後編
アカギレだらけの両手を闇に透かして、このまま放っておいたらこの亀裂が指先から肉体を崩していってくれるんじゃないかと願った。
ひび割れの浮かぶ硬くなった皮膚に、何度も薬を塗っても無意味で、白っぽく粉を吹く皮膚が柔らかくなるどころか、てらてらと薬が光って気味が悪い。
赤く血の滲む両手を塩水に突っ込んだら、ナメクジみたいにそこから溶けていってくれないだろうか。
そしたら、雑巾は絞れなくなるので、もう傷口を射す痛みは経験しなくて良くなる。
――ねーぇ、可愛そうなシンデレラ。
私のことをそう呼ぶ男がいる。
シンデレラ。
まったく、おあつらえすぎて笑えてしまう呼び名だ。
母親が死んで、父親が再婚した継母と義理の姉に、酷い目にあわされている私を形容するには綺麗過ぎる。
残念ながら、私は御伽噺の世界に住む彼女ほど可愛くも無いし、美しい心も持っていない。
あぁ、でも、泣いたことはあったかもしれない。
多分。もう、忘れたけれど。
御伽噺のシンデレラは、どうやって純真な心を保ったんだろうと思う。
暴力こそ振るわれないものの、自分の家に他人が入り、我が物顔で元の住人を追いやり、掃除洗濯家事一切を押し付けて、わがままし放題に挙句悪質な苛めである。
私の場合はそれに学校もあるのだから、忙しさだけではそれらを上回る。
ねぇ、こんなのでどうやって美しい心でいられるわけ?
そんなの人間じゃないと私は思う。
私はあの親子は、殺したいくらいには嫌いだ。
住む場所を失いたくないなら黙ってることね。
継母から言われなくてもそんなの分かってた。
代議士である父親にちょっとした噂でも立てば、あっと言う間に世間の晒し者になる。
それよりも、うかつなことをした後の報復が怖かった。
一度抵抗して口論になったとき、私はそれまで住んでいた部屋を追い出された。
新たに与えられた部屋はこれまで物置に使ってたような立て付けの悪い部屋で、そこに入っていた私の持ち物は全部捨てられていた。
昔遊んでいた縫いぐるみも、小学校の卒業アルバムも取って置いたランドセルも、小さい頃に書いた本当のお母さんの似顔絵も。
最初は愕然として、次に憤りが湧いて、全てを捨てた継母に食って掛かったが、その報復は翌日行なわれた。
どこから捕まえたのかわからないネズミが、腹を割かれた状態で、これ見よがしに私の机の上で冷たくなっていた。
開いたままの瞳は硝子のように透明で、投げ出された手足が哀れだった。
怒りよりも気味悪さよりも不快感よりも、なによりも、こんな行為に至る精神にぞっと凍りついた。
どうしようも無くなって、ふらりと訪れた喫茶店のマスターは、ただ何かに憑かれたようにとつとつと話す内容を聞いて楽しそうに笑った。
他人の不幸が楽しくて仕方ないといったマスターに、なんで洗いざらいしゃべってしまったのかは分からない。
あの時入れてもらったカフェオレに、自白剤でも入っていたのでは無かろうか。
――お父さんに訴えればいいじゃない、可愛そうなシンデレラ。継母と義姉に苛められてるってさ。
継母にネズミを殺されて、義姉には灰を投げつけられるって言ったらいいじゃないか。
皸だらけの手を塩水に突っ込まされて雑巾を絞ってるなんて、きみのお父さんは知らないんだろう?
お父さんに訴えること。
そんなの、真っ先に考えた。でも、あの親子は巧妙だ。
職場からの電話連絡には決まって継母が出て、会話ができたとしても見張りつき。
たまに帰ってきたと思ったら、お父さんは義姉さんだけを連れて食事に行ってしまう。
――じゃあさ、僕が願いを叶えてあげる。可愛そうなシンデレラに魔法使いからひとつプレゼント。
冗談としか思えない内容を、楽しげに口にするマスターの提案に頷いたのは、藁にもすがりたい思いであったのか、そんな他愛無い冗談さえ恋しかったのか、もう何もかもどうでも良かったのか、今になっても分からない。
ただ、マスターの瞳だけは笑ってなくて、冷たくなったネズミみたいな無機質な瞳をしていた。
でも、怖いとは思わなかった。
感情は麻痺していて、いまさら何が起こったって構わない気がした。
死んだネズミは、馬車を牽く白馬にはなれない。
最初はこんなのじゃなかったのに。目を閉じて、楽しかった光景を思い出そうとする。
そう。再婚して一年目の夏は、新しい家族で海に行った。
あのころはまだ継母はおとなしい淑女で、義姉さんははにかみがちな繊細な乙女だった。
家族に漂うぎこちなさを払拭したくて、ためらいがちな義姉さんの手を引いて一緒に泳ぎに行った。
水着は恥ずかしいといいながらも、渋々着ていたシャツワンピを脱いで砂浜を歩いた義姉さんは綺麗で、それだけで一枚の絵画になりそうだった。
すらりと伸びた手足、シミひとつ無い白くすべらかな肌、女性らしい丸みを持ったボディライン。
本当の姉妹だったら良かったのに、とちらと思った。
そうしたら、いつか自分もそうなれるかもしれないと期待できるのに。
あの時可愛いと思った、はにかみがちな笑顔を思い浮かべようとして、どうしてもそれが思い出せないことに気づく。
楽しかった真夏の海の義姉さんの顔は、虚ろににごった瞳でこちらを睨んでいた。
灰皿を投げつけてくるときの顔。
あのネズミと同じ死んだ瞳。
瞳を開いて、真夏の海を追い払った。
幸せなときなんか思い出して何になるの。目覚めたら、現実に悲しくなるだけ。
疲れがピークを過ぎて夜眠れなくなっていた。
身体が重くて、瞼も重いのに、眠りだけが訪れない。
瞼の裏の闇ばかりを見つめて、絶望と言う名の朝が来る。
きぃ、と扉がきしんだ音をたてた。
物音に気づいて身体を起こす。
部屋の明かりは落としていたはずなのに、何故か相手の姿がはっきり見えた。
壁際に置かれた家具が、夜闇に張り付いて一枚の板になっているように見える。
視界の中で唯一立体感を持っていたのは、戸口に立った義姉さんだった。
息苦しくて、肌に纏わりつく温い空気を吸う。
この部屋は、こんなに狭かっただろうか。
「義姉さん…?」
ち、ち、ち、と硬い小さな音がした。
義姉さんの手の中からだ。
暗くて、月明かりも入らないはずなのに、冷たい金属が義姉さんの手の中で刃を伸ばすのがはっきり見えた。
大振りの、カッターナイフ。
「義姉さん?」
呼びかけるが返事は無い。
寝巻きには相応しくない足を覆うロングスカートと、真夏だと言うのに首の詰まった服。
袖口は手首まで覆っていて、手にはカッターナイフ。
顔を見つめて、異常をはっきりと認識した。
濁った瞳。
義姉さんは、死んだネズミの瞳をしていた。
壁に背中を押し付けて、後ろ手に扉を閉める義姉さんを見つめることしかできなかった。
かちり、と錠の回る音がする。
そんな大層なもの、物置だったこの部屋にはついてないのに。
「ねーぇ?」
義姉さんが口を開く。
その癖のある口調を何処かで聞いたことがあったような気がしたが、どこで聞いたのか全く思い出せなかった。
真っ白な顔が、死んだ瞳が、ゆるく歪んだ笑みを作る。
その顔から、目がそらせられない。
「殺したいくらい私のことが憎いんでしょう?」
薄い寝巻きの胸倉を掴んで、吐息すら感じられるほど間近に義姉さんの顔があった。
作り物めいた端正な顔立ちに、何の表情も浮かべていない。
目が合ってるはずなのに、私に語りかけているはずなのに、その瞳は何も捉えていなかった。
背筋を嫌な汗が伝った。
するすると、纏わりつくように義姉さんの手が伸びる。
触れる義姉さんの手が、氷のように冷たい。
すべらかな、アカギレひとつ無い手。
しっとりとした湿気を帯びてはいたが、それはとてもじゃないが血の通ったものだとは思えなかった。
死体に触れられるような、やわらかくてそれでいて硬い感触。
胸元から外れた手が鎖骨に触れ、首を覆うように伸びてきてやっと、何をされようとしているのかがわかった。
首を。
呼吸を、止めようとしている。
張り付くように押さえられた手のしたで、どくどくと大きく脈打つ鼓動を感じた。
「殺したいんでしょう?」
死んだネズミの瞳で、義姉さんは囁いた。
不意に恐怖が突き上げて、何事かを叫んだ。
唐突に義姉さんの手が首から外れた。人間の身体が何処かにぶつかる激しい音がして、私は自由になる。
もつれる足で入り口に駆け、ドアノブを捻る。
しかし、鍵がかかっているのかドアノブは全く回らない。こんなところに鍵なんて無いのに。鍵穴さえ無いのに、ドアは開かない。
無我夢中で身体をドアにぶつけたが、立て付けが悪いはずの扉は、びくともしなかった。
突き飛ばされてもうめき声ひとつ挙げなかった義姉さんが、壊れた操り人形のように、ゆらり、と床から立ち上がった。
喉の奥から、恐怖だけではない悲鳴が漏れる。
だらり、と腕を下げた義姉さんは、まるで本当に死体に糸をつけてぶら下げているようだった。
義姉さんの首が、落ちるように傾けられる。
醜い大げさなパントマイム。
「殺したいくらいに嫌いなんでしょう?」
再び白い手が首に伸びてきたところで、理性が振り切れた。
何を叫んだかは分からない。
だが、自分の耳は到底人の声には思えない悲鳴を聞いていた。
「嫌いなんでしょう?」
――ねーぇ、可愛そうなシンデレラ。
頭の中で、義姉さんと二重に重なった声を聞き、自分がやってしまったことに目を見開いた。
嘘だ。
思わず口をついて出た言葉とは裏腹に、理性はたった今自分がやったことを覚えていた。
義姉さんの左手に、自分が深々とカッターナイフを突き立てる瞬間をこの目で見た。
皮膚と肉を絶つ感触がカッターナイフを持った手に伝わって、そのおぞましさに身震いする。
なんで。
どうして。
カッターナイフを持ってたのは、義姉さんのはずでしょう?
「血ガ、出たホウガ いい?」
壊れたテープレコーダーのように、奇怪なノイズを混ぜて、義姉さんの姿をした何かが訊ねた。
静寂があったのは一瞬で、みるみるうちに傷口から赤黒い血が流れ出し、ナイフを伝った。
生暖かい感触に、恐怖から手を引っ込める。
真っ先に手を離したい血を吸ったカッターナイフは、意識に反して握りしめたままで、金属が骨を擦るおぞましい感覚を握った手に伝えた。
手のひらを貫通していた長い刃を抜ききって、血まみれのカッターナイフがやっと手から離れる。
「……や」
自分の喉が、か細い悲鳴を上げるの見て、義姉さんの姿をした何かは口元に大きな笑みを作った。
知っている。この笑みを、この男を、私は知っている。
――ねーぇ、可愛そうなシンデレラ。
不意に耳元で囁かれて、耳の奥を這ういやらしい口調に、全身の肌が粟立った。
正面で、どさり、と人間が倒れる重い音がする。
自分が倒れたのでは無かった。しかし、そちらを振り返って確認する暇は無かった。
目の前に、まるで恋人に甘い囁きを交わすかのような位置に、義姉さんの姿をしたあの男が立っていた。
真夏の海に相応しいシャツワンピ。
すべらかな白い手足。
丸みを帯びた女性らしい体つき。
義姉さんとまったく同じ顔。
しかし、それは間違いなくあのマスターだった。
「ねーぇ、可愛そうなシンデレラ。君は覚めない悪夢を知っている?」
血まみれの左手で、慈しむ様に男は手を伸ばして私の頬を包んだ。
ぬるり、と粘性のある液体が頬を滑り、鉄くさいむっとした臭いが鼻をつく。
足元から力が抜けて、ずるずると床に崩れ落ちた。
朱線をひいて、頬から男の手が外れる。しかし、血まみれの左手には傷ひとつ残っていなかった。では、その血は、誰の。
目の前に崩れ落ちた、ロングスカートの義姉さんを見つめた。
ぴくりとも身動きせず、糸が切れた操り人形のように、不自然な姿勢で転がっている。
その左手からとめどなく流れる血が、じわじわと床に広がりつつあった。
投げ出された手足は、蝋人形のように白かった。
この距離にあっても、その身体が生きているのか死んでいるのかさえ分からない。
生きているのだと思わせるのは、流れ続ける血だけだった。
まるで冗談みたいに、じわじわと、血だまりが床に広がっていく。
「君のお義姉さんはね。覚めない悪夢の終焉を願ったんだよ」
君はお義姉さんが嫌いだったでしょう?だからね、これは丁度いいの。
お義姉さんも、覚めない悪夢を終わらせてほしいって、僕に頼んだんだから。
男はろうろうと語りながら、落ちていたカッターナイフを拾った。
どこからともなく取り出したハンカチで血糊を拭って、さらに刃を伸ばす。
たった今、人の手を刺し貫いたはずの刃は、曇りもなく鋭利な切っ先をきらめかせた。
うっとりと、義姉さんの顔をした男はそのきらめきを見つめる。
これからその刃で命を奪うのを、心底楽しみにしているかのような表情で。
「…めて、やめて」
カッターナイフを持って、床に転がる義姉さんに近づく男の意図がわかって、その背中を必死で呼び止める。
声が震える。足に力が入らない。身体が動かない。ただ見ているだけしかできない。
「どうして?君は彼女を、殺したいくらいに嫌いなんでしょう?」
自分自身が感じた言葉を、義姉さんの姿をした男はそっくりそのまま尋ねた。
そうだ。そうだと言った。殺したいくらいに、嫌いだと。憎んでいた。だけど、だけど。
「じゃあ、いいじゃない。可愛そうなシンデレラ。僕は君の願いを叶えてあげるんだよ」
そう言ったのを最後に、男は大きくナイフを振りかぶった。
その瞬間、動かない体の呪縛が解けた。
自由になった身体で転がるように飛び出して、無我夢中でカッターナイフと倒れる義姉さんの間にとび込んだ。
※
ぴくり、と握っていた手が動いて、意識が覚醒した。
視界が昼間のように明るくて、白い。
目覚めてすぐに、ここがどこだか分からなかった。
日差しが入る明るい部屋。
清潔な空気。
周囲を覆う白いカーテン。
目の前にあったベッドには、倒れていた義姉さんが横たわっていた。
ロングスカートでもシャツワンピでもなく、白いワンピースの病院服だ。
「こ、こは?」
呟いた義姉さんのかすれた声で、一気に現実を思い出す。
そうだ。真夏らしい、嫌になるような日差しの日だった。
突然家に電話がかかり、義姉さんが熱射病で病院に運び込まれたと連絡が来た。
それだけなら、何にも無かったが、警察という言葉にひっかかかりを覚えて病院を訪れたら、何故か身包みはがされて身体を確認された。
何もやましいことは無かったが、医師と看護士達が発する独特の緊張感は拭いきれなかった。
ただ疑問符を浮かべる私のところへ、警察を名乗る人物が来て、さまざまな質問をされた。
酷い脱水症状で、意識を失っていた義姉さんと対面したのはその後だった。
義姉さんが、ゆっくりと顔を巡らす。
祈るように義姉さんの左手を握ったままの手を見て、ようやくやっと私と目が会った。
死んだネズミの瞳ではない、生きた人間の瞳。
「みさ…?」
それだけで、涙があふれそうだった。
義姉さんの綺麗な左手。アカギレひとつない、白くてすべらかな肌。
傷ひとつ無い手首から上とは裏腹に、手首から下は刃物で傷つけた後が何本も何本もはしっていて、醜い引きつれを起こしていた。
傷は両の腕に及び、聞けば、内股にまで同様の傷があったのだという。
そして、息苦しくないように大きく開いた胸元からは、身体に残るさまざまなあざの一部が見え隠れしていた。
煙草の火を押し付けられた痕、思い切り拳で殴られたような青黒いあざ。
それは白い身体をカンバスに、暴力で描かれた凄惨な絵画だった。
これを理由に、近々お父さんは警察に呼ばれることになる。
おそらく、義理の母親も同様だ。
あと数日もすれば、家の周りをマスコミが埋め尽くすことになるだろう。
でも、そんなことは今はどうでも良かった。
被害者は、私だけではなかった。
いや、義姉さんはもっと酷い目にあっていた。
ただ、溢れた涙が頬を伝った。
ごめんね。ごめんね、義姉さん。殺したいくらい嫌いとかいってごめんね。
顔を上げていられなくて、俯いたまま何度も謝った。そうでもしなければ、耐えられなかった。
義姉さんは、深い息をつくと、ゆっくりと手を握り返した。
「……あれは、悪い、夢だったのよ」
だから、気にしなくていいわ。
義姉さんの言う悪い夢が何を指すのか、知っていると思った。
それは、たった今見た白昼夢であったのかもしれないし、これまで繰り返されてきた義姉さんの悪夢かもしれなかった。
暫く、お互いに何も言わない時間が過ぎて、義姉さんはぽつりとこぼした。
「ねぇ、みさ。ばかげてるとは思うけど」
やっぱりあなたはシンデレラよ、私だってお母さんが貴方にすることを見てみないふりしたり、貴方に灰皿をなげたりしたわ。
それでも私に謝るなんて、私を許せるなんて、あなた御伽噺のシンデレラみたいに、綺麗な心をしてるのよ。
そんなこと無い、と首を振った。大仰に首をふる私を見て、義姉さんは憔悴しきった顔にやっと小さく笑みを浮かべた。
それはあの夏の日のような、はにかみがちな笑顔の面影を、ほんの少しだけ残していた。