三十路・飯塚の決意(後編)
私はもう三十歳です。結婚して落ちついて、親を少しは安心させなければならない歳です。冒険をする暇や超人と関わる暇など、本来ないのです。これまでの私の人生は、滋君たちとは別の意味で「普通」ではありませんでした。これを機に私もいわゆる一般の道を歩きたいのです。
ですが、この作戦が仮に何かの理由で失敗に終わった場合、私は今度こそいわゆる一般人になることを諦めるかもしれません。だからといって、またつまらない人間、いわゆる一般人以下の人間に戻りたいとも思いません。本当に失敗した場合、私は意地でも魔法使いキットを手放さないでしょう。それで約束を破ったと、あの黒服の彼や滋君たちに攻撃され殺されても構いません。取り得もない、女にもモテない、そんなくだらない、何もない人生を送るくらいなら、死んだほうがマシです。
私だって、そういうふうに考えられるようになってきたのです。それも魔法使いキットのおかげでしょう。ここ一ヶ月ばかしの奇妙で非現実的な経験は私の精神を変えたのです。さらには運命すらも大きく変えようとしているのです。あとはその変化する運命をどれだけ良いように信じられるかです。
私は、まだまだその点が不十分です。信じられないわけではないですが、根がネガティブ思考ですから、すぐには無理です。でも、それも魔法使いキットがあれば少しずつ改善されていくでしょう。会社の後輩のあの彼女と結婚できても、同じように変われるでしょう。
私は意を固めて会社へと出かけました。ケース以外のすべてのアイテムを持っていきました。滋君とバーモンさんには合鍵を渡してあります。さすがに会社にまで同行させる訳にはいきません。時間まで適当に過ごすように言ってあります。滋君は午前中だけ大学があるそうです。
私は、期待と不安を胸に抱えながら会社に到着しました。今日は、出来る限りあの後輩の彼女と顔をあわせないようにしました。こっそりと彼女のいる部署を覗いて、さっと逃げる。その繰り返しです。いつもと変わらず健気に働く彼女は可愛らしいものです。
そんな彼女が、芝居とはいえ、今夜、気色の悪い男に襲われそうになるのです。その際の彼女の恐怖を考えると、次第にバーモンさんが憎く思えてきました。始まる前から、芝居とわかっていながら、こうです。私の彼女への気持ちは、自分で言うのもなんですが、本物です。誰にも渡したくないのです。彼女に近づく彼女の同期や、先輩、上司の姿が、ただ話しかけているだけなのに憎憎しく映ります。
そのうちの一人、私よりも二つか三つか年下の後輩が、彼女に顔を近づけて耳打ちするように話しかけているのを目にしたときには殺意すら覚えました。まさかそのような仲ではあるまいな、そう考えると今度は心臓を鷲づかみにされたような胸の痛み、そして息苦しさに襲われました。全身が熱く痒くなって、今にも魔法使いキットを発動してやりたくなりました。体が疼くのです。彼女の反応、表情を見ると、しかし驚いたような、苦笑いするような、むしろその突然のセクハラにも似た接近に困惑しています。いえ、嫌がっているはずです。
私はここで、夜までは飲まないと思っていた薬を飲みました。頭を抱えるふりをしてバンダナも巻き、シールを貼ったボールペンを飛ばして、彼女に近づいたその後輩の尻に刺してやりました。ボールペンはすぐ抜いて隠してやりました。そうしてまた彼女に近づこうとする別の、今度は同期の男の尻にもボールペンを飛ばして刺してやりました。
ちなみに使ったボールペンは彼らの上司のものです。このときペンを隠すのをやめると、誰のボールペンだと犯人探しを始めて、もうひと悶着起きました。計算どおりです。
彼女は、何が起きたのかわからないといったふうに首を傾げています。尻を刺されて軽く怪我した男たちを介抱するような素振りも見せません。私は、自分のやったことに正当性を与えられた気持ちになりました。
彼女を守るのは私です。私の使命なのです。そして彼女と結ばれるのも私です。それは運命に違いないのです。
今更ながら、この魔法使いキットに未練がわいてきました。これがあればいつだって彼女を守ることが出来るのです。女を守れる男こそ真に格好のいい男なのです。私はやります。やりぬきます。バーモンさんには悪いけれど、もはや芝居のつもりはありません。本気で、彼女を怖がらせる相手をけちょんけちょんにしてやります。黒服の彼だろうと滋君だろうと、邪魔をするようならみんな敵です。
日も次第に暮れ始め、夜がこの世界を被い始めると、それに合わせるように私の精神も感覚も広がってきました。
じきに終業時間。心の準備も出来ました。




