イン・ザ・テレビ
見ていた番組が終わってコマーシャルが流れ始めると、葉月は気だるげに体を起こし、テレビを消した。テレビの横の置時計を見ると、十一時を過ぎたところだった。明日も朝早い。そろそろ寝なくては、と思いながらも、体は言うことをきかない。歯磨きをして、明日着る服を準備して……やることはいろいろあるのに、体は動きたくないと叫ぶ。葉月はせっかく起こした体を、またカーペットの上に倒した。ぼんやりと明日の仕事のことを考える。明日は会社の全員の前で、初めてのプレゼンをしなくてはならないのだ。しかも、明日は取引先のお偉方も出席するとのことで、葉月は一層プレッシャーを感じていた。幼い頃から、葉月は大勢の前で話すことが大の苦手だった。大学生の頃、卒論発表で緊張しすぎて倒れそうになったこともある。社会人になってからは、いつかプレゼン発表をする日が来ることは覚悟していたが、それがついに明日へと迫っていた。
「やだなあ、明日」何気なく声に出すと、一人暮らしの狭いアパートに自分の声は響いた。
「会社、行きたくないなあ」「休みたいなあ」「熱出ないかなあ」ひとたび声に出すと、わがままで無理な欲求は、次々に葉月の口から外へ出て行った。そのときだった。
「休んじゃえばいいじゃない」
はっきりと、そんな声が聞こえた。葉月はえっ? と驚き、体を起こした。周りを見渡したが、誰もいない。空耳か、疲れてるのかなあと思いながら、また横になると、再び声がした。「空耳じゃないわよ。でもあんた、疲れてるみたいね」
葉月は急に怖くなって、家の鍵と財布だけ掴むと、玄関へ走った。急いで靴を履こうとするが、慌てていてうまく履けない。すると、また同じ声が聞こえてきた。
「逃げなくてもいいじゃない。大丈夫、怖いものじゃないから」
葉月は勇気を出して、つい今まで自分がいた部屋を振り返った。消したはずのテレビがついていた。テレビ画面の中には、優しい表情をした、だけど芯が強そうな、二十代後半くらいの見ず知らずの女性が映っている。葉月は恐る恐るテレビに近づいた。
「あなたは誰なんですか」声を振り絞り、尋ねてみた。
「私? ふふ、内緒よ」テレビの中の女性はいたずらっぽく笑う。それはなんだかとても心安らぐ笑顔で、葉月の恐怖心はすっかり影を潜めてしまった。
「明日、会社に行くのが苦痛で」休んじゃえばいいじゃない、と言われたことを思い出して葉月はそう切り出した。
「明日は大事なプレゼンがあるんでしょう。代わりにできる人はいるの」
葉月は首を横に振った。そうなのだ。代わりの人は誰もいない。葉月が休んだら、大変なことになるだろう。
「あんたにしかできないのね。そんな大役、すごいじゃない」
「全然すごくないよ。私がやることになったのは、ただの偶然だもの」葉月は二ヶ月前の出来事を思い返していた。謙遜ではなく、本当にただの偶然だったのだ。
「偶然も味方のうちよ。これを成功させたら、あんたの社内での評価はぐっと上がるわね」
「評価なんて、興味ないもの」葉月は即座にそう答えた。葉月は評価とか、昇進なんてものには全く興味がなかった。波風立てずに、周りに上手く合わせてのんびりと仕事をしていければそれでよかった。だから、下手に評価が高くなったりして、同期の反感や嫉妬を買うのだけは避けたかったのだ。そう話すと、女性はため息をついて、一言「ばかね」と言い放った。葉月はかちんときて、何か言い返そうとしたが、適当な言葉が見つからず何も言えなかった。黙って下を向いてしまった葉月を見て、
「ちょっと言い過ぎたわ。ごめんなさいね」女性はすまなそうに謝ったが、葉月は首を横に振った。
「その通りだから。自分のこういう性格、好きじゃないの。他人のことなんて気にせず、もっと自由に生きたいのに」葉月は誰かに、ここまで素直に胸の内を話したことなど今までになかった。彼女は穏やかな顔で、葉月を見ていた。
「今までの自分から変えるって、とても勇気のいることよ。あんたは変わりたいと思っている。それだけですごく立派なことだと私は思うわ。このままでいいって、変わる気がない人は大勢いるものよ」
葉月はテレビ画面に映る女性が、だんだん薄くなってきていることに気付いた。このまま女性が消えてしまうのではないか。葉月はすこし心配になった。
「もしかして、もういなくなっちゃうの」女性はどんどん薄くなっていく。
「また会えるわよ。そのとき、一段と成長したあなたに会えるのを楽しみにしてるわ」
バイバイ、と小さく手を振って、女性は消えていった。テレビ画面は、消したときと同じように、微かな光もなく真っ暗だった。体はなぜか熱を帯びている。
もちろん、風邪などではない。大丈夫、絶対できる。葉月は確信した。
翌日のプレゼン発表の最終準備のために、葉月は資料が入ったバッグに手を伸ばした。