02 ポンコツ公爵
(私は何か取り返しのつかない失敗したんだわ)
クリスティナがそう悟ったのは、起こしに来た侍女が一人残らずなんとも気まずそうな顔をしていたからだ。
何が悪かったのかは分からないが、夫であるエリオットは部屋の中に入ることすらせず去って行ってしまった。
〝初夜〟がどういうものか分からないなりに、済ますべきそれがなされなかったのだということだけは分かった。
となれば、どうしてエリオットは去って行ってしまったのかである。
朝までうとうとしながらそれを考えていたクリスティナだったが、一人で考えるだけでは一向に答えは出ない。
(貴婦人らしくない格好に呆れたとか? でもあの服を用意したのは公爵家の侍女たちだし……)
であればあの服を拒むべきだったのだろうかとも考えるが、全ては後の祭りである。
(こうなれば、直接理由をお伺いするしかないわ)
困り果てたクリスティナは、エリオットに直接会って自分の何がいけなかったのか尋ねることにした。
今日まで困惑しっぱなしではあったが、それでも結婚したからには二人は夫婦である。
昨日の結婚式をなかったことにはできないし、なにより公爵の機嫌を損ねれば、男爵である父など一たまりもない。
そういうわけでクリスティナは、どうにか時間を作ってほしい旨をエリオットへの伝言として、気まずそうな顔をした侍女の一人に託したのだった。
***
(ここに、エリオット様が……)
案内されたのは、両開きの細かい装飾が施された飴色の扉だった。
侍女に先導され、クリスティナはしずしずとその扉を潜る。
正直、礼儀作法に関しては家庭教師がいないため自信がなかった。
唯一の身近な貴族である父親に教わってはいたものの、父も淑女の作法には詳しくないため正式なそれとは言い難い。
式までの間に最低限付け焼刃の作法は身につけたものの、今の動きが公爵夫人として相応しいものなのか、クリスティナにはまったく自信がなかった。
「どうしたんだい? クリスティナ」
その部屋はエリオットの書斎のようだった。
壁には重厚な本棚が置かれており、その中には高価な本が所狭しと並べられている。
大きな窓には高価なガラスがはめ込まれ、ビロードのカーテンがたっぷりとかけられて襞を作っていた。
だが、何よりも目を引いたのは部屋の主であるエリオットその人である。
そのきらきらしい笑顔は目も眩むほどだが、その笑顔の下でこの人は怒っているのだと思うと身が縮むような思いがした。
心なしか昨日よりも笑顔に疲れが感じられる。
疲れを感じさせるほど一体自分は何をしてしまったのかと、クリスティナは一層不安になった。
「あの、おはようございますエリオット様……」
クリスティナが自信なさげにそう言うと、なにやらエリオットは俯いて小さく呻いた。
「だ、大丈夫ですか!?」
もしや体調がよくないのではと、クリスティナは慌てる。
不調であったのであれば、昨日すぐに部屋を去って行ってしまったことにも納得がいく。
「いや、大丈夫だ。すまない……」
そう言いながらも、エリオットは顔を上げても決してクリスティナと目を合わせようとはしなかった。
やはり体調が悪いのが理由ではなかったのだと、クリスティナは暗澹たる気持ちになった。
ごほごほとエリオットが咳払いをする。
「そ、それよりも、なにか用があったのでは?」
「はい……。あの、私は昨日何がいけなかったのでしょうか?」
思い切って尋ねると、エリオットは昨日と同じように驚いた顔をした。
「いけなかった、というと?」
「あの、結婚式の夜には〝初夜〟というものをするのですよね? どうして何もせずに行ってしまわれたのか、私に至らない部分が直しますから、どうかおっしゃってください」
クリスティナが思い切って尋ねると、エリオットは目を丸くして沈黙した後、ゴホゴホと激しく咳き込んだ。
「エ、エリオット様?」
先ほどの咳払いの比ではない。
驚いたクリスティナは、余程体調が悪いのだろうと慌ててエリオットに駆け寄った。
そして咄嗟に苦しそうな背中をさすろうと手を伸ばすが、すぐにその手を振り払われてしまう。
「きゃっ」
バランスを崩したクリスティナは、その場に尻もちをついてしまった。
エリオットの咳は止まったが、彼は信じられないような顔で己の手とクリスティナを見比べていた。
二人の間に重い沈黙が流れる。
(まさか、触れられたくないほど嫌われていたなんて)
振り払われたという事実を認識し、クリスティナは悲しみのあまり泣きたくなった。
この部屋にい続けることが堪らなく辛く思えて、咄嗟に扉に向けて駆け出す。
「クリスティナ!」
背中に名前を呼ばれた気がしたが、クリスティナは悲しみのあまり立ち止まることができなかった。
***
「まったく、呆れますね」
そう呟いたのは、部屋の中で使用人らしく見事に気配を消していた男だった。
彼の名はマイルズと言い、公爵家の家令の息子でエリオットの幼馴染であり、今は執事として彼に仕えていた。
そんなマイルズの失礼極まりない物言いにも、扉に向かって手を伸ばしたまま固まったエリオットは微動だにしない。
「普段はなんでもそつなくこなすのに、どうして奥様に対してだけそうも不器用なのですか」
ようやく手を下ろしたエリオットが、その場に悄然と立ち尽くす。
そして乱暴に座っていた椅子に腰を下ろし、行儀悪く体を投げ出した。まるで何も見たくないとでも言いたげに、片手で両目を覆っている。
「仕方ないだろう、初恋なんだ……。クリスティナを前にすると、どうしていいか分からなくなる」
有能で聞こえたアシュバートン公爵の面影は微塵もなく、そこにあるのはただ二十五歳の、恋に悩む年相応の青年の姿だった。
だが、気弱な主人に対しマイルズは容赦がない。
「かわいそうなのは奥様ですよ。突然見も知らぬ男に求婚されたと思ったら、半年後には結婚式を強行。かと思ったら、今度は初夜をボイコットですか。奥様はさぞ訳が分からないことでしょう」
確かに、エリオットの行状は決して褒められたものではなかった。
偶然出会ったクリスティナに恋をして、あらゆる手を使って強引かつ早急に結婚まで漕ぎつけたのである。
しかし結婚することにばかり気を取られていたせいか、二人の距離は今日までちっとも埋まっていなかった。
それどころか、今の出来事のおかげで二人の距離は更に遠ざかったように思われる。
「大体、あのクリスティナが薄くて体のライン丸出しの下着姿でいるんだぞ!? 冷静でいられるはずがない。醜態をさらさないよう撤退するので精一杯だったんだ」
「それは分かりましたが、なんでさっきは手を振り払ったりしたんですか? クリスティナ様は悲しそうな顔をされてましたよ」
「それは……だって彼女から触れられたら冷静でいられないだろうが! ああだからといって、手を振り払うつもりなんてなかった。どうして俺はあの手を取ることができなかったんだ。エスコートならいくらでもしなれてるはずなのに、クリスティナ相手だと何も思うようにならないんだ……」
小さく呻いたかと思ったら、エリオットはやがて沈黙した。
マイルズは初恋をこじらせまくった主人を一瞥し、呆れたように大きなため息をついたのだった。