第一話 アラン・エヴァンスという男Ⅰ
これだから教師は嫌だと、アランは既に何度目かわからなくなる愚痴を心の中で溢していた。
早朝の校門。生徒への挨拶と遅刻の取り調べを兼ねて、アランは早くから校門前に立っていた。遅刻の生徒を注意するのが目的ならば、登校時間が終了してから立ち始めればいいものの、一番若手のアランにどうこう出来る問題では無かったので、こうして渋々立っていた。
寝癖の残る髪の毛を撫でる微風は、春の朝だということもあって心地よいものだった。ただ、昇りかけの太陽の日差しが目に直行してくるので、アランは手廂を作りながら何とか凌いでいた。
通り過ぎる生徒に適当な挨拶を振り撒きながら、アランは終了時間を待ちわびていた。
「うーす......おーす......うっす......」
まったく、教師の風上にも置けないような挨拶である。今日も今日とてくたくたのスーツに身を包み、寝癖は相変わらず暴動を起こしていた。
しかしアランはこれで良いのだと、勝手に思い込んでいた。
教師が全員真面目であると、生徒も息が詰まってしまう。
反面教師という言葉があるように、ある程度反省材料となるような人材がいるというのも、重要な事である。
と、ただの言い訳をしながら、アランは今日まで教師を続けてきた。
この職を辞めたところで、生活していけるだけの仕事にありつくには今以上の努力が必要になるだろう。それならば、適度に手を抜きつつ、のんびりとこの仕事をしている方が安泰だと、アランはそう考えることにしたのだ。
経済が豊かであるこの国は、仕事もそれなりにある。でもそれはアランが最も好まない、肉体労働である。
朝から晩まで身体を動かすなど、アランには到底考えられなかった。
「アラン先生っ!おはようございます」
「うーす......」
アランは手廂に隠れて見えない相手に、もう片方の手を挙げて返事をする。
「こらっ、生徒がちゃんと挨拶してるんですから、先生がちゃんと挨拶を返さなくてどうするんですか?」
「っててて、ホーミング君か......」
アランは思いの外強い拳骨を受けたおでこを擦りながら、手廂をどける。日差しに目を細めた視界には、シャルロットがいた。
シャルロットは腰に両手を当てながら膨れっ面をしている。学級委員然とした(実際に学級委員である)風貌は、アランよりもむしろ教師らしかった。
子供を叱りつけるように怒られたアランは苦笑しながら、自分には弁明の余地が無いことに気付かされる。
「悪かった悪かった。ちょっと考え事をしていたんだ......」
露骨な言い訳だったが、勿論シャルロットには通じるはずもなかった。
「先生、その言い訳はもう聞き飽きました。早く別の言い訳考えてください」
「な、なんという返し!?」
いたずらっぽい笑みを浮かべながらの皮肉に、アランはまともな返事も出来ない。
これだから優等生は扱いづらいと、アランは改めて思い知らされる事になる。
「大体先生は全然先生らしくないんです。スーツはくたくただし、ボタン取れてるし、寝癖は凄いし」
「ホ、ホーミング君??」
「今日は言わせて頂きますよ。いっつも何かと理由を付けて逃げるんですから、まったく」
アランの頭の中で咄嗟に思い付いていた言い訳が、じゃらじゃらと崩れ去って行く。
これでも自分を思っての行動なのだから凄いやつだなと、アランは己の怠惰をまるで棚に上げて考えていた。
「まず身なり。これは基本ですよ!先生がそんなだらしない格好でどうしますか?」
「まあ......気を付けるよ」
「まあ?まあって何ですか!?そうやってスーツも寝癖もそのままじゃないですか!」
「はいっ!気を付けます」
アランもそろそろ恥ずかしくなってきた。横を通り過ぎる生徒の視線が痛い。くすくすと笑い声まで聞こえてくるのだから、アランはこの場を去る案を巡らせることにした。
登校時間の終了までまだまだ時間もあるし、アランは自分は反面教師としてのお手本だと、そう言い聞かせてこの場を耐え凌ぐ事にした。
しかし、まるで母親のようなシャルロットのお説教は、アランの想像するところの更に上を行っていた。
「まさか......自分は反面教師だなんて思って無いですよね?」
「へ?い、いいや?全然、全く、これっぽっちも考えてなかったぜ?うん」
今まさしくアランが考えていた事である。アランは睨み付けるようなシャルロットの視線をどうにか避ける。
これだから優等生は、の後に続く言葉をアランはどうにか呑み込む。
それにしても反面教師という強い味方を失った事で、アランの手元に残されたカードは一枚も無くなった。勿論、アランの選択肢の中にシャルロットの言うことを聞くという欄は、当然のことながら存在しなかった。
「確かに反面教師という言葉はありますし、絶対に必要無いとは言い切れませんけど、少なくともアラン先生はもっとちゃんとしてください」
「何で?」
「何で?じゃないです!何でもです!」
最早理由になっていない回答だったが、アランはしつこく問い詰めるような真似はしなかった。どう見繕っても、それが退路のきっかけになるとは思わなかったからだ。
アランは別にくたくたのスーツや寝癖が良いとは思わなかった。ただ、それと同時に悪い事だとも思っていなかった。
どうにかこの場を立ち去りたいアランは、ふとシャルロットの指につけられた指輪に目をやる。
確かエルギアス学園の校則には、過度なアクセサリーを身に付けてはならないとあった。シャルロットの身に付けるそれは、決して過度と言われる部類に入っているとは思わなかったが、アランは優等生な彼女にはこれが切り札になると考えた。
「ホーミング君。左手に着けているその指輪はなんだ?校則を重んじる君には珍しいじゃないか」
アランの指摘に対するシャルロットの反応は、むしろ彼が驚くほどの狼狽ぶりだった。
「えっ!?これは......その......」
左手を隠すようにするシャルロットに、アランは用意していた追撃の矛を収めざるをえなかった。
そんなに指摘されたくない物なら、最初から着けて来なければ良いのに、というのがアランの正直な感想だ。
「こ、これは......家庭の事情で......」
「そ、そうか......」
二人の間に気まずい雰囲気が漂う。
シャルロットの担任でもないアランは、彼女の家庭事情に干渉出来るはずもなかった。
貴族の子息も多いこの学園では、色々な仕来たりや規則を持った生徒がいることもまた事実である。
シャルロットがそういった家庭事情に生まれたというのであれば、それは彼女の意思には関係なく、ましてやアランにはどうすることも出来ない事だった。
立ち去ろうにもそうはいかず、ここは年上である自分が話し掛けようと意気込むアランではあったが、肝心の言葉が出てこない。
棘に触ってしまったと、アランは顔をしかめた。
しかし出口の無い迷路に入りかけた二人の沈黙は、突然現れた訪問者によって破られる事になる。
◇ ◆ ◇
「お前がアラン・エヴァンスか」
唐突に自分の名前が呼ばれたアランは、シャルロットにかける言葉を探していたのを中断して、声の方を振り向く。
「......へ?」
こんな間抜けな返事しか出来なかったのは、今回ばかりはアランの抜けた性格故では無かった。
その証拠に、声をかけてきた主の周りには人だかりができている。
アランに声をかけた人物は、エルギアス帝国でもよく知られている人であった。
「フェンリル第二部隊隊長......ソニア・クラフ......」
誰が呟いたのかはわからない。
ソニア・クラフ。
たった十六歳にしてエルギアス帝国のエリート部隊、その中でも第二部隊の隊長を務める、天才美少女である。
燃えるような赤い長髪に、同じく紅色の瞳。背は普通の女の子と変わりなく身体の線も細いが、なんといっても背中に背負っている地面に付きそうなほど巨大な大剣が特徴であろう。
そして彼女の地位を他人に知らしめるための、狼の刺繍が、彼女が纏う服の肩に縫い付けられていた。
フェンリル。
数年前に設立された、エリートだけを集めた部隊で、設立理由は諸説ある。世間で最も有力な説は、前皇帝が娘を守るために創ったとされているが、国民に心意のほどは知らされていない。
理由は何にせよ、エルギアス帝国のあるユーラディア大陸最強と呼ばれるフェンリルは、国民にとって大変心強いものである。
フェンリルに入隊するためには様々な過酷な試験が幾重にも連なっており、年間で数人入隊するのが現状となっている。
フェンリルは陸を任された第二部隊、海を任された第三部隊、空を任された第四部隊、魔法・開発・研究を任された第五部隊、フェンリル各隊のまとめ役や諜報を任された第一部隊とに分けられる。
各隊の戦力だけで国を一つずつ滅ぼす事が出来るとすら言われているのだ。第二部隊隊長であるソニア・クラフがどれほどの人物であるのか、想像に難しくはない。
大地を焦がすと言われるソニアの炎魔法と、大地を切り裂くと言われる彼女の大剣は、他国でも恐れられている。
そして、アランには彼女に話し掛けられる理由をどこにも見つける事が出来ず、ただ彼女の野性的な瞳を覗く事しか叶わなかった。
「お前がアラン・エヴァンスなのかと聞いている。答えろ!」
とても友好的な挨拶には見えなかった。ソニアの右手は若干上がり、アランはその手が大剣の柄に向かっているような気がしていた。
ソニアの気迫に圧されたのか、シャルロットがアランの方を心配そうに見つめる。
アランは大丈夫だという視線を送り返した後、ソニアに向かってコクコクと頷いた。
「何故お前がこんな所で教師の真似事をしているんだ。三年前に突然いなくなっておいて、何故いきなり現れた」
立て続けに問われた質問の全てに、アランは答える事が出来なかった。
明らかに周りがざわついているのはわかっていたが、アランは混乱からただ立ち尽くすだけに止まっていた。
「まず言っておくと、僕は教師の真似事じゃなくて、本当に教師をしているんだけど......」
「とぼけるなっ!」
今度そこ大剣の柄を掴んだソニアに、アランは現状を打破する案を必死に考えていた。
いざとなれば自分が動かなければなるまい。フェンリルの隊長一人ならば、アランには互角以上に立ち回れる自信があった。
「本学園に用があるならば......」
「私の目が......そんな冗談を言えといっているのか?」
目から炎魔法でも放たれるのでは無いかというソニアの眼力に、周りの生徒も異変を感じていた。
シャルロットの心配さの度合いを汲み取ったアランは、少しばかり攻勢に出ることにした。
「あなたにどんな事情があるのかは知らないが、生徒に危害を加えるつもりなら即刻立ち去ってもらう。僕は正式に教師をしているし、三年前の事だって君には関係ないはずだ」
三年前。
そのワードだけで話が通じ合うのはら恐らくこの中ではアランとソニアだけであろう。
「関係がないだと?」
果たしてこれは禁句だったのだろうか。肉眼でも確認出来るほど、ソニアの周りに魔力が感じられる。
周りに集っていた生徒たちは後退り、事の様子を沈黙とともに見守っていた。
怒りという感情がソニアの中を取り巻いているというのは、アランにもわかっていた。
“炎の戦乙女”と呼ばれているソニアが一度地上で暴れれば、たちまち学園に多大な損害が出てしまう。
自分が教師になった時からこうなる運命だったのかと、アランは自分のせいでこうなった事は考えないようにしていた。
三年前のあの出来事。
アランにとっては短い人生の転換にもなった大きな出来事であって、今でも胸に鈍痛をもたらす。アランにとってはあまりにも辛く、残酷な出来事であった。
それを踏まえた上でも、ソニアの怒りのベクトルが一体どこへ向かっているのか、アランには推測することすら出来なかった。
「私が三年前にお前が殺したあの人の娘だと言っても、関係無いと言えるか?」
「なにっ?」
ソニアの言葉が、アランに鉛玉のような冷たくてずっしりとした重みでのし掛かる。まるで稲妻が身体中を走ったかのような感覚に襲われる。
周りの生徒たちはポカンとしていたが、どうしたことかシャルロットだけは相変わらず心配そうにアランの方を見ていた。
アランは自分の首元に冷や汗が流れているのに気が付く。忘れるはずもない三年前のあの出来事。
アランは自分の中からすうっと思考が滑り落ちて行くのを感じていた。
「自分に落ち度があると認めながら突然姿を消し、今はのうのうと生活をしているのか!」
違う。のうのうと三年を過ごして来たわけではない。アランはそう言い返そうとしたけれど、実際口から出て来てくれそうにもなかった。
どうせこうなるとわかっていたならば、寝癖とスーツを直してくるんだったと、アランは今更ながら後悔していた。
ソニアの怒りを沈める事が出来るだけの努力も、懺悔も、後悔もしてきたつもりだったが、今のアランにそれを体言することなど出来はしなかった。
「すまなかったと思っている」
「そんな謝罪が聞きたかった訳じゃない!」
柄を握るソニアの手に力が籠る。
一体何をしたらこの場での正解に辿り着くのか、アランはその答えが無いような気がしていた。
登校時間が終了に迫っているという事もあって、生徒の数は段々と減ってきている。ただ、事の顛末を見届けたいという情報好きの生徒やシャルロットは、まだこの場に残っていた。
「君が望む事はなんだ?僕の懺悔か、死か、はたまた君が僕を殺すことか。それで君が満足するならそれでいいさ。でもどんな手を使ったってあの人は帰ってこない」
アランは冷静を装って、そう答えた。
アランがソニアに放った言葉は、アラン自身にも深い穴を穿つ。
「お前ぇぇぇ......」
ソニアの纏うオーラが変わったのがわかったのは、恐らくアランだけではないだろう。
今にも襲い掛かってきそうなソニアに、アランは特に身構える事もせず、ただ真っ直ぐに立っていた。
「らぁぁぁぁ!」
威勢のいい声と共に、ソニアの大剣が背中から抜き取られ、炎を纏いながらアランに迫ってくる。
第二部隊隊長の名に恥じない莫大な魔力は、周りの空気を振動させていた。
勿論、アランは何もせずにただ斬られようとは思っていなかったが、彼が手を出すよりも早く、アランとソニアの大剣の間に誰かが割って入る。
その誰かとは、正確には人ではなかった。
「これは......!?」
アランとソニアの双方が、乱入者に驚いていた。
ソニアの放つ大剣を受け止め、纏う炎を打ち消したのは、水で出来た騎士のようなものだった。
二メートルほどの体躯は全て水で出来ていて、それが魔法によって造り出されたものだというのは、二人にもすぐにわかった。
ただ、この魔法を放った人物がシャルロット・ホーミングだと気が付くには、少々の時間がかかった。
二人は、水の騎士の生成が得意な魔法使いをよく知っていた。その人物とは、二人ともよく面識のある現皇帝その人なのだが、この生成速度や強度といい、にわかには信じ難い事だったが彼女に迫るほどの実力だった。
現皇帝の実力は、フェンリルメンバーにも劣らないと言われている。ただ彼女と誰も戦おうとしないだけだと。
「お、お前何者だ?」
ソニアは一旦アランと距離をとって、シャルロットを凝視する。それはアランも変わらない事だった。
日頃からシャルロットの事は優秀だと思っていたアランだが、今回のこの速度は優秀の域を越えている。それこそ、水魔法の天才と言われている現皇帝と何の遜色すらない。
銀色の髪以上に透き通る水色の瞳は、驚くほどの厳しさでソニアを射抜く。第二部隊隊長でも後退りするほどだ、アランはただ目を見張っていた。
「学園内でのこれ以上の暴挙は、たとえフェンリル隊長であっても許しません。アラン先生にこれ以上矛を向けるつもりならば、私が相手をします」
シャルロットの言葉に偽りはなかった。アランとソニアの間に入り、堂々とそう宣言した。
「おいホーミング君」とアラン。
「お前、本気か?」とソニア。
アランにはシャルロットの背中しか見えなかったが、彼女の気概だけは背中を見るだけでわかった。ソニアもあの調子であるので、二人が争うことは避けられそうにもない。
事の発端であるアランは、決着は自分が着けようと一歩前へ出ようとする。
しかし、複雑な感情が絡まり合ってちぐはぐになったこの状況は、またしても現れた人物によって、呆気ない幕切れを迎えることになる。
◇ ◆ ◇
「ソニア、もうやめなさい」
「ピアさん!?」
ソニアの前に立ちはだかったのは、ピア・フェスタ。フェンリル第五部隊隊長である人物だった。その証拠に、肩の部分には狼の刺繍が縫い付けられている。
魔力が多い者の象徴とされる白い髪に、吸い込まれるような蒼い目。子供のような容姿だが、アランよりも年上である。
幻覚魔法が得意で、魔力量は常人を遥かに逸しているが、極度の上がり性故に人前に出ることはほとんど無い。大事な会議ですら部下に行かせるようなピアが、付き添いも連れずにこんな場所に来ることは本当に珍しいことだった。
「どこでアランの事を聞いたのかは知りませんが、ソニアは物凄く勘違いをしているのです。全く真実が見えていないのです。思い込みもいい所です、隊長としてもっと自覚を持つべきなのです」
「で、でも......こいつは......」
幼稚な容姿からは想像出来ない痛烈な指摘に、ソニアは口ごもる。アランとシャルロットは黙ってピアを見守っていた。
「ソニアはあの日何があったのか、実際に見たわけでは無いのです。それにあの人だってこんなことを望んでいるとは到底思えないのです。あれは私たちは全員の責任です。責めるなら、フェンリル皆を責めるべきなのです」
「でも......でも......」
ピアの容赦ない指摘に、ソニアは涙ぐみ始める。先程までのオーラは消え失せ、真っ白な手で必死に涙を拭っていた。
ピアは小さな背を一杯に伸ばして、ソニアの頭を撫でる。
あの猛獣のような殺気を放っていたソニアだが、ピアに撫でられてからは手懐けられた子犬の如く、その殺気はすっかり収まっていた。アランは驚かざるを得なかった。
「ソニアがあの人を想う心はよくわかっているのです。だけど、自分の感情を暴走させて他人を傷付けるのは、ソニアらしく無いのです。ソニアは良い子ですから」
「ぐす......ごめんなさい......」
「わかったらいいんです」
謝罪の対象が違う気がしたのは、アランもシャルロットも言わないことにした。それくらいの空気は、周りの生徒たちも読めていた。
いや、周りの生徒においては、驚きのあまり言葉が出ていないだけであった。
泣きじゃくるソニアが少し落ち着いたところで、ピアはソニアの頭から手を放して、アランの方を向く。
「お久し振りです、アラン」
「ああ......」
アランは短く応じる。
シャルロットは驚くかと思ったが、黙っているままだった。
「話したい事はたくさんありますけど、まずは謝罪をしなければなりませんです。あの人はソニアが生活していた孤児院をよく訪れていたのです。だから、ソニアにとってあの人は父親、それ以上に大切で特別な存在だったのです。でも、ソニアがアランを責めるのは間違っているのです。そこのあなたにも、です。ソニアがお騒がせして、どうもすみませんでした」
「いえ、私は......」
何故かシャルロットがピアに笑いかけたように見えたが、アランは気のせいだろうと思った。シャルロットは綺麗な会釈をして対応していた。アランも一応目礼だけはしておく。
「何があったのです。三年前のあの日から。アランの事を責める人はいたかもしれませんが、フェンリルや......皇帝はあなたを咎めなかったのです」
「それは......まあ......」
「アランが答えにくいなら、それで良いのです。一応元気にしているようです。私たちはいつでも待っている。それだけは忘れないで欲しいです」
「ああ......」
ピアはもう一度アランや他の生徒たちに謝罪をすると、まだしゃくり声をあげるソニアを連れて去って行った。
嵐が通り去った後のような静けさに、誰もが気まずさを感じていたが、登校時間の終了を告げる鐘の音が、彼らを動かす動機になってくれた。
(ですを付けたら大人っぽく見えると思っているの、まだ癖だったんだな)
アランは、懐かしき同僚の変わらぬ姿に、少しばかり感慨深いものを感じていた。しかし同時に、その思い出はアランに暗澹たる記憶を呼び覚まさせる。
(恐らく、ソニアは僕以上にあの事に縛られているんだろう)
そして、それを作ってしまった要因の一つは自分であると、アランはずっと思っていた。誰がどう彼を慰めようとも、彼には何事にも曲げられない不変の真理として、彼の根幹とも言えるほどにあの出来事は彼の心の中に住み着いている。
まるで影のように憑いてくる悪夢に、アランはいつしか性格が変わってしまった。極力物事を考えないようにし、積極というものが根こそぎ抜け落ちたような、そんな性格に。
アランは自ら未来を捨て、遠く離れた別の国へ放浪していた。目的もなく当てもない放浪だったが、そんな彼を少しだけ変える出来事はあった。
が、今はとりあえずこの状況だろう。アランは回想を中断して手を叩く。
「ほら、ホーミング君も入れよ。朝会が始まる」
「......はい」
シャルロットは少しだけ悲しそうな顔をアランに向けた後、学園の中へ入っていった。
アランは一応気にはしたが、遅刻生徒を指導する頃には、持ち前の性格ですっかり忘れ去ってしまっていた。