Hello!ウサギ型宇宙人よ!
境界の壁の外にポンと放り出され、わっと声を上げると、由布梨の足はしっかりと地面に着地をしていた。衝撃がガツン、と体を貫いてよろけた。
地面を歩いていた、ひよこサイズの青い鳥が衝撃に驚いて飛んでいった。
「戻れ、戻れ」
由布梨は後ろを振り返り、壁をグイグイと押した。
そうすれば、壁の中に入ってバイトの現場に帰れると推測したのだが、壁は由布梨を受け入れる気配がまるでない。
おかしい、さっきは入れたはずなのに、と眉を寄せて思うが、考えてばかりいても仕方がないので、周りの人に頼ることにした。
改めて、今来てしまっている場所を見渡すと、教科書で見た江戸の城下町の印象によく似ていた。
(これは異世界に来たんじゃなくて、タイムスリップの線もあるかも……)
しかしそれは間違いだと、すぐに気が付いた。
行きかう人の中に侍のような風貌の人もいたのだが、ちょんまげを誰一人として結っていない。目前の侍風の人たちはいわゆる、コスプレをしている人々なのだろう。
本物の侍でないのであれば、話が早い。由布梨は一番近くにいた男性に話し掛けた。
「すいません、この境界の中から出てきちゃって戻りたいんですけど……」
その男性は由布梨の言葉を聞いた瞬間、さっと顔色を変えて、重々しそうに口を開く。
「あー……ちょっと、ちょっと待っててもらっていいかな。その、別に帰れないってことはないと思うんだけど、それでもちょっと、ちょっと待っててもらっていいかな」
尋常じゃないくらい、ちょっとを強調しながら男性は言った。
その男性の反応に、由布梨はすべてを悟ってしまう。
たぶんこれ、帰れないって宣告されるな、と。
「えーっと、落ち着いて聞いてほしんだけど……」
「や、やっぱり大丈夫です!」
男性の言葉をとっさに遮って、由布梨はそこを離れた。帰れない、と断言されることが本当に怖かったのだ。
右手に、境界の川の上でもらった石を持ったまま、器用に耳を塞いで、壁にもたれかかるような体勢になった。体重をいくら掛けても、壁はうんともすんとも言わない。
「あーもう、どうしよう……」
由布梨は顔を覆って、壁から徐々に体を離していく。
すると、背後に冷気を感じだし、体全体がスース―した。
不審に思って振り返ると、背の高い影絵のような、奇妙な何かがそこにいた。
「はあ……?」
その黒い物体には、きちんと四肢があって、横に伸びた長い耳があって、丸々と空いた目があって、体躯は全体的に透けていた。
まるで黒っぽいゼリーで形作られたウサギ型宇宙人、とでも表現するべきか。
「あのー?」
「危ない、危ないって!」
周りの人のざわめきが、自分と、背後の黒いものに向けられている気がする。
もしかして、この黒いものは危険なものなのだろうか。
離れようと一歩踏み出した瞬間、その黒いものはこぶしを振りあげ、由布梨に殴りかかろうとしてきた。
「きぃやあっ!」
甲高い叫び声を上げてしゃがみこんだ由布梨の頭上で、何かが高速で通り過ぎていった。ハッとして、後ろを振り返ると、その黒いものは煙のように宙に消え去っていった。
そして、地面にはこつんこつんと、小さく跳ねているボールが落ちていた。
「ボール……?」
「貴女、大丈夫!?」
同い年くらいの女の子が、由布梨の元へ駆け寄ってきた。
「大丈夫れす……」
ろれつが回っていない舌で、OKサインを作って答える。
すでにボールの跳ねる、乾いた音は止んでいた。
「魔力が使えないのに境界に近付いちゃダメ。ほら、立てる?」
石を左手に持ち替え、その女の子が差し出した手を右手で握ると、ぐっと体に力を込めて立ち上がろうとする。
しかし身体が硬直して動かない。
上半身だけがぐいぐい上に持ちあがるばかりで、足は根が生えたように動かない。
「ここは危険だから早く……あっ」
女の子の声に反応し、嫌な空気に震えながらも、背後を振り返る。
そこにはさっきの黒いのとまったく同じものが何体も立っていた。
女の子は地面のボールをつま先で蹴り上げ、数体の黒いものに連続でぶつけていった。
それらは煙になって宙に消えていった。
一安心、と思いきや際限なくその黒いものが境界世界から列をなして出てくるのを見て、由布梨は戦慄した。
「なんで、なんで境界からあれは出てくるの……」
自分が出てきてしまった境界の壁から、得体のしれないものがぞろぞろ出てくる。
まさか、自分もあれと同類なのだろうか。
不安に駆られ、パッと視線を降ろすと、自分の体を確認する。
「うわっ、えっ?」
確実に異変が起きていた。
いつのまにか、着ている服が変わっているのだ。
今由布梨が身に着けているのは、土埃で汚れた作業着ではなく、下がスカートのように大きく広がっている紫と黒のワンピース風の着物だった。割と凝ったデザインで、作業着から着替えるにしても確実に二分程度は必要だろう。
一体、どの時点で服が変わったのだろうか。
現実に順応出来ないまま、頭を抱え続けている由布梨の様子を見かね、女の子は他の人を呼びつけた。
「久高! この子を安全なとこに連れて行くの手伝って」
彼女に声を掛けられた久高、という男性は、こちらを振り返り、大股であっという間に駆けてくる。
「いくよ、せー」
女の子は由布梨の左手を持ち上げて、久高には反対側の手を持ち上げるように示した。
しかし、久高は、
「いい、そんなの面倒くさい」
と顔を顰め、由布梨の足の下と背後に手を回すと一瞬で持ち上げてしまった。
「えっ」
「飛行場の前まで連れて行くか……」
そう言って彼は由布梨を運んでいく。
彼の腕から伝わる振動に揺られていると、ぼーっとしていた頭が急に冴えてくる。
すると、途端に今の状況の恥ずかしさを実感してしまい、頬も耳も熱を帯びていく。
(だってこれって、俗にいうお姫様抱っこじゃないの……?)
顔を上げて彼を直視することが出来ず、由布梨はただ身体を丸めてじっとしていた。
ふと彼の厚い胸板越しに、ボールをぶつけられている奇妙な黒いものがひしめきあっている光景が見えた。もしこの光景が、こんなんじゃなくて、もっと耽美な情景だったとしたら、確実にドラマのワンシーンのようだと舞い上がっただろう。しかし、あの黒いものを見ていると、今の状況は悪夢だな……と冷静になれる。
かなり長い時間が経ったように感じていると、彼の歩みがゆっくりになり、矢倉のような場所の手前で立ち止まった。
そして彼は地面にそっと由布梨を降ろした。
彼の腕が足の下から引き抜かれると、
「あり、ありがとうございます」
由布梨は必死に平静を装い、彼の眼を相変わらず直視出来ないまま礼を述べた。
「魔力が使えないなら、境界には金輪際近付くな」
彼は腕を組んでそう忠告を残していくと、足早に境界の壁の方へと戻っていった。
由布梨はぽかんと口を開いて固まった。