取り壊し前のアパートの屋上にて(前編)
H町、取り壊し前の、古びた五階建て鉄筋コンクリート造りのアパートの屋上に弥生の姿あり。風に吹かれて髪もスカートも靡かせながら直立不動で空を睨みつけ、歯軋りとともに出る言葉は、
「早く現れなさいよ」
快晴、陽光は輝いて、近くの公園より少年少女たちのはしゃぐ声も届く長閑な日曜の正午。日曜だから云々の桐生の推測も当てにはならず、長閑が過ぎて却って対象が現れる気がしない。本当ならば自分も友だち数人と久しぶりの休日を心底満喫している予定、これではただ太陽に肌を焼かれ、屋上の冷えた風に吹き晒されるのみ。そのうちにお腹も空いてくる、喉も渇いてくる。手渡されたものは双眼鏡ただ一つ。そもそもこの場所を指定されたことも「ここでいんじゃないか」なんて桐生の思いつき。退屈し切り。携帯電話をいじりながら、先ほど友人に送信した『用事が出来たから遅れるかも。先に遊んでて』との文章を読み返して切なくなる。漏れた嘆息を再び鼻から吸い上げると次には怒りが込み上げる。気晴らしにと無駄に能力で炎を生み出し青空目掛けて撃ち放ってやれば、その一瞬は爽快を得ても、そのうち火球が重力にて押し戻され己の頭へ降ってくる。堪らず避けて、火球は足下にて燃えて、慌てて足で踏み潰して消しにかかれば、お気に入りのスニーカーは煤だらけ。がっくり項垂れ、この不運を全て何もかも自隊の隊長こと桐生のせいにして、明日には必ずぶん殴ってやるとの一念を抱くも、これもまた虚しい。
火も踏み消したところで弥生はその場で膝を抱えて蹲る。消し潰した焦げ跡をぼんやり見つめながら、ふと、普通の女の子に戻れないかと思う。でも自分の能力が目覚めたとき、UWに入ると決めたのも自分自身なら、そう思うこともまた無責任と己を戒める。この一人問答は今に始まった話ではない。仕事に行き詰る、友だちと過ごす時間が少なくなる、今の自分の在り様を疑う度に弱音を思い浮かべて、それを責任の二字で押し殺している。弥生がUWに入ったのは彼女が高校一年生の時分。かれこれ五年近くもやっているのだとしみじみ思う。あんなことさせられた、こんなことさせられた、あんな目にあわせられた、こんな目にあわされた… 思い出は殊更ストレスの歴史。が、UWの仕事は嫌いではない。大変であれ、必要とされている充足感がある。給料だって悪くはない。仲間も、無茶なことばかり押し付けてきて、いい加減で、人のことを女子として絶対に見ていないだろうけれど、それでも悪い人はいない、ときどき優しいときもある。自分と同様に仕事に誇りを持っているなら共に行動して居心地もいい。彼女もまだ二十歳そこらの本業女学生、仕事の責任のなんたるかを頭で理解しながらも、大学での友人が皆、モラトリアムの中にあれば、己一人が責任を負った生活をしていることに時に嫌気が差したところで普通というものである。
と、この屋上に人がやってくる。
「あの~、すいませ…」
声が聞こえてびっくりした弥生は咄嗟に身を翻して、履いていた靴を声のほうへと投げつけている。扉より顔をのぞかせていた声の主の顔面に命中して、尻もちをつかせると、
「あれ?」
さて、その顔に見覚えがある。敵ではない。桐生でもない。どう見ても可愛らしい女の子の如き容貌をして、しかし男子というその者は、一ヶ月前に能力の覚醒に成功した佐久間滋である。
「あんた、何やってんのよ?」
「あの、ごめんなさい、平塚弥生さんですか?」
「そうよ、何か用?」
「用というか、桐生君にこの屋上で弥生って人に会えって言われたんですけど…」
「誠司? げっ、ああ、そうだった。あなたが来るとか来ないとかって話もあったんだ… 忘れてた」




