未知の世界へと導かれ
あけぼのとあさぼらけ、一体どちらが早いのか。
いつもいつも、由布梨は忘れてしまう。
あぁ、そうだ、あさぼらけのほうが、あけぼのより少し後の時間、もう少し明るくなった頃ことを言うんだった、と宿屋の寝具に寝転がりながら、由布梨は思い出す。
窓の外はもう、夜が明けたのだろうか。
雨戸をきっちりと閉め、廊下から障子戸を通して入ってくる光しかないこの部屋では、時間の流れが曖昧になる。
携帯もない、部屋に時計も置いていない。
体内時計、なんて言葉もあるが、今はそれを当てにしたいとは思わない。
散々、時計を模したモンスターに翻弄され、疲れ果てた由布梨は、少し時計と言う言葉すら嫌いになっていた。
しばらくは、便利だとしても部屋には置きたくない。
(そういえば、時計のことなんてよく分からないけど、どういうことなんだろ……)
由布梨は考えを巡らせる。
昨日、境界の壁から出現した数々の時計モンスター、手こずった敵の姿を思い返していく。モンスターがそれぞれ体内に組み込んでいた時計は、すべて現代のもののように見えた。
つまり、由布梨が元の世界で使っていた掛け時計や目覚まし時計、腕時計と何ら遜色のない見た目をしていた。
この魔法世界の文明の進度を考えると、少し不思議だった。
魔法世界にも時計はあるが、その時計は封じ込められた魔力を動力源として動いているため、やはり元の世界とは違う。
何より、魔法世界の時計はレトロな見た目をしているものが多い。
柚葉の食堂にあったものは、長い振り子のようなものを下げた木製の時計だった。
他にも、印籠という小さい長方形の容器に、真珠と一緒に時計を埋め込んで使用している人を、街でたまに見かける。
それはアンティークのようでとても素敵だな、と由布梨は羨ましく思う。
境界の壁の中から出現するモンスター、それらがどこで生まれてくるのか。
由布梨にとって、大きな疑問になりつつあった。
少なくとも、魔法世界の人達はあの時計モンスターのデザインには一切携わっていないだろう。いくらなんでも、現代的なデザインすぎるから、と由布梨は推理した。
そうなると、モンスターは境界の壁の向こうから――由布梨の元いた世界から送り込まれている、と考える方が自然だ。
しかし、由布梨は本当に全くもって見たことがないのだ。
あんな奇妙なモンスターたちの姿を。
噂に聞いたこともない。
あんなモンスターがいたら、絶対に大騒ぎになるはずだと思うのに。
徐々にこんがらがっていく頭を整理しきれないままでいると、着物の袖の部分が急激に涼しくなったのを、由布梨は感じた。
「――なに?」
袖口の中を覗き込むようにすると、肘の手前あたりに紙が張り付いているのが見える。
腕を振ってその紙を落として拾い上げ、由布梨は目を凝らして見る。
暗い部屋の中からかろうじて判別することが出来た。
その紙は花札の一枚だったのだ。
もしかすると、弥一郎から借りて、色々と絵柄を眺めている時に、一枚入ってしまったのかもしれない。
おそらく鳳凰が絵札より現物の方がカッコよかった、とか何とか言っている間のことだ。
「あとですぐ返しに行かなきゃ」
大事な弥一郎さんの道具なんだから、と由布梨が思っていると、札がぱっと煌めいた。
その花札の柄がはっきりと由布梨の目に映り込んだ。
平安貴族、という言葉にふさわしいような雅な男性の絵が描かれている。
確か、花札でゲームをする時に持っていると、使い勝手の良い札ではなかっただろうか、と由布梨は思い返していた。
それをふまえると、いっそう弥一郎に早く返さないといけない気がしてくる。
鳳凰よりも、重宝される札かもしれない。
由布梨が焦りだしたその時。
暗い部屋にいたはずなのに、由布梨の周りは白くなっていて、まるでミルクのヴェールが包み込んだかのように見えた。
誰かが廊下の行燈の灯りを強めたのだろうか、と由布梨は一考した。
廊下の方へ目をやってみるのだが、障子戸が見えない。
ただ白い空間が広がり続けているだけだった。
「どういう、こと……?」
由布梨は立ち上がりキョロキョロと周りを見渡す。
するとふと、札の中の絵柄がからっぽになっていることに気付く。
「嘘でしょ、いなくなっちゃったの」
絵柄がなくなったままでは弥一郎に返すのが心もとない。
うっかり自分が持ち出してしまったのだから、元のままで返さないといけなかったのに、と由布梨は気をもんだ。
どうしよう、捕まえて戻さないといけないのかな、と由布梨が不安に駆られていた、その刹那。
畳だったはずの床が白くなり、その上にスパンコールのようなキラキラとした輪がいくつも浮かび上がってくる。
由布梨はしゃがみこんで、そのスパンコールの部分をこすった。
指の腹を見てみると、何もついていない。床にがっちりと接着されているようだ。
「ふーん」妙なところに由布梨は感嘆していた。「でも、ここって畳じゃなかったっけ」
再び立ち上がり、真っ直ぐ前を向くと、なんと由布梨の目前に人が立っていた。
宿屋とはいえ、自分の部屋に人が、しかも若い男性がいることに驚き、由布梨は口を覆った。
「えっ……」
その人物は始めは白っぽく見えていたために分からなかったが、紛れもなく、先ほどの花札の中の雅な貴族だったのだ。
貴族は襟が丸く、袖口が大きく広がっている、赤い着物を身に纏っていた。
絵札から出て、等身大の姿で今、由布梨と向き合っている。
「すいません、戻ってもらうことって?」
由布梨がおそるおそる訊くと、貴族は由布梨の手を取った。
貴族が動くたびに、ふうわりと香りが漂ってくる。
宿屋の鍵に冠されていた風車から漂ってきた線香の香りとごく似ているが、それにさらに甘い香りをたくさん足したような印象だった。
貴族は由布梨の質問に答えることはなく、由布梨の手を引いて一歩一歩進ませていく。
「どういうつもりなのか、さっぱり」
随分珍奇なことが起きているな、と由布梨が笑っていると、床が床でなくなった。大変なことに、キラキラとした輪っか以外のところが、消失していっているのだ。
まるで型抜でもする時のように、輪っかの外側はゆっくり削られてなくなっていく。
「も、戻れって言ったから怒ってるんですね」
由布梨は足元と目前の貴族を交互に見る。
戻ってください、という言葉の聞こえはいいが、実質、札に封じ込められろ、と命令しているも同然なのだ。気を悪くされても仕方がない。
しかし、この輪の外にじりじりと自分を追い詰めようとしているのかと思うと、由布梨は恐ろしくなり、背筋がぞっとした。
貴族は首を柔らかく振ってみせるが、信用ならない。
そこに浮かべられている天使のような笑みも、すべて怒りの裏返しなのではないかと、由布梨は勘繰ってしまう。貴族は由布梨の手を上下しながら引っ張り、それに連動するように由布梨の体もアップ・アンド・ダウンする。
「わっ。わっ。わっ」
一歩一歩進んで行くたびに、キラキラの輪は増殖していく。
ふわりふわり、と足が浮かぶたびに、由布梨は適当な輪の中へと着地していく。着地した場所はしっかりとしていて、乱暴に動き回っても崩れそうにはなかった。
ずっとそこで立ち止まっていたかったが、貴族は楽しそうに微笑みながら、由布梨を引っ張ることを止めない。
由布梨はいくつもの輪の中を踏み続けたが、進んでいるのか、それとも進んでいないのか、それすらも分からなかった。
周りの景色がちっとも変化しないのだ。
足元の輪は煌めきながら、一個二個三個、と並ぶこともあるが、逆に減っていくこともある。
絶妙な増減を呆れるほど繰り返すと、由布梨の視界の端に緑の葉が映った。
その葉は、けんけんぱ、と歩みを進めていくたびに、ぽん、ぽん、とリズミカルに生えてくる。緑の葉はしだれていて、お辞儀をしているように見えた。
礼儀正しい葉の中を、何匹もの蛙が飛び交い、器用に葉っぱにしがみついていた。
時折吹く風にも耐え、ゲコゲコしながら葉を飛び移って進む。
負けじ、と軽快にこちらも歩みを進めていると、由布梨は朱色の橋の上に立っていた。
「ここは?」
足元からは輪っかが消え、目前には茶色の大きな屋根に覆われた建物が見える。
その建物はL字に組み合わさり、整えられた庭も見えている。
由布梨はハッとした。
「平安京、だったりして」
呟きながらちらちらと貴族を見てみると、相変わらずただ笑みを浮かべているのみだった。




