食べてる間にぜーんぶ食べちゃいました」 

 雪子は楽しそうに笑っていた。

「旨かった。特に卵とサーモンをミックスしたサンドがね。こんなに旨いサンドイッチは久し振りだなあ。ありがとう」

「えー、ウソでしょ。お母様は作ってくれないんですか? ごめんなさい。余計なことを言って」

「気にするな。医者という職業は決まった時間に食事できないことが多いんだ。今日も午前3時まで面倒な作業をやっていた。だから家族揃ってメシを食うことは少ない。食事は家政婦さんが用意してくれるが、5時には帰ってしまう。冷凍庫に食品が保管されている理由がわかっただろう」

「あの~ 朝までお仕事をして、たった一人で冷凍食品を食べるのですか」

「そうだ。今日は雪子がサンドイッチを作ってくれる約束だったから、何も食べずに来たが」

「先生、やっぱり可哀想……」


 もし雪子が妻だったら、子供が眠ってしまった深夜に帰っても温かい食事を出してくれるだろう。『早まってはいけない。大きな愛に導かれた欲を育てろ』と篠崎さんは言っていた。だがいつまで待てばいいのか……

「あはは、ついに患者から同情されたか、そろそろ車に戻ろう」

 

 しばらく海岸線をなぞり、海を臨む高台に車を停めた。冷たい風は遠く離れるふたりに容赦なく吹きつけた。

「あれが能古島、あっちが志賀島だ。能古島の『おさよ伝説』を知ってるか?」

「能古島には遠足で行きましたけど、伝説は知りません」

「悲しい話だ。おさよという女性が愛する夫を残して死んでいく話だ。夫を愛しているから彼女は死んだ。今でも夜のしじまに、おさよの声が聴こえるそうだ」

「そんな悲しい話はしないでください。先生、私、約束します」

「なにを?」

「先生以外の男の人と絶対にキスしません。約束します」

 はあ? 雪子は今なんと言ったのか、耳を疑った。思わず殴りたくなって雪子を睨んだ。

「からかっているのか! 僕をからかって面白がっているのか、どうなんだ!」

「違います! 本当のことを言っているのです、そんなに怖い顔をしないでください。辛いです」

 秋月は、ふーっと長い長いため息をついた。


「明日、スカイメイトで東京に行きます」

「そうだったなあ……」

 落胆した秋月は無愛想に応えた。

「そんなに怖い顔をしないで聞いてください。東京に戻るのではありません、東京に行くのです。私が戻って来るのは先生のところです。先生の胸に必ず戻って来ます。手紙を書きます、だから信じてください。お願いです」 

 その言葉に驚いた。雪子を抱きしめて泣いた。いつの間にこんな言葉が言えるようになったのか。苦しみながら成長したようだ。苦しめたのは俺に違いない、そう思いたい。雪子を信じられずに腹を立てた自分が恥ずかしかった。


 秋月は幸せだった。温かい光にやっと巡り会えた気分だった。

「ひとつだけ約束してくれ。僕はもう家庭教師ではない、主治医でもない。雪子の先生ではなく、秋月蒼一という、ただの男だ。このただの男の胸に戻って来い」

「はい」

 静止した時空に身を委ねて、ふたりは肩を寄せ、いつまでも夕陽を見つめていた。


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