言っておくけど、サッカーはサッカーだ
クラスが違くて、一緒に日直当番出来ないし、隣の席同士には絶対なれないし、そんな俺にご褒美みたいに、同じ屋根の下で、隣同士の部屋だ。
それに今は、虫が引きあわせてくれたおかげで、同じ部屋で、鏑木と向かい合っている。
俺は鏑木由布梨が好きだ。
どうしてかとは聞かないでほしい。
答えることで、誰かがふいに鏑木の魅力に気が付いてしまうことが嫌になるくらい、彼女のことが好きなのだから。
ずっと、言えなかったことがある。
――実は俺、鏑木の笑顔が大好きなんだ。
いつだって笑っていてほしいけれど、そう簡単なことではないと分かっている。
魔法世界で再会して以来、鏑木は厳しい表情をしていたり、眉根を寄せて考え事をしていることもよくある。そんな由布梨の反応は正しいと思う。
むしろ、俺の方が馬鹿になっちゃってるだけなんだ。元の世界に帰れるかどうか、とか、この魔法世界で上手くやっていけるか、とか、そんなことを本当は悩むべきなのだろう。でも俺は、鏑木の一喜一憂だけが気になる。彼女が楽しそうだったら自分も楽しいと思うし、彼女が憂えていれば心配になる。
俺はそれだけの人間なのだと、真実ではあるが、そんなこと鏑木には絶対に言わない。あまりに中身のない、ペラペラ人間だとバレて幻滅されたくはない。
俺を現実に引き戻すように鏑木が口を開いた。
「嘘つきたくないから言うんだけど……この前、柚葉が色取君に告白してるの聞いちゃって……」
あぁ、そうだったのか、と他人事のように俺は思っていた。どんどん頭がぼんやりしてくる。鏑木を見ていると頭が冴えなくなってくるのだ。たぶん、鏑木と向かい合っている時の俺は、チンパンジーと知恵比べしたら惨敗するレベルで呆けている。
「全部、聞いてた?」
俺は凛とした顔を作って訊いた。
「うん……色取君がこの世界に来たのは、その」
「鏑木を追いかけて来た、って」
思わず口が先走って言ってしまう。
その時ふと、驚いている由布梨のピンク色の唇が、どんどん色付いていくように見えた。秋を迎えた黄色い葉が、赤く染まっていくように、由布梨の唇が、俺を誘うように、キスを求めるように赤く染まっていくように見える。
そう、見えるだけなんだろうと思う。本当に変化していってたらやばい。
俺に都合のいいように、現実はいともたやすく作り替えられていく。
――鏑木は、俺のことどう思ってるんだろ。
俺のことが好きでないとしても、心が俺の方に向いてなくても、たぶん俺は鏑木由布梨が好きだ。
「――それ、どういう意味なの?」
鏑木が俺をじっと見つめて訊いた。
「俺が、由布梨を好きだって意味」
鏑木に訊かれてる、それって何だっけ、何の話してたっけ、とうわの空で俺は答えた。
「えっ? 名前……」
鏑木は目を開いて戸惑った。その様子を見て、どうしてそんなに綺麗なんだろう、と俺は首をひねった。
わずかな間を置いて、冷静に戻った俺は、畳の上に両手をついて言った。
「ばれたんなら仕方がない。俺がどれだけ鏑木を好きか、いつから好きだったのか、全部教えてやる。一晩中……」
鏑木と初めて会った時のことから、境界の壁周辺のことを調べるために、カメラを回していたら、後頭部を殴られ誰かに連れ去られたという、元の世界での最後の記憶まで。
きちんと時系列順に並んだ記憶が、俺の脳内を駆け巡っていく。
高三になるまで、鏑木と俺は一度も会話を交わしたことがなかった。
ただ、廊下ですれ違うだけの、赤の他人。
そこから急激に風向きが変わったのは、初夏のある日のことだった。
調べ物をするために訪れた放課後の図書室で、本棚の前に佇む一人の女子がいた。
開け放たれた窓の内側で、白いレースカーテンがさらさらと揺れて、ときどき彼女の腕を撫でていた。
彼女は棚の一番上を見上げていた。
手を伸ばしてはいなかったが、きっと一番上にある本が欲しいのだろう。
そう思った俺は、ためらうことなく声を掛けた。
「上の本?」
俺は彼女にこりと笑いかけた。近付くと彼女からはふんわりとシャボンの香りがした。
彼女はハッとした表情を見せると首を振った。
「読みたい本はこれで、他にどんな本があるかなって見てただけなんだ。ありがと……」
そうきたか、と俺は思った。
確かに、よく見てみると彼女は本を抱え込むようにして一冊持っている。
タイトルは『ある郵便配達員の記録』。
一体どんな物語なのか、俺には想像がつかなかった。
それにしても、読みたい本を見つけた後に、他にどんな本があるかと探したりするのは、普通のことなのだろうか。俺は読書が苦手で、本に興味もない。だからこそ、彼女の行動は理解出来なかった。
――見ていただけ……か。
俺は心底残念がっている自分に気付いた。彼女に本を取ってあげて渡す、というドラマのようなワンシーンを期待していた自分が、急に恥ずかしくなってきた。
何気なく、俺は棚の一番上の本を見てみる。
彼女が眺めていたあたりには、『ラビット・イン・ザ・ムーン』と『パラレル枕草子』があった。やはりその二冊の本に対しても、内容の想像がつかなかった。かといって、本を手に取ってあらすじを確かめる気にもなれなかった。
俺は授業で使う調べ物のために、適当な本を二、三冊抱えて、図書室の中央の席に腰かけた。
本を幾度も開いて閉じて、そして伸びを繰り返す。本の内容が、どうしたって頭に入ってこないのだ。視界の端にチラチラと彼女が映り込むたびに、心臓が小躍りして脈拍に変調をきたすのだ。
「んー」
首を振って、俺は極力彼女を視界にいれないようにした。おでこを覆うように手を当てると、不思議と気持ちが落ち着いてくることを偶然発見した。
こうやって、手で覆い隠していると、これ以上、深みにはまらなくて済みそうな気がするのだ。
――深みって何の? 何のだ……。
俺が一人で謎の自問自答をしていた時、うっかり読書中の彼女の横顔を見てしまった。
睫毛が長くて、何か綺麗だ。
あれ、俺そんなに目良かったっけ? おかしーな。この前の視力検査0.7とかだけどな。睫毛なんか、気になったことないのに。俺は眉頭を思わず押さえこんだ。
すると、彼女がちらとこっちを見た。
あっと、俺見つめすぎだよな、ホント。
不審がられているのではないかと不安になっていると、彼女はぺこりと会釈して微笑んだ。
その瞬間、世界が歪んだ。
彼女を中心にして、ぐわあって世界がひずんだ、本当に。
俺の口からため息が漏れる。
なにかに失敗した時、自分に呆れる時、疲れた時。
そんな時のため息とは違う。なんかこう、こうでもしなきゃ、落ち着かなくてどうしようもなくなりそうな感じの、ため息?
急激に見え方の変わってしまった世界に落ち着かなくなり、全然内容が頭に入らなかった本を棚に戻すと、そそくさと図書室を後にした。
部活のサッカーを校庭でしていると、どんどん回りに見物の生徒が集まってくる。
それぞれが、誰かを応援しているのだろう。部員の名前が四方からさまざまな声量で、センターマークの円へと押し寄せる。応援はせめぎ合うように、熱気のフィールドに溶け、その空気は俺達の足がボールと一緒に蹴散らす。
それが爽快だな、と俺はいつも思う。
ある日、朝のHRを終えた後の時間に、友人の田中が俺の机に腕をバン、と叩きつけるようにのせて興奮気味に言った。
「恋だ」
田中の閃いたような声がした。
「恋って、何がだよ」
「お前の好きなサッカーは恋だ。昨日テレビを見ていて思ったんだよ」
「はあ?」
俺は意味が分からずに少し不機嫌な声色で言い返した。
俺は恋と言う言葉を耳にいれることが、得意ではない。
それはまるで、熟れ過ぎた果実を飲みこんだ時のように違和を感じるし、青い実のようにまだ手を出してはいけないような、ためらわせる雰囲気を醸し出している。
恋、という二文字に内包された不思議さ。
俺は自分の大好きな、真っ直ぐでがむしゃらなサッカーを、恋という不明瞭な単語で例えるのは止めてほしかった。
「一つのボールを、大勢の男子生徒が追いかける様子を見て感じたんだ。あの情熱とひたむきさは恋に似ている」
「分かんねえな、言ってる意味」
田中はたいそうな本好きだった。俺は本好きの思考はどうしても理解出来ないんだな、と妙に腑に落ちた。
俺はサッカーボールに恋なんかしてない。
俺は頬杖ついて、ため息を吐く。
走って、追いかけて、蹴り上げて、叩きつけて、そんな激しい恋があってたまるか。
すごい発見でもしたかのようにご機嫌な田中を横目で見て、俺は呆れていた。
「ああいうのを詩的、文学的って言うんだっけ」
俺はそう呟きながら、飲み物を買うために席を立って、教室の扉の方へと歩き出した。
扉を開けた瞬間、俺より背の低い女子とぶつかってしまった。
「あっ、ごめん」
いきなりのことだったので、俺は上ずった声で謝った。
「こちらこそ、ごめん」
顔を上げた彼女は、いつか図書館で本を抱えていた子だった。名前は確か鏑木という。
鏑木は俺の横から顔を出し、教室の中を見渡していた。
「誰探してる?」
俺は愛想よく笑って問いかけた。
「えっと、田中君……」
鏑木の唇がその名前を口にした時、俺は心が不自然にモヤっとするのを感じた。
(ほ、本好きと本好きが繋がっている、だと)
まさか、二人には通ずるものがあるのだろうか。俺の感性を越えたところで、二人が繋がっているのなら、入りこむ隙なんてないじゃないか。
「……オッケー、呼んでくる」
俺は動揺を隠しこんで、田中を鏑木の前に連れてきた。
「鏑木さん、どうしたの」
「図書委員会のことでちょっと……」
そう言って二人は廊下で話し込み始めた。
図書委員会の、義務的な会話を交わしているのだろうが、俺にはとてもそうは見えなかった。親密そうな二人の様子に、俺は不思議な感覚に陥った。
サッカーだ。
脳内で今俺はサッカーのフィールドにいる。
しかしどこを見渡しても敵チームが現れないのだ。おかしいな、と思っていると、何と味方チームの田中が足元に滑りこむようにして現れ、俺の正面にあったボールをさらっていった。
俺は急激に焦りだす。何故か、味方にボールを取られて落ち着かなくなる。
――しかし待て、味方にボールを取られて焦るなんて、おかしくないか? おかしい。
俺は冷静になって心の中で何度も言い聞かせた。しかし俺は、鏑木と親し気に会話を交わす田中を見た瞬間、条件反射のように思ってしまった。
――ボール、取り返さなきゃ。奪い取る、奪い取る。奪い取る? 味方だろ、なんでだ……。
もう一度、田中と鏑木を交互に見た時、俺の口は勝手に動いた。
「あのさ! えーっと、仲良いんだな、って。そんだけ、じゃあな」
俺は自分で生み出した気まずさに耐え兼ねて、廊下の喧騒に紛れた。
――何やってんだ俺は。
鏑木は当たり前のように思うのだろうか。
俺がサッカーをしている時に、恋とサッカーは似ているだなんて、そんなことを考えたりするのだろうか。
あの日、読んでいた本にはそんなことが書いてあるのだろうか。
田中と話しこんでいる鏑木の横顔が、信じられないほど美しく見えて、俺は劣等感を感じた。




