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猪にはしばらく会いたくない

 蛙の鳴き声を聞きながら、橋を渡り、砂の上を歩き、木の柵を越え、由布梨は建物の中に入ってみる。

 長い廊下から通ずる部屋をこそこそ覗いてみると、部屋の中は色鮮やかな布をかけて仕切られていた。

 手前にあった箱の中からいい匂いがしたので、何かと思って眺めていると、そこではS字に落とされた粉末の上で火が燃えていた。


「燃やすと良い匂いが出るなんてことあるかなあ……」

 その箱の淵に、菜の花色の蝶が止まるのが見えた。

 可愛いなあ、と由布梨が思っていると、今度は背後に鹿が立っていた。


「し、鹿」

 由布梨はそこで嫌な予感がした。

 確か、佳代が時計モンスターを倒した時、頭から鹿の角を生やし、蝶の羽を生やし、猪を乗り回していた。花札の猪鹿蝶(いのしかちょう)を体現したものだろう。


 ――蝶と鹿ときたら、残りはもうあいつしかいない。


 由布梨が結論付けるより先に、あいつは現れた。

「あー!!」

 木の柵をぶち壊し、長い廊下を足裏が汚れたままでもおかまいなしに、突如現れた猪が全力で駆け回った。

 飛び上がった由布梨は部屋の中の、仕切り代わりになっている、群青色の着物の裏に回った。


「ここって魔花札の中ってこと……!?」

 半信半疑で由布梨は呟いた。

 花札の絵柄なんて全部把握していない。

 次に出てくるのは一体何なのか、楽しみというよりかは恐怖に支配されたまま、由布梨は身をひそめ続けた。

 すると次の瞬間、あの鳳凰が柵の外で翼をはためかせ、建物の中に大きな影を作った。

 鳳凰に敵だと認識されていたらどうしよう、と由布梨が焦っていると、ふと聞き覚えのある声がした。


「由布梨ちゃん、ゴメン。来るの遅れちゃって」

 着物から顔を出して声の主を確認すると、由布梨の思った通り、そこには弥一郎がいた。

「弥一郎さん、ごめんなさい! 貴族が出てきちゃいました!」

 とっさに由布梨は謝った。この言葉数だけでは、相手に伝わらないだろう、とすかさず由布梨が反省していると、

「あぁ大丈夫、大丈夫。たまに勝手に出てくるから、由布梨ちゃんのせいじゃないよ」

 と弥一郎に返された。

「勝手に出てくるって、本当に?」

「そうなんだ。本当に俺も困ってるんだけど……まさか、由布梨ちゃんにまで迷惑かけてるなんて、今回ばかりは見逃せないな」

 弥一郎が眉をしかめた。

「あの、怖い目には合ってないので、大丈夫ですよ」

「それなら良いんだけど、おかしいな。今までこっちの世界に他人を引き込んだりなんかしなかったのに」

「なんで私連れてこられちゃったんですかね」

「んー……分からない。さっき手元の花札の枚数を確認したら一枚なくてね、焦ったよ」

 相槌を交えて話を聞き終えると、

「ここって花札の中ですか?」

 由布梨は問いかけた。

 弥一郎が頷いた。


「多分ね。俺もあいつらと会話出来たことなくて絶対とは言い切れないんだけど」

「そうなんですか……」由布梨は一番気になることを訊く。「この世界から出れるんですか?」

「あぁ、先に言うべきだったね。安心して、元の場所まで送るよ」

 またあの輪っかの道を歩かないといけないのか、と由布梨はげっそりする思いだった。

 しかし次の瞬間、弥一郎が手をパンと叩くと、すっかり周りは宿屋の一室に戻っていた。

「ええっ?」

「すぐだったでしょ」

「まぁ、でも……あの」

 畳の上にしっかりと立っているのはいいが、まだ目の前にはしっかりと平安貴族がいる。また花札世界に逆戻りさせられるんじゃないかと由布梨が怯えていると、貴族から月の札を手渡された。


「これを何故」

 由布梨が首を傾げていると、

「あ、ダメだよ。受け取っちゃダメ」

 弥一郎が言った。

「はい、もちろん。この札もちゃんとお返ししますね」

 由布梨は畳の上に放置されていた、貴族が抜け出して殻になってしまっている白紙の花札を拾って返した。

「別に由布梨ちゃんに札を渡すのはかまわなかったんだけど……また花札の中に引き込まれると厄介でしょ」

 弥一郎が言った。

「でも、少し楽しかった」

 由布梨は貴族の袖口の線香の匂いをほのかに感じながら言った。

 すると貴族が子供のように笑った。

「もう勝手なことしたらダメだろ」

 弥一郎が貴族を引っ張って、障子戸の方へ向かって行く。

 戸を開けて二人は同時に振り返った。


「ありがとうございました」

「いや、こちらこそ迷惑掛けたね」

 ひらり、と弥一郎は手を振って部屋を後にした。

 

 由布梨は部屋の中央に立って、キラキラの輪が見えなくなった床を見下ろした。

 ふと袖の内側に涼しさを感じて、覗いてみる。

 するとそこには札、ではなく緑の葉があった。

 しだれていた、蛙が掴まっていたあの葉だ。

 あぁ良かった、という気持ちに隠れて、ちょっと残念だったかも、という気持ちになったのが、由布梨にはとても不思議だった。


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