私こと清水永遠子。
私は所謂転生というものを経験しており、前世の記憶とやらも朧気ではあるが存在する。 その頃は両親と弟と私の四人で生活しており、私はどうやら社会人のようであった。年齢ははっきりとは思い出せないが、大体20代くらいであろう、社会人としてはひよっこであるかもしれないが全くもって右も左も分からぬようなくらいの年齢ではなかったように思う。
交通事故なのか、病気なのか、死因も全く思い出せない。そもそも死んだこともわからない。冒頭で転生、前世などと言ってはいるがその実トリップ、とかいうものなのかもしれない。便宜上、私に微かに残った記憶は「前世」とする。
それはさておき、その「前世」での私は貴重な週休二日を部屋のベッドに転がりながら少女漫画を読むのに費やすことを好んでいた。
性別もよく思い出せないが、シンプルだが窓際に置かれた花瓶に差された淡い色の花、壁に飾られたドライフラワー。机に置かれた小さなテディベア。漫画の趣味もどうも女性的である。そういった男性であったかもしれないが、私は女性だったような気がする。
本棚に収納されたものの中で1番新しいもののタイトルは「アタシの王子様」。当時、ティーンの間で流行し、ドラマ化された作品であった。
主人公は木之本ひなた。
明るく真っ直ぐな「イケメンとの恋愛結婚」を夢見る高校生が恋を知り、成長していくストーリーだ。
王道的少女漫画であり、甘酸っぱい展開や、特に男の子キャラを魅力的に描かれているようなところが10代女子の心を鷲掴みにしていたようだ。
ただ、悲しいかな。私はこの話の結末はおろか話の展開もまともに覚えてはいない。覚えている部分は非常に断片的なものだ。読んでいる途中でトリップ、あるいは亡くなったのかもしれない。
気がついたら私は小学校を卒業し、中学生になっていた。
私が「前世」を思い出した頃は中学生の頃である。
名は清水永遠子。周囲からはとわ、とわちゃん、などと呼ばれていた。
中学まで永遠子として「前世」の記憶など1ミリも思い出すことなくのんびり暮らしてきて急に何故そんなことが起きたのか。
平和に過ごしてきた私にとって大きな衝撃が与えられたのだ。
あまり思い出したくはないが、中学の頃にお付き合いをしていた彼、今となっては元彼氏が「ただの幼馴染」「恋愛感情とかないない」なんて言っていたその幼馴染の女子生徒と教室でキスを交わしているところを目撃してしまったのだ。
その瞬間に、私は怒涛のように「前世」を思い出した。
怒涛といっても、かなりふわふわした詳細を思い出せないくらいの記憶なのだけど。
幼馴染と元彼氏がキスを交わしていた放課後の教室も見事な茜色で、思い出した「前世」の中に全く色味のない線で描かれた教室の背景が記憶を掠めた。それと被るように木之本ひなたと黒髪の、背の高い男子生徒のキスシーン。
漠然と、ここは「アタシの王子様」の世界なのだと私は理解したのだ。
唐突だが私は、「アタシの王子様」の世界だったとして、折角だから読んでいた漫画のキャラに関わろう、とかモブとして好きなキャラを観察しよう、とかキャラにはなるべく関わらないように努力しよう、とかなんとかは考えていない。
関わる時は関わるだろうし、そうでなければそのままでいい。そこは流れに身を任せようと思っている。
きっと私の存在は「アタシの王子様」には本来無いはずのものだ。清水永遠子と名前はついているものの、それはこの世界に存在してしまったからであってそれ以上でもなく以下でもない。
私は私の視点では主役だが、それは他のモブにも当てはまることだ。木之本ひなたと他主要な登場人物以外皆そんなものだ。
何が言いたいかといえば私はこの世界でも「前世」と変わらず普通に過ごすということだ。
私の目指す普通というのは大変にシンプルで、20代のうちに結婚し、子供を作り、独立した子供を見送って愛した旦那様と老後を過ごすということだ。いつ、何がどうなるか分からないので、出来れば兼業主婦がいいなとは思っている。
ああ、決して結婚して子供を産むことが普通ということではない。
独身だろうが子供が居なかろうが夢を追っていようが出来るならば波乱万丈ではない人生を送りたいというところだ。……転生かもしれないことを経験しておいてなんだが。
さて、話を戻そう。そんな私の今後には何がどうしてそうなったかは知る由もないが「全く恋愛対象じゃない幼馴染」とキスをするような男は不要なのだ。
何故か私を見つけた途端に待ってくれ、と追いかけてくる元彼氏と「やだ、行かないで! 」なんて騒ぐ元彼氏の幼馴染を振り切り、中学時代は幕を閉じたのであった。
ちなみに私は「自称サバサバ系」というやつが嫌いである。元彼氏の幼馴染がそうであったからだ。
そんなにあっさり捨てられるなら元彼氏のことはそんなに好きじゃなかったんじゃないの?だって?
バカタレが。青二才が。
「こいつなんか全然恋愛対象じゃないって! 男みたいなもん! 」
と、元彼氏。
「私だってアンタなんかお断りだわ! 男みたい、じゃなくてサバサバしてるの! 」
と、元彼氏の幼馴染。
なんでもない時にふっと何故か頭を掠める会話。
少なくとも馬に身体引きずらせてズダボロにしたいくらいの憎悪が一瞬で沸くほどには元彼氏とその幼馴染はトラウマだ。私に初めに気づいたときに口角を上げて元彼氏に抱きついていた元彼幼馴染のあの顔は今でも忘れない。私は根に持つ方だ。
と、そんなどうでもいいがどうでも良くない複雑で繊細な感情を吐き出すのはこれくらいにしておこう。
高校1年生でそのまま地元の高校へと進学したはいいものの、私は父親の転勤によって5月という非常に半端な時期での転校を余儀なくされた。仲の良い友達は居たがこればかりは仕方ない。文字通り泣く泣くお別れしたのだ。
元彼氏とお別れしてすぐにそいつが好きだった長い黒髪をぱつんと切りっぱなしのボブにしたのだが、友人たちにお披露目する期間は大変に短かった。
さて、転校先が決まる前の私にはまだここが「アタシの王子様」の世界である確証は無かった。
それもそうだろう、主要人物も現れていなければ関わった人々……、元彼氏やその幼馴染も作品の登場人物ではなかったからだ。
もしかしたら私が主人公の世界に転生したのかもしれないという考えにも至ったが、全身を鏡で見た時にはそれを思い切り否定していた。
顔やスタイルは悪くない。ややキツめかもしれないが美人の部類に入るだろう。好みはあるだろうが。
ならばどこが主人公足り得ないのか。
胸がでかい。
そう、私は胸が大きめなのだ。脱いだらすごいとかいうものではなく、脱がなくてもああ、大きいんだなと分かるくらいだ。
ティーン系漫画の主人公の胸は大概「成長途中なの! 」と主張できる小胸か脱いだら実はあるのね、というくらいのサイズなのだ。よって私はTL漫画ならまだしも少女漫画の主人公ではない。とんだ偏見であることは自覚している。
もしかしたらそのTL漫画の世界の主人公の可能性も十二分にあるわけだが個人的に少女漫画の方を好んでいるのでそれはそれだ。一旦置いておこう。
少し話が逸れたが、私が通っていた高校と同じくらいのレベルであり、自宅から通える範囲の学校の候補に「桜ヶ丘学園」という学校名を確認した。この流れであえての説明だが、この学校は「アタシの王子様」で主人公たちが通う学校でる。
同じ名前の学校などいくらでもとは言わないがあるだろうなんて思いながらも心のどこかではやや高揚している自分がいた。ミーハーだったのかもしれない。
とはいえたったそれだけの理由で決める訳にもいかない。有数の進学校であってここ数年では就職に力も入れている、学問だけではなく運動部系の殆どにおいても強豪校として名前が上がるらしいことを知り、この学園の編入試験を受け、無事合格した。
ここが「アタシの王子様」の世界だろうがそうでなかろうが些細な問題である。私が私として生まれた以上、私の人生を歩むだけなのだから。