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神奇世界のシグムンド  作者: 上川 勲宜
第1章 群衆を築く妖刀
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第4話 忍び寄る非日常

 ハッと、とび起きるようにして志具はその身を起こした。掛け布団が豪快に志具の身体からはねのけられる。


 べったりとパジャマが肌にくっつくほどに汗をかいており、気持ち悪かった。


 ――何だったのだろうか、あれは……。


 夢……なのか? それにしては現実感のある夢である気がした。身体がそう訴えかけている。決して幻なのではない、ということを。


 それにしては……、と志具。かつて体験した出来事にしては、彼の記憶に残っていなかった。だいたい、あのような体験をすれば、嫌でも憶えているものだと思う。それだけ強烈なインパクトがあった。


 思案に暮れていたときだった。


「おっはよー、志具……って、なんだ。もう起きてたのか」


 部屋の扉が開かれ、明るく清々した声とともに入ってきたななせは、すでに起きていた志具の姿を見て、どこかがっかりした様子だった。


「私が起きてたら、なにか不都合でもあったか?」


「あるに決まってるだろ!」


 念のために訊いた志具に、ななせはさも当然のように、語気強く言った。志具が驚いている間にも、ななせはたらたらと言葉を紡ぎ始める。


「せっかくお前が寝ている隙を狙ってお目覚めのキスのひとつでもしてやろうと思ってたのに……。それでまどろみの中にいる間に既成事実をつくって、あとは……ふふふふ……。――あたしが練りに練ったプランを返せ!」


 なるほど、と志具。どうやら自分には、ゆっくりと眠れる時間すら与えられないらしい。無防備に寝てしまったが最後、骨の髄までしゃぶられる。これからは普段よりも十分ほど早く目覚める必要がある。そうでなければ…………喰われる。志具は自分が狩られる側だということを悟った瞬間であった。


「……って志具。ずいぶんと汗かいてるな。そんなに昨日、暑かったのか?」


 志具の異変に気づき、ななせは不思議そうに尋ねた。春になったとはいえ、まだ夜の気温は寒いものがある。汗をかくほどとは考えられなかったのだろう。


「いや、別に……」


「さ・て・は~。ベッドで昨晩、お楽しみ中だったのか~? ――もう、そんなひとり充電しなくても、今はあたしがいるんだから呼んでくれたらよかったのに」


「却下に決まっているだろう!」


「おやおやぁ? 志具、充電っていうのが何を意味しているのか、わかったんだな」


「そ、それは……」


 確実についてくるな、こいつは……、と志具は冷や汗をたらり。


 そんな彼を見て、ななせはニヤニヤと含み笑いを漏らすと、


「ふっふっふ~。恥ずかしがることじゃないさ。志具とて健全な男子高校生。そういうものに興味を持っていたとしても、な~んにも不思議じゃないんだからな☆」


 茶目っ気たっぷりに言って見せるななせ。ウインクをしてくるところが腹立たしかった。


 とはいえ、これ以上何も言わなければ、あらぬ誤解を増幅させてしまうことだろう。隠しておく必要もないことなので、志具は素直に白状する。


「そいういうのではない。その……変な夢を見たんだ」


「変な夢?」


 訝しげな顔になるななせ。


 ああ、と志具は頷き、夢の内容を説明した。


 父親に連れられ、たどり着いた場所。


 あたり一面に広がる緑の芝生。


 一本のリンゴの大樹。


 その根もとに突き刺さっていた大剣。


 その大剣を、自分が引き抜いたこと。


 そしてその大剣が、自分の身体に取り込まれたこと。


 一通り話を聞いたななせの表情は……目を丸くさせていた。


 驚愕、という感情が、存分に込められたその眼。


 そんな眼差しを向けられるとは思っていなかった志具は、少々狼狽える。


「な……どうしたんだ?」


 訊かずにはいられなかった。


 ななせは志具の言葉でハッと我に返ると、真剣な表情で彼に尋ねた。


「志具。その部屋の鍵は?」


 部屋の鍵というのは、階段下の小部屋のもののことを言っているのだろう。


「多分……両親の部屋にあると思うぞ」


 それを聞くと、ななせはそそくさと無言で志具の部屋を出ていった。


 ――どうしたのだろうか?


 ななせとの付き合いはまだ短いが、彼女があのような振る舞いをするのは妙な感じがする。


 気になった志具は、パジャマから学校指定の制服へと着替えると、自分の部屋を出た。直後に、志具の両親の部屋から出てきたななせと廊下ですれ違う。彼女の手には、ひとつの錆びついた鍵があった。


 志具はななせの後に続いた。やがて彼女が足を止めたのは、例の小部屋。


「万条院、どうしたんだ?」


 志具は尋ねるが、ななせは無言。ただ真剣な面持ちで部屋の鍵を開け、扉を開いた。


 長らく放置され続けていたせいか、湿気と埃、カビ臭さがすごかった。思わず二人はゴホゴホと咳こみ、目に入った埃を払う。


 そうして視界が明瞭になったとき……二人は見た。部屋に、地下へと続く階段を。


「そうか……。……でも、それはそうか。あたしの実家にもあるくらいだし、師匠は高位の魔術師なんだから、これがあってもおかしくないんだ……。ということは、ホライゾン・スペースを利用してあの場所に行くことができても不思議じゃない……」


 ぶつぶつと思案顔で言い出すななせ。


 そして彼女は志具を一瞥する。その眼差しは、彼の眼の奥から、彼の意志を読み取ろうとしているかのようだった。同時に、志具のことを値踏みするような、そんな眼差し……。


 なにを考えているのかは知らないが、不快だ。こういった目つきをする人は、たいていよからぬことを考えているものなのだから……。


「……万条院。どうするんだ? この先に、行ってみるのか?」


 志具の提案に、ななせは「いや」と首を左右に振った。


「今はいく必要がない。これが確認できただけで十分さ」


 まあ、近いうちに使うかもしれないけどな、とななせ。


 次に彼女は、志具に訊く。


「志具。お前は……本当に憶えていないのか?」


「なにをだ?」


 大剣のことを言っているのなら、志具は憶えていない。確信が持てる記憶がないのだから、夢と解釈するほかないのだ。


 志具の顔を、ななせはじっと鋭い眼で見つめる。


 やがて、「……そうか」と目を閉じた。嘘をついているわけではない、と見抜いたのだろう。


 次の瞬間には、ニカッとあっけらかんとした笑みを見せると、


「ごめんな。ちょっと引っかかることがあってさ」


「……それは、私に関係があることなのだろう?」


「……まあな。けど、知らないっていうのなら、あたしがこれ以上追及することはないさ」


 それは本心なのだろう。躊躇いというものを一切感じさせない、からっとしたものだった。


 切り替えるときは切り替える人間のようだ、と志具は理解する。粘着質なものを感じさせないところは、好感が持てた。


 ――だからといって、許嫁にするというわけではないがな。


 それとこれとは別問題、と志具。


「志具様、ななせ様。そんなところでなにをしていらっしゃるのですか?」


 居間の扉から顔を出した菜乃が、不思議そうに二人を見る。


 それに対し、ななせは、


「いや~、なに。夫婦の秘密の会談ってやつさ」


「なっ⁉」


 唐突な、ななせの発言に驚く志具。


 菜乃は頬に手を当て、


「あらあらまあまあ。さては今晩……おめでたいことを?」


「派手な花火を打ち上げてくれるみたいだぞ、志具が」


「まあまあ、志具様。女の子と一緒に住むことになって、早くも抑えきれなくなったのですね」


「ち、違……っ」


 あらぬ方向に話が進もうとしているため、志具が中断させようとするが、


「お気になさらなくていいですよ。むしろ、喜ばしいことです」


「明日は赤飯を頼むぞ、菜乃」


 はい、と菜乃はニコニコ笑顔で承諾する。


「人の話を聞けええええぇぇぇぇ――――――‼」


 志具の心からの叫びが、早朝に響き渡った。



 ――◆――◆――



「はぁ~」


 重いため息が、自然と志具の口からこぼれてくる。そんな志具に、ななせは、


「どうしたんだ、志具。溜息なんてついて。景気悪いぞ~」


 箸でおかずをつまみながら、そんなことを言う。溜息の元凶である人間からそんなことを言われても、余計に心労が積もるだけだった。


 現在は昼休み。場所は屋上。


 そこにいる面子は志具、ななせ、菜乃、なずな、マリアの五人だけだった。いつもなら、もっとほかの生徒の姿もあるはずなのだが、昨日からどうも、他の生徒たちが来る様子がまったくない。完全に、志具たち専用のスペースと化していた。


 志具が疲れているのは……まあ、いわずともわかるだろう。ななせが自分のことを「志具の許嫁」と発言したことにより、志具にはクラスの中が大層居づらい場所となってしまったのだ。


 同性からは志具の現在のポジションを羨ましがる人と妬む人、あるいはその両方の感情をもった輩がそれぞれ1:4:5ほどの割合でおり、女性たちからは「志具君はいったい誰を選ぶのだろう」という話題で盛り上がっている始末だ。


 ……まあ、女生徒たちからは妬みや嫉妬などという負の感情よりかは、興味本位のそれのほうが多いので、まだマシと言えるか……。あくまで、比べた場合の話だが。本当なら、どっちも御断りのものだ。


 そういった環境にずっといたために、志具の心はけっこうボロボロだった。誰かと立場が変われるのなら、是非ともお願いしたいところだ。


「ほら。元気ない時こそ、腹を満たして回復しないと」


 と言って、ななせは卵焼きを自分の箸でつまむと、それを志具の溜息によって開いた口に無理やり押し込んだ。突然だったので、ごほごほと少しせきこむ志具。


「な、ななせさん! そんなのずる……もとい、志具君は疲れているんだから、自分のペースで食べさせてあげないと駄目だよ!」


「今、『そんなのずるい!』って言いそうだったな?」


「そ、……そんなこと……ないよ? ナニ言ってるのカナ? ななせさんハ」


 言葉がところどころカタコトになるマリア。そんな彼女の様子を、面白そうに眺めるななせ。どっちがイニシアチブをもっているかは明らかだった。


「すごいです! 今のって、恋人同士がやることですよね?」


 そう興奮をあらわにしているのは、志具の後輩のなずなだった。なずなは目を星のようにキラキラと輝かせ、自分の弁当をつつくことを忘れてしまっている様子。


「これってあれですか? 先輩さんと許婚さんは、もうそこまでの関係に進んじゃってるってことですか?」


「そうだぞ~、なずな。あたしと志具はもう磁石のS極とN極、織姫と彦星のような関係になってるんだ」


「勝手なこと言うな!」


「そうだよ! まだ志具君は健全なの! 健全で、その……そういう大人なアレじゃないんだから! ……ね? 志具君」


「そ、そのとおりだ!」


 ななせの身勝手な発言に、志具とマリアは猛反論。そんな彼ら彼女らの様子を微笑ましく第三者の視点で楽しんでいる菜乃に、当事者たちは気づかない。


「え~? そうなんですか~? つまらないです」


 唇を尖らせて、ブーブー言うなずな。


「現実というのは、基本的にそういうものなんだ。自分が楽しいことばかりではないということ……わかったか?」


「は~い。……なんだか今の先輩さん、先生みたいです」


 それも教育指導の、と付け加えるなずな。鬱陶しい、とばかりの口調だったが、現実は現実。そこのところは、しっかりと正しておかなければならない。


「そうだそうだー。教師みたいなこと言って説教するなー」


「……専ら君のせいで説教くさいことを言わないといけなくなるんだが……、万条院」


 ギラリと鋭い眼差しを向ける志具。今の彼は、視線だけで小さな虫を殺せそうだ。


 そんな負のオーラを感じ取ったななせは、さすがに悪ふざけが過ぎたと思ったのか、「ははっ、すまんすまん」と謝罪した。


「……んで? 結局のところ二人は、どこまでいってるんですか?」


 ようやく鎮火しかけた話題を、再燃させようとする後輩に、志具は深く項垂れるしかなかった。



 ――◆――◆――


 放課後。西に太陽が傾き、空を茜色に染め上げる時刻。


 志具はマリアと一緒に下校していた。


 ななせは「少し用事があるから」と言って、菜乃は「食材を買いに行ってきます」と言って、なずなはそもそも、帰る方角が違うので、一緒に下校していない。なずなと菜乃は仕方ないにしても、ななせの「用事」とやらが気になったが、なにはともあれ、気疲れしない状況となってくれたので、志具としてはありがたかった。


「なんていうか志具君、ここ数日で一期に老けた感じがするね」


 さすがは昔ながらの幼馴染みというべきか、志具の異変をいち早く感知していた。志具は、「まあな」と短く答える。


「ななせさんはやっぱり、もう少し自重するべきだよね。い……いくら許嫁だからって……その……場所をかまわず志具君に必要以上近づくのは、どうかと思うよ。うん」


「まったくだ。私の平穏な日常が、あいつのせいで無茶苦茶だ」


「でも、志具君も志具君だよ。嫌なんだったらはっきりそう言ったほうがいいと思うよ?」


「あいつが言って聞くやつだと思うか?」


「え? そ、それは……」


 と、視線を泳がせるマリア。それが答えだということは明らかだった。

志具は本日何度目になるかわからない溜息を漏らす。


「で、でもっ、志具君は頑張ってるほうだよね? いきなり二人も身寄りが増えたのに、いつもと変わらずにいようとしてるんだもん」


 志具がさらに落ち込んだことを察したマリアは、どうにかフォローを入れようとする。必死にフォローしてくれるマリアに、志具は感謝の念を抱いた。


「ありがとう。正直、今のところ頼れるのはマリアだけだ」


「えっ? わたし……だけ?」


「ああ。菜乃は当然のようにななせの味方だし、なずなもあいつに手なずけられようとしているからな。ひとりだけでも味方がいると、心強いよ」


「こ、心強い……っ!」


 マリアの瞳に光が宿る。一等星のような光が。


 マリアの足取りが不意にとまり、その場でほけ~、と夢を見ているような表情になった。


 そんな幼馴染みに、志具は「どうした?」と言葉をかけると、マリアはハッと我に返り、志具のもとに駆け寄ると、


「志具君! わたし、がんばるよ! がんばって、志具君に悪い虫がつかないようにするから!」


 一念発起し、瞳の中に炎を宿して、志具にそう言った。


 いきなり変化したマリアの様子に、志具は多少うろたえながらも、「そ、そうか。ありがとう」と、彼女の善意を受け取ることにした。


「そしてゆくゆくは、志具君と…………きゃっ」


「私と……なんだ?」


「そ、そんなの……言えるわけないよ~。もうっ、志具君ったら、エ・ロ・ス❤ ――きゃっ」


 ピンク色に染まった頬に手をあて、ひとり想像の世界に旅立つマリア。


 ――……なんだろう。私はなにか、狙われているような気がする。マリアは私のことを護るというようなことを言ってくれたが、それはもしかすると、大きなミスだったのではなかろうか……。


 そんな嫌な予感が、心をよぎる。


 ――……いや、マリアはいいやつだ。それはこれまでの長い付き合いで、よくわかっていること。なにも不安になることはない。


 自分にそう言い聞かせることで気持ちを落ち着かせようとする志具。


 しかし、なぜだろう。隣にいるマリアの瞳に、いつもの春の陽気のように穏やかなものではなく、獲物を狙う肉食獣のようなそれが宿っているような気がしてならない。さしずめ今の自分は、ライオンに狙われているシマウマのようなものか……。


「…………あれ? 志具君、なんで距離を取ろうとするの?」


「いや……。なんだか狙われているような気がして」


「狙われている? それってもしかして、近くにななせさんがいるってこと?」


 なるほど。どうやら自覚できていないらしい。ストーカーが「自分はストーカーをしてるんじゃない! あの人を危険な人たちから護るために、つけまわしているだけだ!」と言っているのと同じ臭いを感じる。……ていうか、これはまんま、それなのではなかろうか? いや、まさかな。


 変な考えを頭から抹消しようと、志具は軽く首を左右に振った。そして、


「あの、マリア。私のことを護ってくれるのはありがたいことなんだが、ほどほどにしてくれると助かる」


「そ、そう? ……まあ、志具君がそう言うのなら、仕方ないか……」


 言いつつも、いまいち煮え切らないとばかりのマリア。この人を暴走させたら、いったいどのような結末を迎えるのだろう。……想像したくない。


 ななせたちが来て、幼馴染みの知らない一面を垣間見ているような気がして、人というのは身近な存在でも、まだまだわからないことがあるものだ、と新発見を見つける志具。ただ、できれば知りたくなかった。



 ――◆――◆――



 家に帰っても、まだななせたちは帰ってきていなかった。どうやら自分が一番乗りのようだ。


 帰ってきて、まず真っ先に調べたのは、例の扉だった。階段の横にある、部屋。


 志具はそこのドアノブを回し、何度か開閉を試みるが、開く気配が全くなかった。どうやら、ななせが鍵を閉めてしまったようだ。


 探してみようか、とも考えたが、開いたところで先に進む勇気がないため、徒労に終わるだけだと思い、やめた。


 ――昨日のは、本当に単なる夢だったのだろうか?


 そんな考えが浮かぶ。だけど、何度も言うが、夢にしてはやけに身体が「感覚」というものを憶えているような気がしてならない。あんな経験は、夢の中では到底味わうことなどできないだろう。


 こんなにも夢のことが気になるのは、ななせがあれほど珍妙な顔を見せたためか。


 それとも……自分が知らないといけないことだと、無意識のうちに考えているためか。


 志具が扉の前であれこれと思案に暮れていると、


「ただいま帰りました~。――あっ、志具様。もうお帰りになられていたんですか?」


 玄関の扉が開き、菜乃が両手に荷物を抱えて帰ってきた。


 買い物袋いっぱいに物が入っているらしかったので、志具は「まあな」と先ほどの菜乃の言葉に返事をした後、菜乃に駆け寄り、荷物を代わりに持つ。


「あらっ。ありがとうございます。志具様って、意外と真摯なんですね」


「『意外に』ってことは、君の中では私のイメージはどうなっているんだ?」


「それはもう決まっています。見目麗しい美女たちに囲まれてウハウハしている、ハーレム王です」


 たんぽぽのような笑顔でそんなことを言ってのける菜乃。げんこつのひとつでも見舞ってやろうかとも考えたが、よくよく考えればここ数日の自分は、傍目から見ればまさにそんな感じなので、文句のひとつも言えなかった。


 とはいえ、


「……ウハウハはしていないぞ」


「あら? それじゃ、他は認めるんですか?」


 いちいち言って確認してくるところが憎らしい。


 このメイド、相当に腹が黒いぞ。


 薄々気づいていたが、それが着々と確信に変わりつつあった。


「それより、ななせがまだ帰ってきていないのだが……」


「露骨に話を逸らしましたね?」


 言ってくるが、志具は無視する。


 ご主人様をいたぶるのはここら辺にしよう、ということなのか、菜乃はふふっ、と軽く笑みをこぼすと、それ以上の追撃をやめ、志具の質問に言葉を返す。


「ななせ様でしたら大丈夫です。少し遅くなるでしょうが、無事に帰ってきますよ」


「……無事に?」


 志具は菜乃のその単語を反復した。すると菜乃が一瞬、「あっ……!」とうっかりこぼしてしまった、とばかりの声を漏らしたのを、志具は見逃さなかった。


「……花月、いったいどういうことだ? 無事に、というのは」


「志具様、いったい何をそんなに詰め寄るように訊くんですか? さては……ななせ様のことを大切に思われているから、そんなに心配するんですね?」


「はぐらかさないでもらおうか。私の質問に答えろ」


 声色に険を込める志具。菜乃はそんな彼に少々驚いたように目を丸くさせていたが、やがてにこりと笑い、自分の人差し指を志具の口元にあてると、


「志具様。乙女の秘密を、そんなに鬼気迫る様子で聞くものじゃありませんよ。ななせ様なら大丈夫です。長年付き添っているわたしが言うのですから、間違いありません」


 そう言うと菜乃は、志具の傍らを通り過ぎ、二階にある自分の部屋に戻ろうとする。多分、いつものメイド服に着替えるのだろう。そのとき、階段を上がる途中で振り返ると、


「あっ、志具様。買い物袋は、台所に置いていてくださいね。あとでわたしが整理しますので」


 そう言い残すと、菜乃は自室へと向かって行ってしまった。


 ひとり残された志具は、納得できない様子で、ただただそこに立ち止まっていた。



 ――◆――◆――



 菜乃に言われたとおり、買い物袋を台所に置いていくと、志具は自分の部屋に行き、着替えを済ませた後にベッドに倒れ込んだ。


 途中、菜乃が部屋に入ってき、夕食はいったい何がいいかを訊いてきたが、志具は「なんでもいい」と答え、菜乃も「わかりました。では、わたしのお好みで決めちゃいますね」と言い、部屋を出て行った。


 ぼんやりとただ、天井を見つめる。そうすることで、今日の疲れが蒸気となって、身体から抜け出るような気がした。いっそ目を閉じて、このまま意識を深い夢の中へと落としてしまいたいほどだ。


 だけど、できなかった。どうしてか、志具は考えるが、思いのほか早く理由に行きつくことができた。


 万条院のやつ、いったい何してるんだか……。


 そう。原因はあの自称志具の許嫁。あいつが帰ってきていないからだ。


 何をしているんだか……。


 思うものの、実のところ、心当たりがないというわけではない。


 多分……辻斬り事件の犯人を捜しに行っているのだ。それしか考えられない。思い当たる節が、それしかなかった。


 放っておけばいい。


 どうせ自分には何もできないのだから……。下手に首を突っ込んでしまえば、かえって迷惑をかけるだけだ。


 そう考えるものの、頭の片隅でなにかが引っかかる。


 呆然と眺めていた白い天井に、ななせの顔が浮かび上がる。


「――っ」


 途端、頭をぶんぶんと左右に振って、ななせの顔を霧消させる。


 まったく……、と志具は溜息を天井に向かって吐く。どうかしてる、とそんな意味合いを込めて。


 自分は万条院のことを鬱陶しく感じていたはずだ。四六時中自分の近くにベタベタと不必要に近づいてきたり、「あたしは志具の許嫁だ」と転校初日に宣言して、あまつさえ衆人の前でキスをしてきたり……。正直、迷惑なことこの上ない。


 そんな輩がいないのだから、心おきなく喜べばいいではないか。疲労が軽減される、と。


 ……だが。


 どうしてだろう。そんな気が自分の心の奥底から起きる気配がない。別に、あいつのことが好きになったとか、そういうわけではない。そんな恋愛感情は微塵もないということははっきりわかっている。


 まったく、いたらいたで迷惑なやつだが、いなかったらいなかったらで気になるやつだ。


「……」


 目を閉じて黙考した後、志具はベッドから起きあがると、薄手の上着を着て、そのまま一階の台所へ。台所には菜乃が鼻歌交じりに夕食を着々とつくっていた。


「花月。少し出かけてくる」


「え? こんな時間にですか?」


 少々驚いたように、菜乃は手を止め、志具のほうを振り向く。


「ああ。できるだけ早く帰ってくるつもりだ」


「でも、どうしてこんな時間に……? ……ああ……」


 菜乃は何かに勘付いたようだった。ニヤニヤという表現がしっくりくる笑みを、口元に浮かべる。


「勘違いするな。気分転換に散歩に行くだけだ。…………まあ、その際に万条院を見つけたら、連れ帰るつもりだが」


「はいはい。ではわたしは、夕食をつくって待っていますね」


 自分の心情を見透かしているような態度がやや癪に障ったが、気にしているときではない。志具は「わかった」とだけ頷くと、外に出かけるのだった。

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