01 事の始まりは
クリスティナ・ランベルは貧乏男爵家の一人だ。
いや、だったと言うべきか。
彼女は今日、結婚してその名をクリスティナ・アシュバートンと改めた。
アシュバートン家は公爵という最上位の爵位を持つ名家であり、貴族の位を四つも飛び越えたその結婚ははっきり言って異例と言えた。
もしクリスティナが絶世の美女や稀有な血を受け継いでいるということであれば、この結婚は異例とはいえありえないことではなかったかもしれない。
だが残念なことに、彼女は特別美人でもなければ男爵家の娘として特異な血統という訳でもなかった。
焦げ茶色の髪はくせっ毛でよく服などに絡まるし、小さな鼻の頭には大分薄くなってきたもののそばかすが浮かんでいる。
稀に貧窮した貴族家から商人が位を買い取ったりなどして裕福な男爵家というものも存在するが、ランベル家はその例には当てはまらなかった。
先々代が騎士で戦場での働きが認められて叙任されただけの、由緒正しくもなければ裕福でもない男爵家。
なので社交界では、ランベル男爵がなにがしかの搦め手でもって公爵家を騙したのではないかというのが通説となっていた。
若く有能な夫であるエリオット・アシュバートンが、果たして男爵家に篭絡されるほど愚鈍だろうかという疑問はあったものの。
有能で見目麗しいエリオットは若き国王の信頼も厚く、いずれは宰相職に任じられるであろうと噂されていた。
ゆえに若い令嬢の間では未来の結婚相手として絶対的な人気を誇っており、その妻の座をよりにもよって男爵家の娘に攫われたと歯噛みする娘が多かった。
二人の結婚を祝うパーティーでも、クリスティナとその父である男爵は沢山の令嬢に睨まれて針の筵だった。
(本当に、なんでこんなことになってしまったのかしら)
夜が更けて、パーティーを引き上げてきたクリスティナは初めて足を踏み入れた夫婦の寝室でため息をついた。
寝室には彼女一人である。
さすが公爵家だけあって付き合いの多いエリオットは未だ会場に残っているらしく、クリスティナはその間にと豪華極まりないドレスから解放され見慣れない侍女たちに寄ってたかって磨き上げられた。
果てにはとろけるような手触りのシルクの下着にガウンという何とも頼りない格好で、寝室に放り込まれたのだ。
母を早くに亡くしたクリスティナは、結婚式の夜を『初夜』と呼ぶことは知っているものの具体的に何をするのかまでは知らされていなかった。
本来なら家庭教師か乳母あたりから聞かされるものだが、残念ながらランベル家にはそのどちらも雇う余裕がなかったのだ。
一応父に聞いてみたことはあるものの、男爵が取り乱した末に心臓発作を起こしそうになったのでそれ以来聞けていない。
とりあえず夫婦でなにかをするらしいのだが、それにしては身に着けるものがあまりに頼りなさ過ぎるとクリスティナは首をかしげている。
そもそも、どうしてエリオットと結婚に至ったのかすら、彼女にはよく分かっていなかった。
使用人を雇う余裕もないほど貧窮しているランベル家の小さな領地で、クリスティナは年頃になってもデヴュタントすらすることなく、ほとんど砦のような石造りのそっけない城で父親と二人倹しく暮らしていた。
ランベル家の子供はクリスティナ一人。貴族の継承権は女性には認められていないため、ランベル男爵家は現男爵が亡くなれば国に接収されるはずであった。余程家族の縁が薄いのか、ランベル家にはめぼしい親戚すらいなかったのである。
そういうわけで、クリスティナは物心がついた時から自分はいずれ貴族ではなくなると分かっていた。
勿論父親には長生きしてもらいたいが、現実問題自分は遠からず平民になると、クリスティナは完全にそのつもりで生活していたのである。
幸い領地の人々は優しく、また男爵家も彼らから無理に税金を徴収するようなことはなかったので、クリスティナは父が亡くなった後も故郷の地でなんとか暮らしていけるはずだった。
むしろ貧乏だったのは男爵が税金を取らな過ぎたせいだが、クリスティナ自身父のその姿勢に賛同しているのでなんの問題もない。
元貴族ということで結婚はいささか難しそうだが、そういうものだろうとクリスティナはあまり気にしていなかった。
自らの手で掃除や料理までする名目だけの男爵令嬢。それが昨日までのクリスティナ・ランベルだった。
そんな彼女の運命が変わってしまったのは、ある雷雨の晩のことだ。
夜更けに、木の古い玄関扉を激しく叩く来訪者が現れたのだ。
旅人が一夜の宿でも望んでいるのかと思い、クリスティナは求めに応じてその扉を開けた。
傍から見れば不用心極まりない行為だが、ランベル男爵家の城は見た目が古く手入れも行き届いていないため見た目は廃墟にしか見えないのだ。
なのでそこが領主の城だと知らないよそ者が、間違っても尋ねるような場所ではなかった。
だが、扉の外にいたのはクリスティナが予想したような恐怖と寒さに震える旅人などではなかった。
そこにいたのは、男爵である父の一張羅よりも立派な服を纏った公爵家からの使者だったのである。
その日から今日までは、まるで急流に放り出されたかのような怒涛の日々だった。
驚いたことに使者は家を継いだばかりのアシュバートン公爵がクリスティナを妻にと望んでいると言い、驚く父に公爵家の紋章が捺された手紙を差し出した。
手紙を読んだ父は困惑した顔を隠そうともせず、それはクリスティナも同じことだった。
何かの間違いではないかと言ったが聞き入れられず、公爵であるエリオットは本当にクリスティナとの結婚を強行してしまったのである。
どうせ結婚の許可が下りるはずがないと思っていたクリスティナは、結婚の許可が下りたという知らせを聞いてそれはそれは驚いたものだった。
いや、驚くというならその使者がやってきた日から驚きの連続だったと言っていいだろう。
何かの間違いだと思っていたものが、現実となって目の前まで迫ってきた。そんな感覚がした。
そして今日、なにがなにやら分からないまま彼女は結婚式を挙げた。
そして今、寝室で夫であるエリオットを待っている。
ちょうど彼女が回想を終えた時、コンコンと部屋の扉をノックする音がした。
誰か使用人がやってきたのかと思ったが、驚いたことに相手はエリオットその人だった。
色素の薄い金色の髪と、まるで彫刻のように整った顔。瞳の色は澄んだ空色で、その口元にはいつでも笑みが浮かんでいる。
いつ見ても美しい人だ。クリスティナはぼんやりとそんなことを思った。
だが一拍後ではっとする。
座って夫を出迎えるなんてとんでもないと、彼女は慌てて立ち上がった。
だが扉を開けた彼と顔を合わせると、クリスティナはひどく気恥ずかしくなった。
なにせ、彼女の格好はあまりに頼りなさ過ぎるのだ。柔らかで光沢のある絹が、クリスティナの体の線を隠すことなく露わにしてしまう。
エリオットは何も言わず、ドアノブに手をかけたままで静止していた。
なかなか部屋に入ってこない彼を訝しみ、クリスティナは声をかける。
「あの……?」
彼女がそう言うと、エリオットは何かに驚いたように目を見開き、そしてすごい勢いで扉を閉めてしまった。
その後には、呆然としたクリスティナが残される。
結局朝まで、その扉は二度と開くことはなかった。
初夜に放置された格好のクリスティナは、呆然としたまま結婚二日目の朝を迎えたのだった。