神格化
炎嘉と陽蘭は、少し離れた場所に猛が膝を付いて控える前で、楽しく語り合っていた。その様は、さながら軍神と王、それにその妃のような風情だった。言うなれば、維心と維月が散策している側に、義心が控えているような、そんな感じを思わせた。
碧黎は、それを見て眉をひそめた…たかが、鳥が転生した龍ではないか。それが、我の力で神格化させた熊ごときを育て、己の力にしようと企んでおるのか。
突然に現れた碧黎に、炎嘉が気付いて顔を上げた。その様子に、陽蘭が振り返って、そして眉を寄せた。
「まあ。長く離れておったのに、どうしたことかしら。」
炎嘉は、常々思っていたが、陽蘭と維月は親子なのだと実感した。言うことが、よく似ている。歯に絹着せぬ言いようの時は、大概が怒っている。普通の神の女には、出来ない芸当だった。
碧黎が、憮然としたまま言った。
「ここは我が宮ぞ。当然のことだ。」と、炎嘉を見た。「主、その熊をどうするつもりよ。それは、我が神世に住む時、形を整えようと置いた飾りの門番ぞ。元より、我の結界は月より強いゆえ、誰も侵入出来ぬと分かっておってのもの。力など、与えぬでも良い。」
炎嘉は、碧黎を見た。こやつは、何を言うておる。嫉妬からこんなことを言うておるのか…地の反応とは、今一分からぬ。
炎嘉は、そう思ったが、答えた。
「我が与えたのは力ではない。技術ぞ。こやつの努力で得られるもの。我に、主ほどの力があれば力を与えることも出来ようがの。」
陽蘭が言った。
「子を育てて、少しは神の心というものを知ったものだと思うておりましたのに。猛は、何かの役に立ちたいと、誰も教えてくれぬ中、日々己の思いつく限りで修練しておったのですわ。なのに、碧黎、あなたはそれを見て見ぬふりであられたでしょう。己の都合で勝手に心のある神にして置きながら、放置しておるのはいかがなものでありまするか。炎嘉殿は、それを思うてこうして己の得にならぬのに、せっせと通ってくれておったのですわ。」
碧黎は、炎嘉を見た。
「それは、維月がここに居るからか?それとも陽蘭か?」
炎嘉が、片眉を上げた。陽蘭が、怒ったように腰に手を当てた。
「碧黎!そなた、そのような失礼なことを!この数百年、神達から学んだのではないの!」
碧黎は、キッと陽蘭を見た。
「主はそのように小言のようなことを。我は主のように人を伴侶にしておったことはないゆえな。」
陽蘭は、驚いたように口をつぐんだ。そこへ、維月が駆け込んで来た。維心も後に続いて来る。
「お父様!なりませぬわ!猛を、神から獣に戻すなど!」
炎嘉と陽蘭が、ハッとしたように猛を見た。猛が、怯えたように碧黎を見た。
「我が王よ…我は、やはり役に立たぬゆえ、戻されると申されまするか。」
維月は、首を振った。
「そのようなこと!おかしいわ!お父様は、酷いわよ!まるで、まるで出会ったばかりの、前世のお父様みたい!私は、そんなかたを父なんて思いたくもないわ!」
碧黎は、維月を睨んで手を上げた。
「我が子であるのにおこがましいぞ、維月!」と、軽く手を動かした。「我が決めたことは、絶対ぞ!」
それは、一瞬だった。
力の波動が猛を捕らえるより先に、維月と陽蘭が左右から猛を庇って抱きついた。
「維月!陽蘭!」
炎嘉と維心が、同時に叫ぶ。碧黎に力は、猛ではなく二人を捕らえ、二人は、重なり合うように倒れた。猛が、それを慌てて受け止めて、大きな太い腕で支えた。二人は、完全に気を失っていた。
「何ということを!王…あなたは、我の王などではない!」
猛は、激昂して碧黎に今にも掴みかからんばかりの勢いで言い放った。しかし、実際には両手に二人を抱えているので、いくら大柄で力のある神でも、そんなことは出来なかった。そもそも、碧黎に太刀打ちできるはずなどなかったのだ。
維心が、必死に駆け寄って猛から維月を抱き取った。
「維月!維月…おお、気が…。」
炎嘉も、猛の腕の陽蘭の顔を覗いた。
「陽蘭よ!しっかりせぬか!」と、額の上に手を翳した。「…こちらもぞ。この気はまるで…。」
「人だ。」維心が、維月に頬を摺り寄せながら続けた。「おお維月…。何ということぞ。主が人に戻ってしもうた…。」
炎嘉が、足に根が生えたように棒立ちになっている碧黎に向かって言った。
「何をしておる!早よう戻さぬか!陽蘭も維月も、このままでは人と同じ寿命で生涯を閉じてしまうのだぞ!数十年しか持たぬ…いや、そんなに持たぬかも…。」
維心は、横で身震いした。
「そのようなこと…耐えられぬ!」と、碧黎を見た。「早よう戻せ!出来るであろうが!」
碧黎は、所在無さげに上げていた手を、パタンと下ろした。そして、呟くように言った。
「…出来ぬ。」碧黎は、力なく地面を見た。「一度人にしたもの、出来ぬ。維心が、神の命を切り離したようなもの。戻すことなど出来ぬ。獣を神格化するのとは、訳が違う。」
維心は、目を見開いた。では、維月は短い寿命を生きて、人のまま死ぬと申すか。せっかく、今生は共に転生して、早くに出会い、生きて行こうとしておったのに。
「おお維月…!なぜにこのようなことに!己の父に裏切られるとは!」
碧黎は、そう言って嘆く維心に苦渋の表情で踵を返すと、すっと飛び上がった。炎嘉が、叫んだ。
「どこへ行く!逃げるでない、何とか方法を考えぬか!」
しかし、碧黎はそこからスッと消えた。
そこに残された炎嘉と維心は、二人を抱えて途方に暮れた。
とりあえず、維月と陽蘭は、龍の宮へと連れて来られていた。
目が覚めてみると二人とも元気で、人になっただけなので健康上は問題なかった。
しかし、気が一切使えないので、飛ぶことも出来ないうえ、神の気を気取ることも出来ない。それに、気を補充することも出来なかったので、毎日三食、物を食べねばならなかった。食べる習慣がなくなってから時が経っていたので、維月はしばらくもたついたが、何とかお腹が空いたという感覚を思い出すことが出来るようになった。
怪我をすれば、治るのに時間が掛かるので、回りがそれは気を遣った。維月も陽蘭も、思ったほど気落ちなどしておらず、維心の方がまだ悲壮な顔をしていた。そんな維心の前で、維月は寝る前のスキンケアと言って、とっても浸透性の良いコラーゲンが入っておりますのよ、と言いながら、維月に頼まれて維心が人の世から必死に探して手に入れたクリームを顔に塗っていた。維心はそれを見ながら、苦しげに言った。
「維月…なぜにそのように前向きであるのだ。人でも良いと申すか。我ら、共に褥に入っても我の気が主を殺してしまうゆえ、何も出来ぬ上、主は急速に老いて、数十年で…」維心は、考えたくもないことのようだった。「我は、我はもう耐えられぬ。いっそ我も、共に老いて死ねたら…。」
維月は、維心があまりにもつらそうなので、慌てて維心の手を取った。
「ああ維心様…そのように暗くなってしまわないでくださいませ。十六夜も、蒼も将維も、それに炎嘉様も一生懸命維心様と共に元に戻す方法を探してくれておるではありませぬか。きっと戻れまするから。そのように案じないでくださいませ。」
維心は、維月の手を握ってじっと維月を見つめ返した。
「だが、未だ手立ては見つかっておらぬ。碧黎の行方はようとして知れず、大氣が必死に手を貸してくれてはおるが、進んでおらぬ。我は…己の無力さを、これほどに感じたことはない。」
維月は、ため息を付いた。
「よろしいのです。あの、そのように急には老いませぬから。ほら、まだこのように若いでしょう?ここから最低10年はしないと、老いは始まって参りませぬから。そこから、ゆっくりと変わって行くのであって、朝起きたら老女で死んでおるとかないので、大丈夫ですわ。なので、安心してくださいませ。」
維心は、思いつめた目のまま維月を見つめた。
「だが…夜も愛し合うことも出来ぬだろう。我が神であるから。」
維月は、ホッとため息を付いた。
「はい…申し訳ありませぬ。あの、どうしても我慢が出来ぬと申されるのでしたら、私…月の宮へ戻っておりまするけれども…。」
十六夜は、そっちの必要は感じないので、側に居てもそんな悩みはないのだ。しかし、維心は違う。何しろ、龍なのだ。
「そのような」維心は、慌てて維月を抱き寄せて離すまいとした。「この上離れてなど生きて行けぬ!我慢する!我慢するゆえ…そのようなことを申すな。」
維月は、ため息を付いておとなしく維心の胸に頬を寄せた。これは、本当に早く何か方法を見つけないことには、維心様が疲弊してしまわれるわ…困ったこと…。




