アイリーンの過去
アイリーンは境界の壁を調査する、百年前に生まれた秘密結社の一員だった。
八年前にこの魔法世界に来た。
アイリーンが境界の壁で調査を行う時、政府がゴミを捨てに来るタイミングは絶対に外さなければいけなかった。そのため、調査は一向に進まず、ゴミがモンスターに変換されるという事実すら、秘密結社は掴んでいなかった。
アイリーンが境界の壁に関して知っていたことは、あまり多くない。唯一、身をもって知っていたのは変換、という現象の、それもほんの一部についてだけだ。
多大な調査はすべて政府の目をかいくぐって行う、身体を張ったものだった。
強靭なロープに調査員の体を繋ぎ、調査員は境界の壁の中へと入っていく。
しばらくすると、ロープを引っ張り直して、調査員を元の世界に引き戻す。そんな原始的な方法での調査をしていた。
それにしても何故、ロープがモンスターに変換されることがなかったのか?
アイリーンに繋がれた強靭なロープは、無機物ではなかった。有機物だったのだ。
ブルオオグモという全長約1.5mのクモの体内で生成される、タンパク質の糸を加工しているものだった。
これはもちろん、秘密結社が変換の性質を熟知して選んだわけではない。ただ、あの境界の壁に入った人を引き戻せるだけの大きな力に耐えることのできるロープは、ブルオオグモの糸で作るしか、他に道は無かったのだ。
クモの糸で作られたロープを結び付け、境界の中に入ると大体、川の上流から船に乗った人が来てしまい、調査はだいたい中止になる。
アイリーンはいつまで経っても境界の壁について知ることが出来なかった。
しかし、とうとうアイリーンは見つけたのだ。政府のゴミ捨ての時間ともかぶらず、境界人も来ない、空白の数分間の存在を。
すぐにその数分間が、アイリーンの仕事の時間になった。
誰にも邪魔されない数分間の調査で、境界の壁に入ったアイリーンはようやく、変換という現象に気付くに至った。
境界の壁の中、ある地点を超えると、変換が始まり、アイリーンは自分の服が変化していくのを見た。
服が黒と紫の着物になっていて、魔法が使えるようになっていたこともある。
また別の時には天使の唄声を持つ、歌手に変換が起きたこともあった。
そんなある日、魔法使い、とか歌手、とか、踊り子とか、そういう言葉では形容できない存在にアイリーンは変換された。
服はシンプルで布を巻いただけみたいになって、髪は急激に生えまくって、しっちゃかめっちゃか。次の瞬間には、性別と言う概念も、人間という感覚もすっかり消え失せた。
ただ、ありえないほどの情報がアイリーンの脳内を満たした。
アイリーンは一体何に変換されたのか、今でも答えが出せないでいる。
世界の全てを知るコンピュータのような存在? 世界の預言者? それとも?
やがて秘密結社の仲間にロープを引っ張られ、アイリーンは帰還した。
元の世界に戻り、アイリーンは元通り、全くもって普通の人間になっていた。
世界の全てを記録したような、膨大な情報で頭は満たされたはずだったが、それも境界の壁から出た瞬間に、ほとんど忘れてしまった。
しかし、元通りなったはずのアイリーンに異変が起きていた。
脳裏に焼き付いて離れることのない、一つの人影。
「咫独? 貴方は誰。誰なの……」
アイリーンの頭にその日から住み着いた、一人の女性。姿は、あまりにも長い丈の襦袢を引きずるようにして歩き、頭髪はおかっぱくらいの長さだが、毛先が固く縮れていた。
その女は咫独、という名で、およそ千五百年前に境界世界で暮らしていた、とアイリーンに教える。
「千五百年前って……」
アイリーンが呟いた瞬間、千五百年前、この世界で何が起きていたのか、その画がありありと思い浮かんでくる。アイリーンが考えだしているのではない。おそらく咫独が見せているものだ。映像の始まりはこうだった。
咫独の前に、アイリーンと同じ世界から来たという男、銀絽が現れる。境界の川の船渡しをしていた咫独だったが、銀絽に惚れ、境界世界へと彼を連れ帰った。そこで銀絽は、境界世界の王になりたい、と咫独に野望を語った。咫独は銀絽を王へと押し上げるために、王宮内に不穏を持ち込み、幾人もの境界人を殺し、暗策に走った。咫独の策によって銀絽は王になり、二人は幸せに暮らし始めた。
しかし、ある日、境界世界の川に銀絽の昔の恋人、金鯱が現れる。元の世界に帰りたい、という金鯱を哀れに思った銀絽は、あることを思いつく。
川の向きを逆向きにできる奇跡の雫を持ちだし、金鯱と一緒に帰ってしまおう、と。
怒り狂った咫独は、奇跡の雫はもちろんのこと、川を越えて二人が元の世界に帰っていける可能性のある品を全て持って逃げた。氷の錘と、数百枚に及ぶ歯車。そして不死の妙薬をも持ちだし、咫独は魔法世界の江瑠戸東へとたどり着き、巨大な帝国を築く。
やがて咫独を追いかけて来た銀絽と再会する。境界世界に戻って来て欲しい、と懇願する銀絽に対し、咫独は不死の妙薬を半分ずつ飲むと約束するのなら、と条件を付けた。
銀絽は涙ながらに、咫独への愛を誓って頷いた。咫独はその不死の妙薬を半分飲みこんだ。しかし銀絽は飲まなかったのだ。それどころか、奇跡の雫を咫独から盗んでいこうとしたために、咫独は再び怒り狂った。身を隠そうとした銀絽と金鯱を、自分の手で殺めてしまった。
茫然とした面持ちで咫独は自らの帝国に戻った。飲んだ不死の妙薬は半分だけ、完全な永遠の命を手に入れたわけではなかった。しかし、国の民は咫独を、不老不死の女帝と崇め奉り、言うことに聞き従った。そんな日々を飽きるほど繰り返して迎えた、雪の時節。
咫独はある男と恋に落ちる。男の方も咫独を好いてくれたので、咫独は不死の妙薬の瓶を男に差し出した。何事かと身を固くした男に、咫独は詰め寄った。愛しているのなら、不死の妙薬の残り半分を飲めるはず、と。
男は咫独を怖がり、逃げ出そうと背中を向けた。咫独は男にあの日の銀絽の姿を思い重ねた。蘇ってくる怒りに身を任せ、咫独は男に無理やり不死の妙薬の残りを与えた。
不死の妙薬の期限が切れるまで、二人は一緒にいたが、男は咫独を愛せなくなっていた。
最期の瞬間の直前、神殿の中で何気なく男は奇跡の雫が入った瓶を眺めていた。その行動に意味なんてないと咫独は頭では理解していたが、再び激情に身を委ねてしまう。
「ここじゃないところへ行くつもりなんでしょう。川を越えるつもりなんでしょう!」
咫独は男から奇跡の雫を取り上げる。
咫独は男の前に不死の妙薬の瓶を突きだして言う。
「永遠を誓ってくれたんじゃないの、私を一人で置いてどこかに行くつもりなら、許さない」
「俺が望んだことじゃない、お前は悪魔だよ」
咫独と男は、鬼の顔でもみ合いになりながら、やがて力尽き、帝国の地に伏せた。
そのまま、もう動くことは無かった。
「咫独、貴方は亡霊?」
映像を見せて来た、今やアイリーンの頭に住み着いている咫独に問いかけた。
咫独はアイリーンに一つのメッセージを送った。
――地中深くに埋めよ!
「埋める?」
咫独は奇跡の雫、氷の錘、歯車の数々を、地中に埋めて、もう二度と誰も使うことが無いようにしてほしい、とアイリーンに頼んだのだ。
アイリーンは戸惑った。
自分はこっちの世界にいる人間で、その三種類の品に、どうしたって手が届かないのだ。
約束をすることは危険だ、と思った。
アイリーンは咫独に具体的な約束はせず、努力する、とだけ伝えた。
その後、アイリーンはすかさず、ロープを持ってくれるパートナーのPに頼んだ。
「必ず、私が忘れている時は言って。意味が分からなくとも、とりあえず奇跡の雫、氷の錘、歯車を埋めるように、ってね」
アイリーンの中にあった不安は、咫独から見せてもらった映像も、そこに付属する情報も時間とともに、忘れて行くのではないか、ということだった。
実際、境界の壁を越えて、脳内に流れ込んできた膨大な情報のほとんどは、もうすでに消失しているのだから。
きっと、咫独に関することも、リミット付きの記憶だと思ったのだ。




