三十路サラリーマンの不安と努力(前編)
もしかしたら誰かに見られたかもしれません。
あの私を殴った酔っ払いを懲らしめた際、ポリバケツやら空き缶やら空き瓶やら目に付く周りのものを悉く飛ばしてぶつけてやりましたが、よほど腹立たしかったのでしょう、あまりに夢中になりすぎて、いつの間にか小さな人だかりができていたことに気付きませんでした。あまりに一方的で、それでいて現実離れした喧嘩に、仕舞には警察を呼ばれ、パトカーのサイレンの音を聞いて、ようやく私もそれと気付きました。慌てて走って現場から去り、途中からは箒を使って逃げたのでした。顔も見られたかもしれません。あの小さな人だかりの中に顔見知りがいたかもしれません。
その日以来、私は会社にて魔法使いキットを使うことをやめました。バンダナもしなくなったため、額の包帯も取ることができました。ようやく怪我が治ったと周りから話のネタにされましたが、その度に私はあの酔っ払いを懲らしめた夜も包帯を巻いていたと思い出して、人知れず背筋が凍える気持ちになりました。額に包帯をした人物なんてなかなかいません。警察からしてみれば犯人を捜す上で有力な目撃証言になりましょう。
私はどこか遠くに逃げられないかとも思いました。箒があるのだからそれも不可能ではありません。もしくは時間を戻せる魔法がないのだろうかと真剣に考えました。市立の図書館に足を運んで魔法に関する本も探しました。でも、これといって目ぼしいものはありませんでした。どれも魔法と呼ばれるものや怪奇現象を科学的に検証しているものばかりでした。真面目に魔法について検証し、その修得方法を記した本などありませんでした。
私たちが住むこの世界において、魔法は御伽噺の中だけの話のようで、万物は科学によって説明され、説明されないものは認められないようです。ですが、私がこの一ヶ月に体験したことは夢でも幻でもありません。私は物体を操り、エネルギーを操り、空まで飛んだのです。そしてそれはアイテムがあれば今でもできるのです。
私は、確かに会社で魔法使いキットを使うことはやめましたが、いつ何時どこで警察に声をかけられるかわかりませんので、キットを持ち込むことはやめませんでした。肌身離したくないのです。さすがにケースごとでは目に付きやすいので、ポケットに入れてあります。スーツの上着の胸ポケットにはバンダナを。上着のサイドポケットにはシールを。内ポケットにはスティックを。スラックスのお尻のポケットには、錠剤をプラスチックのドラッグケースに少量移したものを入れて持ち歩いています。瓶は鞄の中です。
大きさに一番問題があった箒ですが、可能な限り小さくして、新調したちょっと大きめのボストンバッグに入れてあります。周りからは何故にボストンバッグを、と当然聞かれましたが、趣味でジム通いを始めたと言っています。実際にトレーニングウェアや靴、タオルなども一緒に入れてあります。アパートの近くのジムにて会員登録も済ませてあります。先日足を運んで、試しにトレーニングマシンを色々と使ってみました。日頃の運動不足がたたって上手く扱えなかったうえに、翌日には全身筋肉痛になりました。
それでも運動をすると気分が晴れると知った私は、それから毎日通うようになりました。筋肉や体力が魔法にどう影響するかも少し興味がありました。
ジムに通うようになってからも、帰宅後アパートにて魔法の訓練を欠かしません。対警察を想定してむしろよりハードに特訓しています。相変わらずシールだけは得意です。十枚くらいなら同時に操れるようになりました。スティックによるエネルギー操作は、少しは上達しました。ライターの火を火炎放射器のように放つことくらいはできるようになりました。
次の目標は電気です。電気を自由自在に操れるようになれば、炎以上の武器になると考えています。ところが、これがまた難しいのです。炎と同じ頃に練習を始めたのに、炎のほうだけ上手くなっていきます。水を操ることもまだまだ電気同様に不慣れです。これは私の推測ですが、人によっては操れるエネルギーに得意不得意があるのではないかと思われます。私は炎に強い、比べて電気や水には弱い。格好よく言えば属性というものです。
いっそ得意であろう炎を操ることを極めるのもいいかもしれません。そのためスティックの練習に関しては炎に五割、電気に二割五分、水に二割五分と時間を割り振っています。
箒に関しては相変わらずです。乗っていられる時間は多少増えましたが、箒に乗っているというより乗せられているといった感が続いています。




