アップルティーの香りと恋の不穏
「いらっしゃいま……」
由布梨、と名を呼ぶ、奇妙なモンスターを倒して以来、そのことを記憶から消そうと、なるべく思い出さないように由布梨は生活していた。
いつも通り、食堂の卓と卓の隙間をせわしなく動き回り、足に疲れがたまってきた閉店間際。表の扉が開く音に反応し、由布梨の口からは無意識に挨拶が飛び出す。
扉が開き、夜の気配が差し込まれると同時に、一人の人影が由布梨の目に飛び込んだ。
その人物の姿を目にして、いらっしゃいませ、という挨拶を由布梨は言い切ることが出来なくなった。
その人物のことを由布梨は知っていた。そして今、由布梨は学校の風景を思い出していた。教室の扉を開いた先に、爽やかな笑顔を浮かべる彼の姿が覗くと、いつも胸が高鳴った。今その高揚が由布梨の中によみがえっている。
なぜなら、魔法世界の食堂の入り口に立っている人物も、学校の憧れの君も、同じだったから。
間違うはずはない。ここに、いるのは。
「――色取君」
「鏑木、俺来ちゃった……」
由布梨は一瞬心臓が止まった。
色取の声を聴いたのが、とんでもなく昔のことのように思える。
この魔法世界の生活に、寂しさを覚えた自分が生み出した幻覚なのかもしれない、と由布梨は考えた。
「幻覚、夢?」
「ん?」
頬をつねって離す。正直そこまで痛くはなかったが、夢ではないような気がする。
由布梨自身、あれだけ簡単に、この世界に来れたのだ。同級生の誰かが、同じ過ちを犯しここに来てしまうことも、十分考えられることのはずだ。
「色取君、境界の壁に入った?」
「まぁ、たぶんそういう感じなのかな……」
色取はこの魔法世界へ来てしまった経緯を濁した。
もしかすると聞かれたくないのかもしれない、と思い、由布梨は彼に対してこれ以上追及することが出来なくなった。
(あの占い師当たってたんじゃ?)
由布梨はドキッとした。
占い師が延長するか、としきりに問いかける中で口にした言葉を思い出す。
遠いところから人が近付いてきている、と。
それは色取のことを指していたのかもしれない。
当たりの占い師を引いていたらしいことを認めざるを得ないな、と由布梨は思った。
色取は今、制服でもサッカーのユニフォームでもなく、凝ったデザインの薄橙の着物を着ている。彼の色素薄めの茶色い頭髪と同系統で、全体的にまとまった印象を受ける。しかし、この服装は、彼が自らコーディネートしたわけではないだろう。
おそらく、自分と全く同じで、境界の壁を超える間にいつのまにか着ていたもののはずだ、と由布梨は推測した。
「その服、勝手に変わってた?」
「そう、もしかして鏑木も?」
「そうなんだよね……」
彼にも、この服に応じた適職があるのだろうか。それを探すために、占いの館を紹介した方が良いのかどうか、由布梨は少し迷った。彼がうっかり延長料金を払わされる羽目になったらどうしよう、と不安だった。
(おばさんの圧がすごかったからなあ。あの日)
由布梨はふと、占いの館での出来事と同時に、境界から現れた奇妙なモンスターのことを思い出してしまった。
消したい記憶。
気のせいかもしれないけど、自分の名前を呼んでいたように見えたモンスターの姿。
今でもそれが由布梨の脳裏にしつこく焼き付いている。
「鏑木、辛い?」
色取が由布梨の顔を心配そうにのぞき込んだ。
由布梨は無意識のうちに、どんどん顔を曇らせていたのだ。
「色取君……」
――本当は、今すぐにでも元の世界に帰りたい。
由布梨はその言葉をぐっと飲みこんだ。それを言ってしまうと、きっと涙がせきを切ったように溢れてきてしまう、そんな直感があったのだ。
毎日忙しくしていないと、嫌なことを思い出してしまいそうになるし、何より自分がこの世界に来ることになったバイト現場での行動を色々後悔してしまいそうになるのが、由布梨には怖かった。
正直に言ってしまえば、辛い。
由布梨は色取の問いかけに、何回か首を縦に振って答えた。
「ん、じゃあちょっと聞いててほしいんだけど……俺は絶対に元の世界に帰るつもりでいるよ。方法はまだ見つけてないけど。鏑木、いつか、俺と一緒に帰ってくれるか?」
その時、色取からふわりと漂った香りが由布梨の鼻腔をかすめた。学校の廊下で彼とすれ違った時の香りと同じだった。淹れたてのアップルティーのような、爽やかな香りがずっと持続している。
「うん、うん、帰ろう……」
涙目になって視界をにじませながら、由布梨は何度も頷いた。
「由布梨、お客さん?」
柚葉が何事かと、由布梨たちを遠巻きに見て訊いた。
「えっと、また私と同じで向こうの世界から人が来ちゃいました……しかも知り合いで……」
由布梨は色取を見上げながら言った。
「うっそ」
柚葉が口をあんぐり開けて驚いた。柚葉が驚いて固まっている間に、由布梨は何度も目をこすって涙を乾かした。
女の子の家に泊まるのはちょっと、ということで、その日の夜は、由布梨の今までのバイト代を渡して、色取君には街の入り口にある宿屋に泊まってもらうことになった。
「私、宿屋まで送っていってあげるよ。由布梨、店見ててもらっていい?」
柚葉がいつもより明るい声色で言った。
「あ、うん。どうもありがとう。色取君、それじゃまた明日……」
「おう」
由布梨は名残惜しそうに色取と別れた。
色取と柚葉がいなくなった後、由布梨は食堂にぽつんと一人取り残されてしまった。
「色取君と柚葉が二人きりか~」
由布梨は卓の上に突っ伏した。二人がどんな会話をしているのかを考えると、そわそわして落ち着かない。
「時間たつの、遅いなあ」
しばらくすると、食堂に柚葉が帰ってきた。
おかえり、と言うと、ただいまー、と柚葉の快活な声が聞こえる。
「……なんか、とんでもないことになってない? 知り合いが揃って別世界で再会って」
柚葉が訊いた。
「やっぱ、そうだよね……」
「知り合い、か」柚葉が眉を下げて呟く。「なんか、かっこよかったな……」
「え?」
「何でもない、何でもない。じゃ、そろそろ店閉める準備しよう!」
「う、うん」
二人の間に、まさか何か起こらないよね、と由布梨は何度も心の中で考えた。
いつもより上機嫌な柚葉の横顔に、由布梨は少し戸惑いつつも、いつも通りに卓を台ふきんで掃除して、一日を終えた。