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三十路サラリーマンの独り言(後編)

 私は彼女の、書類や大きな封筒を胸の前で両手で抱えるように持つ仕草が好きです。純粋な女の子っぽくってそのまま後ろから抱きしめたくなるときがあります。そう考えているのは私だけではありません。同期や後輩の中ではそんな話を彼女がいないときによくされます。中には、彼女自身に直接言っている軟派な奴もいます。当然、彼女は恥ずかしさに顔を赤くします。昼間からそういうことをいう男に限って恋人がいます。浮気な男は同じ男として嫌いです。私は、彼女の仕草を可愛く思うことを公然と口にしません。誰かに同意を求められても、まるで一般論のように可愛いのではないかと答えるだけです。


 彼女は、ときどき眼鏡をかけることがあります。パッチリ丸い目をしているのですが、普段はコンタクトレンズをつけているようです。それを忘れたかなくしたときなどに眼鏡をかけているようです。眼鏡姿もまた可愛らしく思います。ときどきだからこそ余計に男心にグッときます。私も普段から眼鏡をしていますが、眼鏡繋がりというそれだけでちょっと嬉しくなります。


 先日、思い切ってコンタクトレンズにしてみました。彼女との繋がりを一つでも増やそうという目論見です。生まれてはじめてのコンタクトレンズです。以前にも何度か買おうか迷ったことはありますが、自分には似合わないからとやめてきました。私の顔はハンサムではありません。悪い顔はしていないと思いますが、幼少の頃からの近眼で、眼鏡を外すと眉根を寄せる癖があるらしく、不機嫌だと思われてしまいます。自分でも眼鏡姿に慣れてしまっているものですから、いまさらそれを外して街中を歩きたいとも思えません。何だか恥ずかしいからです。その恥かしさを乗り越えて、眼鏡なしの素顔で街を歩いてみたのです。その時は意外にも普通にしていられました。会社のトイレの鏡で自分の顔を確認しても、結構整った顔をしているものだと、妙な自信すら湧いてきました。随分と上機嫌でしたが、いざ部署の中で同期や上司、後輩たちの前にさらしてみると、それだけで笑われてしまいました。よほど眼鏡のイメージが定着していたらしく、「そのような素顔をしていたのか」といった声を何度も聞きました。みんなのアイドルこと新入社員のその娘も、私の素顔を見るなり何事がおきたのかといった驚いた顔をして、白い歯を見せて笑ったのでした。それはただの愛嬌かそれとも馬鹿にしたのか定かではありませんが、私は翌日には眼鏡に戻りました。そうなると何故どうしてコンタクトレンズをやめたのかと皆に聞かれましたが、壊れたと嘘をついて誤魔化しました。では逆にどうして急にコンタクトレンズなんてものをしてきたのかと聞かれましたが、もともと持っていて、その日は眼鏡の調子が悪かったためにしてきたと、やはり嘘をついてやり過ごしました。もちろんあの娘にも同じように質問され、同じように答えてやりました。君のせいでコンタクトレンズをはめ、君のせいでコンタクトレンズをやめたのだと口が裂けても言えません。眼鏡を外したのは私の気まぐれです。気の迷いです。


 そんな私の取り繕いを知ってか知らないでか、「恋でもしたか?」と、聞いてくる同僚も中にはいて、返事に窮することもありました。「何を馬鹿なことを…」と、やっとの思いで返しましたが、そのときばかりは自分の嘘に自分自身が虚しくなりました。


 彼女への感情が恋…。


 歳だって十歳は離れているし、容姿だって二人並べて釣り合うものでもありません。彼女のような可愛らしい娘が私のような、うだつのあがらない三十路のおじさんと付き合いたいと思うはずもありません。そんな夢物語のようなこと、この歳になって考えたくもないのです。


 でも何故でしょうか。「恋」なんて言葉を意識し始めてからというもの、毎日彼女のことを考えます。考えない日など一日もありません。会社で見かけない日などは用事もないのに用事があるかのように装って彼女のいる部署へと足を運んでさりげなく目にしてきます。目が合って会釈されたときなどはその日一日が幸福に思えます。仕事だって捗ります。逆に他の男どもが彼女に仕事を教えて親しくしているのを目にするとイライラしてきます。不安になって仕事にも身が入りません。


 本当に彼女には恋人がいないのでしょうか? すでに誰か、たとえば同じ部署の男と付き合っているということはないのでしょうか? 昔はどんな男と付き合っていたのでしょうか? 遊び人だったのでしょうか? それとも純粋無垢の手付かずなのでしょうか? あの娘の可愛らしさは本物なのでしょうか? 作られたものなのでしょうか? 私をどのような目で見ているのでしょうか? ただの周りの先輩の一人として見ているのでしょうか? 私が彼女の恋人になる可能性は何パーセントなのでしょうか? 私が恋人になった場合、彼女の格は下がるのでしょうか? そもそも私のような男が恋人を持っていいのでしょうか?


 二十代最後の誕生日を一人で迎えたとき、私には一生恋人が出来ないだろうと思いました。結婚なんてクソくらえと思いました。独身貴族を満喫してやって、好き勝手できない既婚者を負け組みと呼んでやろうとも思いました。虚しい夜でした。そんな私が恋をする。彼女は天の使いなのかも知れません。心が乾ききった三十路男の前に舞い降りた天の使い…


 恋は人を変えるといいますが、まさか自分がこのような歯の浮くような言葉を思い浮かべるとは。恋は尋常ではありません。常識がまったく通用しません。私には恋の経験値が少なすぎですから尚更そう感じます。いまになって、それまでの色恋に無縁で、色恋に夢中になる人を馬鹿にしていた自分の人生を悔やんでしまいます。恋を成就させるのに恋のレベルが必要なら、私はそれに達していないでしょう。誰か教えてほしいものです。でも、そのようなことを相談できる友人知人を私は持っていません。友だちはいても、さんざん恋人は要らないと強がっていた手前、いまさら恋の鞭撻を誰かに頼むなどできないのです。あざ笑われるに決まっています。馬鹿にされるに決まっています。私には資格がないのです。恋をする資格が。


 そうこうしているうちに別の男に彼女は取られて行くでしょう。結局はそういう運命なのです。天使のような女に、私のような男が恋をしてはいけないのです。


 それでも、許されるなら悪魔に魂を売ってでも、彼女を自分のものにしたい… 彼女を独占したい…


 そんな頃です、私の目の前に突然空から黒いケースが降ってきたのは…



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