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アイリーンとの別れ

『何でもよかった、君に頼られたかった。願えば願うほど、空回りしていく日々、辛くとも満たされたような日々だった。

 君に認められたいとか、君の力になりたいとか、色々思った事もある。でも、今はそういうものを越えて、君にただ幸せになって欲しい。

 あわよくば、忘れないでほしい、僕のこと。上司でも部下でもなく、一人の男として』


 本には丁寧な文字でそう綴られていた。

「由布梨、由布梨がっつり見てる。貴方、自分で決めたことを速攻(くつがえ)しているじゃないの!」

 本の文字に目を奪われ、瞬きも忘れたまま固まっていた由布梨を、アイリーンは必死で揺さぶった。

「ご、ごめん」

 由布梨はその文章を書いた人物の名前を確認する前に、ハッとして目をそむけた。危ない危ない、と由布梨が呟くと、アイリーンは、もう全部読んでしまえばいいじゃないの、と言った。


 由布梨は迷った。さっきの文章を書いてくれたのは、一体誰なのか。由布梨と色取と、どちらに向けたものなのか。そして、その文章に、ジーンと感動してしまった由布梨の反応は果たして正しい物なのか、確かめたくて、心は揺れていた。


 しかし、

「いや、大丈夫。アイリーン書いて書いて」

 由布梨は顔の前で手を振って、アイリーンに勧めた。

 そお? と言いながらアイリーンはペンを持ちなおした。

 すると、再び猫の肉球が二人の目前に踊り出た。

「わっ、また」

「駄目じゃないの」

 ダメダメ、と口では言いながらも、由布梨とアイリーンは猫の動きを一向にとめる気配がない。猫は、由布梨の期待を一身に背負う羽目になっているのだ。

 

 ――もうちょっと、そう、そう、そこをめくってー!

 

 由布梨は目を開いて、猫の動きを凝視(ぎょうし)した。あともう少し、肉球の位置をずらしてくれれば、そのページの文章が読めそうだった。

「由布梨、もう我慢しないで読んでみたら」

「いや、それは、ね。決めたことだし。でもまぁ偶然読んじゃったんなら仕方ないと思うけど」

「なかなか言い訳がましいのね」

 アイリーンはペンを指で挟んで肩をすくめた。

 しょうがないわね、とアイリーンは猫を持ち上げた。

 すると、その下に隠されていた文章が由布梨の目に一気に飛び込んだ。


『君のことを諦めるね、って話し掛けている時点で、絶対に諦めてないよね。笑っちゃう。

 由布梨は恋を諦める方法、知ってる? もし必要になった時のために、俺が見つけた方法を一つ、記しておきます。

 自分の好きな人が、他の男の腕の中で満面の笑みを浮かべている絵を想像する。そうすると、最初は悔しいんだけど、あまりにも幸せそうだから、もういいかあ、諦めるかあ、って気分になる。

 俺はこれで寂しさをごまかすことにした。でも、こんなアドバイスが、由布梨にとって必要にならないことを願います。それから、色取王子』


「うあっ」

 由布梨は目をそむけた。色取君へのメッセージは自分が読むものじゃない、と咄嗟に正気に戻った。盗み見るのはよくない。

 自分に向けて書かれたメッセージなら読んでも良いと思うけれど。

「かなり真剣に読んでたわね」

 アイリーンが横目で言った。

「そう、かも……」

 由布梨は否定しなかった。文章を読んで、真っ先に思ったことは、切ない、だった。

 そうやって、恋を諦めていくしか、無いというのなら、失恋って、なんて切ないんだろう。

 詩安に告げられた言葉を思い出す。君を諦めるから、次の恋を一緒に探して、だっただろうか。

 諦める、という五文字が、これほどまでに切ない気持ちになるのだと、由布梨は初めて、なんとなくではあるが理解した気がした。


「私、冷たかったかな……」

 由布梨は呟いた。詩安に対して、もっと慰めの言葉を言ってあげた方がよかったのかも、と不安になった。あの時、何ですかそれ、とか、はあ? とか無遠慮に言っていた気がする。彼は懸命に、諦めようとしている最中だったのに。

 それでも何と言ってあげればよかったのか、いくら考えても分からなかった。ドンマイ? いやそんな言葉じゃない。何て言葉が正しいんだろう。


「ねぇアイリーン。もし友人が恋を諦める、って言ったら何て返すのが正しいと思う?」

「ドンマイ&ファイト、かしら」

 アイリーンが二つ拳を作って前に差し出した。うわああああっ、と由布梨は思った。

「うん、ありがとう」

 由布梨は心のこもっていない礼を述べた。

「それで、結局私はどうしたらいいの?」

 アイリーンが膝の上で猫を可愛がりながら訊いた。

「ん、ん~」

「いいじゃない、もう一緒に見ましょうよ」

 アイリーンが魔本を指差して言った。

「ダメ、内緒なんだって」

「でも、Pからの手紙の内容を、貴方知ってるんだから、おあいこにしましょうよ」

「あれは、手紙モンスターが勝手に言ったの。覗き見たわけじゃないもん」

「それはそうね」

「だって、君と出会ったのはファクトリーだったね、って言われても結局意味わからないし!」 

「あ、言ったわね! そんな大声で!」

「言った、ファクトリーって何!」

 由布梨とアイリーンは不毛な言い争いを繰り広げていた。猫は呆れたような、退屈を持て余しているような、そんな表情になって、何回もあくびをして見せた。


「だいたい、書いてって頼んだくせに、由布梨が夢中になって本を読んでるから進まないじゃないの!」

「まぁそれは、何というか。凄い勢いで目に飛び込んでくるんだって、内容が!」

「こうなったら妥協点を見つけるしかないわ。あともう少しだけ読んで、それで私が書くってことにしましょう」

 年上のアイリーンが先に折れて、言い争いを締結させた。

「おっけー」

由布梨は魔本のページをパラパラめくって、直感でピタッと止めて開いた。

「……ん?」

 そのページには見開きで、ただ〇と書いてあった。

 ゼロという数字ではなく、明らかに記号のマルだ。しかもどこにも、書いてくれた人の名前が記されていない。さっきの文章には、見ないようにしていたが、名前も一応書いてあった。しかし、ここには本当にただマル一つだけしかないのだ。


 由布梨は首を傾げた。このページを書いてくれたのは、誰だったか。さっきの文章を見た後で、急に現れたマル。由布梨は混乱していた。文章じゃないメッセージ。これに意味があるのか、それとも、内容が思いつかなくて、適当に書いただけなのか。


「はい、じゃあ書きますから」

 アイリーンが魔本をひったくって言った。

「あっ、ちょっと、待って。他のページも見たい」

「女に二言は無しよ」

「……はーい」

 由布梨は渋々引き下がった。そうだ、本来の目的はアイリーンに魔本の内容を書き足してもらうこと。読むことは後でもできるのだ。

「ゴメン、ありがとう」

 反省して由布梨は言った。 

「いいわよ。……で、何が書いてあったの?」

 アイリーンが興奮を抑えつけながら訊いた。

「マル、こうやって一つだけ」

 由布梨は宙にマルを描いてみせた。

「本当に? 暗号かしらね」

「暗号なんて、誰が……」

 そんなことする人がいるか? と考え込んでいると、由布梨はふと猫と目があった。

「あっ」

 由布梨は閃いた。

 この猫、見覚えがあると思ったら、確かに初めて会った猫ではない。いつか、色取が氷の蹴鞠を人の家に張り付けてしまい、そのまま帰ってこなくなったことがあった。その時、色取が助けようとしていたのが、この猫だった。その猫は、飼い主がアレルギーを発症したせいで手放され、今はアイリーンの膝の上で安らいでいる。


「凄い……」

「! 何、暗号の秘密が解けたの! 早く教えて」

 アイリーンが食いついた。

「謎が解けた。この猫は、強運だ」

 由布梨が言った。

「な、なに? マルの暗号が解明できたんでしょ?」

「それは、知らない」

「何よ、期待させて……」

 アイリーンががっくりと肩を落とした、どれだけ暗号に期待していたんだ、と由布梨は笑った。

「はい、出来たわ」

 しばらくするとアイリーンが魔本を閉じて由布梨に渡した。ありがとう、と由布梨が受け取ると、アイリーンは懐から白い封筒を差し出した。

「これは?」

「もし、元の世界に戻って、Pと会うことがあったら、渡して欲しいの」

「あっ、分かった」

 由布梨は顔を引き締めて、強く頷いた。そうだ、アイリーンとPが再会するのは、まだまだ遠い未来になるだろう。いつか、咫独の呪いから解き放たれ、奇跡の雫が川に満ちることになる、その日まで。


「秘密結社の場所は教えられない、だから、本当に偶然、会うようなことがあれば、渡してくれればいいの」

「分かった、偶然ね」

「そう、もし会うことがあったらPによろしく」

「もちろん。アイリーンは面白い人だよね、って盛り上がると思うし」

「Pにも会わせてあげたいわ。由布梨と色取は本当に面白いんだもの」

「ありがと。Pへの手紙は暗号文?」

「まさか」アイリーンが吹き出す。「でも、凄く好きだって気持ちとか、愛してるとか、そういう言葉って書き連ねていけばいくほど、勝手に暗号みたいになるわよね」

「じゃあ、これも暗号文みたいになってるんじゃない、ねえ」

 由布梨はじいっとP宛ての白い封筒を見つめた。内容は、難解極まる愛の暗号文、のはず。


「だから、中は見ても無駄よ」

 アイリーンが言った。

「分かってる」

 由布梨とアイリーンはそんな会話を交わした後、信じられないほどあっさりと別れた。バイバイ、それじゃまた、うん、バイバイ。

 まるで明日も、その次の日も、会うことが決まっている友人同士のように、さわやかに。


「にゃあ」

 安住の地へと帰っていくアイリーンの背中越しに、猫が肉球をこちらに向けているのが見えた。別れの挨拶をされたのだと由布梨は思い、

「バイバイ、元気でね」

 と小さな声で手を振った。

 その瞬間、アイリーンの背中にかぶさるようにして、うっすらとした人影が見えた。その人影は振り返り、由布梨の目をしっかりと見た。その人は、ズルズルと下着のような布を引きずっていて、毛先が固く縮れていた。


「ありがとう、ごめんね」


 その人の透けた唇がそう動いた気がした。

「咫独、まだ貴方は宝探しの途中なんだよね」

 由布梨は言った。

 すると、由布梨の声に驚いてアイリーンが振り返った。

「でも、いつかきっと、咫独も綺麗な星になれるでしょ」

 アイリーンに言っているのか、透明な体でそこにいる咫独に言っているのか、由布梨自身にも分からなかった。

「そうね」

 アイリーンが由布梨に返した。


「貴方が命がけで書いた恋文が、いつか、誰から返信を貰えますように」

 由布梨は今度は確かに咫独に言った。

「にゃー」

 猫が由布梨に返事した。

「さようなら」

 由布梨が呟くと、アイリーンたちは頷いた。

 そのまま背を向けて、由布梨たちから離れていく。

 どうしたらいいんだろうな。恋を諦めきれなかったら。

 自分の好きな人が、他の人の腕の中で幸せなら、諦められるって、誰が言ってくれたんだっけ、と由布梨は考える。

 だけれど、そうしたくとも咫独にはそれが出来なかったはず。そうしたら、どうするんだろう。

 

 由布梨は、咫独の気持ちが分かるような、でも分からないような不思議な気持ちになった。



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