君の一位になりたい
色取が川で何をしていたのか、それが分かってほっとした由布梨は、花札世界での出来事を思い出していた。佐月が気になることを言ったのだ。
――景臣先生がけがを治してくれた、と。
由布梨は景臣の病院へ行った。
「今度は何だ? 怪我か、それとも」
景臣は由布梨と診療室で対面するやいなや、ため息交じりに訊いた。
「違います、違います」
由布梨は手を顔の前で振った。
「じゃあ、何だよ?」
病院に来ておいて他に用事なんかないだろ、と景臣の顔には書いてあるように見えた。
由布梨は佐月から聞いたことを、何て言えばいいのか分からず、とっさにこんなことを言った。
「ありがとうございます、先生」
「何がだ?」
景臣が訊き返した。
「境界で、玉兎たちに回復魔法を……」
由布梨のその言葉に食い気味で、
「なんのことだか、見当もつかねえ。用はそれだけか」
景臣が言った。
由布梨は少し考えたのちに、
「私、笑ってます」
と言った。
「おい、話の脈略が……」
「すみません、胸がいっぱいになっちゃって。もし境界で玉兎たちが傷付いたままだっ
たら、私あんまり笑えなくなってたかも……」
由布梨は正直な心境を吐露した。
「そうかよ。境界の奴ら怪我の治りが早くて良かったな」
「はい! 今笑えるのは景臣先生のお陰です」
「俺は何もしてねえよ」
「それでも、お礼を。ありがとうございます」
由布梨が礼を述べると、景臣は何かを思い出したような表情になった。
「あー薬取りに来なかったか。……由布梨、俺は居酒屋に行って店主に葛根湯渡してくる
から、お前もう帰れ」
由布梨の話とは全く関係なく、景臣の仕事に関する内容だった。
「私行きましょうか? お世話になってばっかりなので、お使いくらい……」
由布梨は言った。
「もう遅いから戻れ。色取が心配して乗り込んでくるだろ」
「それは大丈夫だと思いますけど……。じゃあ今日は戻りますね」
由布梨が頷くと、由布梨が部屋から出るより先に景臣は医院を後にした。
「本当、たくさんお世話になったよね~……」
由布梨は部屋をぐるりと見まわして、懐かしく思った。
色取が入院したり、魔法アレルギーのことを相談したり、回復魔法を使ってぶっ倒れて運ばれてきたこともある。
由布梨は何となしに部屋を歩いていた。
すると、自分しかない病室の中央でずべっと転んで、由布梨は畳を重ねたベッドに顔を押し付けるような体勢になった。
「いっつ」
由布梨の顔の下には景臣が脱ぎ捨てた白衣があり、そこからふと鼻腔をくすぐる香りがする。
(なんかこう、男性的な香りが……)
ばっと顔を挙げて、由布梨は首を激しく左右に振る。
冷静に分析してこの状況に浸りいってどうすんの、と自分で自分にツッコミを入れる。
恥ずかしさに悶えて由布梨が足をバタバタ動かしていると、視界の端にふと土瓶が映った。
(これ、もしかして必要な物なんじゃ……)
もしかしたら景臣が忘れていったのかもしれない、と思い、由布梨はそれを居酒屋にもっていくことにした。適当な布を見つけて、土瓶を包み込む。何度か持ち上げて確認すると、途中で布から出てきてしまう危険はなさそうだったので、由布梨は出発した。
街を歩き、行ったことのない酒屋の位置をあてずっぽうで探し当てる。
「あ、あった」
由布梨が酒屋の戸を開けたところ、ちょうど景臣と出くわした。
「先生これ!」
由布梨は布で包んだ土瓶を掲げて見せる。
「やっぱり忘れていってたのか。ちょうど今取りに帰ろうと思ってたところだ。――ありがとな」
「いーえ」
「飲んでいくか?」
「私未成年なんで……」
「そうか。おーい親父、薬煎じるから飲んでくれ」
そう言って景臣は店の奥に消えていった。
次の瞬間、店内でふと聞き覚えのある声がして、由布梨はハッとする。
「草乃丞さん?」
「? うっ、お前……じゃなくて由布梨様」
「こんばんは、お酒飲まれるんですね」
草乃丞の前のテーブルに置いてある、酒の数々を見て、由布梨は言った。
「ちょ、ちょっとこっちへ」
草乃丞から手で寄るように示される、
「はい?」
「玉兎様たちには言うなよ。じゃなくて、言わないでいただきたいのですが」
「はあ……」
「酒は禁止されてるんでな」
「顔、真っ赤ですよ」
由布梨は草乃丞の顔を見て笑った。
「あんま見るなよ。そうだ、お前結構面白かったな。まさか水槽を壊すなんて予想外だった」
完全に敬語を消失させて草乃丞は楽しそうに言った。
「面白い話じゃないですよ、それ。大損害じゃないですか?」
「別に俺の懐が痛むわけじゃねえ」
「それは、そうかもしれませんけど」
「お前」草乃丞が酒で紅潮した顔で、頬杖ついて言う。「本当に境界世界に嫁に来ればよかったのに、な」
「え?」
由布梨は意外そうな顔をした。まさか、草乃丞にそんなことを言われるとは、予想外だった。てっきり城からいなくなってせいせいした、なんて思われている気がしていた。
「おてんば姫ってのも、悪くねえなあと思って」
「おてんばですか、私」
由布梨は自分の鼻のあたりを指差した。元の世界で生活している時はおてんばなんて一度も言われたことが無かった。むしろ、休憩時間にあまりメジャーじゃない曲を聞いて読書して過ごしたりなど、そう言うところを見て、大人っぽいね、とかクールだね、と言われることの方が多かった。どちらが本当の自分なんだろうな、と由布梨は思う。
「あぁ、でも品もあると思うぜ」
「え~、それは流石に照れます」
由布梨は頬に手を添える。
荒っぽい雰囲気の草乃丞からそんな褒め言葉を貰うと、妙にドキドキする。
「おい、由布梨、帰るぞ」
用事をすっかり済ませたらしい景臣が言った。
「あ、はい。それじゃ草乃丞さん、また」
由布梨と景臣が店から出ようと、入口の方へと足を向けた瞬間、入口に立っている人物と由布梨は目があった。
「詩安さん」
「……由布梨ちゃん、今晩は。何で酒屋に?」
「あぁ、景臣先生が店主さんに持ってくものを忘れて、届けに来たんです」
「へえ……」
「それじゃ、詩安さんも、また」
「うん、バイバイ。後で夢の中で会おうね」
「はは」
「詩安、相変わらずだなお前……」
景臣は顔をしかめて呟いた。
由布梨と景臣は外に出た。
「色取が心配するから、早足だ早足」
外に出るなり景臣は言って、歩幅をどんどん大きくした。
「それはもう走ってませんか?」
「じゃあ走って行くぞ、若いんだからシャキシャキ走れ」
おじさん臭いことを景臣は言った。若いんだから、と言っているが、由布梨には景臣も十分若い男性の範疇に入るように感じる。
「もう、今日は疲れちゃいました。昼間は花札の中に行ったんですよ」
「何だそりゃあ」
景臣は破顔した。その笑顔はまるで少年のようで、病室で知ってしまった彼の残りがとは印象が違った。
由布梨は景臣の包帯に視線を落とし、何げなく聞いた。
「女性嫌いで、ナンパ嫌いって本当なんですか」
「さあな。どうでもいいだろ」
「どうでも……いいのかなあ」
「あぁ。医者のことなんか、詳しく知る必要なんかねえよ」
「私も、包帯の中を見たら失神しますかね?」
「知るかよ。せっかくなら、もっと大事なこと考えろ。若いんだから」
景臣が由布梨の横髪をくしゃっと撫でた。
「若いっていうか……子供だと思ってるんでしょう」
「当たり前だろ。他に何があるんだよ」
景臣は平然として言った。
「先生、結構私にとっては特別な人ですよ」
「ああ? 何が」
「だって魔法世界、こっちの世界で子ども扱いするの、景臣先生だけだし。気が付けば、いつだって綱渡りみたいに職探しして、上手くいかないことばっか。好きだって言われたりもしたけど、それは子供同士が好き好き言ってるのとは、なんか違うし」
「……普通、お前ぐらいの年なら、背伸びして大人ぶりたいもんだろうけどな」
「大人になるのが嫌なわけじゃないけど……この世界に来る前は、ただのJKだったわけで」
「じぇ、じぇえけえ?」
「ぶはっ」間抜けな声で景臣が訊き返すので由布梨は吹き出す。「ただの学生だったってことです」
「最初からそう言えよ」
「ははっ、確かに。もし、元の世界に戻って、元の教室で授業を受ける日々に戻っても。そこにいるのは、前と同じ由布梨じゃないんです。バージョンアップした、スーパー由布梨なんですよ」
「いいじゃねえか、それで」
「もう、体育祭とかも、前みたいに熱中できないかも。だって、白組と赤組が戦うっていったって、何の緊張感もないでしょう。私は魔法使いで、モンスターと戦っていたんだから」
「今はそう感じるだろうけどな」
走れ走れ、と言っていた景臣がピタッと立ち止まって言う。
「元の世界に戻れば、そっちが当たり前になる。ちゃんと、白組の由布梨は、赤組と対等にぶつかれるし、それが物足りないなんて思わねえさ」
「……本当ですか」
「知るか。戻って確かめろ」
ごくあたりまえに景臣が言うので、由布梨は本当に元の世界に帰れるような気がした。電車でも乗り継ぎさえすれば、届くような距離に、元の世界の息遣いを感じた。
「はい……!」
「良い返事だ」
「この鉢巻をしめて、白組を絶対に優勝させます」
由布梨はふざけて景臣の包帯をひっぱった。
「おいおいおい。お前、これ頭に巻いてったら、余計他の生徒から浮くぞ」
「やっぱ、そおですかねえ」
「おいこら、何か複雑な気分になったわ。……っと、由布梨、ほら」
景臣が前方を指差した。そこには色取が立っていた。
「おやすみなさい、先生!」
「おう」
由布梨は包帯からぱっと手を離した。前を向き、色取を見つめる。色取までの少しの距離、地面には白線のレーンが見える。由布梨の頭の中に、紫煙を吐き出すピストルの音色が響いた。その瞬間、走り出す。
どんなに魔法世界が良い場所だって思っても、境界世界を後にしたことが少々名残惜しく感じられても、それでも、色取君の一位は絶対に譲れない。
由布梨は、ふとこの瞬間に、直感的にそう感じた。
「そんな全速力で走ってくるとは思わなかった……おかえり、由布梨」
「ただいま、色取君」
色取の前で急ブレーキをかけると、由布梨は屈託なく笑った。




