プロローグ
「そろそろ1週間くらいか。学校には慣れたか?」
気だるそうな、しかし優しさを帯びた声の主は私の担任の教師であり、ほんのりと煙草の香りのするスーツを纏っている。その問いに、私は意識するわけでもなく社交辞令的に微笑んだ。
「すっかり、というわけではありませんが何人か仲良くしてくれる子が居ますので、初日のような心細さはもう無いです。」
「そりゃ良かった。こっちに来てから日も経ってねえし慣れるまでそりゃ時間かかるよな。」
口元に微かな笑みを浮かべた担任は「なんかあったら遠慮なく言えよ」と続ける。
新しく出来た友人たちからは、やる気なさそうに見えていい先生だよなんて称されていることを思い出した。
にこりと笑って頷くと、担任が手に持っているA4サイズの用紙に視線が動く。それに気がついた彼は思い出したとばかりに口を開いた。
「そうだった。何も世間話するためだけに呼び止めたんじゃねえんだ。うちの学校……他もそうか? まあ、年に何度か進路希望書いてもらってんだ。それ参考に何度か面談もする。そこそこ考えとかなきゃならん時期ではあるけど、大体3年になってから本格的に考える奴らのが多いし、気楽に書いてくれていい。○○系の学校、仕事、とか。……イケメンのお嫁さん、なんて書き出す阿呆もいるがな! 」
言いながら担任は背後から忍び寄り、すぐ近くに来ていた女子生徒に拳骨をお見舞いする。ギャア!と言いながら女子生徒はそのまま床にへたりこんでしまった。
「せんせー! 暴力反対! 」
「暴力反対! じゃねえ! 進路希望表くらいまともに書けねえのか、木之本ひなた! 」
「さっき気楽に書いてくれていいって言ってたじゃん〜! 」
半泣きで騒ぐ女子生徒に「てめえに言ったんじゃねえ! バカ本! 」と吠えつつ咳払いをし、私に向き直る。
「とはいえ別にお嫁さんが悪いというわけではない。中見次第。こいつの場合、中身がすっからかん、脳みそお花畑、何も考えずに書いたことが透けて見えるから鉄拳制裁を喰らってるんだ。」
「提出期限はいつまでですか?」
「明後日の放課後までに出してくれればそれでいい。用事はそんだけだ。何か質問あるか?」
「いえ、特にはないです。それじゃあ失礼します。」
「おう。気をつけて帰れよ。木之本、てめえは残れ。このクソみてえな進路希望の面談。」
「ひどい〜。」
首根っこを掴まれ、女子生徒は引きずられていく。
担任の背中を見送りながら、さようなら、と呟くとしっかりと聞こえたようで、ひらひらと手を振っていた。
窓際から覗く夕陽が、放課後の教室を茜色に照らしている。リアルに存在するはずの椅子や机、黒板にロッカーがどうしてかやけに線画じみたものとして頭を過ぎる。
ああ、記憶だ、とぼんやりと感じた。
救急車のサイレンが遠ざかっていくそれに似た女子生徒の声に、人間ドップラー効果、と思わずくすりと笑ってしまう。
私はこの光景を知っている。初対面で、同じクラスだが話をしたこともない女子生徒。前髪をちょんまげのように結んだショートヘアに体操着姿。本来はこのまま部活へ行くのであったのだろう。
彼女は吹奏楽部であり、成績はよろしくなく、いつも赤点。男女問わずに友達がたくさんいる、笑った顔がひまわりのように明るく眩しい、2年A組の元気印。
この学校に転校して1週間しか経たないにも関わらず、私はこの女子生徒を知っているのだ。
木之本ひなた。
私の知る「漫画」の主人公である。
「清水さーーん! じゃあねーーー!! 」
そして私は主人公からは苗字呼びの、この文末にようやく名前が出てくるくらいの創作の世界で言うならそう。
モブキャラである。