苦悩
大氣は、引き続き龍の宮へ滞在していた。
維月はまだ怒っていて、維心が機嫌を取ろうとするものの、大氣のことになると眉をひそめて黙るので、もはや口に出せなくなっていた。
碧黎は、よく考えると何もしておらぬのに、陽蘭の態度が気に食わぬとこれもまた龍の宮へ滞在し、月の宮では十六夜が、無実の罪で騒いでしまって碧黎の機嫌を損ねたと、おろおろする陽蘭のお守りをしていた。
そんな風に回りを巻き込んで大変なことになっていた大氣だったが、それでもまだ維織には事の次第を打ち明けられずに居た。あちらを全て丸く収めてからということであったので、別に今言わなくても良いのだが、それでも共に過ごす時に何も知らない維織が自分に穏やかに微笑みかけているのを見ると、心が痛んだ。いったい、自分は何ということをしてしまったのだろう。何も分からぬのだから、簡単に接してはならぬのに。あんな、想うてもおらぬ女と関係を持ってその結果子を成して、そんなことが維織に知れたら、維織はなんと言うだろう。
大氣は、思い出していた。維織と婚姻を約した日、維織は確かに他に女が居たら嫁げないと言っていた。今は死んでしまっておらぬとはいえ、確かにその子も居て、このような事実、知らせたらこうしてもう、側には居てくれぬのではないのか…。
大氣は、生まれて初めて感じる心の痛みに、抗う術もなく暗く沈んでいた。自分は何も知らなかったのだ。だが、そんなことで自分のしたことが全て無しになるわけではない。維織を失いたくない。いったい、どうしたらいいのだ…。
ただ一人、庭でじっと佇む大氣を居間から見て、維心は同情した。もしも我が身と思ったら、それはつらいだろう。自分にはそんな事実はないが、もしも臣下達の言うがままに妃などを迎えておって、維月が現れ、本当に欲しいと望んでも維月に拒絶されると思ったら、きっと妃が居る事実を伏せてしまいたくなる。妃を全て里へ帰し、子は遠くの宮へと移しても、その事実を隠そうとしただろう。いずれ、維月に知れた時のことに怯えながら…。
そう思うと、維心は居ても立ってもいられなかった。どうにかしてやりたいが、どうにもならない。維月が怒ってしまっている以上、維月に助けを求めることも出来ない。十六夜は、自分の親のことで手いっぱい。こんな時に、龍王であるのにこういうことには全く無力なのだと気付かされた。
維心が無意識にため息を付くと、隣りの維月も同じようにため息を付いた。維心は、維月を見た。
維月は、困り顔で維心を見上げていた。
「本当に…私は誰が元気がなくとも、維心様のお元気がないのが、何より心に堪えるのでございます。」
維心は、驚いた。我はそれほどに顔に出るか。
「維月…気付いておったのか。」
維月は、頷いた。
「維心様は、とても素直なかたでいらっしゃいまするから。政務に向かわれておる時などは、大変に厳しいお顔で無表情であられまするが、こういうプライベートな場ではすぐに分かりまする。」と、また小さくため息を付いた。「分かりましたわ。私は、もう何も申しませぬ。維織が、少しでも落ち着いて大氣の話を受け入れられるように、考えましょう。ですけれど、これは大氣のためではありませぬわよ?あまりにも、維心様が大氣を案じていらっしゃるようなので…根負け致しました。」
維心は、ぱあっと表情を明るくした。
「維月…手を貸してやってくれるのか。」
維月は、苦笑して維心の頬に触れた。
「本当にもう…維心様には敵いませぬわ。ですが此度だけですわよ?今後、このようなことがあったら、私は維織を箱に詰めてでも大氣には近寄らせませぬから。それは、重々申してくださいませ。」
維心は、頷いた。
「分かった。では、我はあれを連れてヴァルラムの城へ行かねばならぬし、その話共々、して参るの。」
維月が頷くと、維心は立ち上がって庭で暗く沈み込む大氣の所へと飛んで行った。そんな維心を、維月は愛おしい気持ちで見送ったのだった。
維心が現れたのを見ると、大氣は横を向いた。今、他の神と話をする心持ちではない。
しかし、維心は言った。
「主と、話さねばならぬ。まず、事は順を追って行かねばなるまい。我が、表だってこちらの神の代表のようなものであるから、主を連れてヴァルラムの城へ参る。」
大氣は、頷いた。それが、神の世の理であるなら、それをこなさねば何も解決しない。
「分かった。我がそこで、そのアーラと申す子を、我が子と認めれば良いのであるの。」
維心はじっと大氣を見た。
「もちろん、自分でも確認せよ。違うのなら、違うと申せばよいのだ。もしかして、その子ではないかもしれぬのだからの。しかし、そうであるなら潔く認めるが良いぞ。そうすることが、その子への義務でもあるのだ。本来、神世では一度夜を共にすればその女は妻として側に置いて面倒を見なければならぬ決まりがあるのだ。ゆえに、何人も娶ることが出来るのだからの。主はその責務をこなして居らぬのだから、これぐらいはせねばの。」
大氣は、また頷いた。そんなことは、気にしたことなど無かったが、維織と共に暮らすのを望むなら、維織が生きている世の理を知ってそれに倣わねばならぬ。
「それから」と、維心は続けた。「ヴァルラムが、主にそのアーラを娶らせて欲しいと願うだろう。それを承諾し、主の務めは終わる。それから、こちらへ帰って、維織に己で己の事を話さねばならぬ…維月との約束であるからな。違えることは出来ぬ。」
大氣は、表情を固くした。維織に話す。しかし、事実をそのままに、我の言葉で話してしまって良いのか。我は、言葉を知らぬ。普通に話していてさえ、時に維織に言葉を直される時があるほど。ただでさえ、このような内容のことを話すのに。
「…我は、どう話して良いのか分からぬのだ。神の常識すら、覚えようとしたことが無かった我であるのに。更に怒らせてしまうのではないかと、案じられてならぬ。」
維心は、頷いた。
「我とてそうよ。女と話したことすらなかったゆえに、維月と共に居るようになった頃には困ったものだ。しかし、我らの間には愛情があったゆえの。話し合って誤解は解けた。主も、これから何かあったら必ず諦めずに話をすることよ。愛情さえあれば、それで何とかなるものだ。」
大氣は、すがるような目で維心を見た。
「しかし、此度のことで維織が我に愛想を尽かしたら?我は…それが怖くてならぬ。」
維心は、また頷いた。
「分かっておるよ。本当に此度だけ、ということであるが、維月が、主がどうすれば良いのか考えてくれると言うておる。」
大氣は、驚いた顔をした。維月…我に怒っておったのではないのか。
「維月が?なぜに…。」
維心は、ふふんと得意げに笑った。
「我はの、主を見ておってもしも己の身であったならと思うと、案じられてならなかったのだ。すると、維月がそれを気取って、我のために、主のことを何とかしようと言うてくれたのだぞ?維月が我を愛しておったから、主も救われるのだ。感謝すると良い。」
維心は、言いながらそれは嬉しそうだった。大氣は、そんな維心を羨ましげに見た。
「主は…ほんにあれと想い合っておるのだの。羨ましい限りよ。」
維心は、眉を寄せた。
「しかし、此度に限り、であるぞ。これからもしこのようなことがあっても、維月は助けてくれないどころか、維織を箱に詰めてでも主から離すと言うておった。主、重々気を付けよ。」
大氣は、何度も頷いた。
「分かっておる。もう、このようなことこりごりよ。しかし、まだ終わっておらぬ。維織が、果たしてどう思うのか分からぬではないか。維月が手を貸してくれると言うて、決めるは維織なのだ。」
維心は、そこは神妙に頷いた。
「そうよな。主はよく分かっておる。しかしとにかくは、うまく行くやもしれぬということぞ。今までは、誰の手も借りることが出来なんだ。それを思うたら、事態は良うなったのだと思うが良い。」
大氣は、頷いて維心を見上げた。
「して、ヴァルラムの城へはいつ参るのだ。」
維心は、思い出すように遠くを見た。
「…十六夜が知らせて参ったのが、明後日の昼。城へアーラを連れて参るのだそうで、そこで主と面会し、その後婚姻の申し込みをし、主の承諾を得てから城へ告示し、神世に告示という流れぞ。式を挙げるならば主も参列の義務があるぞ。後は、夫の義務であるから、世話を任せれば良い。」
大氣は、息を付いた。明後日。とにかくは、それをこなして来なければならぬ。
「世話を掛けるな、維心よ。よろしく頼んだぞ。」
維心は、驚いた。大氣が、このようなことを言うなんて。
少しは、変わって行くのかもしれぬ、と維心は期待していた。




